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上杉謙信の義のこころに少し惹かれます。
皆さんは戦国時代の義の心をどう思われますか?
謙信は義の心があったから生涯無敗で強かったのでしょうか?
仏門にあったから普通に義の心があったと考えればいいですか?
ライバル方の武田勝頼や織田信長は義の心がなかったから身を滅ぼしたんでしょうか?
ついでに江戸時代まで上杉家に義の心が残り続けたのかも気になります。
よろしくお願いします

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A 回答 (7件)

「戦国時代に義の心」そんなものあるわけ無いと、我々現代の小心者は言いますが、


あっても良い様な気もします。

戦国武将は、領地を支配しそれからの収入で兵を養い隣国との争いに備え、命懸で戦いに
臨むという、現在の政治家では考えられない状況にあるスーパーマンです。

謙信は経済的には青苧(あおそ)の販売管理(後の楽市楽座の様な考え方)で経済基盤を
強めました。この時代は戦国武将も土豪や一族郎党の頭から大きな領地を支配する者まで
様々で、兵も兵農分離以前のパートタイマー的な状態でした。
経済基盤を強めると同時に必要になるのは、いざと云う時に自分の下に結集し戦う盟友を
得ることでした。その為には姻戚による繋がりや、人質、攻守同盟等が利用されました。
謙信は自分の下に結集し戦う盟友を束ねる為の「大義名分」として「義」を選んだのでは
ないでしょうか。「義」を信じれば、今日の友は明日の敵の恐れも無く、所領を掠め取られる
恐れもありません。
「大義名分としての義」を標榜しているうちに、それが謙信の「心」と一体化したものとして、
後世に美化されて伝えられているのかも知れません。

謙信は信長との戦いに勝った後で「信長も存外弱い」と言ったと伝えられています。
鉄砲で武田を打ち負かした織田を、鉄砲が有効に使えない豪雨の中で打ち負かしています。
これを豪雨も計算に入れたしたたかな作戦と解釈すれば「義」を「効果的な大義名分」として
使ったしたたかさと重なる様な気がします。

武田信玄は「いざという時は謙信を頼れ」と勝頼に遺言しています。同時代人の中で謙信の
「心」も信頼されていた例ではないでしょうか。


その「義」の心が上杉家に伝えられたかに付いての他の回答は米沢藩に対して酷でしょう。

幕末の米沢藩は、藩内に佐幕派も勤皇派も有りましたが、対立は他藩の様に先鋭なものではなく、
藩自体としてはハト派でした。経済的には鷹山公以降の改革が功を奏し、名目石高18万7千石、
実質その2倍以上でした。軍政改革は東北諸藩の中では進んでおり、軍政部と民生部に別れて
いました。装備はまだ新式旧式混合です。

列藩同盟で主な役割を演じる事になったのは、新政府に恭順の意を表している会津藩の取成しが
契機で、藩断絶を救った会津保科家に対する「恩義」からと云われています。
しかし、薩長がこれを拒否し「遺恨から会津征伐」を強行した為に、それは「侍の信義」に
反するとして奥羽列藩同盟のリーダー格となりました。
世良修三の東北諸藩に対する侮蔑的発言が火を付けた形ですが、決断の過程で「義を重んじる」が
重要な役割を果たしていることは疑いも有りません。
「義」の伝統は守られたと言えます。

米沢藩は越後方面で戦っています。降伏後、会津と庄内に対して出兵を強要されていますが、
できるだけ出兵を遅らせ、会津には新政府の依頼で投降の仲介者として動いています。

米沢藩にとっては、新発田藩の裏切りで、新式兵器と弾薬の陸揚げ港であった新潟が陥落し、
新政府軍が村上(米沢藩ご用達商人の渡辺家が在る、庄内藩の本間家に相当)に迫った段階で
降伏するのは当然の成り行きです。深い山に囲まれた以外は、会津の様に堅牢な立て篭もる城も
無い藩ですから。
本来純外様ですから、ここまで義理立てする必要が有ったかどうかも疑問です。

敗戦の責任は軍事総督の色部長門(上越戦線で既に戦死)が取らされ(米沢では後日
名誉回復が成され碑も建てられている)、賠償金3万両を支払いました。
そのお陰で14万7千石に減封で済みましたが、10年後の西南戦争で戦死者52名を出して
います(戊辰戦争戦死者280余名)。
「義」に反する戦いに敗れた恨みは大きかったのかも知れません。

ちなみに、領民の嘆願と(本間家からの?)賠償金で軽い減封処分で済んだ庄内藩からは、
西南戦争に薩軍側に参加した旧藩士が居ります。軽い処分を(金のせいではなく)西郷の
温情と考えたためです。

会津藩は、賠償金も払えず、領民からの過酷な徴収の反作用で一揆が起こり、本州の
北の外れに移らざるを得ませんでした。
侍支配とその最後を美化した様な「八重の桜」をとても疑問に感じました。
会津の人々の偉さは、その後に有り、多くの文化人と教育者を排出した事です。

米沢藩が幕末豊かな藩であった事は、藩が廃藩置県時に藩士に10万両を支給している事、
円発行時に藩札1両が1円と交換された数少ない藩の一つである事などから明らかです
(戦費の為に藩札を乱発した薩摩藩は32銭)。
戊辰戦争後に東北地方を旅した女性旅行家のイザベラバードは米沢盆地の北をかすめる様に
通り過ぎ、その際に「この南には米沢という東洋のアルカディア(桃源郷)が在る」と言って
います。まだ戦いの余韻が残っている時期です。

侍の論理で住民すべてが戦争に巻き込まれた会津、昔から領民一体となり侍の筋を通しながらも
戦い最後には戦乱を避けた米沢、興味ある歴史の事例です。
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戦国時代に「義」の心はないとおもいます。


基本的には自分自身を保護してくれるものについていく世界ですので、
義理ばかりにとらわれていては滅亡まったなしです(特に弱小領主層は)

川中島で勝てずに信濃一帯を武田氏に実効支配されたり、小田原城を囲んでも撤退したり(一応、この場合戦略的に北条の勝ち、上杉の負け)ですので無敗ってわけではないですね。

他の方のご指摘の通り、後世の脚色の部分も大きいと思います。自分のご先祖様はこんなに立派だったんだぞみたいな。
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上杉謙信に義の心などありません。


後の時代に作られた妄想です。
当時の人々はもっと現実的です。
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戊辰戦争の時、上杉は何をしたかです



会津・庄内の討伐に動いた新政府
これに対抗する為、奥羽越列藩同盟が結成される訳ですが…
「奥羽の盟主はやっぱ戦国時代から奥羽にいた伊達と上杉だよね」
って言って盟主に
戦争が始まると役立たず
会津が籠城して上杉の援軍を待つ
籠城一ヶ月!北方を見ると上杉の旗を靡かせて米沢軍がやってくるではありませんか!
「これで薩長軍を挟み撃ちに出来るぞ!」と、喜ぶ会津
あれぇ…米沢軍…薩長軍に合流したぞ???
奴らこっちに銃砲向けてるじゃん


天地人w
素晴らしいドラマだよね
米沢以外の山形人は大激怒の迷作
都合の悪い歴史は隠す
直江10大決戦に長谷堂合戦は入らないw
映像もほとんどなし
僅か3千の最上に3万で攻め込み
兵士は住民に『正しき愛(強姦ね)』を教え
果てには大敗北
都合の悪い内容は抹殺という酷いドラマです
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戦国時代の武家に義の心???


そんなものに拘っていたら忽ち潰されます。
上杉謙信は元々上杉家の家臣で長尾景虎といいました。
上杉家のお家騒動と鎌倉の足利氏(鎌倉公方)のゴタゴタで負けた上杉憲政が、関東管領のお墨付きだけを懐に逃げ込んできたのをいいことに、上杉の名代と関東管領のお墨付きとを譲り渡すことを条件に追手の北条早雲の軍勢から命を守りました。
首尾よく上杉の当主となり関東管領のお墨付きも手に入れたことで、越後一体を制圧し、関八州に手を伸ばしました。
この謙信の生涯のどこに「義」などというものがあるとお考えですか。
北条早雲もどこの馬の骨とも解らない伊勢宗端と名乗る男で、鎌倉の上杉氏のお家騒動のドサクサに乗じて小田原一体の支配権を手にいれた男です。
御承知の秀吉も尾張中村出の氏も素性も判らない男です。
信長も家康も三代も遡ればどこの誰かも定かではありません。
家系図は本人がその気になればどうにでも書けます。(歴史学の先生は認めません)

信長が身を滅ぼしたのは義がないから????
明智光秀に義があったのですか、それを殺した秀吉には更に義があったのですか、その子供を自害させた家康に義があったのですか?

江戸時代の上杉は、跡取りがおらずに、取り潰されそうになったのを吉良に助けてもらって、ようよう手にした狭い領地で貧乏暮らしの後明治維新を迎えました。
吉良が赤穂の浪人どもに襲われたときも、お家大事とばかりに、主人である吉良の息子を押さえつけて指一本動かしませんでした。
財政が破綻したのを、養子に入った日向秋月家の息子(鷹山)に助けてもらったのではありませんか。
薩長軍が攻め込んできたときにも、右往左往した挙句に、薩長軍に味方して庄内藩を攻めたてたのではありませんか?
どこに上杉家に義なるものがあるとお考えでしょうか。

後世の、勝てば官軍、英雄豪傑となる講談話を持ち出されても下手なジョークです。
現実の歴史、権力争いは命がけの駆け引きです、古今東西精神論は無用の世界です。
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謙信のライバル武田信玄は言いました「戦国においてもっとも不要なものは何か…それは義だ」と


義理人情で天下を取れるほど戦国は甘くないという事です

ちなみに謙信は生涯無敗ではありません
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お礼率 5%でまともな回答がつく?


上杉謙信なら100%
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Qなぜ上杉家は「義」などと称されるのでしょうか、

なぜ上杉家は「義」などと称されるのでしょうか、
直江兼継の「愛」、上杉の「義」などと言われますが、そんなに「義」を重んじるなら、なぜ豊臣方に付かなかったのでしょうか。今でもそうですが多くの家臣団、家の存在を考えれば負け戦などするわけはいけません、なら他大名と同じレベルですから白々しい義などと言うのおかしいことないですか、去年のNHKではここをどのように解釈してごまかしていたのでしょうか。

Aベストアンサー

上杉家の「義」とは、上杉謙信が大義名分のない戦をしなかったということがあります。
例えば、上杉謙信の関東出兵は、上杉憲政から「関東管領職」を譲られ、それを足利将軍家に追認された
後に、出兵をしています。
武田家との闘争は、武田の侵略を受けた信州の村上良清らの救援要請があっての出兵です。
最晩年に織田信長との戦いは、足利将軍家を盛りたてるための出兵です。
つまり、私利私欲による戦いを排した点が、「上杉の義」なのです。

上杉景勝が御館の乱で相続後、信長は本能寺で斃れます。その後を引き継いだ豊臣秀吉に臣従し、
豊臣政権の一翼を担うことになります。そして、関ヶ原へと向かうのですが、上杉家は、豊臣政権の維持
こそ正しいと考え、石田三成へと加担することになります。
後は、真田家との関係(一時期真田信繁〈幸村〉)を人質として受け入れていた時、徳川家と対峙して
いたので、元からいい印象を持っていなかったという理由も十分にあり得ます。

質問の意図は、恐らく大阪の役についてだと思います。
関ヶ原で敗れた後、上杉家は徳川家(後の江戸幕府)に臣従します。これによって、上杉家の主人は
徳川家となります。大義名分はもはや、開幕をした徳川家にありますから、当然、この時点で「義」は
徳川家にあるということになります。豊臣家に殉じるというのは、この時点で「義」ではなく「情」に
しか過ぎず、むしろ幕府という大義名分に逆らうこととなり、決して「義」の戦にはならないのです。
ちなみに、御存知だと思いますが、幕府は天皇(朝廷)によって開くことを許可されますから、
「錦の御旗」は、当然徳川方にあります。つまり、ここで豊臣につくということは、叛逆者に加担する
ということになるのです。

上杉家の「義」とは、上杉謙信が大義名分のない戦をしなかったということがあります。
例えば、上杉謙信の関東出兵は、上杉憲政から「関東管領職」を譲られ、それを足利将軍家に追認された
後に、出兵をしています。
武田家との闘争は、武田の侵略を受けた信州の村上良清らの救援要請があっての出兵です。
最晩年に織田信長との戦いは、足利将軍家を盛りたてるための出兵です。
つまり、私利私欲による戦いを排した点が、「上杉の義」なのです。

上杉景勝が御館の乱で相続後、信長は本能寺で斃れます。その後を引...続きを読む

Q「義」とは何か

「義」とは何かについて、考えを教えてください。

私にとっては、金や権力、出世、名誉、他人からの賞賛といったものに心を奪われずに
自分の正しいと信じる道を突き進むことです。

Aベストアンサー

無私・無心に、民を苦しめる元凶に一穴を穿つこと。

義、の最も大切なことは、強きを挫き、弱きを救うこと。
そして、自らは大きな危険に無償で身を投じる事。

その二つを満たした行動を、義、と呼ぶ。

滅私奉公の矜持、と呼んでも良いかも知れぬ。

世のため人のため。

死して護国の礎とならん。

正に、それが「義」であるらん。

善悪を問うたり、議論を戦わせるのは、私心に過ぎぬ。

私を捨てるが故に、狂気にも凶器にもなり得るもの。

それゆえ、思考を捨て、「私」を捨てて一徹に突き進み、
無辜の民草を傷つけ殺めぬ為には義を奉じるものが要る。

義を奉じるもの、それは大きな世を救う力であり、その命じる処に
この命を擲(なげう)つ。

それを「大義」といふ。

-----------------------------------------------

確かに、冷静客観的に様々な他人の意見を聴き、世間の風潮を
的確に捉え、深く広い思索を重ねて大局観を得ようとする考えは
無論、誤りではない。

ただ、人の世は、その器が無い者が大局観を持とうとしても
私利私欲の範疇を超えることが困難なのだ。

他人に一目置いて欲しい。 自分はこんなに立派な考えを持つ
優れた人間なのだ、お前たち凡人とは根本的に価値が異なる
高い存在なのだ、と思いたがる「私心」を払拭するのは並大抵の
ことではない。

多くの凡百は、自分の「正論」が実はただの「えっへん、おっほん」で
あることも素直に正直に見据えることが出来ぬものだ。

それ位、「私」を捨て去ることは難しい。

己の器を知り、滅私出来る境地に達した者は、義を知り、大義を求める。

その大義が例え、唾棄すべき軍部の俗物どもが騙る偽りの玉音であったと
しても。

結局、人の大きさの問題、魂の精錬の問題に帰結する。

名さえ残さず、何のために親兄弟、妻子供を泣かせ苦しめても
100%の死に躊躇を殺して身を擲つ。

義によって死ぬ、その一点が為に、それは自死ではない。

あの戦が大きな過ちであったにしても、義に身を投じた者を
神とすることに、私は一片の疑いも持ち得ない。

なりたくもない神に、その身を捨てて成ったのだ。
大義が命を擲つ意味があるものであったかどうかは、もはや
彼等の覚悟には届くまい。

只の、普通の人が、支配といふ大きな力に押さえつけられて
無理やり滅私させられる、戦争といふ恐ろしい出来事。

一度動き始めたら、簡単には止められぬ。

他ならぬ巨大な民衆の「義心」が死の覚悟に人を追い込んでいく。

普通の暮らしを平和に営み死を恐れる者が、思考を停止し、
大切な者どもに別れを告げて滅びを選ばせられるのだ。

戦地に赴かぬ、数多の民衆の「義」によって。

一部の権力と金を恣(ほしいまま)にする支配層に
操られた「義」によって。

一度傾き始めたら、横転して沈むまで止まらぬ船の様に。

だから、我が「義」を奉じるべき大義は、国家や権力で
あってはならぬ。

例え、取るに足りない貧しい子を救うために、身を擲つとも、
名も無く死ぬことはなんら不足は無い。

僅かながら権力に操られた傀儡のような虚義に堕ちぬ
ために心して置かねばならぬことは、敵に成らぬはずの
他所の民草を、会ったことも無い他国の民衆を、煽られて
憎み、滅ぼせと叫ぶ喧伝・プロパガンダに与せず、
強く美しく正しく見える者に常に心を奪われず、弱い者、
みすぼらしい者の中にこそ「大義」を見出し続けられる
ように、この老眼を曇らせぬこと、そして二振りの刀を
錆びつかせぬ様に日常、手入れと覚悟を怠らぬこと。

時が来れば、抜き放つ。

その時が来るまで、昼行灯。

その時に、見苦しく狼狽えぬ様、出来るならば安らかに
平常心にて、我が身を擲てる様。

ささやかな暮らしにつましい歓びと感謝を奉じ、滅私の
その時まで、我という抜刀を磨くこと。

明日来るかも知れぬ、さりとて一生訪れぬかも知れぬ。

覚悟の死の刹那に安らかでいられるならば、奉じる大義も
見極められよう。

中々、拙者、その境地に達するのは来世になるやも知れませぬ。

日々、うろたえ、惑いながら糊口を凌ぎ居り申す。

義は、重いものでござるなあ。

無私・無心に、民を苦しめる元凶に一穴を穿つこと。

義、の最も大切なことは、強きを挫き、弱きを救うこと。
そして、自らは大きな危険に無償で身を投じる事。

その二つを満たした行動を、義、と呼ぶ。

滅私奉公の矜持、と呼んでも良いかも知れぬ。

世のため人のため。

死して護国の礎とならん。

正に、それが「義」であるらん。

善悪を問うたり、議論を戦わせるのは、私心に過ぎぬ。

私を捨てるが故に、狂気にも凶器にもなり得るもの。

それゆえ、思考を捨て、「私」を捨てて一徹に突き進み、
無辜の民...続きを読む

Q上杉謙信公の正式なお墓は?詳しい方、教えてください

こんにちは。
上杉謙信公の正式なお墓を調べております。

高野山の奥之院にある上杉謙信と景勝の霊廟(霊屋)は、
謙信が得度した際の髪等がおさめてあるもので、正式なお墓ではないとの話を聞きました。

ちなみに、米沢の墓所も分骨がなされたものだそうで、
高野山の霊廟の4~5m右横に上杉某と刻まれた大きな供養塔が4つありましたが、
そちらが所謂"お墓"となるのでしょうか?

お詳しい方、教えて頂けると有難いです。

Aベストアンサー

御遺体(地元の方は「御尊骸」と呼んでいます。)は山形県米沢市御廟の「上杉家廟所」の正面中心の霊廟に安置されています。元々は越後国春日山(現在の新潟県上越市)に埋葬されていたものを、上杉景勝が会津へ移封になった時に後から来た堀秀治の要請で、会津若松、さらに米沢へ移しました。
江戸時代は米沢城内に「御堂(みどう)」を建立してそこに安置、毎日供養を続けていました。特に命日の「十三日」は、藩をあげての「慎みの日」であり、藩主が在国であれば必ず御堂に参拝していました。現在でも米沢城址に御堂の跡があります。
明治維新後には、在世中の朝廷への尊皇の事蹟が明らかなため、従二位を追贈されさらに神式でお祀りされる事になりました。それが現在の「上杉神社」です。「尊皇の事蹟があるために」別格官幣社に列しています。
なお二代目の上杉景勝は亡くなった後は火葬され、御遺骨の大部分は高野山に埋葬されています。高野山には全国の戦国大名が生前の対立を越えて静かに眠られています。
詳しくお知りになりたければ、まず山形県米沢市と新潟県上越市の教育委員会文化課にお尋ね下さい。


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