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27男性です。

現在の仕事が適職と思えず、退屈でも我慢して淡々と黙々とこなしている感じです。

社会のためとか、やりがい、生き甲斐といっても所詮きれいごとで、仕事はお給料をいただくため、生活するため、余暇を楽しむお金のためと割り切るというスタンスもアリですか?

ご意見お待ちしております。

A 回答 (20件中1~10件)

お金は大事、生活していくためには不可欠です。


従って、働く目的の一つとして、収入を得ることがあるのは当然のことと思います。

ただ、一時的にはそれを働く唯一の目的とすることは出来ても、生涯それを続けることは難しいように思えます。

もう十分にご承知のことと思いますが、社会人になると否が応でも仕事が生活の中心になります。
休みの日はともかく、仕事の日は大半を仕事の時間が占めます。

ご質問の行動をとるということは、その大半の時間の中で、喜びも楽しみもやりがいも充実感も一切を感じずに過ごすことになります。
多くの人がこの状況に喪失感やストレスを感じるでしょう。
また、嫌なことや辛いことが起きたときに、それを乗り越えていくことが非常に難しくなります。
そして、一時的には我慢出来たとしても、その状態を生涯続けることは難しいでしょう。

転職者の9割は収入が下がると言います。
では何故彼らは転職するのか?
彼らが求めているのは、仕事で収入以外のものを得ることです。
それは先に挙げた喜びや楽しみです。

よく「オンオフの充実を」などと言いますが、仕事の充実でプライベートは補えないように、プライベートがいくら充実していようとも、それで仕事の喪失感は拭えません。
仕事の満足は仕事で得るしかありません。

以上のように、私はご質問のような割り切りを勧めませんが、だからと言って闇雲に転職するのがよいわけでもありません。
現状の否定だけで転職してもあなたにとってよい結果は得られません。

大事なことは、あなたがどんな仕事で喜びや楽しみを感じることが出来るかです。
そういう仕事が見つかっているなら、転職を考えてもよいかもしれません。

以上、ご参考まで。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/13 15:45

生活や余暇を楽しむのに不足ない給料なら、十分アリだと思います。


仕事が人生の全てではありませんから。
でもどんな仕事でも、長年やっていれば、
うっかり向上心が生まれちゃったり、短時間でもやりがいというやつを
感じてしまうこともありますし。
仕事が苦でないのなら、良いのではないでしょうか☆
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/13 15:43

もちろんアリです。


自給自足以外お金がないと繰らせません!
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/13 15:45

大いに「あり」の意見です。



しかしながら仕事が安定している前提なのかなと思ったりします。

好きな仕事に就いたとしても配属が変わって別の業務に就く事も
考えられます。
会社という組織では、やりがいや生きがいとは言えない仕事を
しなくてはいけない人もいると思います。汚れ仕事もあって組織が
成り立っているのかなと。。。
それに会社も未来永劫続く保証もありません。1社で骨を埋める時代
と違い、会社の寿命が縮んでいるような感じがしてます。

余暇を楽しんでそれが副業になり、会社がつぶれても暫くは
それで食っていける。
そうなったら良いのではないかなと思います。

ご参考になればと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/13 15:45

> 仕事はお給料をいただくため、生活するため、余暇を楽しむお金のためと割り切るというスタンスもアリですか?



「アリ/ナシ」と言うよりは、そもそも「労働契約」と言うものは、それがまず第一義ではないか?と思います。
その上で、個々に「社会のためとか、やりがい、生き甲斐・・」などをトッピングが出来るかどうか?じゃないですかね?

言い換えたら、労働なんてモノは、まずは「割り切らないとやってられない」ことかと思います。
尊敬できないどころか、軽蔑するような人格に対しても、相手が上司や顧客と言うだけで、頭を下げなきゃならないのが仕事,労働ですから。

ただ・・・そんな行為は、自分のためだけでは、一生は続けられないと思います。
モチロン自分のためも含みますが、人生の中で、家族とか仲間など、自分より大事な存在も得て、それらを守るために、下げたくない頭を下げるのです。

そう言う領域になると「崇高な行為」であり、崇高な行為をやり続ければ、どんな仕事でも天職になるのではないか?とも思いますよ。

仕事など、「汚いトイレの掃除」みたいなモノじゃないですかね?
決してキレイ事ではないですが、まずは割り切って、掃除し続ければキレイになるし。
キレイにし続ければ、面白さや喜びも出てくるし、イヤな仕事も継続すれば「崇高な行為」で、尊敬されたりもしますし・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/13 15:45

その様な考えアリだと思います。

まだお若いですしやりたい事をやった方がいいでしょう。なにかしとけば…後々後悔するかもしれません。
真剣に独りで考えてみてはどうでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/13 15:48

仕事は糧を得るものである以上、労働は対価としての賃金を得るものと考えるのは当然です。

回答子には、社会のために働くという漠としたスタンスは偽善的に聞こえます。

個人の動機については考えが異なります。回答子は複数の職場を経験しています。仕事に対する自分の動機は労働環境によって大きく変わりました。

有り体に申し上げれば、従業員から少しでも搾り取ろうという雰囲気が感じられる環境、あるいは自分の専門分野でない仕事を押し付けてくる環境ではこちらも対価以上の労働力を提供するものかと意地になって定時出社/定時退社を繰り返していました。

ある程度こちらの裁量に任せていただけたり、些少ながら自分の力が発揮できると感じられる環境では上記のような気持ちは全く起こりません。仕事を自宅に持ち帰っても、不思議と全く損をした気にはなりません。前述の例と時間単位の単価を比較するとそれほど大差がないにも拘らずです。

後者の環境で動機がまったく異なるのは、その仕事を通じて個人の技能向上につなげることができるからだと思います。すなわち、会社を利用して生きてゆくための武器を身に着ける、例えば倒産などによって転職を余儀なくされたときに「自分にはこれができます」と言えることを修得できる、ということです。

最終的には仕事に対し何に第一義を見出すかは個人の判断です。ただ、目の前に即入ってくる賃金以外にも意義はある、というのが回答子の考えです。ご参考までに。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/13 15:48

そんなことはあなたの自由です。


あなたの人生ですから。

たしかお金が第一なのは当然でしょう。
生きてなければ、やりがいも夢もくそもありませんから。

問題はお金にプラスなにを加えるか。
スキルとか、体力とかね。

お金だけのためってのは悪くはないけど、
損なんじゃないかなと思います。
あくまで損得が激しく、いただけるものはすべていただきたがる
ぼくの考えです。
あなたがいいと思っていたり、むしろ得だと思うのなら、
別にかまいません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/13 15:48

アリの分けねーだろ。

つまらん仕事に人生の限りある時間を使うなんて最も罪深い行為です。今すぐ仕事辞めろ。そして自由になれ。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/13 15:49

【27男性、現在の仕事が適職と思えず、退屈でも我慢して淡々と黙々とこなしている感じ】



【社会のためとか、やりがい、生き甲斐といっても所詮きれいごとで、仕事はお給料をいただくため、生活するため、余暇を楽しむお金のためと割り切るというスタンス】

どんな仕事であっても、その仕事の、面白み、旨味、醍醐味、やりがい、感動、喜び、充実、達成感
そうしたものを
20代の、1年2年の経験で得ようとしても、得られる機会は少ないでしょう。

それは、現代だからではありません。何百年も前から、同様だろうと思います。

仕事の喜びと言うものは、どこかの夢の楽園にあるものではありません。
親はもちろん、
赤の他人の、教師や、職場の先輩や上司が、準備できるものではありません。
まして、ほいっと転職したところに、コロコロ転がっている物などでは、到底ありません。
上場企業だからと言って、そこに転がっている物でも無く、
上級公務員だからと言って、そこに転がっている物でも無い。

どこに転がっているものでしょう。
それを見つけるには、ただただ、七転び八起きだろうと思います。

時に、泣き言を言い、無様に崩れ敗北感に責め苛まれる。
時に、地を這いつくばり血を吐くような想いで自らを律し、悔い、何も成し得ぬ無力の自分に
打ちのめされる。
時に、無駄な汗をかき無用に周囲に利用され、何者にかなりたいという想いをもてあまし、カラ回りする自分の滑稽さに自暴自棄になる。
それでも
たゆまず、そうした社会の中で学び続ける。

それが、社会に生きる者の共通の生き様でしょう。

数々の試練と共に、学びがあり
学びの日々に生きる人にだけ
「働く喜びという人生」は、与えられるように思います。

そんな事に比べれば
学校での学びなど単に「板書をノートに写して覚える作業」に過ぎません。

本当の学びは、自分の労働で生活する。その中での「学び・気付き」にあります。
「気付き」の過程で自分の伸びを得られる人こそ、人生の成功者です。
気付きで得た「肩書」等の事ではありません。自分の伸び代を
自分で実感できる人
その人こそが、真の成功者。
働くことの中に、喜びを見出している人だ、と言えるように思います。

・・わかるかなぁ・・・。わかってもらえるかなぁ・・・。
わかりにくいかもしれないなぁ・・。

20代の今は、わからなくてもいいですが。
嫌な仕事の中にも、自らを鍛えてくれる要素がある。
それを20代の時に気付ける自分なのか?
その事が、将来の自分をとても助けてくれることがあるという言う事を
ほんの少しでも分かってくれると良いのですが。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/13 15:49

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