タイムマシーンがあったら、過去と未来どちらに行く?

次のような文は、いずれも私たちがよくみかけるものです。
A.清水さんがホームランを「打つ」のを見ました
B.清水さんがホームランを「打った」のを見ました
私としては同じ意味なので特に区別して使い分ける必要はないと思っていましたが、日本語を勉強している外国人にもそのように言っていいものでしょうか。文法的または意味的に注意しなければならない点などがありましたら、ご指摘板だたきたいと思います。

関連して別のスレッドで次の文についても質問いたしますので、お手数ですがご回答いただければ幸いです。

佐藤さんからお話を伺うことにいたします
佐藤さんからお話を伺うことにいたしました

また既に投稿済みの次の質問についても、ご回答いただければ幸いです。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8310776.html

A 回答 (5件)

A.清水さんがホームランを「打つ」のを見ました



「打つ」という行為を見た、という意味。
過去の出来事ではあるが、【打つという行為そのもの】に言及したかったので過去形にはなっていないのだと思います。
紛れも無く「打つ」という行為が遂行(実行)されるのを見ました、といったニュアンス。

B.清水さんがホームランを「打った」のを見ました

この「打った」は、過去の事実、あるいは、行為の完了、どちらにも取れると思います。
いずれにせよ、打つ行為そのものではなく、【過去にあった事実】あるいは【完了された事実】として伝えたいのでしょう。
「打った、まさにその瞬間を見ました」のように、完了表現と捉えるほうがメリハリの利いた表現になると思います。

この回答への補足

どうでも良さそうなことですが、お礼のコメントを間違えていましたのでこの欄を借りて訂正いたします。本当は以下のように書きたかったのです。
Bは行為の完了とも過去の事実ともとれるのですね。過去の事実の用法をすっかり忘れていましたので、その意味では目からうろこでした。

補足日時:2013/10/21 08:58
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
なるほど、Bは行為の完了ともとれるのですね。その用法をすっかり忘れていましたので、その意味では目からうろこでした。いったん固定概念とか先入観にとらわれてしまうと、こんな単純なことまで気が付かなくなってしまうものなんですね。

お礼日時:2013/10/19 07:17

 こんにちは、少しばかりお邪魔します。


Aの「清水さんがホームランを「打つ」のを見ました」とBの「清水さんがホームランを「打った」のを見ました」両方の文章の骨格が何であるかを主眼にして考えてみると理解し易いかもしれません。
 この文章の主題が「(省略されている主語)が見ました」との部分であることに異論はないでしょう。では問題の「清水さんがホームランを打つ」と「清水さんがホームランを打った」の性質を考えると、それは「話題の提示」となります。ということは「何れでもかまわない、問題はない」と答えても格段に問題はないでしょう。
 過去の試合で「清水さんがホームランを打った」ことも、たった今「清水さんがホームランを打った」ことも、本質的には「過去の事実」であり、「ホームランを打っている」こととは少し異なりもします。
 なぜなら、打球が外野のフェンスを越えた時点でホームランと認定されるわけですから、最初からそれがホームランであるなどとは厳密な意味ではいえません。
 こう言ってしまうと揚げ足取りの印象を持たれる可能性も多分にありますが、状況として「ホームラン」を説明するには、現在形では不自然となります。
 とはいえ通常の言語感覚からすれば、ホームランを「打つ」も「打った」もニュアンスとしては同じでしょうね。
日本語には「完了形」を具体的な時間として説明する考え方はありませんから、英語の感覚で説明するには難点があります。
 
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この回答へのお礼

詳しく突っ込んだご回答、ありがとうございました。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2013/10/19 19:05

「現場を見た」とは的確な表現ですね。

Aの場合は、「清水さん」と「ホームランを打つ」は同等に扱われていますが、Bの場合は「ホームランを打った」ということが主体的に扱われています。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
なるほど、そのような観点からの比較もできるようですね。

お礼日時:2013/10/19 08:21

以下の回答は、まったくの個人的な見解です。




ホームランを、
「打つのを見た」
「打ったのを見た」

普通に考えれば、ホームランだと判るのは「打った後」なのだから、「打ったのを見た」が正しい気がします。

ところが、「打つのを見た」 で違和感が無いのはなぜでしょう?
考えるに、「見た」という過去形表現が、その前の状況を全て統括しているからなのでは。

何かを「見た」のなら、見たものは現時点以前の「過去のもの」である、ということを、日本語を常用している我々は理解しているから、「打つのを見た」 でもおかしいと思わないのかなぁ。


「なるほど!」 と思える回答を期待しています。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
私見ですが「打つ」は瞬間的な行為なので、行為をしている場面を示す場合は「打った」も「打つ」も変わらない気がします。その点についてはどうなのでしょうか(私は妙な方向で考えているのでしょうか)。

お礼日時:2013/10/19 00:44

「打つのを見ました」は、まさに打ったその現場を目撃した、ということを強調したい時に用います。

英語の現在・過去・完了形などとは違う意味合いで使われ、また、学校で明確に習うわけでもありませんがね。

「伺うことにいたします」は、現在、そう決めたということを表します。「伺うことにいたしました」は、過去にそう決めたということ。あるいは、「いたしました」は、「いたします」と同じ時点のことを表すこともありますが、やや控えめに言いたい時に用いたりします。

文法的というより、意味的に言えばこんなところですね。注意すべき点は、先ほども言いましたが、英語の時制表現とは異なるところです。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。
すると「打ったのを見ました」は、「現場を見た」に対する強調の度合いが弱いということなのでしょうか(追加のコメントをしいただければ幸いです)。
「伺うことにいたします」と「伺うことにいたしました」については、ほぼその通りだという気がいたします。

お礼日時:2013/10/19 00:39

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