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この前、米沢市史を読んだのですが、戦国時代の伊達氏政権下、段銭、棟別銭を年貢とは別に徴収している記述を見つけました。
このことから疑問に思ったのですが、百姓、なかでも農民は、どうやって銭を入手していたのでしょうか。
商人に作物を売って銭を得ていたのでしょうか?
それとも、段銭、棟別銭とは言っても、実際は銭ではなく年貢と同じような米や作物だったのでしょうか。
そこのところの記述が見つからなかったので、できればご教授願いたいです。

A 回答 (2件)

私も詳しくは知らないので憶測です。



米沢は戦国時代後期には、東北地方では経済的に豊かな地域になっていたと言われています。
それゆえ秀吉の奥州仕置であえて政宗生来の地である米沢を奪われ未開の岩手山に減封されたのは有名かと思います。
http://www.yoneori.com/web/rekishi.html
軽くググッタだけですが、江戸時代に入るころには漆・桑・からむし(苧麻)・紅花が栽培されていたらしいので伊達政権下でもいくつか商品作物があったのではないでしょうか?

青苧に関しては上杉家が越後から持ちこんだ可能性も濃厚にありますが・・・。
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この回答へのお礼

お礼が遅れて申し訳ありません。
ご回答ありがとうございます。
商品作物を百姓がそれに該当する座とかに売ってたんですかね。
謎が深まります。

お礼日時:2013/10/10 19:54

伊達氏は永正から天正中期まで(1500年~1550年位)


銭納を行っていたが、その後物納に移行していったと
いわれる。

年貢は鎌倉中期から、荘園領主の要求と年貢の運びやすさ
で銭納に移行した。
室町期の経済の発展で銭の流通量が不足し、農民が大量の
米を売って銭に換えるのに苦労するようになり、戦国大名は
兵量米の確保もあり米納などの物納に移行した。

荘園領主は手元には米より銭を置きたい。
在国の時は現物でよいが、他は銭納にせよという。

米の売買のため農村に定期市場が発展したという。
しかし商売上手の商人には不利な売値を強いられた。

東大寺文書によると、寺領大井荘では市がたたず年貢の納入に
支障があったという。

段銭(たんせん 反銭とも書く)、棟別銭(むねべつせん)は年貢
とは別の性格のもので、後北条氏では、年貢物納でもこれらは
銭納であった。

本来は年貢は経常費、段銭などは臨時費であったが、その後
他を含めほとんど経常的に徴収された。 

いつの世でも「税は絞り放題だ、掴んだ利権は手放さないぞ」は
変りませんね。
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この回答へのお礼

お礼が遅れて申し訳ありません。
ご回答ありがとうございます。

>米の売買のため農村に定期市場が発展したという。

定期市場ですか!そこで米が銭に換えられた、と考えると、何故農民が銭を持っていたか、合点がいきますね。
おそらく他の商品作物を育てることを生業としている百姓も、そこで銭に換えていたかもしれません。

段銭などが臨時費であったのに、その後経常的に徴収されたなんて、ますますもって百姓も銭を多量に持っていなければなりませんね。

>いつの世でも「税は絞り放題だ、掴んだ利権は手放さないぞ」は
変りませんね。

まったくです(^_^;)

ありがとうございます、疑問が解けてすっきりしました。

お礼日時:2013/10/10 20:23

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