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 コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。

 ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~
   http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/su …

 【 第一 蛇の章 】      
 <1、蛇>

 1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

 2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
 ・・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。

 (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。

 (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。

 いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。

 (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。

 (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。

 (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。

 (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。 

 (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。

 (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。

 (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。

 (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。

 (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。

 (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう? 

   
   *


 ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~
 師は答えた、

  「マーガンディヤよ。
 【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。
  『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 【B】
 それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。


 【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。

 【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕



 (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。

 【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。

 【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕


 (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

A 回答 (33件中31~33件)

質問文は実に堂々とした意見であり考察だよ。


しかしだよ批判ばかりでなく文字が未発達で教えを口伝でしか聞く事の出来なかった2500年前の独自の哲学として努力と革新性は研究してみたらどうかね。
ちょっとは誉めてやらないと、忠犬ハチ公は納得しないよ。
そうすると説得なり開眼に誘導することも出来ない。
あんたは商売っ気がないからそんなことしなくてもいいかもしれないけどね。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 文字が未発達で教えを口伝でしか聞く事の出来なかった2500年前の独自の哲学として努力と革新性は研究してみたらどうかね。
 ☆ もしそうだとしたら そういうふうに捉えているということをまづ言えばよい。

 言いかえると そういう意味があるが 現代にあっては 無意味であると。


 ★ 忠犬ハチ公
 ☆ って? もしそうなら その《忠実さ》がどういう中身であるのか? それを考えてみるとよい。と言ってやればよいのではないか。それは イカレポンチなる状態であるのだよと。


 どうなんですかねぇ。

お礼日時:2014/04/20 22:48

仏典のうちにアジャータシャトルのことをヴェーデーヒープッタ(Vedehiputta 「ヴェデーハ女の息子」の意)と呼ぶ物があることからジャイナ教の伝説の方が正しいと言う意見もある(ヴァイシャーリーはヴェデーハにある)。

ヴェーデーヒーは「ヴェデーハの女」の意で、漢訳では韋提希と音写される。

古代インドでは男性を示す時、母の名を挙げその母を「…国の女」「…家の女」とする習慣があり、古代碑文にも多数の実例がある。しかし、アジャータシャトルの母がコーサラ国出身であるとする文献も少なく無く、詳細は分かっていない。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8% …

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

舎利弗(しゃりほつ、サンスクリット:Śāriputra シャーリプトラ、パーリ:Sāriputta サーリープッタ)は釈迦の十大弟子の一人である。

シャーリー(サーリー)は母親の名前で「鷺」を意味し、プトラ(プッタ)は「弗(ホツ)」と音写し「子供」を意味するため、漢訳では舎利子とも表される。つまり直訳すれば「鷺家の子」という意味である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E5%88%A9% …

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


これは、インド原住民の間の母系家族制度の影響であり、純アーリア人のつくったヴェーダ聖典のうちには認められない。

186~187ページ

ワイド版岩波文庫 ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経―― 中村元訳

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

サーリプッタという呼び方はおそらく母系家族制度に由来しているのに、

ゴータマはおそらくヴェーダに由来しているのは奇妙ではないでしょうか?

気になってます。
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この回答へのお礼

 分かんない。そのバスは 何処行きなのかが。

 ご回答ありがとうございます。


 ▲ (ヰキぺ:アジャータシャトル) ~~~~~
 § 2 アジャータシャトルと仏教

 ・・・ついに父王(ビンビサーラ)は餓死し命終してしまった。
 しかし、その後アジャータシャトルはその罪を悔い、激しい頭痛を感ずるようになった。
 そして医者である耆婆(ジーヴァカ)大臣の勧めにより、釈迦に相談した所頭痛がおさまったため、仏教に帰依し教団を支援するようになったと伝えられている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ イエスによる病いの癒しは そのときの社会の情況から そういうこともおこなったと考えられます。

 ゴータマの場合は どういう位置づけであろうか。





 ★ ゴータマはおそらくヴェーダに由来しているのは奇妙ではないでしょうか?
 ☆ 分からないのですが ほかの言い伝えもあったのでは? つまり 詳しくは分かりません。

お礼日時:2014/04/20 20:34

こんにちはです。




例によりまして、
今回もゴーダマ氏弁護の立場から回答をします。

☆(5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。
◇聖書に書かれる、イエスにしても似たようなものでしょう。
ヨハネによる洗礼以後は、
イエスも信者からの寄付や寄進によって生活をしていた。
さらに意地の悪い言い方をしますと、
イエスは、神の教えをとくことによって、収入を得て暮らしていた、
とも、結果、形式だけを見れば、言えます。
しかも、それは超~上から目線。
そして、
イエスのこうしたライフスタイル、教えの説き方は、
後々、
地上の富を実社会からひたすら簒奪し吸い上げるローマ教会の根拠になり、実社会の荒廃化を招いた。地上に害悪をまき散らす結果となった。神の民は、塗炭の苦しみを味わせられた。
ルターによる宗教革命以前のドイツは、《ローマ教会の牝牛》とよばれるほど、カトリックから吸い上げられ、ボロボロの状態。おまけに宗教がらみの戦争は頻発し、人口は激減。

こういう状況を招かなかっただけ、人様のお情けにすがり、お余りをいただくという、ゴーダマしのライフスタイルの方がマシだった、実社会に与える害悪は少なかったとも言えます。

ですから、この件をもって、ゴーダマ氏のみを批判するのは、おかしい。
イエスも同様に批判されるべきであろうし、
聖職者と実社会との関係性で広く語られるべきではないでしょうか。

まぁ、仏教、特に日本の仏教は、仏教教団も広大な荘園を有し、富を巻き上げていたので、
あまり偉そうなことは言えませんけれども。


☆(6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。
◇そういう一面もありますけれども、死してのちもう一度生まれるんではないかという《再生》への恐怖は、バラモン教側から、支配階級であったバラモンの側から起こり、その恐怖は深められていったといった面もあります。
───月の向こうに、喜びに満ちた、不死の世界があると信じられていた。しかし、インド土着の再生・輪廻思想の影響を受け、このことに疑問がもたれた───

また、
バラモンやクシャトリア階級といった支配者階級といえども、思いのままに生きることはできない。生まれては、老い、死ぬ。病気にかかることもある。そして、程度の差はあれ、思ったものは手に入らない。
その状態を《苦》と名づけたわけでしょう。
出家をし、世捨て人になるのがいいのかどうかはひとまず置いておきまして、
わたしなどは、「言われてみれば、そうですね。御説、ごもっとも」と素直に、こう思ってしまいますが。

《酸っぱいブドウの論理》のようにも感じられますが、
───悪く言えば、負け犬の遠吠え!!───
願っても手にできないなら、それを手に入れようという考えそのものを捨ててしまおう、
というのも、現実的な対処法としてありなのかもしれませんね。
ただ、こんなことで欲望がすっかりなくなるとは思えませんが。
姿、形を変えて、次々と新しい欲望が生まれてくるのでは、と思ったりします。

ほら、わたしの仏教は、大乗・菩薩教と、欲望肯定の、密教大楽思想の影響を色濃く受けているので、こうした出家主義には反対ですけれども。


☆(8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。
◇たしかに、そういう部分もあるのですが、
ゴータマ説は、低い身分の生のみに該当するのではなく、身分、生まれを超えた包括的なものですよ。
そして、その主眼は、現実として存在する苦的状態からの脱却や、その克服。
ゴータマ氏の出発点はともかく、輪廻からの脱却は、その結果、付随するオマケに過ぎませんって。大切なのは、今の生、今の生き方です。


☆(9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。
◇来世における遺伝子は、今の生のあり方、行い・カルマによって決定されるんですって。
ですから、来世において、人は、馬や猫、オケラにもなりうるんですよ。
あるのは、原因と結果の連鎖、因果・縁起的相続関係です。
ですから、バラモン教的な《アートマン》仮説は不要ということになります。
わたしが輪廻転生を信じるか、このことはひとまず置いておきまして、極めて合理的な考え方だと思います。
また、
生が一回性かいなかの問題ですが、
今のわたしが経験できるのは今の生だけですので、その意味においては、生は一回性のものです。
あるのかどうかは分かりませんが、前世や来世などある意味どうでもいいことで、大切なのは今の一回性の生です。
出家がいいのかどうかは疑問ですが、
「今をよりよく生きろ。大切なの今で、今の行いだ」と言っているわけですから、
目の敵にしなくてもよろしいのでは?


☆(11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。
◇はい、うまいことを言ったもの勝ちです。
そして、わたしたちは、その中で、より筋のよいものを選択し、それを今の生に、現実の生き方として少しでも反映させればいいのでは。


☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
  「マーガンディヤよ。
 【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。
  『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~
『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』と説けば、
教義などが絶対的な存在になる。そして、それに執著する。しかし、これらは悟りに至る手段に過ぎない。だから、そうだとは説かない。
だけれども、同時に、悟りに至る手段だから、
  『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。
という意味なのではないでしょうか。
どちらの極端の立場をとらない、その中(中道)をいく。
弁証法的な言い方をすれば、正・反・合の関係になる。
ですから、
~~~~~
それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
~~~~~
と続く。
ということで。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (5)・・・聖書に書かれる、イエスにしても似たようなものでしょう。
 ヨハネによる洗礼以後は、
 イエスも信者からの寄付や寄進によって生活をしていた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええっとですね。《出家》というかたち・ないし制度ではないですね。

 違いは たとえば預言者の場合には 神の言葉を預かったなら いやでもこれを公表した。王らがしたがわなくても 伝えきろうとした。

 寄付で生活したのかも分かりませんが 問題は そのとき・その情況におけるひとつの主題ないし課題にかかわって おおよそ書記のような者だけを連れて ひとりで活動したわけです。

 イエスの場合は 弟子がいくらかの人数いました。ただしおおむね預言者の行き方と同じだと思われます。

 パウロは お持て成しを受けたでしょうが テント張りの仕事をして生活の糧にしていたらしい。

 そして何よりも そのときに応じてそういった活動をしているということです。
 ☆☆ 《この世》を望まず 《捨て去る》という
 ☆ こととは ちょっと違うと思うのですが。



 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 イエスは、神の教えをとくことによって、収入を得て暮らしていた、
 とも、結果、形式だけを見れば、言えます。
 しかも、それは超~上から目線。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ やはり 《とき》の問題だと思います。《ときが満ちた》から そういう活動をした。これだけの話だと考えます。

 キリストなる神の視点は 人間イエスとは違って つねに
 ◇ しかも、それは超~上から目線。
 ☆ です。

 ◇ 神の教えをとくことによって
 ☆ ではありません。これは 違います。神のオシエはもう要らないということを その同胞に伝えたのです。

 モーセの律法をすべて満たすのだということをも一方でしっかりと言っていますが 要は――そのあとのパウロに託された使命としては―― 律法やオシエは 要らないということを伝えた。これは その《とき》が満ちた問題として 一回性としてのつとめであり行動だと捉えます。

 エレミヤ書31:31以降(ヘブル書8章)のあたらしい契約のくだりと相まって 神が神みづからを揚棄した。というのが イエス・キリストの歴史における登場です。

 そのとき 食べるために人びとのお情けに頼ったかも知れません。同胞みんなでその歴史のページを一枚めくるのだという活動でした。

 


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 イエスのこうしたライフスタイル、教えの説き方は、
 後々、
 地上の富を実社会からひたすら簒奪し吸い上げるローマ教会の根拠になり、実社会の荒廃化を招いた。地上に害悪をまき散らす結果となった。神の民は、塗炭の苦しみを味わせられた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは どの思想についても エピゴーネンは出て来ます。それだけのことだと見ます。

 《神の民》も だいたいは それに加担しているのですから 何も言えません。

 ローマ教会を初めそういうオシエにまつわる方面の行動は 要するにイエス・キリストをうまく利用して支配欲に支配されたおのれをそのまま自己表現したのだと考えられます。

 


 ◇ こういう状況を招かなかっただけ、人様のお情けにすがり、お余りをいただくという、ゴーダマしのライフスタイルの方がマシだった、実社会に与える害悪は少なかったとも言えます。
 ☆ 片や たましいが暴走しています。片やたましいが去勢されています。どちらも 罪深いと言えば罪でしょう。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~
 ですから、この件をもって、ゴーダマ氏のみを批判するのは、おかしい。
 イエスも同様に批判されるべきであろうし
 聖職者と実社会との関係性で広く語られるべきではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。そうしましょうか。

 つまりこの質問は スッタニパータの文章についてその批判点を確認しておこうと思っただけの問い求めです。





 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ 
 思いのままに生きることはできない。生まれては、老い、死ぬ。病気にかかることもある。そして、程度の差はあれ、思ったものは手に入らない。
 その状態を《苦》と名づけたわけでしょう。
 出家をし、世捨て人になるのがいいのかどうかはひとまず置いておきまして、
 わたしなどは、「言われてみれば、そうですね。御説、ごもっとも」と素直に、こう思ってしまいますが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 問題は その苦からの解脱が 自分はさとりを得て成就しているが 人びとにはむつかしいと説いたことにあります。言いかえると そのさとりの中身が 一向に明らかにならず 明らかにしなかった。ここです。つまり ペテンです。


 ◇ 大切なのは、今の生、今の生き方です。
 ☆ と言っても その《生》が 苦なわけでしょう? 初めから そんなことはないんだ・自性清浄心なんだと言ってしまっておけば済むことなわけです。その上での《思うようにならない苦》は きわめてふつうの思想として いまでも受け容れられるでしょう。


 ◇ 来世における遺伝子は、今の生のあり方、行い・カルマによって決定されるんですって。
 ☆ それは 子孫にとっての生の問題ですよね。人格が違うのだから いちいち親が心配しても始まりません。

 ◇ バラモン教的な《アートマン》仮説は不要ということになります。
 ☆ このアートマンの想定――つまり けっきょくは ブッダターの想定――によってこそ この人生が一人ひとりにとって 一回きりの実存であると示されているはずです。

 すなわち
 ◇ 生が一回性かいなかの問題ですが、/ 今のわたしが経験できるのは今の生だけですので、その意味においては、生は一回性のものです。


 ◇ 「今をよりよく生きろ。大切なの今で、今の行いだ」と言っているわけですから、 / 目の敵にしなくてもよろしいのでは?
 ☆ これも先ほど触れました。《生が苦だ》と言うかぎりで 信じられません。尋常の思想ではあり得ていません。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~
 はい、うまいことを言ったもの勝ちです。
 そして、わたしたちは、その中で、より筋のよいものを選択し、それを今の生に、現実の生き方として少しでも反映させればいいのでは。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということにはならない。つまり 言ったもん勝ちまではいいのですが その中身がない。と来ています。そこからが 問題です。すなわち:
 ☆☆ (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。
 ☆ たましいが もうすでに蕎麦のごとく伸びてしまっています。





 ◇ 教義などが絶対的な存在になる。そして、それに執著する。しかし、これらは悟りに至る手段に過ぎない。だから、そうだとは説かない。
 ☆ ぢゃあ そのように《手段だ》と言えばいいぢゃないですか。ほかでは言っているようですが。


 ▼ それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)
 ☆ という発言は
 ◇ どちらの極端の立場をとらない、その中(中道)をいく。
 ☆ とは言えないでしょうね。

お礼日時:2014/04/20 18:27
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