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哲学アンケート:他我意識

みなさんは「他我意識」という記号から、どんなイメージを持ちますか?

(ちなみに当カテではアンケート目的の質問投稿は、管理担当者により認可されております)

A 回答 (7件)

哲学の歴史の中で、他我認識の問題を初めて取り上げて問題にしたのが、現象学の創始者フッサールで、その「デカルト的省察」においてでした。


私たちは外的対象ならば、見ることができるから認識できますが、他我、すなわち他人の心は私からは見えないから、直接的に認識することはできません。
私の心は直接知ることができますが、他人の心は間接的にしか、例えば他人の振る舞いや仕草や表情の向こうにあるものとして単に想像するしかありません。
フッサールはこれを「間接呈示」と言っていますが、私たちは「間接呈示」を通して、感情移入によって私の心を他人の身体の内に「投げ入れる」ことによって、他人の心というものを認識します。
フッサールの用語ではこれを「類比的統覚」と言っていますが、私の心に類似したものとして他人の心があるということです。
しかし、他人の心というのは私の心を他人に「投げ入れた」ものですから、いわば私の心の「投影」です。
したがって、この世界には心というのは私一人にしかなく、他人は機械であって、ロボットかゾンビに過ぎないと考えることもできます。
これが「独我論のパラドックス」で、世界に心は私の心一つというのはひじょうに常識に反します。
常識では、私に心があるのと同様に他人にも心があるというものです。
しかし、哲学的に考えると「独我論」にならざるを得ません。
パラドックスになります。
いったい、常識が正しいのか、「独我論」が正しいのか?
もし、常識のいうように他人にも我が、他我が存在するというのなら、私たちはそれをどのようにして認識しえるのでしょうか?
そしてフッサールは「デカルト的省察」では他我認識に失敗し、破綻しました。
晩年にフッサールは「独我論のパラドックス」を解決するために、新たに「間・主観性」という考えを持ち出すに至ります。
フッサールによれば、他我認識が難しいのは近代哲学の以下のような前提に私たちが呪縛されているからだと言います。

(1)私の心は直接的に知ることができるが、他人の心は間接的にしか知ることができない。
(2)心は各人の身体の内側にあり、外からはそれをうかがい知ることはできない。

この二つの前提を放棄しない限り、他我認識は失敗する、というのがフッサールの診断です。
それに代えて、フッサールのいう「間・主観性」というのは、心とか主観とかいうものは人間の身体の内側にあるのではなく、人間と人間の中間にあるという考えです。
各人の心はその「間・主観性」が枝分かれして各人の身体の内側に定位したもので、だから心とは「共同心性」なのだ、ということ。
心は実体的な概念ではなく、関係的な概念だということです。
これを逆にいうと心というものは人間と人間が共同して作り上げているものということができます。
人間の本質は共同存在にあり、孤立した存在ではないということがそこから帰結します。
他我というのは共同の心性を各人の身体の内側に「投げ入れて」そこにあるものとして私たちが認識するものです。
そして他人からすれば、私の心は同じように共同の心性を私の身体の内側に「投げ入れたもの」ですから、私は私の心と他人の心を「類似」したものとして認識し、理解することができます。
共同の心性というのは私と他人だけが作り上げるのではなく、社会的・文化的に作られるものだというべきです。
たとえば一定の共同体に生きている人間は、その共同体の固有の心性を持つことができます。
私たちが他人の心を理解できるのは私と他人が共に同じ共同体に生きているからです。
当然、同じ共同体に生きていない人間同士では、互いに理解できないということが起きます。
共同心性が作られていないから。

以上のようにフッサールは「間・主観性」をもって、近代哲学の「独我論のパラドックス」を克服できると考えました。
果たして、本当にそれが克服になるのか、私はじゃっかん疑問を抱いていますが。

この回答への補足

◎とても丁寧かつ詳細な論文回答に感動いたしました。^^/

文末にて疑問を抱いておられるご様子。

・その疑問こそ当哲学カテにふさわしく新たにスレを立てれば、必ずや納得がいく回答に出逢えることでしょう。(当サイトの助け合いの趣旨で)もし仮に、私があなたの疑問に助言をするならば、

・その疑問の答は、「物理の量子論から証明された、己の観測や認識によって相対的に宇宙(日常的世界)は謎として派生しているという事実」の中に内包されています。

・また、上記宇宙は【ある種の精神異常】として派生している、とも言えるため、普通の人間にはパラドックスの様に感じてしまうという、と言えます。

・こうした【上述の見方の前提】には、「既存哲学(文系のみ)」を用いて考えると混乱を招くが【「物理=物の理=もののことわり(総合的認識工学)」を用いると素直に解釈可能である】、という「不変真理」がある。

・その【前提としての物理(もののことわり=科学)】とは何か? 例えば「社会の定義とは助け合うために集まったもの」であり「現代社会は地球規模の順調な運営によって成り立っている以上、昔の戦争は異なる社会同士(家族同士~部族同士~県藩同士~国家同士)が殺し合い、双方の利害関係が一致することで徐々にその規模は大きくなり現代社会を生んだという事実。

・これは生物学で我々の身体の細胞内の「核」と「ミトコンドリア」が昔は敵同士だが融合することでパフォーマンスが上がるため【物理の必然としての現象と完全に同一】である、という例。

・こうした【科学による前提からの見方を行う】と、現代社会は1つの生命体のように分業化していて、たとえ意識の上での金の奪い合いたる「ビジネス」でさえ、結果として助け合っているに過ぎない事が理解できる。この科学に言わせれば【地球規模の現代社会は『1個の社会生命』】と言える。

・その『1個の社会生命』において、1;"人の側" からの覚醒たる【1:個人の意識における「社会生命性の自覚化」】と、2;"モノの側" からの補正たる「貨幣制度の廃止&諸々のシステム移行による、新たな原始共産制への回帰によるITを駆使した【2:相手の顔が見える助け合いを可能とするインフラ】整備」との両輪が、実は【科学をベースとした必然的な思想の指向性】なのである。じゃあその根拠とは?

・その科学ベースたる様々な生物学での「社会進化」の研究者が導き出したのは、結論として「社会進化」の種類は大きくわけて2つあり、1;ヒトを代表とした後天的認識の発達とその深まりにより互助的ネットワーク型社会を築く【1;自律性ヒト型進化】と、、2;アリ・ハチに代表される個体自体に意識が無く女王から与えられた遺伝子に従い条件反射的に動くだけの、女王を頂点とした中央集権型社会を築く【2;他律性アリ型進化】が、双方とも自然界に存在し「どちらか?が優秀」ということは無い、という事実(どちらでも良いが、意識を持ち幸福感を求める「人」が本来属するのは、いったいどちらなのか? また金や権力というアメとムチで他律的に生かされている現代人をどう捉えるか? が重要です)。

・こうした学問の区切りを破り見方を試しに変えてみて、自分の普段みえて活動している日常世界に学問の区切りが無い事を、再発見できれば、リンゴを放せば下に落下する、というような【日常的物理法則が「人それぞれ」でない事実】が判る。「人それぞれ」は「任意性が有る」と表現され、上記の【日常的物理法則】には当然【任意性が無い】。これと同じく言葉という記号を使う際の注意点は「思想・哲学・考え方・論理的な正しさ」という記号を見かけたら、それらが【任意性の有る、個人的趣味・時々の現状に則したモノ】のイメージで使われているのか?、逆に【物理(=もののことわり)に則した1個しかない、誰も否定できないモノ】のイメージで使われているのか?、の判断(例:相手の考え方はどっちだろうか?)が最重要な注意点である。

・それらを踏まえた上で、【たった1つしかない正しい科学的思想】において、【他我性(=他者を己のごとく思いやる)とは】、我々認識体(注:意識の無い生き物は認識体にあらず)の必要として生まれた宇宙世界(=認識観測するまで何も決まっておらず無に等しいが、我々が意識的観測してはじめて派生する、という量子物理学が暴いた性質=相補性)に基づく【相補分化】という今も我々に不断なく起きている現象の中に【「他(他者・環境)」と「自(我)」の関係】を予感できれば【他我意識とは科学的根拠に基づく「愛」のようなモノ】であることが直感できるでしょう。

以上、あなた様の何らかの幸せにつながる事を願い「小論文的な補足」を終了いたします。オタマより
ーーーーー
オマケ:私に多くを教えてくれた「ある お兄様」の言葉を以下に載せます。
ーー「お兄様より、馬鹿な私へ」ーー
私は、「他人を動かそう」と思った事は一度もありません(「私がしてあげよう」とはしても)。「他人がこの考えを持つべきだ」と思ったことも。社会が、精神的充足量の総和の最大化を実現する「自律的社会化=ヒト型進化」を採るか、「お金や権力による他律的社会化=アリ型進化」を採るかも、「自然界では両方ある」としています。

自分自身が心のあり方次第で、どのような状況でも最大限の幸福感を得られるように、全ての人がそうなる時、【誰もが「心のあり方次第」で幸せになれると同時に、社会的営為においてもベスト】になるのです。逆に、【政治や経済から影響を及ぼそうとする時、“ミイラとりがミイラになる”状況】になります。だって、誰もが「他人を動かし」たがっているのですから。

いかなる【個人的利益や名誉も離れた情報発信の中】で、誰もが【『自分で思いついた』と思えるような形での影響力】こそが、「自律的社会化」を導くでしょう。
ーーーーーー以上。

量子の性質は以下にあります。相補性も。

補足日時:2014/03/31 17:14
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この回答へのお礼

日常的な生活の結果として、感覚的に『自分の外に物体があり、二次的に心が生じる』と感じる事を、「素朴唯物論」と呼びます。そうした考えによれば、そうした外に独立して存在する物体は、原理的に分析し測定する事が、「存在を確定する」事だと考えられている。

量子論的世界像において、有限的な存在性は認識する事で生じており、心=宇宙であって、唯物論の基盤である物理の極限において「唯物論=唯心論」に至ったと言える。

「唯物論=唯心論」とは「他人も含めた環境=自分自身」を意味します。物理学において時間性の中で、自分が連続していない事が明らかとなっており、その時間の間隔を空間に変換すると約1kmになります。つまり自分でさえ1kmも離れているのだから、近くの他人を愛せない訳がない、というのが、物理=もののことわり、が出した答えです。

回答、有り難うございました。

お礼日時:2014/04/12 09:37

 No.5です。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 その「戯れ言」と感じるのは、社会全体の「精神的充足量の総和の最大化」のために生きる社会性のある行為で失礼な行為どころか社会全体の幸せを目標とする自然な行為であるのに対し、その行為(=追加回答せず)を、割愛された「自己への侮辱行為だ」と腹を立てる心理の生まれる理由は「目先の自分への利益」のみに固執し「自尊心を傷つけられた」としか感じられない「典型的な戦後教育の失敗により量産された、どこにでもいる社会性の乏しい人々の中の一人」であるから、であり「他」を「我」と同一視できない「独善的」な低い総合的認識力を公共の場で宣言しているにすぎない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 要するに やり取りを途中で一方的に打ち切ってよい。ということですね。

 それとして分かりました。


 という意味は やり取りが始まるときにその前に打ち切ってもよいという意味が含まれますと 老婆心ながら お知らせしておきます。
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 ★ 他我意識


 ☆ をしきりに説き その人は持っていると思われたその本人が何らその中身はなく 空っぽであったと分かる戯れ言だというイメージを持ち それは そのいまやり取りをしている対話を放ったらかしにしてほかの事にかかわり始めたと見るかぎりでは イメージだけではなくまぎれもない事実であると知らされる。
 こういう受け留めです。

この回答への補足

サービス補足:

その「戯れ言」と感じるのは、社会全体の「精神的充足量の総和の最大化」のために生きる社会性のある行為で失礼な行為どころか社会全体の幸せを目標とする自然な行為であるのに対し、その行為(=追加回答せず)を、割愛された「自己への侮辱行為だ」と腹を立てる心理の生まれる理由は「目先の自分への利益」のみに固執し「自尊心を傷つけられた」としか感じられない「典型的な戦後教育の失敗により量産された、どこにでもいる社会性の乏しい人々の中の一人」であるから、であり「他」を「我」と同一視できない「独善的」な低い総合的認識力を公共の場で宣言しているにすぎない。

ーーーーーーーーーー
なお、当サイトでは【議論を誘因するような疑問質問は「回答欄・お礼欄・補足欄」であれ禁止】であり、もしどうしても知りたければ、新たに「一般化した文面での質問」スレを立てるべきであることを、私も含め全利用者が「肝に銘じる」必要がある事を、お互いに注意致しましょう。
ーーーーー
また【感謝の気持ちで、助け合いの情報交換】を目的とした「当サイトの趣旨」に反する投稿を発見したら、すみやかに通報致しましょう。

補足日時:2014/03/29 12:59
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現世の自分と思っている自分が、実は本質的な自分では


ないらしい、というのと同じように、他人という存在の
本質も、現世の意識ではないようで、、

初歩的段階でもいいので、拡大した自己の中で、他の人
や物を自分の内・自分自身という状態で経験し、、その
段階から現世の自分に戻り、その到達点・段階の経験を
してみたい、、とそんな事を感じる言葉かも?

まぁ?、本の一体化(この時には個性はまだないらし)
から、魂として分離し、そこから各外郭次元に、それぞ
れの意識体が放射され、それら一連の中で、個性が生ま
れるらしいのだけれど?、

それら個性という物の意味と、その個性という物自体に
本当に存在意義があるのかどうか、という事なども知り
たい・経験してみたい
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哲学ならとことん付き合ってやるよ。

彼方が正解だとするというのはわたしは間違いだと全く彼方には、関係ない人間に対して物事を言ってるね。だったら説明してみろ。彼方と誰かが違うという理由を。哲学しってるならそんぐらいのことを知ってるんだろうが。
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自分と同じような意識が他人にもあるってことでしょうかね。

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許可されたんだ?管理者さんに知り合いいるんだ。

いいな。他は、自分のこころの奥底、気づかないこころのなか。我は自分。だから、深層心理という意味だと思います。

この回答への補足

いいえ。私個人が認可されたのではなく、全会員が認可された、という意味です。

会員より報告:
当「哲学カテ」では「アンケート目的の質問投稿」はずっと以前から許容されている「既成事実」に基づき、当然ながら、それは「事実上の、当サイト管理担当者により認可された」ことを意味しており、皆さんも、遠慮なく「アンケート目的の質問投稿」を致しましょう。

ーーーーーー
補足:「他」は「他者」を意味し、「自他」というような場合にも利用される記号です。

補足日時:2014/03/28 22:41
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