いちばん失敗した人決定戦

世界中で悲鳴が上がっています

実際に殺される人や事故で死ぬ人、自殺する人もいます。

宗教もありますが 今の世の中宗教だけでは救われない気がしませんか?

哲学は社会の役に立てるか 人の命を救えるか?

ここに来る人なら一度はその様な事を考えた事があるのではないでしょうか

哲学は人間の命を救う力があるのでしょうか?それとも無用の長物に終わってしまうのでしょうか?

もしよかったら あなたのご意見をお聞かせ下さい。少しでも可能性があれば・・・

A 回答 (13件中1~10件)

わたくしこと、いつも早合点したり、単純化しすぎたりする癖がありますので、話し半分で聞いていただいて結構なのですが、以前どこかで書かせてもらったとおり、学問としての科学が価値観を持たず、したがって人間のしあわせなどとは無関係に暴走する状況が見られるのとは正反対に、近代哲学においては価値観の転換が決定的に人間の側へもたらされたとおり、人間の人間による人間のための価値観の探求という大きな目的となりました。

つまり哲学とは「善の研究」そのものであり。善い、良い、好い、佳い というあわおどり的酔いの感覚がしわわせ生命(よくいきること)にごく近いものである以上、哲学は人の命を救う力は充分にあるといえます。簡単ですが一言申し上げました。
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この回答へのお礼

>善い、良い、好い、佳い というあわおどり的酔いの感覚がしわわせ生命(よくいきること)にごく近いものである

善の研究に興味が向きました 西田幾太郎でしたっけ?

善く生きること、体に良い事、好きな事をやれる事、優れて佳いこと

良いですねえ^^哲学は善い事を研究して人を救う

その前向きな考えで生きたいですね。素晴らしい。

どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/29 23:06

スルーされてしまっているようですね。


自分がお節介だとは知っています。

ただ、人は理想を語りその理想を高く高く掲げて自分が動かないと
段々と内面が壊れて行くようにできています。

よく宗教家がおかしな方向へ走りだし、訳が分からないことを言い出し
奇異な行動や、見えなくていいものが見たり聞こえたりするようになるのは
理想を自分で実現させていかず、人にやらせることを続けるからです。

誰でも自分の足元を固めず、理想だけ掲げて口だけに酔い
それに終始すれば、内面から崩壊して行くという罠にかかります。

yuniko99さんがいい人だけに、何度も行動をと言い続けきたのですが
あなたが崩壊するのは見たくなく、分かって貰えるかと、これを最後と思いかなり辛口にしました。

これ以上は、お節介しません。
失礼します。
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「命を救う」とは、どういう意味だ?


人は、長く命を永らえる事が目的なのか?
人の生きる真の目的は、人生を通算した充足量の
最大化であって、物質的豊かさでもなければ、
単なる寿命の長さでもない。
その「人生を通算した充足量の最大化」を構成する
のは、「認識の深まり×そこに描く意志のベクトルの
大きさ×その達成度×その感受性×寿命」なのだ。

哲学=認識の深まりは、第一項の環境認識=意識
の深まりとして直接寄与するだけでなく、意志のベク
トルの大きさにおいても、人生を通算する中で分断し
たり矛盾したりしない最長のビジョンにおける意志を
抱き得、またその「最長のビジョン」によって最高の
社会性(分業=助け合いとしての社会)を実現する。
もちろん、そこにおける自律的社会行動は、最大の
社会貢献=最長の生存可能性における完全なる
充足を成し、「人生を通算した充足量の最大化」を
可能にするのだ。

哲学=環境認識の深まりのない、体制や常識に
流され、他律的に生かされる無思想な歯車人生が
いかに「命を永らえ」ようと、「充足量の最大化」どこ
ろか、希薄な意識×苦痛から逃げるので精一杯の、
死人に近い生だ。
オマエはもう(半分)死んでいる!
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この世に生まれた者は皆、死を免れることはできません。

従って哲学によって人間の命を救うことはできません。ニーチェは狂死、ソクラテスは毒死、お釈迦様は食中毒死、イエスに至っては死刑です。人の生き方や死に様には、善悪も良否もありません。
ただこの世は苦に満たされていることは事実です。この世から苦を取り去ることはできません。
息を吸い続けてごらんなさい。どこかで苦しくなって息を吐きたくなるでしょう?息を吐き続けてごらんなさい。どこかで苦しくなって息を吸いたくなるでしょう?動物は、息をすることが楽しいから息をしているのではありません。息をしないと苦しいから息をしているのです。
死は、ブラフマンの内でおこる波動の変化のひとつに過ぎません。生という波が死という波に変化しただけなのです。生命に執着する心から離れ、死を恐れない境地に至ることでしか真のやすらぎを得ることはできません。
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この回答へのお礼

境地というのは精神の問題ですね。

精神は存在を意志しないのでしょうか?

死を意志して死ぬ人もあれば 存在する事を意志して生きる人もある。

その生きた人が存続し未来に存在し今在るのです

死んでしまったら生命・人間の永々たる努力が台無しです

せいもしも同じようなものだと 子供を亡くした親に言えるでしょうか?

自分が死ねるでしょうか?

私も死にたいと思ったことは何度もありますが そうそう死ねるものではありません

こう書くとなにか一言ありそうですが

生きてること、存在することは非常に大事なことなんです。

苦しくても生きていればいつか苦しくなくなるかもしれない

生きることも大変ですが 死ぬのは嫌だという人が進化してきたのが今の人間です。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2014/04/30 20:08

哲学は、十分に可能性があると思います。



ただ哲学には使い方があって、個々がまずその理論を実践する行動に移し
それをやり続ける事で、理論に血肉が通います。

理論は、理論だけなら絵に描いた餅に過ぎません。
誰の腹を満たすこともなく、飾った絵を眺めて自己満足に耽るか
額縁ごと振り回して、周りの誰かを傷つける武器として使うか程度に収まってしまいます。

個がそれぞれに自ら実践して日常に活かし、血肉が通う理論が
一般に広まれば、擁立されるような人を徐々に輩出することに繋がると思います。

絵に描いた餅に酔い続けるか、食べれる餅を手にし分かち合って生きる道を選ぶか。

それは、特別に活動している人達云々の話しではなく
ごく一般として生きている私達一人一人の肩にかっているものだと思います。

血肉の通う理論実践者が増え、その人達が語ることもやって行けば
世の中は、確実に良い方向へ向かうことができる。
それが哲学にはあると思います。
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 見当はずれな意見になるやも知れませんが、私は宗教と哲学はあまりかけ離れたものとは思いません。



 宗教の多くは弱者救済の為と言う要素が強いですよね。その為に殆ど自然発生したモノです。神と言う偶像を作り、あるいは人を神聖化させ崇めます。絶対的なものが存在する疑いのないものです。
 一方で哲学はもっとマクロで弱者救済の為の哲学もありますし、疑う事自体がそれのこともあります。過ちを犯す神聖化されていない実際の他者、そしてそれを考える自分自身が哲学ではないでしょうか。

 そして『哲学』と言う言葉は酷く曖昧な線引きです。例えばどっかの社長が唱える経営哲学も、どこかの苦労人が語る人生観もまた一つ立派な哲学だと思います。不在の神にすべてを委ねるか、実際の他者や自身の信念に身を委ねるか。両者の違いはそのくらいだと思います。
 哲学は決して無用の長物ではないと思いますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。私もそう思います。

神を信じる人 仏を信じる人 宗教を信じない人

日本ではどれくらいの率なんでしょうねえ

神仏を信じて幸せになれるなら信じたいですが

神も仏もあるものか と言う人も多いですねえ。

哲学は進歩しますから宗教よりも時代に合わせる可能性はあると思うのですが・・・

哲学を語る人は少ないですねえ

どうも大変ありがとうございます。。

お礼日時:2014/04/29 17:50

 こんにちは。


 長いですが。




 いくらか自虐的で俗っぽい言い方をした場合 哲学は おんなをはらませることすら出来ない というのが 相場〔だった〕らしいです。

 けっきょくのところ 哲学は 《共同自治において社会の役に立てる施策》や《医学のようにひとの命をすくう学問》やの基礎となる研究であり 思索一般としてのいとなみです。

 すでに政治経済学〔の実践〕が社会を運営し 医療が人命を救い健康学〔とその実践〕を打ち立てているところでは 哲学はあまりにも迂遠すぎて《無用の長物》と見なされがちでしょうね。

 
 もっとも何ごとも 基礎や基本は 大事です。

 そのように 何よりももっとも遠回りしながらささやかにでも世の中に貢献しようとする心がまえではいるはずです。迂回生産ですね。魚を素手で取ろうとしたとき 網や銛を考案するといったそれです。



 



 あるいは いまひとつ別の考え方も 可能であるかも知れません。

 すなわち 哲学は けっきょくまだまだ直接的な社会への寄与は むつかしいわけですが それでもその思惟ないし世界認識において 少しでも歴史の中にここまでに到った現在・現状におけるわたし〔たち〕の位置関係 これが分かるならば それとして自己了解ができる。かと思われます。

 たとえばそのためにわたしは: 

 現実の社会は 国家として二階建てであるとか
 ――《アマテラス公民圏(主導)‐ スサノヲ市民社会(従属)》なる二階建て構造における連関制といったように―― 

 あるいは 
 この《 A - S 連関制》が けっきょく職場や学校や あろうことか 家庭内にまで そのミニアチュア版を築くに到っているのではないかとか

 こういった《わが哲学》を考えて来ています。
 この A - S 連関は けっきょく身の周りの現実としては

  《ガミガミ電波( A )‐アース役( S )連関》

 といった上下関係となって現象している。それは あたかも二階建てになっている。といった哲学を考えました。

 少しでもそれによって いま・ここなるわたしが この現実に立っているわたしみづからをそこにまとわりついた夾雑物を取り除いたすがたで了解しうるようにという目的のもとにあります。

 あぁ それにしてもアース役はつらいよ けっこう毛だらけ猫灰だらけ・・・ってちょっと言ってみるのも みづからが自己をすくうよすがになるかなと思ってのことです。







 あとは 共生と言い共同自治と言い 社会的動物と言い 問題は 人と人との関係・またつながりにあるのでしょうね。

 きらいな人については おれはアイツが嫌いだとまづはっきり認識して あとは 人間どうしの互いのとうとびのもとに 市民でありかつ公民でもあるという存在として ふつうにつき合いをおこなう。

 あそこでアース役( S' )だったおれが ここではガミガミ役( A' )になっているといった姿に気づいておどろくというような現実もあるかも知れません。
 市民( S )たる人は そのままお二階に上がっていなくとも ふつうに一人の公民( A )でもあります。

 こういった現実存在のありさまやあり方をしっかりと捉えて 生きる。自由に生きるべく生きる。
 そういった思索の成果を 互いに語り合う。

 哲学ないしこの哲学カテは そういういとなみであり場であるのではないでしょうか。





 宗教は ダメです。麻薬も 一時的な痛み止めとして使うことがあると言うかも知れませんが それなら 個人としてその主観の内で 神頼みをすればよいだけです。宗教は 人間をきちがいにします。とてつもなく酷いことを何でもやってしまうようになるか さもなければ まったく押し黙ったまま自分の殻に閉じこもって余計なことはまったく何もしないようになるか。いづれか一方の極端へと走らせます。
 日本人は 後者です。それは かのにっくきゴータマの所為です。前者は前者で 問題ですが。
  
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この回答へのお礼

成る程 ガミガミ役とアース役ですか

哲学を友と語り合う日が来ればいいですねえ

僕は友達に自分の哲学を語ることはありません

本は買ってもらったけど 押し売りは出来ません

宗教も素朴なうちはいいと思うのですが 狂信的になると

薬は毒だとか この世が滅びるとか 視認が蘇って、天から声が聞こえるとか

よく分からない事を言い出すので困りますねえ

貴方は確かインタムライズムを提唱してる人ですよね

どういう考えを持ってるか聞きたいですねえ

始めるのは難しいですが 始まれば有益な考えだと思うのですが

始まらないことが多いです エスペラント語のように(^^ゞ

宗教に恨みはないですが 哲学を語りたいですねえ

長文は苦手ですが 読みやすかったです

どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/29 18:10

考える葦として生きるならば、哲学は人を救っているでしょう。

ただ、生存のみを追求するならば、哲学は補助的な意味しかないように思います。
生きるということはどういうことか、という点の理解の相違に従って、この問いの答えは変わってくると思います。
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この回答へのお礼

考える葦として生きることが 生存には繋がらない 過酷な状況もありますからね

その時は無力ですよね

しかし哲学がなかったら 科学だけでは世界は平和で豊かにはならないのではないかと思います。

微妙な点はよくは分かりませんが 私は生存ずる為に哲学が役に立つ時が来ないかと思っています。

どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/29 17:41

yuniko99様、こんばんは。




yuniko99様の中では、
「宗教>哲学」なのですか
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この回答へのお礼

こんばんは^^クリナルさん

僕は宗教を信じたことはないですが

信仰の厚い人は宗教>哲学 でしょうね。

僕は宗教哲学も、もっと発展性を持って進化してくれと思うばかりです。

しかし中学生の頃は おんころころせんだりまとうぎそはか を

素朴に拝んでいました^^

どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/29 17:53

麻薬を求めて、苦しさから逃れようと更に苦しみに溺れる人間がいます。



車で過剰なスピードを求めて、命を削る楽しみに溺れる人間がいます。

生きる苦しみから解放されようと、死の苦しみを選ぶ人間がいます。


そして自分の存在の苦しさから、学びに溺れる人間がいます。


医学も科学も数学も、幸せを生むと同時に苦しみも生み出しました。

結局は、使い方次第です。

哲学も刃物と同様でしょう。
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この回答へのお礼

そうですね 哲学も科学も刃物と同じ 使い様ですねえ。

ただ僕は今までの哲学が人権という考えを生み、三権分立とか

三権分立 民主主義 果ては仏教も義理人情も福祉も

元々は何らかの哲学の産物なのでは、と思うのです。

哲学には新しい時代を平和に活力のあるものに開く責任があるのでは と思うのです。

共産主義はちょっと考えものですが 暴力革命がまずかったですねえ。

どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2014/04/28 21:30

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