ブッダは、悟りを開く前に苦行をおこなつてゐましたが、結局は達成できず、まづ体力の増進をはかることに方向転換しました。その結果として、のちの佛教の隆盛があるわけです。

私は下記文献を読んだとき、なぜ6年間も修行するなかで、そんな(一般人なら当然の)ことが理解できなかつたのか、不可解でした。理由を教へてください。
哲学カテゴリ住人の方が御回答くださる場合は文章がむづかしいので、私の頭でも理解できる程度にかみくだいてお願ひいたします。

*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***
 脂肪と肉と血液がすっかりなくなってしまって、骨と皮だけになった。このように体重は減ったが、人間としての深みは減らず、深みの減ることのない大洋のようであった。聖者は激しい苦行のためにいたずらに体を痛めていたが、苦しみの世に再び生まれて来るのを恐れ、真理の理解者になることを望んで、次のように考えた。
「苦行を説くこの教えは、愛欲から自由になるためにも、真理を理解するためにも、また魂の解放のためにも、何の役にも立たない。あの時私がジャンブの木の根元で得た教えこそ、確実な教光なのだ。また、あの教えは、脆弱な人が得ることのできないものである」。 
 そこで、体力の増進のために気をくばることになり、さらに次のように考えた。
「飢えと渇きに疲れきって憔悴した人は、疲労のため心が病んでいる。心に安らぎのない人が、心で得るべきものをどうして得ることができようか。感覚器官がいつも充実されておれば、心の安らぎが得られる。感覚器官の充足によって心の健康が得られる。健康で充足した心から、深い精神集中(三昧)が生じる。深い精神集中を伴う心に瞑想の実践が始まる。瞑想が始まることによって、正しい教理が得られる。正しい教理によって得難い寂静の境地、不老不滅のかの最高の境地が得られる。したがって、この方法は食事を前提とする」。
 そこで、意志が強く叡智が無限の聖者は、食事をとろうと決心した。

『原始仏典 第10巻 ブッダチャリタ』講談社 小林信彦訳 第12章 141,142ページ
http://www.ancient-buddhist-texts.net/Buddhist-T …
*** *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***

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A 回答 (16件中1~10件)

 こんばんは。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ブッダは、悟りを開く前に苦行をおこなつてゐましたが、結局は達成できず、まづ体力の増進をはかることに方向転換しました。
 ・・・なぜ6年間も修行するなかで、そんな(一般人なら当然の)ことが理解できなかつたのか
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしには むしろ逆なことが 不思議です。

 いくらめざすさとりを《達成できない》からと言って それまで耳で聞いていた修行がよいと思ってやり始めたものを ふいと何故《方向転換した》のか?

 むろん《餓死寸前》であってみれば 《体力の回復を図ること》が必要なことは 分かります。と言っても そういう難行苦行であることは 初めから百も承知なはずなのです。

 つまりは ちょっと休みを取って 体力の回復を図り 再び三度 修行に就く。というのなら――と言っても わたしは それが正しい道だとか とにかくそうすべきではないかとか言っているのではなく 当時の修行のありさまから行けばという意味ですが―― まだ理解できると思うのです。


 けっきょく ただ嫌になって放り出した。のではないですか? そんなところでしょう。

この回答への補足

回答番号6の「お礼」で書きましたが、bragelonneさんをベストアンサーにしました。
宗教学者も佛教徒もおそらくは疑問に感じないこと、俗物まるだしの質問でした。
正しい答の出ない質問ですので、さまざまな意見を聞きたかつたわけです。
その貴重な少数見解(しかも質問文に対するもつとも素直な回答)といふことで選びました。

哲学カテゴリでは、kurinalさんを筆頭に、ベストアンサーには無頓着な人ばかりのやうですので、他の方へのお詫びは不要かと存じます。もちろんおほいに感謝してをります。
ときをりこちらで質問をするかもしれません。よろしくお願ひいたします。

補足日時:2014/04/27 20:36
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この回答へのお礼

bragelonneさん、こんばんは。
お名前が目に入つて、少し引きました。
ここの方方のなかでも、いちばん文章が難解ですので。
でも、私の頭の程度にあはせてくださつてゐて、安心しました。

さういふ見方もできるのですね。
俗にいふ「結果オーライ」ですか。
ご本人がいらつしやらないので、
単独インタビューとか、記者会見とか、暴露本とか、
真実を知る手段はありません。
私が引用した文献にしても、後世の創作である可能性があります。

他の人とは違ふ観点からの御指摘、ありがたく頂戴いたします。
ここの人たちのさまざまな御意見は、プラトンの対話編のやうです。
(自分の理解できる範囲で)楽しませてもらつてゐます。
ありがたうございました。

お礼日時:2014/04/26 23:59

お礼、ありがとうございました。



>この逆説的な見方は、的を射てゐるとおもひます。
>私自身は、佛典よりも、聖書のほうに魅力を感じます。
>佛典では状況説明があるだけなのに、
>聖書には対処法までしるされてゐます。

現代に生きる私たちは、聖書の方が分かりやすいことも多いかと思います。

西洋は、指摘することで明確にする手法が多用されることが多く
東洋は、読み取ることで全体像や具体的やり方を一つの事柄から
深くまで理解できる形で明示する手法が取られることが多いようです


>書物は、読む人次第で価値が変る、
>といふことを改めて知りました。

少しでもプラスになったのであれば、回答した甲斐があったと言うものです(^ ^)

もし、ブッタチャリダの話しが完全な創作だとしても
そこから学べるものがあれば何の遜色もないと、私は思っています。
私達は幼い頃に読んだ絵本でさえ、創作であっても
何かを感じて自らを育んできたのですから。
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この回答へのお礼

kanto-iさん、ふたたびありがたうございます。

>>東洋は、読み取ることで
>>全体像や具体的やり方を一つの事柄から
>>深くまで理解できる形で明示する手法が
>>取られることが多いようです

これがまさに今回みなさんにしていただいたことです。

>>もし、ブッタチャリダの話しが完全な創作だとしても
>>そこから学べるものがあれば何の遜色もないと、私は思っています。

私も読むのは好きです。
カントもヘーゲルも名前を聞いただけで敬遠して、
読んでゐないのですけれど。

お礼日時:2014/04/27 15:24

 


 ★(No.13お礼欄) 文章が軽すぎるので
 ☆ か それとも わたしが誤解しているとおっしゃるとおりであるか。どちらかでしょう。
 
 いづれにしても ときを俟ちます。

 もしそうだとしたら・そうだとしても これほど《軽い文章》に出会ったのは初めてですから。やおよろづ方角美人。(むろん さげすみのことばです)。
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この回答へのお礼

>>やおよろづ方角美人

おつしやるとほりです。
特にこのサイトの「相談」の場合は、
助言を求めるといふよりも、
話を聞いてほしい、
といふ(隠された)趣旨のものが多いと思ひます。
私はさういふ質問の場合には
共感できるものだけを選んで
徹底的に耳を傾けるやうにしてゐます。

http://questionbox.jp.msn.com/qa8542738.html
http://questionbox.jp.msn.com/qa8543537.html
http://questionbox.jp.msn.com/qa8560769.html

これは「相談」にかぎらず、
私のこのサイトでの基本的な姿勢です。
(もちろん、共感できない話題には最初から参加しませんし、
成り行きで主張を通す状況もでてくるかもしれません。)
質問文に記しましたとほり、
一般人で特定の思想があるわけではなく、
たいていの人の意見は大歓迎です。
私はさういふサイトにしてゆきたいと願つてゐます。

お礼日時:2014/04/27 15:08

こんにちは。



これは、独り言、ひとりごと、ヒトリゴト!!

現代的な考え方から、2000年以上前の考え方、その時代の人の行動、風習などなど、
これらは「まったくナンセンス」と批判することは簡単。
科学などが発達しておらず、迷信や迷妄に満ち溢れ、呪術などが社会や人々の考えを強く支配していたのだから。
しかし、
こうしたことを無視してはいけないんじゃないかな。
ちょっとフェアーじゃない気がしますね。

さらに独り言。
現代になってもなお、インドでは、苦行者や遊行者などは、聖者として、多くの人々から尊敬を受けたりしています。
そうした苦行者たちの中には、単に禁欲的であるだけでなく、自身の肉体を苛むようなことを行う者もいる。
出家して以来、一度も横になって眠らない、立ったまま寝る、ということをする人もいます。
うそか本当かは分からないけれど、
片足のままずっと立ち続ける、という苦行をしている人もいます。
あげられた足なんかは、筋肉が萎縮し、変形している。
こうした苦行を自身に課すことによって、神に近づこうとしている。
そして、よりスゴい、極端な苦行を行う人ほど、人々から《聖者》であると、より人々から深い尊敬を受ける。
インドの苦行というのは、ホント、超~スゴい、超~極端、ハンパない!!

さらに独り言。
ここ日本では、様々な占いがあり、人々の間で人気ですね~。
占いの存在価値を否定するつもりはないのだけれど、
そうした人たちの中には、占いがないと生きていけないという、占いに支配されてしまっている人もいる。
血液型占い、血液型というちょっと科学的なものを占いに付け加えると、・・・。
迷信深いということでは、いまも昔も、実は大差ないのかもしれませんよ(ニコニコ)。

新興宗教の開祖サマのなかには、
○年、厳しい苦行をなされたのち、神(から)の△△
なんてことをうたっていたりしますね(ニコニコ)。
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この回答へのお礼

NemurinekoNyaさん、こんにちは。
再度ありがたうございます。

>>ちょっとフェアーじゃない気がしますね。

それはおつしやるとほりです。

>>現代になってもなお、インドでは、
>>苦行者や遊行者などは、聖者として、
>>多くの人々から尊敬を受けたりしています。

たしかに、釈尊の方法が受けつがれてゐます。
ヒンズー教には得体のしれない領域があります。

>>ここ日本では、様々な占いがあり、人々の間で人気ですね~。

ここまでくると、ゆきすぎだと感じます。
でも、他者に迷惑にならなければよいと思ひます。
「病は気から」でほんとうに元気になればすばらしいことです。

このたびはNemurinekoNyaさんの回答が契機で
ここのカテゴリにお世話になりました。
こんなに多くの回答がいただけて感謝してをります。

お礼日時:2014/04/27 12:07

 ぷらぽたさん 気を遣っていただいているようで こんなわたしでも お応えせざるを得ないと思いました。



 わたしの投稿より前のご文章には触れないとすれば

 ★★(No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
   >>ところで私はブッダの苦行は創作だと思います。

 いろいろな意見を聞きたいから質問をしてゐますので、
 かういふ見解も大歓迎です。


      *

 
 企業や業界団体が「スジャーター」をとほして、
 佛教への関心をひろめてくれるのは好ましいことですが、
 調子に乗つて、なんら根拠のない偽情報を掲載する現状には心を痛めます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このように文章をものされるということは 人間の持ち得る最大限の幅において《佛教》に生きておられる。と見ました。

 いわゆる懐が深いという意味とも通じるわけですが これは 筋だとか趣きが違うかも知れませんが ゴータマの流儀と同じだと見ました。

 極端な言い方をすれば 皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を断つのたぐいです。

 反対し不平を言ってくる場合や 要するに批判をしてくる場合に 相手を どこまでも飽くまでもウソでもいいから言わば《その掌の中を飛び回る孫悟空扱いをする》ということ。この手です。(単純なゴータマ・マジックとは ちょっと違っています)。


 ですから 結論に飛びましょう。
 ぷらぽたさんが 本心を見せるときまで わたしは沈黙します。

 この《孫悟空をてなづける釈迦》というイメージが本心の一端を見せているとすれば まいりました。完敗ですと申し上げて引き下がらざるを得ない。こういうわたしの偽らざる心です。
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この回答へのお礼

bragelonneさん、ほんとうにすみません。
文章が軽すぎるので、
このQ&Aサイトの他の質問でもときどき誤解を受けます。

>>人間の持ち得る最大限の幅において《佛教》に生きておられる。と見ました。

ついさきほど、回答番号11の「お礼」に書きました。
私は佛典に関しては、成立状況、記述内容、
ともに高い評価をしてゐません。
むしろここの回答者のみなさんの意見のほうが有益です。

>>いろいろな意見を聞きたいから質問をしてゐますので、
>>かういふ見解も大歓迎です。

文字どほりの意味です。
佛典の数は膨大で、相矛盾する内容はあまた存在します。
創作だらけ、ともいへます。

>>調子に乗つて、なんら根拠のない偽情報を掲載する現状には心を痛めます。

http://www.zennyuren.or.jp/chisiki/kentei/rekisi …
このページの「検定」問題は10題ですが、
「乳粥」の件以外にも、10問すべてにクレームをつけました。
いちばんひどいのは、
救世主キリストが、『滋養に富んだ大事な飲みものである』と、説いた飲みものとは?
答は「乳」で、解説を読むと、
「新約聖書では、救世主キリストが、乳について『滋養に富んだ大事な飲みものである』と、説いて歩いたと書かれています。 」
こんな馬鹿げた記述を私は読んだこともありませんし、
新約聖書には5回「乳」(ギリシャ語ガラ)がでてきますが、
そんなことは書かれてゐません。

ただし、私は聖書は好きですが、
キリスト教徒の狭量に見える部分は好みません。

お礼日時:2014/04/27 11:46

しまった。

前回の回答したサンスクリット文と英文があってませんでした。
すみません。今度は番号を確認したしあっているはず。

このように私の回答はいい加減なので、お気をつけ下さい。


tvagasthiśeṣo niḥśeṣairmedaḥpiśitaśoṇitaiḥ |
kṣīṇo 'pyakṣīṇagāṁbhīryaḥ samudra iva sa vyabhāt || 12.96 (12.99)

96. Having only skin and bone remaining, with his fat, flesh and blood entirely wasted, yet, though diminished, he still shone with undiminished grandeur like the ocean.


tasmādāhāramūlo 'yamupāya itiniścayaḥ |
asūrikaraṇe dhīraḥ kṛtvāmitamatirmatim || 12.104 (12.107)

104. Having thus resolved, ‘this means is based upon eating food,’ the wise seer of unbounded wisdom, having made up his mind to accept the continuance of life,
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この回答へのお礼

kazamidori365さんは律儀なのですね。
サンスクリットで読みたい人なら、
自分で判断できるとおもひます。
私もよく失敗しますが、
たいていは放置です。
正確さは必要ですよね、自戒です。

お礼日時:2014/04/27 10:37

私の記憶でも、釈尊の時代は苦行することで悟りが得られると信じられていたと覚えています。



食べたことがない料理の味が分からないように
自らが体験してみたことがないものを「こうだ」と決めつけることは
なにも得られるものがないですよね。

体験無しに語るのは自分の枠内の考えであり、悟りに至るという
自らを超えていくことに繋がるものではないと思います。

自らで体験し、自分の感覚を使い答えを求めるのであれば
自らでの確認作業として必要なものではないかと思います。

そして、釈尊が体験したことで苦行では至らないと証明されたからこそ
それが伝わり、今私たちが常識だと思っているのかもしれないと考えています。

天動説と地動説のようなものですね。
誰かが確認した事が広まれば、その説が根づいて一般常識になります。

自分の考えからのみ結論づけるのと、観察者として発見から結論づけるのは
天と地ほどの大きな違いが出る場合が、往々にしてあるのではないかと
私は考えています。

釈尊の行動によって苦行では悟れないと証明されたとして
その結論だけが大切なのではなく、自らの疑問は自らが体験をもって
その疑問の答えを導き出すことが大切なのだということが示されている。

そのために、そんな古い話しであろうと経緯が残されていて
今の私たちにも大いなるチャンスを手にする事ができるように
大切に引き継がれているのだと思う次第です。
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この回答へのお礼

kanto-iさん、ありがたうございました。
多数派に近いお考へのやうですね。
見解はほぼ一致してゐても、
それぞれに、心に訴へる名文があり、
ここに質問した甲斐がありました。
みなさん、簡明な説明をしてくださいますし。

>>自らの疑問は自らが体験をもって
>>その疑問の答えを導き出すことが大切なのだ
>>ということが示されている。

この逆説的な見方は、的を射てゐるとおもひます。
私自身は、佛典よりも、聖書のほうに魅力を感じます。

[例] 言ふだけで実行のともなはない人
『スッタニパータ』第二 小なる章 254
『新約聖書』マタイ伝23章3節
佛典では状況説明があるだけなのに、
聖書には対処法までしるされてゐます。

今回ただの物語にすぎない『ブッダチャリタ』の一節から
これほど有益なお話がきけるとは、
期待してをりませんでした。
書物は、読む人次第で価値が変る、
といふことを改めて知りました。

お礼日時:2014/04/27 11:17

ブッダ・チャリタは読んだことないです。



pdfも読めないと思いつつ眺めていたら

Anandajoti, Bhikkhuの名前を見るとは思いませんでした。
http://www.dhammawiki.com/index.php?title=Ananda …




たぶん、このサイトの人のはず。凄い人だと思います。
パーリ文とかサンスクリット文とか仏教のテキストがあります。
ブッダ・チャリタもありました。

Ancient Buddhist Texts
http://www.ancient-buddhist-texts.net/



ところで私はブッダの苦行は創作だと思います。
苦行しても体が壊れず、後遺症も残らないでその後、何十年も生きていけたのだから
苦行したとしても、その程度の苦行だったのでしょう。


それはそうと質問者さんが引用したのはこのあたりだと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


96. Having only skin and bone remaining, with his fat, flesh and blood entirely wasted, yet, though diminished, he still shone with undiminished grandeur like the ocean.

atha kaṣṭatapaḥspaṣṭavyarthakliṣṭatanurmuniḥ |
bhavabhīrurimāṁ cakre buddhiṁ buddhatvakāṁkṣayā || 12.97 (12.100)

http://www.ancient-buddhist-texts.net/Texts-and- …



104. Having thus resolved, ‘this means is based upon eating food,’ the wise seer of unbounded wisdom, having made up his mind to accept the continuance of life,

snāto nairaṁjanātīrāduttatāra śanaiḥ kṛśaḥ |
bhaktyāvanataśākhāgrairdattahastastaṭadrumaiḥ || 12.105 (12.108)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


この後、スジャーターが登場するのですが
スジャーターの名前は、ブッダ・チャリタだとNandabalāのようですね。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

9.南伝『ブッダ・チャリタ』では、彼女の名をNandabalāとする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B8% …

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

kazamidori365さん、丁寧なご回答ありがたうございました。

>>ブッダ・チャリタは読んだことないです。pdfも........

「哲学」カテゴリの過去のQ&Aに、
文献は原文を読まなければいけない、
といふ意見があつたので、URLを記しただけのことです。
ちなみに、私は日本語訳で読んで、
重要な箇所や、訳に疑問を感じる文があつたときにのみ
原文を参照する程度です。

>>ところで私はブッダの苦行は創作だと思います。

いろいろな意見を聞きたいから質問をしてゐますので、
かういふ見解も大歓迎です。
佛典の成立はどれも釈尊の時代からかなり経過してゐます。
回答番号4のbragelonneさんが最古といはれる『スッタニパータ』を
しばしば取り上げてをられるのは、きはめて正統な態度です。

>>苦行しても体が壊れず、
>>後遺症も残らないでその後、
>>何十年も生きていけたのだから
>>苦行したとしても、その程度の苦行だったのでしょう。

もっともな推察です。
このあと50年も旅を続けながら生きたわけですから。

>>それはそうと質問者さんが引用したのはこのあたりだと思います。

ごめんなさい。
kazamidori365さんの御指摘どほり、ローマ字表記のURLを示すべきですね。
みえをはつてデーバナーガリーにしました。
(私の性格が暴露されてしまひます。)

>>この後、スジャーターが登場するのですが

企業や業界団体が「スジャーター」をとほして、
佛教への関心をひろめてくれるのは好ましいことですが、
調子に乗つて、なんら根拠のない偽情報を掲載する現状には心を痛めます。

http://www.sujahta.co.jp/
http://www.sujahta.co.jp/item/sujahta/sujahta-hi …
ブッダが乳粥を食したとき、「おー醍醐味」と叫んだ文献など
皆無だとおもひます。

http://www.zennyuren.or.jp/chisiki/kentei/rekisi …
お釈迦さまが1杯の乳粥を飲んで悟りを開いたという「乳粥」とは?
答が「ヨーグルト」です。
可能性がないとはいへませんが、断定するのは無理でせう。

両者ともに私は文面でその旨通知したのですが、
1箇月以上経過しても返答すらありません。

*** *** *** *** ***

しつこいやうですが、bragelonneさん、
私は上記のとほり、意に反することは、はつきりと申し出ます。

お礼日時:2014/04/27 10:13

 No.6です。




 ご文章を読みまして これは ゴータマ級ですね。

 まいりました。これ以上は ほんとうのけんかになってしまいます。

 退散します。完全に負けました。

 ごきげんよう。

この回答への補足

もしかすると、回答番号7の「お礼」のことですか。

>>>>>「哲学では「合理諭」といふ用語をもちゐるのですね。」
>>>>あれ、変換でミスしたようです。
>>絶妙のタイミングで投稿してくださつて、感謝いたします。
>>回答番号6の「お礼」で勝手に引用しました。
>>これが、佛様の慈悲なのでせうか。

これもほんとうのことです。
「合理諭」を辞書を引いても掲載がないので、
ネットで検索すると、「大陸合理諭」といふ言葉がヒットしました。
こんな言葉があるんだ、あとから詳しく調べるつもりで就寝しました。

私の哲学知識はこんなものだといふ事例を示していただいたのでありがたい、
ただそれだけの話です。

補足日時:2014/04/27 08:40
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この回答へのお礼

お気を悪くなさらないでください。
何を根拠にさうおつしやるのか、わからないのですが、
私は一切偽りを記してをりません。

お礼日時:2014/04/27 08:18

こんにちは。


 苦行の先の精神状態について実体験として体感できたからなのではないでしょうか。はたから苦行者を見ただけではわからない現実の苦行後の精神の状態を。そして具体的に分かったそこからの推察によって苦行は意味がないという結論に至ったのではないかと思います。そうしなければあいまいな地点からのあいまいな批判しか展開できず、苦行のどこがどう具体的に悪いとまでは言い切れなかったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

suzumenokoxさん、おはやうございます。
基本的に、ほかの多数のかたがたと同意見と判断してよろしいでせうか。
ふだん、私の質問には回答数が少ないので、喜んでをります。
(いままでは最高で4件でした。)

>>そうしなければあいまいな地点からのあいまいな批判しか展開できず、

おつしやるとほりです。
これこそ私がしばしば犯すあやまちでもあります。
ご回答ありがたうございます。

お礼日時:2014/04/27 09:04

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と判断することができます。

 一方、私たちの判断のもととなる経験・体験、すなわち見たもの、聞いたもの、感じたもの、それ自体が、これまでに構築された客観世界においても説明不能な、今の私たちが想像もしていなかったような錯覚である、という可能性を100%捨てきることはできません。つまり、「絶対的真理」のようなものに届いた、と言い切ることは出来ないのです。
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Aベストアンサー

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Q精神の充足は 量なのか?

 (α) おいしくて体に良いものをほどほどに食べて 食欲が満たされたとき こころもいっしょに満たされるのではないのか?


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 よろしくどうぞ。


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 (α) おいしくて体に良いものをほどほどに食べて 食欲が満たされたとき こころもいっしょに満たされるのではないのか?


 (β) 仮りに心が満たされることは モノにかかわる感覚としての充足から切り離されると見たばあい その精神の充足というのは 果たして量であるのか?


 (γ) われわれ人間にとっての《食べ物》は 口に運ぶモノ一般を代表させて言うときの《パン》だけを言うのだろうか?

 
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なのですが、この《知足》という言葉が曲者。うがった見方をすると、《老子》じゃぁ、人は無知になれ、馬鹿になれ、為政者は愚民化政策をおし進めて民衆を馬鹿にしろ、ですんで。今の自分に満足しろ、自己満足をしろ。一種の自己欺瞞。そこからしあわせが生まれる。まぁ、実際、そうなんでしょうけれども、こうした考え方はどうなんですかね~。老子の《知足》とは少し違いますけれども、西洋では、エピキュロスがそのいい例ですし。
やっぱ、ここはゴータマ・ブッダの両の極端を避けて、その中を行くってのが大切ということなんでしょう。

「ほどほど」をその意味をとらえるとすれば、異論なしです。あくまで動物的感覚次元の話としてですけれども。
でも、この「ほどほどに」がムズカシイんだよな~。腹八分目では、やっぱもの足りない(笑い)。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 (β) 仮りに心が満たされることは モノにかかわる感覚としての充足から切り離されると見たばあい その精神の充足というのは 果たして量であるのか?
~~~~~~
この「量」はquantity、それともquality、どっちの意味でしょう?
眠り猫はquantityとqualityの両方が欲しいです。
bragelonneさんもきっとそうでしょう?
「いえいえ、わたくし、ぶらじゅろんぬは、ひたすらquantityのみを追求します」と言われたらどうしよう。。。。
ただ、qualtityの追求から、副産物として具体的に計測可能なquantityが発生することもあるので、そこのあたりは難しいですよね。とくに《こころ》においては。

《こころ》において計測可能なものがあるのか?
それは問わないでください。計測可能なquantity的なものくらいの意味に取っておいてください。概念間の新たな連関とか、上位概念から新たな下位概念の派生とか、新たな精神的な価値の創造とか。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 (γ) われわれ人間にとっての《食べ物》は 口に運ぶモノ一般を代表させて言うときの《パン》だけを言うのだろうか?
~~~~~~
動物的次元、欲求の世界、物質的な豊かさにのみ価値を見出す住人ならば、《食べもの》=《バン(に代表される物質的なもの)》。
知的好奇心にあふれる眠り猫は、NOです。時々は美味しいものを食べたいけれど、《パン》はあくまで生命をつなぐものと割りきって生きています。そして、飲食そのものよりも、その時の、隣り合う人とのワイワイガヤガヤや連帯感(?)といったものに価値を見出しております。
bragelonneさんとこうしたやりとりをするのもすごく楽しい!!
だからと言って、《食べもの》=《パン》の人を否定するつもりは毛頭ございません。ひと様に迷惑にならない範囲で、できたら、結果として他者に恩恵をもたらすという形でその道を邁進して欲しいと考えます。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
(δ) 仮りに別のパンがあるとして そのようなたましいの糧は けれども 何であるか? それが充足されるとは どういうことを言うのか?
~~~~~~
これはムズカシイ質問ですね。
僕なら、本で代表される知識でしょう、気心の知れた友達との絆と和気藹々でしょう、音楽や演劇などの芸術なども欲しい。特に、本とネットにつながれたコンピュータ、音楽がなければ、生きていけない。
もともと、物質欲強くないし、僕。
さりゃぁ~、人が何かいいものを持っていれば、「いいなぁ~、欲しいかも」とチョッピリくらいは思いますけれども。
でも、物質的なものは大切なんだけれども、そこに大きな価値を見出すと、物質や物質的な欲望の虜になっちゃうと思うし。

充足とは、精神的、物質的な欲求がquantity、qualityの両面でとりあえず一時的に満たされることでしょうね。で、問題は、その充足状態の持続(時間)ということになるのでしょう。
なんか、この回答は、(δ)の回答は全体を通して、エピキュロス的な答えだな。陳腐過ぎるかも、ポリポリ。
充足という感覚、primitiveな感情的な話だから、仕方ないか。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 (ε) 果たしてわれわれは いったい何を問い求め 得ようとしているのか?
~~~~~~
さぁ~。なんか、最近の日本の潮流を見ていると、《清貧》や《知足》、現実生活内での消極的《隠遁主義》ってことになるんでしょうかね。江戸時代が、ここ数年、静かなブームになっています。落語ファンも若い人を中心に増えていますし。

《清貧》にはちょっと憧れるのですが、やっぱ《貧乏》は嫌だな~。栄養がカロリー面、バランス面で十分だとしても、毎日、同じものを食べつづけるのは、ちょっと辛い。たまには美味しいものを心が満足行くまで食べるくらいのゆとりは欲しい。

まぁ、それでも、周囲の人がすべて《清貧》状態であれば、困っている人への譲り合いや分け合いの心が自然に芽生え、それはそれで困らない生活は送れるであろうし、そこから、人間本位のあらたな哲学や思想が生れてくるのだろうけれども。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
(ζ) それは 民族によって違うものなのか? 日本人とほかの国の人たちとで それぞれ欲するものに違いがあるか?
~~~~~~
これは環境的、文化的、生物学的な民族の遺伝的背景を考慮に入れないと議論をできないと思います。なのでパス。
ただ、同じであって欲しいと思います。そして、物質は大切だけれども、物質的なものに過剰なまでの価値をおかない、ということであって欲しいと思います。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 (η) 国際関係においてそれぞれの国の人びとにとって たましいの糧とは 何があるか? あるいは 無いか? われわれは その人たちをも含めた自分たち自身に対して どんな食べ物を用意できるか?
~~~~~~
そろそろ、地球が人類の飽くなき物質的欲求に答えられなくなっていると思うのですよ。いや、もう遅いかもしれない。逆戻りできないところまで地球を搾取し、回復不可能なまでの負荷を地球に与えたのかもしれない。
自然、地球、まぁ神みたいなものですわね~、に甘えすぎた。自然なる神を、人間の現象下で殺した、死なないまでも再び活動ができないまでの致命傷を与えた。
地球にダメージを与えたなんて、これもまた傲慢な、人間本位的の見方って奴なんですがね。そんなもの、地球にとって、ダメージでも何でもないんですがね。ただ、人間が自らの手で自分の棲息環境を悪化させたくらいの意味しかないんですけれど、本当のところは。

正直、百年後の地球の姿を考えると、人類はどうなっているんだろうと、空恐ろしささえ感じています。
資源の枯渇や地球温暖化によって環境が悪化し、資源や環境的によりよい土地、水を求めて、国家や民族間の凄惨な戦争を起こしているのではないか、などなど。それも世界規模で同時多発的に。
地球規模で《命の糧であるパン》の意味を真剣に考える時期にきているのではないかと。もう遅いのかもしれないのですけれども。
でなければ、人間は本当のオオカミになってしまう。眠り猫なんぞは、すぐに食べられてしまう!!

こんにはです。


今回は、哲学と言うよりも、世俗的道徳についての問題ということもあるのでしょうが、
量の意味が曖昧なように思えます。
ここでの量は質と量を併せ持っているのでしょうが、これではかみ合わない議論になる危険性があると思います。ある人は量に質を含ませ、またある人は「質を含まない量」を量として定義して議論をするので。
ここは、quantity(量)とquality(質)と分けて考えるべきではないでしょうか。
もちろん、qualityは比較級的な量の概念を含んでいます。また、人間においては、quan...続きを読む

Q無の境地とは、仮面ライダーのど根性だ。

今回は、
「私のうる喧嘩を買ってください」
と、言う実験です。

前回↓
無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。
http://okwave.jp/qa/q8458873.html

重要なキーワードはコレ↓

君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。
私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。
したがって一切が無である。



これで満足しているのなら、語らない事こそ無であるとダンマリを決め込んで仙人みたいな生涯を終えればそれで済んだでしょう。
そこで無を広めるとはいかなる釈迦の心情であったのか分析していこうと思います。
おそらく、

他者からの、お前の神を明らかにして見せよ、という問いに。
それを答えるに、無である。

このように素直に答えるだけでなく、

釈迦自らが意地悪をして、他者に対して、お前の神を明らかにして見せよ、と問い。
答える相手に対して、現在も息づく仏教特有の否定の哲学を持ってたたみかけ、
そら見ろやはりお前の神は無ではないか。ウケケケケ。

こういう悪さを積極的に行う仮面ライダーであったと推測します。

すなわち私のみが神に到達した仏陀だ、お前らは娑婆地獄を這いつくばる虫けらだ。
お前らが神に到達せず、死に切れもしないで六道をさまよう事で、私は自らの高みを自覚するのだよ。
このように今の私と同じだろうと考えます。

今回の質問は論理に対する返答を期待しておらず、ここから直接思考実験をしたいと思います。
すなわち歓迎する回答は、
あなた自身の神を明かす回答です。
私はそれを、そーら見ろ無ではないか。
ウケケケケ
と誘導するつもりです。
すなわち体裁上喧嘩を売ることになりますが、釈迦を検証する上で有意義な考察になるでしょう。
削除の対象になるほどのことはやめて、仮面ライダーなりの紳士的な哲学バトルにしようかと考えますのでよろしくお願いします。

今回は、
「私のうる喧嘩を買ってください」
と、言う実験です。

前回↓
無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。
http://okwave.jp/qa/q8458873.html

重要なキーワードはコレ↓

君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。
私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。
したがって一切が無である。



これで満足しているのなら、語らない事こそ無であるとダンマリを決め込んで仙人みたいな生涯を終えればそれで済んだでしょう。
そこで無を広めるとはいかなる釈迦の心情であったのか分析...続きを読む

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>哲学はどうした。

 あなたがそれを言うということは、問答は失敗したようですね。まあでも楽しめました。

Q捨ててこそ、無の境地である。

ほとんど前回と同じ質問で、前回は↓
無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8527407.html

無を捨ててこそ無を悟れる。
この手の言い回しはありがたい本などによく出てくる解りにくい論理だ。
仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり、哲学だと言う事になっているが、
よろしい。
私が教えてあげよう。

無である事こそ人として生きる全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。
これだけだと、望みではないのだよ。
誰かから聞いた事を自らの望みだと解釈しているだけだ。
ここで、他者の意思からではなく、自らの心として無を望めば、無の境地に至る。
すなわち、現在の教えられた無を望む心を捨て、、新たに自らが無を望むのだ。
その完成は、自らの信仰心にたどりつく事であり、他者からそそのかされて、教えを後生大事に携えることではない。
そのようにして、今の自分を捨てることで、本来の自分を自覚する。
これでなぞなぞみたいな、旧来の論理の解説は終わっているぞ。
仏教は哲学であるとうのぼれ、至高の教えで世界宗教であるとうのぼれ、それでいて従来はこんな単純な解釈も出来ていなかった。
全く哲学になっていなかった。
自称弥勒菩薩の私が今初めて解き明かしたのだ。

さて、感想文でいいから研究をさらに進めるため、意見してくれたまえ。

ほとんど前回と同じ質問で、前回は↓
無の悟りとは、そもそも無を捨てることだ。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8527407.html

無を捨ててこそ無を悟れる。
この手の言い回しはありがたい本などによく出てくる解りにくい論理だ。
仏教ではこの手のばか丸出しがありがたい教えであり、哲学だと言う事になっているが、
よろしい。
私が教えてあげよう。

無である事こそ人として生きる全てだと教えられ、無に至る事こそ信仰だと教えられ、そして無を望む。
これだけだと、望みではないのだよ。
誰かから聞いた事を自ら...続きを読む

Aベストアンサー

 こんにちは。


 問題は なんのために
 ★ 無の境地に至る
 ☆ のか? ではないでしょうか。

 ここでは 残念ながら ほかの人とのカカワリ(あるいは 実際のマジワリ)については捨象されています。むろんそれは 一般的な内容をあつかうための推論を遂行する上で抽象しているのでしょうが それだけだとも思えない。

 あたかもおのれの主観がその内面において言わば完結しているというかのごとく 内向きである。と見ざるを得ないのですが どうでしょうか?

 つまりは 推論の過程を問うよりも 主題においての目の向かう方向が 次のようにやはり自己内面にとどまっていることに問題を見ます。
 ★ その完成は、自らの信仰心にたどりつく事であり、他者からそそのかされて、教えを後生大事に携えることではない。

 短絡して批判すれば
 ★ 自らの信仰心にたどりつく / 本来の自分を自覚する
 ☆ ことのあとが 問題なのではないでしょうか?





 いえいえ。じつは 《本来の自分を自覚し 自らの信仰心にたどりつく》ことは じつに・じつに 他者とのマジワリをつうじて その社会という交通(コミュニケーション)のあり方を問い求め 果ては そもそも存在どうしの関係(カカワリ)とはどういうことかを問い求める道において出会うこと。なのではないか?

 特には おのれの・そして同時に相手のそれぞれの意志を どう受け留めどうそれにこたえるか? この問い求めをあゆむ道筋において わたしたちはおのれの神に出会うのではないだろうか。わたしとあなたとのカカワリ――それは動態――をとおして それぞれおのれの神に出会うのではないか。


 無は 捨てても拾っても 煮ても焼いても いかように扱っても構わない。そうではなく 他者との意思疎通とそれによる共生 これが 問われます。
 そのつどの場と時とが すべてだとも言えるのではあるまいか。

 こんにちは。


 問題は なんのために
 ★ 無の境地に至る
 ☆ のか? ではないでしょうか。

 ここでは 残念ながら ほかの人とのカカワリ(あるいは 実際のマジワリ)については捨象されています。むろんそれは 一般的な内容をあつかうための推論を遂行する上で抽象しているのでしょうが それだけだとも思えない。

 あたかもおのれの主観がその内面において言わば完結しているというかのごとく 内向きである。と見ざるを得ないのですが どうでしょうか?

 つまりは 推論の過程を問うよりも ...続きを読む

Q《自己の精神的充足》は 《利己》ではないですか?

 ( あ ) 《自己の精神的充足》は どうして《利己》ではないのですか?

  (あー1) 長い目で見てにしろ・わざとではないにしろ 自己の精神的充足が自己の利益をおもんぱかることとは無縁だという場合 その事例や根拠はありますか?

 (い)  《他人の喜びをみづからの喜びとする》のは 自己満足という利己ではないですか?

  (いー1) それとも 自己が欲しいものを手に入れて満足するというコトは いけないことなのですか? 

  (いー2) 《利己》がなくて 人間の社会的行為は成り立ちますか?

 (う)  《助け合い》は  《利己》ではないですか? 相互利己ではないですか?

  (うー1) もし利己だけではなく 《利他》もあると言おうと思うなら それは わづかにその手助けの行為について相手に おこなってもよいかと問うて その同意や了解を得ているときに 自己の満足(自己のよろこび)とともに味わう共同作業のよろこびのことではないですか?

  (う-2) すなわち 困ったときはお互いさまということであって それが 基本であると考えられます。つまりそのとき――利己だけではないとしても――ことさら 《利他》を《主張》しうる事態でもないでしょう。

  (うー3) 仮りに利己心のほかに人には 利他心があるとします。そうしますと それにしても 利己心としての満足(よろこび)と利他心が満たされたという満足(よろこび)とで どういう違いがありますか?
  
  (うー4) どちらも《主観》というつねに自己閉鎖的になりがちな意志と心との思いであって どこかに《利他の神による報いに浴することが出来た》とでも言うような・特別の――利己心とは別の――栄光がありますか?

  (うー5) もし仮りにその利他心の充足には 特別なかたちで満ちたりて行く心の思いとその栄光があるとしたら それは 《自己満足を得て 利己心が満たされたこと》とどう違いますか?

  (うー6) つまり ワタシの利己心からおこなう社会的行為――経済活動など――によって社会がわづかにでも利益を得るように成ること これはあると考えられますが そのときの《心のよろこび》とどう違いますか?

 ( あ ) 《自己の精神的充足》は どうして《利己》ではないのですか?

  (あー1) 長い目で見てにしろ・わざとではないにしろ 自己の精神的充足が自己の利益をおもんぱかることとは無縁だという場合 その事例や根拠はありますか?

 (い)  《他人の喜びをみづからの喜びとする》のは 自己満足という利己ではないですか?

  (いー1) それとも 自己が欲しいものを手に入れて満足するというコトは いけないことなのですか? 

  (いー2) 《利己》がなくて 人間の社会的行為は成...続きを読む

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こんにちはです。



☆( あ ) 《自己の精神的充足》は どうして《利己》ではないのですか?
◇《自己の精神的充足》は、己れを利するのですから、《利己》です。
《利己》的な心が動機となり、その結果として《自己の精神充足》が発生するとは限りませんが。
また、
《自己の精神的充足》を得られない場合でも、《利己》はありえるのでしょう。
したがって、
 《自己の精神的充足》→《利己》
は成立しますけれども、
 《利己》→《自己の精神的充足》
は成立しないものと考えられます。



☆(い)《他人の喜びをみづからの喜びとする》のは 自己満足という利己ではないですか?
◇《他人の喜びをみづからの喜びとする》のは 自己満足という利己なのでしょう。
他人を自己と同一視、もしくは他者を自己に、自己を他者に投影しているのでしょう。
《共感》といっていいのかもしれません。



☆(いー1) それとも 自己が欲しいものを手に入れて満足するというコトは いけないことなのですか?
◇これは認められません。これを認めると、《盗み》を認めることになるので。
もっとも、《盗み》は許される、ということをすべてのヒトが同意するのであれば、まぁ、これもありなのでしょうけれど。



☆(いー2) 《利己》がなくて 人間の社会的行為は成り立ちますか?
◇可能性としてはありえる、と思います。
しかし、実際は、これは成立しないでしょう。
何かがこちらに向かって飛んでくるときに目をつぶるなどの反射的行動すら、自己を守るためにあります。
無反省な習慣的行為も、利己的なものなのでしょう。
 快感原則、現実原則のどちらかを満足させている。
そして、有意志的な行為・行動のほとんどは、何らかの形で《利己》に基づいています。自己に何ら利益をもたらさない場合、ヒトは行動を起こさないと思いますよ。



☆(う)《助け合い》は《利己》ではないですか? 相互利己ではないですか?
◇《助け合い》は《利己》であり、《相互利己》なのでしょう。
メスのライオンが群れで狩りを行うのは、その群れのためではなく、あくまで自分自身のためです。群れで狩りをした方が、狩りの成功率が上がり、結果、受け取る分け前が多くなるからです。そして、これは群れのメンバーすべてに当てはまり、結果、他者の利益になる。
と思ったのですが、
これは
 《利己》→《助け合い》
の構図の一例を示しただけか。。。
いやいや、そうではないな。
《助け合い》は、《利己》を目的としているのだから、
《助け合い》は《利己》であり、《相互利己》であると言っていいはずだ!!
きっと、そうだ!!



☆(うー1) もし利己だけではなく 《利他》もあると言おうと思うなら それは わづかにその手助けの行為について相手に おこなってもよいかと問うて その同意や了解を得ているときに 自己の満足(自己のよろこび)とともに味わう共同作業のよろこびのことではないですか?
◇必ずしも、同意や了解を前提にしていない。
烏合の衆のごとき、漠然とした期待、何かもらえるかもしれない、という期待感でも十分でしょう。
烏合の衆のことですから、その後、分け前を巡って騒動を引き起こすかもしれませんが。
その騒動を未然に防止するために、同意や了解があった方がいいのでしょうね。



☆(う-2) すなわち 困ったときはお互いさまということであって それが 基本であると考えられます。つまりそのとき――利己だけではないとしても――ことさら 《利他》を《主張》しうる事態でもないでしょう。
◇「情けは人の為ならず」で十分でしょう。
「困ったときはお互いさま」には、「わたしが困った時には、あなたはわたしを助けなければならない」という暗黙のオキテがすでに含まれているので。
《利他即自利》、《利他自利不一不二》ですよ、大乗ブディズムは!!
《利他》のみを強調するのは、大乗ブディズムではない!!



☆(うー3) 仮りに利己心のほかに人には 利他心があるとします。そうしますと それにしても 利己心としての満足(よろこび)と利他心が満たされたという満足(よろこび)とで どういう違いがありますか?
◇現象としての現われとしては、違った様相をみせることはあるでしょうけれども、源は《利己心》なのでしょう。違いは、それが《利己》に基づいていることを自覚するか否か、なのではないでしょうか。



☆(うー4) どちらも《主観》というつねに自己閉鎖的になりがちな意志と心との思いであって どこかに《利他の神による報いに浴することが出来た》とでも言うような・特別の――利己心とは別の――栄光がありますか?
◇たぶん、この現象的で有意識的な世界においては、そのようなものはないのでしょう。



☆(うー5) もし仮りにその利他心の充足には 特別なかたちで満ちたりて行く心の思いとその栄光があるとしたら それは 《自己満足を得て 利己心が満たされたこと》とどう違いますか?
◇これは神さま次元の話ですよね~。
この次元においては、自己満足や利己心などは消滅しているのではないでしょうか。おそらく、この次元では、慈悲や愛といった人間的な感情すら存在していないのではなかろうかと。。。
ただ無差別に一方的に与えるだけなのかな。。。



☆(うー6)つまり ワタシの利己心からおこなう社会的行為――経済活動など――によって社会がわづかにでも利益を得るように成ること これはあると考えられますが そのときの《心のよろこび》とどう違いますか?
◇《心のよろこび》なので主観でしょっ。
そもそも《よろこび》に質の違いがあるのだろうか???
快感みたいなものですから、あるとすれば、量の違い、強さの違いではなかろうかと。
自己と他者を同一視することができれば、それだけ、《よろこび》が増える。
他者の《よろこび》を自分の《よろこび》と感じられるので。
結構なことではないですか

そして、それでヨロシイのではと。

「そもそも、自利と利他を分けてはいけない、分けて考えるべきではない」と思いますが、
わたし。


PS
《バカの飲み薬》の《三倍返しの副作用》で頭がイ・タ・イ!!
そして、今夜も《バカの飲む薬》を飲まなければいけない。
飲んだ勢いで、お店のお姉ちゃんと約束してしまったもんな。
約束は守らなければならない。
この身を犠牲にしても、この契約を実行しなければならない。
これは、《自己犠牲》による、《献身》なのであろ~か(笑)。
きっと。そうだ。
ここにもっとも純粋な愛の形があるに違いない!!
(笑い)。

こんにちはです。



☆( あ ) 《自己の精神的充足》は どうして《利己》ではないのですか?
◇《自己の精神的充足》は、己れを利するのですから、《利己》です。
《利己》的な心が動機となり、その結果として《自己の精神充足》が発生するとは限りませんが。
また、
《自己の精神的充足》を得られない場合でも、《利己》はありえるのでしょう。
したがって、
 《自己の精神的充足》→《利己》
は成立しますけれども、
 《利己》→《自己の精神的充足》
は成立しないものと考えられます。



☆(い)《他人の喜...続きを読む


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