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「幕府は江戸時代を通じて、諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」という見方があります。
6代家宣以降(1709年以降)幕末までのおよそ160年間に改易された件数は、wikiの「改易」によればわずか19件です。

そこで質問ですが「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」と言えますか。
幕府は、大名改易に関してどんな基本方針をもっていたのですか。
家宣以降は、将軍権力の改易・転封をちらつかせて大名を統制したというよりは、大名家をなんとか存続させてやろうと務めたと見る方がよいのではないかと思うのですが、如何ですか。

よろしくお願いします。

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A 回答 (5件)

kouki-koureisyaさん、こんばんわ。



kouki-koureisya

暇なときに回答ください
江戸時代の「大名改易」
「幕府は江戸時代を通じて、諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」という見方があります。
6代家宣以降(1709年以降)幕末までのおよそ160年間に改易された件数は、wikiの「改易」によればわずか19件です。

そこで質問ですが「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」と言えますか。


家康から3代将軍家光までや5代将軍綱吉の時代では明らかにその方針で大名の廃絶を行っていました。とくに有力な外様や親藩大名などはその対象になりやすかったです。理由は幕府に対して敵対しそうだからでしょう。

だけど、4代将軍家綱のころに起きた慶安事件で大名廃絶による浪人の増加は幕府にとって危険な問題になりました。そのころから徐々に武断政治から文治政治に路線変更を行いました。ここで大名家の末期養子の緩和を行いました。そうすることで大名家の廃絶をなくすようにしたのです。

幕府は、大名改易に関してどんな基本方針をもっていたのですか。
その基本方針は武家諸法度です。この法度を破ると改易・厳封、転封などの処分がありました。



家宣以降は、将軍権力の改易・転封をちらつかせて大名を統制したというよりは、大名家をなんとか存続させてやろうと務めたと見る方がよいのではないかと思うのですが、如何ですか。

もはや天下は泰平となり、幕府に敵対するような大名もなくなったので、幕府も幕藩体制の存続することが幕府の方針になったからでしょう。
詳細は下記のURLを参照ください。

武家諸法度
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6% …


徳川家綱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D% …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
よく解りました。

>もはや天下は泰平となり、幕府に敵対するような大名もなくなったので、幕府も幕藩体制の存続することが幕府の方針になったからでしょう。

なるほど! すっきりしました。

お礼日時:2014/02/27 09:42

No.3.4です


補足を頂戴しましたので説明させて頂きます。
>記載されている本を教えて下さい。
読み易くて比較的まとまったものとしては
江戸大名の御引越 居城受け渡しの作法 白峰 旬  新人物ブックス 新人物往来社

数値についてであれば
日本史総覧 近世1(改易大名表) 新人物往来社 1984版

江戸の町というのは、全国レベルで見ると非常に特異な街です。
江戸には全国の藩の藩邸があり、幕府があたかも現在の霞ヶ関の官庁のような印象を与えますが、実際は異なります。
幕府のイメージは、むしろ現在の国連とアメリカを足して2で割ったようなイメージの方が近いかもしれません。
幕府が直接江戸という徳川家の城下町の管理もしていましたのでややこしいイメージになります。
徳川家の城下町であった江戸の町のイメージで、江戸時代を考えると大きくズレてしまいます。

藩幕制下での藩の性格や藩士について下記のものが手軽で読み易いでしょう
藩と日本人 現代に生きる<お国柄> 武光 誠 PHP新書
江戸300年「普通の武士」はこう生きた 八幡和郎/臼井喜法 ワニ文庫

江戸とは全く異なる様相を呈していた大阪について下記の書籍に一度目を通されることをお薦めします。
武士の町 大阪 「天下の台所」の侍たち 薮田 貫 中公新書

武家の気質も藩によって異なります。
元禄御畳奉行の日記 尾張藩士の見た浮世 神坂次郎 中公新書

各藩が根回しや情報交換に苦労していたようすは
江戸お留守居役の日記 山本博文 講談社学術文庫

中央政府が機能している現在とは大きく異なる時代ですので、全体を鳥観しながら楽しんで下さい。






 
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この回答へのお礼

しつっこい質問者に丁寧にご回答下さって誠にありがとうございます。

私は、疑い深い性格ですぐに“ホント?”と言ってしまうのです。
「現在確認されている各将軍が行った改易数」が225と聞けば、根拠を確かめたくなります。
wikiを信用している訳ではないですが、wikiとの差が大きい吉宗、家茂の代の改易を調べてみたくなりました。
『日本史総覧4 近世1 新人物往来社 1984版』は図書館にありました。


白峰 旬 氏の論文は、別府大学紀要で読むことができますので、これまでに何回も「城受け取り」の実例を読んでいます。
「城持ち大名を改易して城を接収する際には、完全武装をした上で受け取りを行いました」と仰る意味は、理解しているつもりです。

中でも「元禄14年の脇坂家による播磨国赤穂城在番について--播磨国龍野藩家老脇坂民部の赤穂城在番日記の分析より 」は、赤穂城受け取りの話で実に面白かったです。
『元禄御畳奉行の日記』は読みました。
山本博文著『お殿様たちの出世 老中への道』は読みましたが、『江戸お留守居役の日記』は未読です。

ただ私は、孫の話相手になれればよいので精読ではなく、乱読です。

お礼日時:2014/03/01 19:32

No.3です


わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に追加のご質問がありましたので、説明させて頂きます。

先ず御理解頂きたいのが改易という政治手法の目的です。
藩幕体制というのは、徳川家を頂点として大名をピラミッド型の組織構造に組み込んで統制することが基本的な構造となっています。
これは、見方を変えればあくまでも徳川家の為の構造です。

幕府というのは、あくまでも徳川家です。
徳川家が朝廷から大名を統制する統制権を認められていただけです。
現在にように全国を統治する中央政府ではありません。
この統制権を返還したのが、幕末の大政奉還と呼ばれる儀式です。
大政奉還後も薩長が執拗に戦闘を継続させたのは、藩はあくまでも独立国家であったためです。
徳川家が大名の統制権を放棄しただけであって中央政府が崩壊した訳ではありません。
実態はともあれ、中央政府である朝廷は厳然と存在していました。
各大名家は現在の国家と同じように他家の内政に干渉できません。
これは、幕府といえども同様で、藩政への口出しはできません。
すなわち、各藩の意想を管理することができません。

このような状況下で藩幕体制を維持する手段としてとられたのが改易という手法です。
城持ち大名を改易して城を接収する際には、完全武装をした上で受け取りを行いました。
戦国時代の占領軍の進駐とおなじ姿形式で行われました。
命令一つで殿様が腹を切ってオシマイという簡単なものではありません。
改易された側に、もし、意志があれば、籠城して交戦することが充分可能でした。
現在もしばしば行われる、米軍が進攻して政権を解体して暫定政府を樹立するのと基本的に変わりがありません。
徳川家としては、いつでも改易という擬似宣戦布告を行使する用意があることを示し、事実行使して見せることは必要不可欠です。情状酌量の余地はありません。
綱吉は、先代の家綱に男子がいなかったことから急遽迎えられた養子将軍です。
自身の政治基盤を確立するために、家門6家、譜代22家、外様17家と譜代や家門(親戚)を中心とした改易を断行しています。これによって養子であることで軽くあしらわれることを徹底的に排除しました。

これだけ重大な行動ですから、当然軽々に発動させることはしません。
幕閣も慎重になるのは官僚としては当然のことです。
幕閣が審議を重ねて回避できるものであれば回避策を講じるのは当然のことです。
つまらんお家騒動や嫡子の有無などを一々理由にしていたら、財政は圧迫され仕事が増えだけです。
官僚としては極力避けます。
情けがどうのこうのということで審議をして回避策を模索している訳ではありません。

改易と家名断絶とは全く別次元の話です。
改易になっても「家」の存続継承を認めるのはこの為です。

分家本家というのは、本社や支店とは全く意味が違います。
分家であっても、一つの独立した家系です。御三家をみて頂ければおわかりのように、水戸徳川家はあくまでも水戸徳川家です。
分家を断絶するということは、水戸徳川家を断絶することと同じです。
千代田城にいる徳川家が断絶するわけではありません。
分家のあとを本家が引き取るというのは、同じ家名の別の家系が引き取るという意味です。
支店を閉鎖して本社が事務を代行するのとは本質的に違います。

大名家にも大きく分けて二通りあります。
いわゆる土着大名と官僚型大名です。
外様大名のように、先祖代々の領地を保有し続けた大名と、幕府の命に従って領国を転々と変えていった大名です。
幕政に関与できるのは譜代大名か家門大名のみです。外様大名は一切関与できませんでした。
譜代大名や家門大名は江戸城内ではあくまでも一官僚です。
微禄の大名ほどセッセと働かされました。
功績を挙げれば当然役職も上がります。
ここで問題は給与です。
大名というのは幕府から給与をもらっている訳ではありません。
あくまでも自分の領地からの収入に頼っていました。
収入を増やすには領地を広げる以外に方法はありません。
領地は広がりませんから、より広い領国へ引っ越すことになります。
あるいは、他の領国を新たに貰うことになります。
領国が増えれば、家臣の二三男で仕事がなかった者も仕事にありつけます。
田沼意次や柳沢吉保が出世して石高がどんどん増えたというのは、領国が増えたということです。
言い換えれば、誰かが領国から追い出されたということです。
幕政を司っている幕閣にとっては新たな領国が常に必要です。
大名を潰せば、一人や二人分の報償は簡単に捻出できます。
大名を改易するメリットは幕府の官僚には充分にあるということです。
後は、メリットと実行するための膨大な費用と手間とのそろばん勘定です。
情でそろばんを弾いている訳ではありません。

注:譜代大名というのは、石高1万石以上の幕臣です。1万石未満200石以上を旗本と称します。
200石以下は御家人です。
城を持たない大名もいます。

藩幕体制というのは停滞していたようで、内実は弱肉強食の出世競争の世界だったということを御理解願います。
追加でご質問があれば補足をお願いします。

この回答への補足

現在確認されている各将軍が行った改易数は225家だそうですが、これについて図書館で調べてみたいと思いますので、記載されている本を教えて下さい。

補足日時:2014/02/28 21:14
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この回答へのお礼

再度の詳しいご回答ありがとうございます。

私自身が、改易をよく理解できていないせいかも知れませんが、まだよく分かりません。
質問の原点は、6代家宣以降では改易される大名が激減しているところから「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていたと言えますか」ということです。

#1、#2の方のご回答は納得できるのです。
例えば「武断政治から文治政治への転換によって、隙あらば大名家の取りつぶしを!との方針から社会の安定を優先することになった」とか
「もはや天下は泰平となり、幕府に敵対するような大名もなくなったので、幕府も幕藩体制の存続することが幕府の方針になったからでしょう」とか。

また、前回ご回答いただいた「即ち幕閣が改易などの手出しができる大名の絶対数が急激に減少しています。幕閣の政治能力の低下も影響しています」という理由は分かります。


>幕政を司っている幕閣にとっては新たな領国が常に必要です。大名を潰せば、一人や二人分の報償は簡単に捻出できます。大名を改易するメリットは幕府の官僚には充分にあるということです。後は、メリットと実行するための膨大な費用と手間とのそろばん勘定です。情でそろばんを弾いている訳ではありません。

なんとか理由をつけて大名を潰して、他の大名に与える新しい領地を増やしたいのであれば、「無嗣断絶」で改易した場合は、遺領を取り上げたらよさそうなものですが、親族が立藩したり、再封されたりもしています。

>いつでも改易という擬似宣戦布告を行使する用意があることを示し、事実行使して見せることは必要不可欠です。

これはよく解ります。
だから「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていたのだ」ということでしょうか。

家宣以降幕閣は、改易で牢人が増加することによる社会の不安定よりは、幕藩体制の安定維持を方針としたという見方に納得しています。
決して私が望んだ回答だからという訳ではありません。

お礼日時:2014/02/28 21:12

>6代家宣以降(1709年以降)幕末までのおよそ160年間に改易された件数は、wikiの「改易」によればわずか19件です。


Wikipediaの掲載にやや不備があります。
家康が征夷大将軍に任官しているのは、慶長8年(1603年)です。
それ以前の関ヶ原の戦後処理の大名取り潰しは、幕府が行った改易とはカウントされません。
現在確認されている各将軍が行った改易数は以下の通りです。
家康  1
秀忠 55
家光 57
家綱 26
綱吉 45
家宣  3 
家継  1
吉宗 12
家重  4
家治  2
家斉  4
家慶  3
家茂 11
慶喜  1
 計 225
中期以降は、将軍の子女の婚姻先の大名が増え、統制の対象とされる大名が減少しています。
幕府の経済支援を受けるために,藩主に男子の子供ががいるにも関わらず、将軍家から養子を貰い受けるケースが頻発しています。
薩摩藩のように外様の雄であるにも関わらず養子を藩主として迎え入れているケースもありました。
藩主の正室として姫を迎え入れているケースも多数あります。(いわゆる持参金目当てです)
江戸古地図を御覧頂ければ判りますように松平姓を名乗る大名家が次々と増加しています。
上記の225家のうち将軍家の親戚(家門)の改易は15にとどまっています。
家重以降、家門はゼロです。
即ち幕閣が改易などの手出しができる大名の絶対数が急激に減少しています。
幕閣の政治能力の低下も影響しています。
時代が下るにつれ、前例主義、事なかれ主義が蔓延して制度が硬直化して行きます。
それでも幕末まで改易という手法は取られ続けました。

徳川藩幕体制というのは、中央集権国家体制ではありません。
各大名は完全に独立した組織で、徳川家がその中でダントツに大きかっただけです。
大名は幕府に雇用されている訳ではありません。
藩というのはあくまでも軍事組織です。
江戸時代というのは、いわゆるパワーバランスの上に成り立っていました。
幕府は藩政には一切口出しはできません。口出しをする意志もありません。
飢饉の際に、食糧の融通や支援などは一切行っていません。
融資の申し入れがあれば、あくまでも金銭貸借として処理しています。
結果として、隣接する藩で餓死者の数が極端に違うという現象が起きています。

>大名家をなんとか存続させてやろうと務めたと見る方がよいのではないかと思うのですが、如何ですか。
改易というのは、幕府が幕臣をクビにするのとは全く意味が違います。
姻戚外の大名に情けをかける理由などどこにもありません。
どのような根拠で務めたとお考えでしょうか?
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この回答へのお礼

詳しいご回答をありがとうございます。

>中期以降は、将軍の子女の婚姻先の大名が増え、統制の対象とされる大名が減少しています。
>上記の225家のうち将軍家の親戚(家門)の改易は15にとどまっています。
家重以降、家門はゼロです。
即ち幕閣が改易などの手出しができる大名の絶対数が急激に減少しています。
幕閣の政治能力の低下も影響しています。

つまり、家宣以降改易される大名・小名が極端に減ったのは、以上のような理由によるということですね。
解りました。


>姻戚外の大名に情けをかける理由などどこにもありません。
どのような根拠で務めたとお考えでしょうか?

Wiki「改易」の1709年以降の19件の一覧表を見ただけの印象ですが、「無嗣断絶」で改易されたケースでもその多くは、遺領は分知される前の本家に還付されたり、親族が立藩したり、再封されたりもしています。
一方、分知が許可される場合もあって、「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていました」という見方に疑問をもちました。
また、実際には老中を中心とした幕閣が政事を行ったわけですから、“情けをかける理由はない”と断定できるものでしょうか。
さらに、一つでも減らさねばならぬ理由(メリット)もよく分かりません。


福田 千鶴著『御家騒動』 (中公新書)を読んだとき、次のような内容をメモしています。

1.幕府は大名統制の一環で改易する絶好の理由として御家騒動を利用したとされるが実際には騒動が露見しても改易にならない事例が圧倒的に多い。

2.幼少とは何歳までか。近世前期の17歳以下の幼少者が相続した事例を集計すると全体の3割強に。この事実から家督相続者が幼少であっても幕府の方針としてはなんとか大名家を存続させようと努めており、将軍権力が幼少を理由に改易・転封権を行使して大名を統制した通説は誤り。

お礼日時:2014/02/27 20:28

武断政治から文治政治への転換によって、隙あらば大名家の取りつぶしを!との方針から社会の安定を優先することになった



転換前は、徳川家の統治体制の確立と将軍家の権威を高める為にも、少しでも徳川体制への障害になりそうな(今現在ではなく将来的に見て)大名家は、徹底的にマークされた

で、かなりの大名家を取りつぶす結果になった

そうなると、主家を失った家臣達が浪人となって世の中に溢れるようになり、再就職も侭ならず
不平浪士達の不満の象徴として、由井正雪の乱のような社会的事件も起きるようになった

徳川統治体制も整ったこと、無闇に浪人を増やすことのデメリットが顕著になったこと、そういう要因によって、それまでの大名の統治方針を大きく転換して、末期養子を認めるなど幕藩体制の安定を優先した

それ以降の取り潰しは余程の不始末でも無ければ行われなかった

以前であれば改易に相当するような事案でも、領地の大幅な削減を行って実質的には改易でも家名だけは存続させるというような対処を行う様になった
例えば、米沢藩上杉家のような領地半減とか
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
よく解りました。
「諸大名を一つでも減らすことを考え続けていた」という見方を信じ込んでしまうところでした。

お礼日時:2014/02/27 09:39

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参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

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・毛利元就
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人数が多くて申し訳ありません。

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Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
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No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
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Aベストアンサー

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに、土地収益に関する山手・川手、産物に関する漆年貢・茶畑運上、商工業者に関する問屋運上など、名称・種類が多くあり、町にも関係する小物成りもありました。その中には分一と呼ばれ売上や収穫の何分の一かの形で税率が決まっていたものが多くあります。市場の売り上げの1/20もしくは1/30を納めた市売分一のように多くの売上や収穫に薄く、広くかけました。売家の場合にも分一がかかりました。
小物成りに含まれるものとして、冥加・運上がありました。後代になると両者は一定の税率(対象により税率が違う)になるなど同じようになります。
冥加は、村の年貢にあたる地子を免除された御恩(冥加)に対して、そのお礼の意味でも冥加の言葉は使われ、最初は自主的な献金の形式をとりますが、その後定率納税の形になります。町では商工業者の営業免許税の性格が強く、個人上納だけでなく、株仲間上納がありました。金納なので冥加金と呼ぶこともあります。
運上は農業以外の商工業や林業・漁業などの従事者に、一定の税率をかけた一種の営業税で、金納なので運上金とも呼ばれました。
御用金は、幕府・諸藩などが財政不足を補うために窮民救済などの名目を立てて臨時に御用商人などに臨時の賦課です。本来は借用の形式ですが、返済されなかったり、利子分は献金に切り替えさせるなど、臨時の課税の性格が強かったものです。
次に労役(夫役)がありました。近代以前の納税には米などの物納と、労働力提供の形式があり、労役も納税の一種でした(小物成の一種としても考えられていた)。江戸では町人足役と呼ばれ、町人に課された夫役で、上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防火などの都市機能を維持発展させるためや、幕府のために働く人足を出すものがありました。代銀納されることも多くありました。夫役の中心的なものは公役(クエキ)で、上記の目的で町人に付加されたものです。代銀納の場合賦課の基準が定められていました。土地20坪を一小間とし、日本橋などの中心部では5小間、芝などでは7小間で銀30匁とされ、借家人の分も含め地主が支払いをしました(店賃の中に含まれると考えられた)。
また、夫役の中には国役と呼ばれ、職人が江戸城の建築などに年の数日無償で従事する夫役がありました。これは戦国時代に大名が必要物資を確保するために職人を集めて大名に奉仕させたことに直接には由来します。江戸幕府も職人を集め、一定の町(職人町と呼ばれる)に住まわせ、地子を免除するかわりに普請や武具の納入などをさせる夫役です。後に代銀化し、棟梁などの頭役がまとめて納入するようになります。
最後に、現代の地方税、住民税にあたるとされる町入用があります。町は商工業者でもある地主・家持の本町人で構成された自治的な組織で、町役人である町名主などの役職や、寄合所・事務所である町会所、町の独自の掟である町法を持つのが普通でした。この町の町名主などの町役人、木戸番・火消等の人件費。町内の道路普請費用。その他町を運営するための運営費、事務費などの使われる費用でした。これは町名主に納めました。
以上ですが、江戸(他の都市も同じ)では、地借・借家・店借は、地主の町人に地代や店賃を支払うだけで他の負担はなかったが、長の運営には参加できませんでした。

地子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
地子免許
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1
小物成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A9%E6%88%90
分一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E4%B8%80
冥加
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E5%8A%A0
運上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E4%B8%8A
御用金
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E9%87%91
夫役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%BD%B9


以上、長くなりました。参考まで。

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに...続きを読む

Q徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

こんにちは。

私の手元に、「江戸(嘉永)時代大名紋章及び城郭図」という地図があり、それを見ていて疑問に思ったのですが・・・。
徳川家は八百万石という力を持っていたにも拘わらず、江戸と呼ばれる範囲はあまりにも小さいと気が付きました。
他の裕福な藩は(加賀など)広々とした領土なのに、どうして徳川家の領土(城下町?)はこんなに狭いのでしょうか。
江戸以外にも、直の領土があったのでしょうか。
それとも、広い城下町を持つ必要がなかったのでしょうか。

教えていただけたら、ありがたいです。

Aベストアンサー

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代には御料、御領、御料所などと呼ばれ、明治以降は天領と呼ばれますが、天領と呼ぶのが一般的です。全国に散在し、直轄地がなかったのは蝦夷地くらいのものでした。ただ、蝦夷地も、寛政11年1799に東蝦夷地を直轄領とし、文化4年1807には西蝦夷地も直轄領にします。この処置は、文政4年1821に東西共に松前氏に返却しています。
大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。
一般に10万石以上の地域を支配する場合は郡代を、それ以下は代官を派遣して支配をしています。また、一部では譜代大名などに預けている場合もあります。
この他に全国の主要都市を、江戸・京都・大坂以外に、伊勢神宮門前町の山田、貿易港長崎、金山の佐渡、旧貿易港堺、他に奈良、伏見を直轄地として、遠国奉行を派遣しています(幕末には神奈川、下田、兵庫、新潟、函館などの開港地も直轄領化し、奉行を派遣)。
佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

以上、参考までに。

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
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Q取り潰しになった藩の家臣たちの処遇

江戸時代にたくさんの藩が取り潰しになっています。
藩が取り潰しになった場合、家臣たちはどういう処遇を受けたのでしょうか?
主君がいなくなり、無職になったのですが、武士の身分は剥奪されないと思います。

しかし所有していた土地や武家屋敷などは、そのまま自分のものにできたのでしょうか?
それとも武士の住む町は決まっているので、次に来る藩主とその家臣のために立ち退きをしなければならなかったのでしょう?
また退職金などはあったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。

藩がお取潰し=お家断絶になると家臣は主君に殉じて自ら切腹して死を選ぶ事もあったそうですが、ほとんどは再仕官の道を探す事になりました。武士の身分に対して禄が出ていたのではなく、何らかの役職に対して禄が出ていたので浪人になってしまっては収入が無い訳です。

そこで有名な傘張りや用心棒と云ったアルバイトをする事になります。しかしこれは浪人に限った事ではなく禄の少ない下級武士の間では当たり前のように行なわれていました。武士の身分といっても浪人になってでも生きていく程度の家柄では当の本人が思っているほどの意味は無く、実際は町人と同じ扱いを受けます。

島原の乱や由井正雪の幕府転覆未遂事件以降は、浪人に対する締め付けが非常に厳しくなり(たとえばアメリカの性犯罪者に対する厳しさでしょうか)自ら武士を捨てて町人になる者も多かったようです。
土地・武家屋敷はもともと、幕府から権利を貸し与えられていただけですから、お家断絶とともに権利はありません。お国の土地・屋敷も主君の大名から権利を貸し与えられていた訳で主君がいない以上権利も無くなります。この頃はお百姓も庄屋から畑作の権利を借りていただけでみんな小作でした。世界的に近代民主国家になる前は一部の金持ちや権力者以外(所有)など出来なかったのですね。
赤穂浪士では藩に残っている金品はほとんど藩札や藩債の換金に当てていたりしますが、本当のところはどうでしょう?火事場泥棒的に退職金代わりに持っていったりもしたんでしょうね。

こんにちは。

藩がお取潰し=お家断絶になると家臣は主君に殉じて自ら切腹して死を選ぶ事もあったそうですが、ほとんどは再仕官の道を探す事になりました。武士の身分に対して禄が出ていたのではなく、何らかの役職に対して禄が出ていたので浪人になってしまっては収入が無い訳です。

そこで有名な傘張りや用心棒と云ったアルバイトをする事になります。しかしこれは浪人に限った事ではなく禄の少ない下級武士の間では当たり前のように行なわれていました。武士の身分といっても浪人になってでも生きていく...続きを読む

Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観...続きを読む

Q大名の改易

江戸時代には多くの改易がありましたが、その中でも特に理不尽な理由で改易された大名家はどこだったのでしょうか?いくつか教えて頂けると幸いです。

Aベストアンサー

理不尽な改易と言うのであれば幕府が作った改易の理由を作るための制度によるものが一番多かったのではないでしょうか。

実子がいない大名家には養子縁組を勧めて、養子縁組の後実子が出来ると大抵後継ぎ問題(跡目争い)になる為、改易になる。

かといって、養子縁組をせずに藩主が急逝したりすると、跡目の届が出ていない事で、家を存続させる気無しとして改易になる。

大名家を取り潰す口実を作る為とも取れる法度によって振り回されて改易になるのほど理不尽な事は無いと思いますけど。

Q江戸時代に大名の数が増えたのはどうしてですか?

江戸時代の幕府成立期に183だった大名が、
元禄には243、幕末には266に増えています。
家光、綱吉のときには取り潰しなどが多かったはずですが、
どうして増えたのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>家光、綱吉のときには取り潰しなどが多かったはずですが、どうして増えたのでしょうか?

幕府創業期は、まだ戦国の考え方が残っていて、各藩は次男坊・三男坊を部屋住みとして「長男の予備」として考えていました。
当時は、次男坊・三男坊は「冷や飯食い」と揶揄されていました。

幕府が安定期に入ると、各藩は次男坊・三男坊を他家へ養子にする事に苦心します。3歳までの死亡率が(一般人に比べ)高かったので、そこそこ養子縁組先は多かったようです。

ところが、元禄期になると・・・。
養子縁組先も無くなります。
そこで、自分の米高から最低1万石を割いて「分藩」を行います。
幕府としても、藩の規模を小さくする事になり奨励した節があります。
分藩すれば、本家に嫡男(世継)が居ない場合、分家から養子を迎える事が可能です。もともと一族ですから、安心ですよね。

それと、将軍家に仕えていた小姓が元服。かれらは、将軍家世継が「将軍」になった時点で「立藩」しています。

Q旗本と大名

昔の日本で、旗本と大名どっちが偉かっんですか?
例えば、道ですれ違ったときに道をゆずるのはどっちとか

Aベストアンサー

それぞれが『殿様』と呼ばれていた階級です。大名は石高1万石以上で、格の高さは大名が上です。旗本から出世して大名になった者として吉宗時代の町奉行・大岡忠相です。綱吉時代に柳沢吉保も下級藩士から側用人を経て大名になりました。
江戸初期では旗本にはなるには直参であることが必要でした。しかし、幕末になると旗本株をお金で売買するようになりました。江戸城の無血開城談判で有名な幕格の勝海舟は祖父の代に旗本株を買った家系です。
旗本の中では書院番や幕格の旗本は格が高いのです。将軍のお側近くにはべるので特別なのです。外様大名は将軍に近づくことも出来ませんでした。江戸城松の廊下で『殿様』同士が出会うと格式の差でいろいろとあったでしょうね。
格から言うと徳川御三家、徳川御三卿家、松平家、親藩大名、外様雄藩大名、幕格旗本、外様小藩大名、旗本の順です。

Q江戸幕府が財政難な理由

天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?

Aベストアンサー

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんでした。
幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。
一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。
現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。
つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。
ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。
この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。

ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。
幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。
市場は全くの自由経済市場でした。
おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。
関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。
いわゆる元禄時代の到来です。
政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。
この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。
そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。
ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。

>インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?
需要と供給の関係です。
一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。
年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。
村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。
つまり一定規模以下の農家は無税でした。
この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。
大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。
他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。
田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。
禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています
ということで米の供給量は年々増えていきました。
武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。
つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。
年ごとの作況による上下は当然ありました。
一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。
食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。食材も贅沢になっていきました。
そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。
インフレになれば即値上がりしました。
つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。
武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。

>何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。
戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。
これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。
年々派手になり半端な費用ではありませんでした。
しかも最も喜ばれるのが小判でした。
江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。
大判は景物として最高のものでした。(むしろ通貨としては使われませんでした)
幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。
大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。
これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。
形式第一主義社会を生きるのは大変です。
つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。
江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。
形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。
食材も潤沢に現物が手に入ります。

蛇足
交易で得る金額などたかがしれていました。
木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。品物の価格もしれたものです。
100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。
秀吉の時代とは経済規模が違います。そもそも人口が違います。
交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。
薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。
40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。
金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんで...続きを読む


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