あなたの「必」の書き順を教えてください

考えの纏まらない質問です。


希望とする対象は、
有能な同性であったり、輝いて見える異性であったり、
家族、子や孫であったり。


劣等感からの憧れや、都合の良い面だけを望む自分本位。
孤独の不安から逃れる象徴、共依存など
理由は様々かもしれません。


なぜ人は、
ある特定の個人を生きる希望とするのでしょうか。

そして、希望の人物に対して
都合の良い美化や肯定的解釈を繰り返しやすくなり、
相手の不都合な面を直視せず現実逃避しやすくなり、
自分の行いが相手にどう感じられるか鈍感になりやすい。
これは何故なのでしょうか?


その人の都合の良い面も悪い面も受け止めて、
互いの幸せを考え行動するのではなく、
一方的に希望にし美化しエゴを注ぐ事は、
多くの場合色々な人を傷付けている様にも見えます。


苦しいから希望を求めるのでしょうか?
孤独だから希望が必要になるのでしょうか?
人の不都合な面を受け入れられない子供の心のままだから?


自分に精神的な見返りがある者を自己満足に愛す事は、
ただの利己主義の様な印象を受ける事があります。

そうした形の愛しか知らずに育てば、
それがその人にとっては自然な事になるのかもしれませんが。



その人と共に支えあい理解しあい歩んで行く人と
その人を一方的に希望にして生きる人と。
何が違うのでしょうか?

A 回答 (7件)

1.なぜ人は特定の個人を生きる希望とするか?


群を生きる生き物において、自分や周囲と違う対象は
他の個から「好奇心」を注がれます。

遺伝的に自分と同じような色よりも
違う色の異性に愛情を感じるのは
特に男性に備わっている恋愛感情システムです。

女性は逆に自分と同じ色のような異性を選択しがちです。
同じような子孫を残すよりも違う子孫を作ったほうが環境が変化しても
対応できるというのが遺伝子の狙いなのでしょう。

多くの人々から愛される映画「赤毛のアン」では
「なんだ、この赤い髪は、だっせ」と男の子の発言しました。

人間が群の生き物であり、「周りと合わせよ」
という本質から出た発言です。

しかし、男の子は次第にそれが「好奇心」から
「恋愛感情」にシフトしていくことを知ります。
対象が目の前にいるとそれを表出できずに「抑圧」が始まります。

そして、彼女の成績や突発的に表出する感情など
そのどれもが、男の子にはとても魅力的に映るのです。
特に「怒られても」⇒「嫌悪感」を抱かないのは典型です。

それだけ種の存続に関わる感情は強いのです。
頭を皿で叩かれて、流血しても彼女が好きだという感情。

「彼女が好き」という感情が優先であり、
彼の脳のなかで「痛み」や「嫌悪感」よりも
勝っていることの典型的な例なのです。

次第に、男の子は何とか彼女に近づきたいと思うようになります。

男の子が女の子の興味を引きたい同一化の心理です。
また、他の男の子より彼女に一番近い存在だとする。
女性の同一化本能に、無意識に迎合しようとする男性の努力的な本能なのです。

ただ、人間はそれでも群の生き物です。

「群のなかで乱した行動をとるな」という本性もあり、
個人対個人、個人対集団と比較して、
なかなか自分の本音を打ち明けにくいでしょう。
社会的にそれぞれが別の道を歩みはじめる最後の日、
彼はついに彼女に直接ではなく間接的に自分の気持ちを伝えるのですが、
彼女は彼の気持ちに気づきませんでしたという典型的な青春ストーリーです。

特に日本人は見た目も考え方も似ている事があり、
そういう気持ちは抑圧しているだけで、
他の国々と比較しても強くあると考えます。


2.その人と共に支えあい理解しあい歩んで行く人と
その人を一方的に希望にして生きる人と。
何が違うのでしょうか?

基本的に同じ人間などいません。
似ていても、似ているだけで、本質は違っているわけです。

双子でも最終的に違った性格、容姿になるのは
「同一化」と「相違化」を繰り返した結果でしょう。

自分がこの人はこういう人間と思っても裏切られるものです。
ある人は、それに「好感」や「嫌悪感」といった「評価」でまとめます。
ある人は「なんだ、そんな人なんだ」と「評価」自体をしません。

それが大きな差です。
パートナーに同調できる人は、圧倒的に後者です。

後者は「個人主義」という思想ですが、
対局にある前者が「評価主義」になります。

片方を評価し、もう片方も評価で返し、結果、口論となります。
人間はいつまでも同じ人といると別の子孫を作れません。
そのため「別れ」のシステムが必要になるのです。
つまり、「評価」とは「別れる」ための心理システムなのです。

「あの人は、●●だ」という評価は、
「接近」と「決別」のロジックの開始なのです。
若い時は評価主義でも良いでしょう。
自分が嫌いな人間でも別れても自分は生きていけるからです。

そして、国家、会社や学校を通じて、
私達の社会は一貫した評価主義です。

しかし、評価主義は「偏見」と「優越」の心理機構です。
それは「排除」と「迎合」のつまらない社会の構築に他なりません。

だからこそ、「評価しない人」はとても大事なのでしょう。

「ただ好きであれ」・・・それこそ本当の愛であること。


そこに気づけるのは、傷ついて人の痛みが分かる強い人だけだからです。
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人類が仲間でしか生きられないのに縄張りを持つ動物だからです。

仲間意識だけでは繁栄するかもしれないが、苦難の時には絶滅していまいます。絶滅を防ぐには縄張りを持ち自分だけが生き残ろうとします。このバランスの中で人類は生き伸びて来たのです。
この矛盾した人間の行動がいろいろな形で現われてくるのです。人によって仲間意識と縄張り意識の強弱があります。自分の中にもその時の環境で変化するのです。
このような原理の中で自分を見つめ直してください。矛盾する行動が納得できるはずです。
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この回答へのお礼

そうですね。結局生存できた命が現存する。
何も奪わない命は死に絶えるんでしょうから。
植物同士だって弱肉強食の殺し合いの様なものですし。

しかし漠然と疑問を持ってしまうんですよね。
どうしたものか。

お礼日時:2014/07/24 18:07

 No.1です。

へんに思われるかも知れないですが 《さとり》についておぎないます。

 あやまった《さとり観》から たとえば《孤独の不安から逃れる象徴》をアイドルとしてのようにもとめる場合があるのではないか。という趣旨です。



 三点 申し上げます。

 まづ さとりのついての前提として 情報公開が大事だという点です。

 情報が不足していたり間違っていたりすれば さとりの知恵も出にくいというものです。

 確かにさとりは 存在の全体としての――未知や無知をふくめての――境地です。全体を隅々までひとつ残らず知っているということではないはずです。

 けれども そのときそのつど知恵を発揮するには 関連することがらについての必要で十分なただしい資料や情報がなくてはならないと思われます。

 生活日常でのこともフクシマなどの社会一般のこととしても 情報公開が前提になると考えます。





 次には ひとりの人の主観内面にかかわったことがらとしての情報の獲得になると思います。

 あのとき A さんはわたしにひどいことを言った なぜかを聞きそびれてしまって時も経った。と思っていたとき ふとヒラメキが得られる。ということがあると思います。あぁ なるほど しかじかかくかくの事情があってのことだったか。という心の問題としての情報の獲得です。

 つまりは 過去のことがらだけではなく いま現在の人間関係におけるわだかまりや諍いなどなどについても あの人の心はこれこれこういうふうであるのかと知り得れば ずいぶんと互いのコミュニケーションは なめらかに行くのではないか。

 日本ではよく《無私》ということを聞きます。それは こういう場合に当てはめるとよいのではないでしょうか? すなわち 劣等感や優越感 あるいは孤独とその不安といった《わたくしごと》よりも まづ情況に就きその内容を知る。そしていまの問題としては殊に 相手や当事者の心を知る。

 これは さとりの問題だと思います。三人よれば文殊の知恵と言いますが 互いに自由な自己表現が出来るようにお互いが心を開きつつ図る。
 特に心の問題を互いに解決しておくこと。あの人この人などなど世間との和解を得ておくこと。なかんづくわたし自身との和解を得ること。心がやわらがしめられてあること。






 三つ目は 聖書から引きます。長いです。

 ◆ 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす ~~~~~~~
 ――ルカによる福音書8:26-39 ――

 26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。

 27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。
 28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。
   ――「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。
     頼むから苦しめないでほしい。」

 29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。
 30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。
 31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。

 32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。
 33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。
 34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。

 35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。
 36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。

 37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。
 38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。
 39 ――「自分の家に帰りなさい。
     そして、神があなたになさったことを
     ことごとく話して聞かせなさい。」
 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわちイエスなる男は このゲラサの人の心の中の状態が分かった。それは この人がイエスを見て 自分の心を――無言のうちに――開いたからである。イエスは その心のさまを無言のうちに知ったに過ぎない。

 たとえばこのようにして 世間との・そしておのれみづからとの和解を得るということ。
 それは 必ずしもほかの人に依存するのではなく 自分自身を自分自身のこととしてたもちつづける。おのれの固有のときをまもる。そうすれば より高い境地の人に出会ったなら おのづとわが心が開かれる。窓は全開。すでに 日本晴れとなり わが心はやわらぎとやすらぎを得る。

 
 これが 《さとり》――という動態――だと考えます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~
 その人と共に支えあい理解しあい歩んで行く人と
 その人を一方的に希望にして生きる人と。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ いづれの人にも それぞれ自由なあゆみが開かれんことを。

 もっと自由に。もっともっと自由に。もっともっともっと自由に。
 内発的にわれらが社会の――ひいては世界の――衣替えが成るのではないでしょうか?
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この少し前の質問で、自分も悩んでいますが、結局共に歩む仲間の成功パターンが見えないんですね。



なんとか仲間を作ろうとがんばってみても、いつも、失望に終わるか、何も起きないか、そのパターンしか生じない。その理由もいろいろあるでしょうが、同じ否定的パターンを繰り返す人、何度やっても上手くいかない人は、自分のパターンに気付くことではないでしょうか。自分からあえてその失敗パターンに落とし込んで安心するということも、パターン化されたりします。
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人類は社会的生命である。


遺伝的な交配=異性にしても、生殖=親子にしても、
社会的分業化=仲間にしても、自己の生命の維持に、
他人の存在が前提となっている。
そうした社会性=自己の生の社会的拡張を、自覚化
して自律的に社会行動(愛による助け合い)をとれば、
他人を傷つける事はないが、自己チューな意識のまま、
衝動的本能や他律的な価値(お金、権力)に従って、
即物的に社会行動をとらされるならば、多様な異なる
欲求の対立において、自他の不満は発生する。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
生物としての現実が底にあるのでしょうね。

お礼日時:2014/07/22 16:37

ep3093さんの2014/07/22 真夜中 04:31の投稿ですね。

質問歴が見えないのでわからないのですが、いつもこんな真夜中にこうしたことをお考えなのでしょうか。
ep3093さんの生活パターンがわかりませんが、活動時間、休息睡眠時間を一般的なものにすると、頭脳活動も明晰さをまして、考えがまとまりやすくなるかもしれないので、生活を変えることを試みてはいかがでしょうか。
 
私の読み方に問題がある可能性がありますが、ep3093さんの質問文はわかりにくく、整理状態がよくないように感じました。
 
(1) 希望とする対象は、有能な同性であったり、輝いて見える異性であったり、家族、子や孫であったり。
⇒ このようなケースの一例として、《自分の子供が成長し幸せな人生を送ることを自分の希望とする》《大組織の中で、自分とは個人的にはほぼ没交渉だが、ある個人がとても輝いて見えて、そのヒトがますます活躍しさらに輝きを増して、誰からもあこがれの人物になるのを期待を持って見ている。その人物が活躍していると思うだけで嬉しくなる》などが想像出来ました。夢を託す/望みを託す/希望をかける/思いを託すなどは、そうした状態を表現する言い回しです。 これらの対象は人物とは限りません。「○○党の議席が増えれば」「セパ20球団制になれば」とか、「失業率が5%を割れば」「景気が良くなれば」「転職先がきまれば」「ローンの返済が終われば」のようなことを対象にして望みや希望を託すこともあります。

もともと「希望」は、今とは異なる状態の実現を願うこと、将来への明るい見通しを持とうとすることのようです。心理的には「現状気になっている事柄に集中してしまう状態から、自分の意識をそらす」という面を持つことです。
過度の意識集中や緊張は失敗を招きやすいだけでなく、ストレス感を高めるので、他に意識を回してしまえれば、気がホッコリ安らぎ、明るい気分、気楽な気分、快活な気分になれるものです。 希望を持つというのは、希望が実現することそれ自体よりも、希望を持つことで現状の緊張感や重圧感、停滞感、閉塞感、マンネリ感、飽き飽き感、惰性感、展望を失った感じから脱して、スッキリし、快活な状態を取り戻す積極性を持つことです。
 
恋い焦がれる相手に意識を集中するのも、「自分の現状や課題や先行き利害に自分の意識が絡め取られた状況から離脱し、自分のことをかまける(自分のことをなおざりにする)」効果があるので、希望を持つのと似て、快活さ積極さ、生気を蘇らせることがあるのでしょう。

「ある人物を美化し、肯定的解釈を繰り返し、不都合な面を直視せず、現実無視に近い行動をとり、自分の行いが相手にどう感じられるかを気にしない」のも、自分の現状に目を向けないで生きようとするやり方でしょう。 ストーカなどにもそうした傾向があるのかもしれません。 
現状を見て気を使うことを避ける効果という点では、希望を持つ、何かに期待する、都合の良い展開ばかり心に描くというのは似ていることです。

「相手の良い面も悪い面も受け止めて、互いの幸せを考え行動する」というのもそれが本人一人の思い込みであれば、希望を持つこと、イイ目標に向かって努力すること、ストーカーまがいのことをやること、過干渉になることと、僅かな差しかないと思えます。

(2) 《共に支えあい理解しあい歩んで行く人》と《ある人を一方的に希望にして生きる人》と何が違うのでしょうか?
⇒ 大きな違いはなくて、似た面が多いと思います。 違いがあるとしたら、日々刻々の振り返り考察の中で、前者は他人の視点や思いを気にすることが比較的多く、後者は目標や到達点を気にすることが比較的多いのだろうと思います。
他人の視点や思いを気にすることが多いというのは、そうした職業訓練を受けているか、成長発達過程で自我を抑え世間や相手を気にする思考を身につけているかということが多いと思います。この傾向が行きすぎると、本人も周りも困ることが多くなるので、その社会の中で許される適度さの範囲で「自我を抑え世間や相手を気にする」ことが、生きていく上では都合が良いと思えます。

(3)  人物を生きる希望とする人の心理は? 考えの纏まらない質問です。
心理メカニズムを考えるのか、臨床心理的に個別ケースを気にしているか、社会心理的な観点で考えるのか、あるいは、自分が困っている具体的な課題に解決や思考の方向性を与えることを探ろうとしているのか、《自分は何をしたいのか》を整理してみるのもイイと思います。
ep3093さんの質問歴は非公開扱いを選択されているので、どうしたことをお考えなのか推定する手立てがないのですが、漠然とor千々に乱れる思念をそのままにしていると、考えがまとまらないのは止む得ざる事態だと思います。 哲学や心理学の学問的研究的なことを考えたいのか、気になっている行動や傾向をどう扱ったらイイものやら困惑しているのか、そのあたりに戻ってお考えになってはいかがでしょうか。

それにしても、夜は寐て、昼間や夕方など脳が合理的に働き易い状況をつくってお考えになるのがイイと思います。
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 こんにちは。



 考えをひとつのことに狭めて 次の原因を挙げたいと思います。

 ★ ただの利己主義
 ☆ をさげすむ風潮 これによってわざわざ――自分のためにではなく――ほかのひとのために尽くして生きるのだという傾向が生まれて来ているのではないでしょうか。




 人間は 自由意志の持ち主として・しかもこれを 家族や集団として持つのではなく どう考えてもこの世界にあって孤独でしかないと考えられるひとりの個人として持って 生きて行きます。
 
 もちろん 孤独が 突き詰めれば 人びととのあいだなる孤独関係という状態でしかないと分かるように 《わたし》の自由意志も ほかの人たちのそれぞれの自由意志と けっきょくのところ 存在としてカカハリを持っていますし 実際にも社会における交通としてマジハリをも持ちます。互いに より良い考えを得ようと協力しつつ模索します。

 つまり 意志自由において生きるひとりの人間には そのような判断のあり方にもとづき言わばその人に固有のとき(時)が生まれるのだし そのようなトキを持つと考えられます。人それぞれのこの固有時が おのれの判断や意志決定として基礎であるからには どうしても人間は 人間というものが・そして取り分け《わたし》が 思惟や行為の物差しとなります。

 つまり早い話が 人間は 人間中心志向であり自己中心志向で生きています。



 それを 世の中のかしこくえらい人たちが たとえば《世間虚仮 唯仏是真》と〔だけ〕言ったりあるいは人の道としては《わたくしのないこと》に徹しなければいけないと言ったりした結果 《おのれの固有時としての判断を基礎としてとうとぶ》ことの大切さをすでに蔑(ないがし)ろにしてしまったものと見られます。

 自己チューが貶(けな)され 利己志向が何かいけないものとして戒められ 肩身の狭い思いをして生きざるを得なくなっている。

 それではと言うので 自分ではなくほかの人にとっての良いことのために熱心になって生きるのなら みとめられるであろうし 少なくともとやかくダメだダメだなどと白い目で見られることはないはずだ。と思ったのでしょう。よって 自分ではなくほかの人に自分自身を見てこれを自分のアイドルとして決めて チカラをそそぐ《仕事》を得る。







 思想としていちばんいけないのは(元凶は) ゴータマ・ブッダと呼ばれる《さとりのペテン師》のやり口でしょう。《仏と仏とのみよく知る》と言って さとりを神秘としたところから オモテの偉大さとちがってウラでの振る舞い方がどうなっているか分からないかしこくえらい人たちは この神秘の雲が 煙幕となって自己保身が長くつづいている。

 この煙幕は むろん人びとをして長いものに巻かれしめたクウキであり 長い歴史においてどれだけの人がその犠牲に成って来たことか。

 世間虚仮 唯仏是真と言ったひとは この煙幕体制としてのクウキを読みとうとび 和を以って貴しと為せと言ったわけです。この場合の和とは そういう和なのです。
 和を――ほんとうの和を――心からとうとばなかったのなら クウキを読まず いや読んだゆえにそのクウキにさからいその意味で和を乱すというようなことはしなかったでしょう。これまでの多くの犠牲となった人たちはです。


 すなわち このような良心の人とも言うべき犠牲者の道をあゆむことをためらう人たちは 自分とは別のほかの《人物を生きる希望とする》クセをつくってしまったのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
まだ私には上手く理解できませんが、

結局人は自分の視点でしか物事を見る事はできないもの。
私が「人物を生きる希望とする人」に対して抱く疑問や不快も
自分の物差しに過ぎず、利己、暴力的とも言えるのですね。


他者利益を考える考え方も
その先にある自分の立場や扱われ方という利益を求める利己。

利己を奇麗事で覆い隠し、他者に強いる人も現れ、
多くの犠牲者も出る。

動物的な欲求を実現し暴力が連鎖するほどの時代なら、
それでも恩恵の方が多かったのかもしれませんが。


少し考えを改めたく思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/22 16:28

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