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論文などを読んでいると、哲学に限らず文学などの場合でも「存在論的○○」「存在論的な××」という言い回しが出てきます。
が、どうにもこれがピンときません。
「存在論」という言葉については調べれば一応の説明があるわけですが、「存在論的」と表現されると「存在論」を調べて出て来る諸説明と文脈とが自分の中で繋がらず理解ができなくて困っています。

人によって使用意図が異なる場合もあるとは思うのですが、例えば「存在論的意識」というような表現がされた場合、どういう意味なのかということについてご説明いただけませんでしょうか。
回答よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

こんばんは


現代の哲学文献、または数理哲学の文献には、よく「オントロジー的」という言葉が使われています。これはギリシャ哲学の存在論とは違って、情報科学的な「オントロジー」という意味で使われます。情報科学では
「概念化の明示的な仕様」
という意味です。
もしこの方向で意味が通じるなら、ウィキペディアで「オントロジー」または「オントロジー(情報科学)」を調べてみるのがよいでしょう。
私自身もすこし疑問に感じていましたが、カント的な解釈をしていました。ただし、それが正しいかどうか分かりませんので、ご自身で上のページをお調べください。
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 こんにちは。



 西欧哲学史をやぶにらみしますと:

 《ものごとがある。ひとがいる》という場合

  ○ 《存在するもの》と《存在そのもの》

 とを分けて捉えるようです。そして 後者の《存在》は 前者の《存在者》のみなもとであると考えられているようです。

 早く言えば 《存在》は 神のことです。

 




 少しややこしいことには 《存在》を 《知覚によらず認識されるもの》というような規定をするばあいがあり この場合には 《認識》が 思考のもんだいであるのですから 《存在》が 経験事象として《存在するもの(ものごと)》にひとしいことにもなります。

 これは 矛盾です。

 神は 人間によって認識され得るのなら ただの概念であり観念であるとなりますから。そんなものは おもちゃの神です。想像の産物でしかない。





 
 神は すでに結論づけるとしますと 《人間の思考や認識なる能力によっては――また感性によっても―― 知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ》を言います。

 知り得たなら 先ほどの人間のつくったおもちゃの神です。知り得ないと知り得た場合は 《不可知》と言います。それは 経験事象に属します。



 

 したがって 《存在論》という場合 ふたつの行き方があり得ます。

 ひとつは 存在=神と見る行き方として けっきょく神学となる場合です。

 ひとつは 存在=神なるナゾを《非知》として あとは 感性の原野と理性の緑野から成る《身と心なる人間存在(つまり この場合は 存在者のこと)》について 経験思考にもとづき人間・社会・世界を考え生きる哲学をすすめる場合です。

 後者は 一般に《実存》思想と呼ばれます。《現実存在》のあり方を ひとりの人間としてその意志行為において そのつど――限りある判断材料にもとづきつつ――よき判断を成し実践するという行き方です。
 (この場合 《想像の産物たるおもちゃの神を それは観念に過ぎないとして しりぞけているという利便があります。《実存は 本質に先行する》)。





 ★ 例えば「存在論的意識」というような表現がされた場合、どういう意味なのか
 ☆ ふつうは 《実存思想》のもとにそういった《意識――現実認識――》が捉えられると思います。

 ただし 場合によっては 《非知》なる神について――それでも その神を受け容れたわが心なる非思考の庭から ヒラメキを得てのごとく―― ヒラメキをつうじて思考内容としても・つまりは神学が得られると想定するなら そのような神学からさらにふつうに経験合理性に合わせた思考内容というかたちにおいて(つまり 思想として) 存在論的意識が成り立つ。とも考えられて来ます。

 けっきょくいづれの場合にも ほとんど同じ経験思想としての《存在論的意識》となって表わされます。つまり 中身がいかなるものであるにせよ 互いに同じ土俵の上での話し合いが成り立ちます。
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昔は「存在論的」ではなく、「形而上学的」と言っていました。


たぶん、ハイデガーの「存在と時間」から、「存在的」と「存在論的」を区別して使うようになったのです。
カントの「超越的」と「超越論的」にも似ています。
カントも昔は「超越論的」を「先験的」と訳していました。
フッサールを「先験的」に代えて「超越論的」と訳すようになって、カントも最近は「超越論的」と訳すようになりました。
要するに日本語に訳すときの都合だということです。

ハイデガーが「存在的」と「存在論的」を区別しているときは、「存在的」とは経験的という意味で、「存在論的」とは、その経験を成り立たせている根拠とか条件という意味。
つまり、存在者を存在者たらしめている根源に向かって遡行し、その成立の条件を見出そうとするもの、それが「存在論的」。

古代ギリシャに「存在論」というのがありましたが、アリストテレスは「存在者としての存在者である限りの存在者の全体」を論じるのが、「存在論」と言っていました。
簡単にいうと、存在するものの全体を問題にするのが「存在論」と考えていたわけで、カントやハイデガーのいう意味の「超越論的」とも「存在論的」とも意味が違います。

近代の「存在論」は人間の主体性とか、自我の存在を前提にして、それから世界を考えて行こうとするもので、古代ギリシャにはそんな近代の主体性なんてないのだから、両者の「存在論」が違うのも当然と言えば当然です。
ハイデガーの「存在論」はフッサールの超越論的主観性を背景にして言っているので、古代の「存在論」とは全く別物です。

したがって、「存在論的意識」と言えば、意識を成り立たせている根源に向かって遡行し、その意識が成立する条件を探究することを言い、そういう根源から見られた意識のことです。
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哲学の1つの主要な流れが、純粋な思索の中だけ


の論理学的な考察に基づくのに対し、存在論とは、
思索の外にあるとされる存在の本質について考察
する事を旨とするものである。
「存在論的」というのは、何か対象となるものについて
考察する場合に、その現象的特性についてではなく、
それを形成する物体についての原理的考察の視点に
立つ場合を言う。
考察の対象は存在自体の解析ではないので、存在論
そのものではなく、「存在論的」ていう。
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