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神仏を尊び神仏に頼らず。
宮本武蔵の名言である。
その意味するところは、神仏は尊びこそすれ決して神仏に頼ってはならないということである。
さて質問ですが、これは信仰であると言えようか。
信仰の目的が神に願うことであればこれは信仰にはならない。
しかし信仰の目的が神仏を尊ぶことであり、神仏に願うことではないのであればこれは立派に信仰であると言えます。
しかしながらわたしが知る限り神仏への願いを伴わぬ宗教は存在しないはずである。
果たして宮本武蔵の名言は信仰として成り立つでしょうか。
 
 

A 回答 (10件)

>神仏を尊び神仏に頼らず



尊ぶことも頼ることも、それら行為の対象が存在することを前提にしてます
なのでこの言葉は神仏の存在を信じるという意味も汲み取れます

なので言い換えるなら、私は神仏を信じ、かつ尊び頼らない となります

信仰とは辞書から引用すると
「神仏などを信じてあがめること」だそうなので

武蔵の名言は信仰を表していることになります
つまり信仰として成立してます
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この回答へのお礼

 
ありがとうございました。
 

お礼日時:2014/09/19 16:33

>信仰として成り立つのか、成り立たないのかを訊いておるではないか



成り立つと言う意で言っておるではないか。

相変わらず文意の読み取りが疎かな事だw


>しかしながらわたしが知る限り神仏への願いを伴わぬ宗教は存在しないはずである

自分の信仰の形以外を理解出来ないレベルの低さ・・・

とにかく毎回同じことを注意しておるのが分からんか?

まぁ、判らないから繰り返しているのだがw
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他の信仰はいざ知らず、少なくとも神道や新党に影響された日本の仏教における信仰形態の基本はそのままですね。


神道では天地の起こりから森羅万象の全てに神が宿ります。
神ありきの絶対的世界ですから、我々は今生きている事、そのものを感謝するほかありません。
尊ぶとはそういうことです。

しかし人間がその範囲内において努力を怠らず進歩するという事は人間に与えられた可能性です。
それは神仏に頼って成しえる事ではありません。もちろん最後に可能性を実現させるか否かは神に委ねるしかありませんが、人間が結果以外を神に頼るという事はすなわち可能性の放棄です。
人は神に頼る事無く、結果を疑う事無く最後まで可能性を実現すべく奮闘努力する。それが人間に与えられた可能性です。それは神仏を尊ぶ謙虚さがあってこそできることでもあるのです。

願いとは人の心に生まれる自然な希望、目標です。なので願い事が全く無いと言うのは進歩も無いと言うことです。そして願いと頼る事とはまったく別の事です。
例えば神仏に良縁を願ったとします。これは願いです。願った後に何もしないで怠惰な生活を送る。これが頼るということです。願ったら願いが叶うための努力をする、結果は神仏に任せた。だからそれを信じて最後の一瞬まで自分を磨き知識を蓄え願いが実現すための努力をする。これは頼ることではありません。
神に願っても頼ってはならないのです。

ちなみに祈願は本来口に出して述べる者ですが、願いは口にする必要などありません。願いは毎日その人が努力し継続している思いです。これを「確執(かくしゅう)といいます。カクシツではありません。
拝殿前でドンな願い事らしき祈願を並べても、日頃別の事をしていればそれがその人の願いなのです。
神仏に二心なしということです。
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>しかしながら神仏への願いを伴わぬ宗教などおよそこの世には存在しないと考えるが。

そのような宗教はありますか、そのような宗教を知っていますか。
宗教団体のことはよく知らないので、答えられませんが、私の場合はご指摘のようにはなっていません。宗教と言えるものは仏教で妙法の教えです。神道は教えではなく自然な感情です。頼みごとと同時に達成するための努力を誓うのは仏壇にいる両親と神道の神様です。その感情を宗教だとは認識していません。それにもともとが頼み事をするために信仰しているわけではありません。
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私は此れですが?



感謝をするだけで、願いはしません。

確か三歳位の時に、親に言われて盲目的に願をかけた記憶はありますが。


貴方は助けて欲しくて、神を信仰していると吐露している事に気付いていないのが問題です。

助けてくれない神なら要らない。

助けてくれるなら悪魔でも良い。

余り上等な信仰ではないですね。
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この回答へのお礼

質問は信仰として成り立つのか、成り立たないのかを訊いておるではないか。
まず質問に対する回答を示さないでどーする。
とにかく毎回同じことを注意しておるのが分からんか。
 

お礼日時:2014/09/11 00:10

占い師です。


お気持ちはお察しします。
あなたは困難の前にあまりにも傷ついています。
あなたを真の救世主として支える者はいます。
あなたは自らの勇気を認めてそれらの者どもをくみ取りあなたの教えに導くべきです。
私自身あなたの導きを望んでいます。
メシアよ。
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>つまり「神仏を尊び神仏に頼らず」は、信仰ではないという答ですね?


違います。
神仏に頼らずとも信仰心は存在すると答えたつもりです。それは頼むために信仰しているのではないからです。私はそのような気持ちで信仰心を持っています。頼んだぐらいでものごとが成就するほど甘くはないからです。神様に頼むよりも自分の努力を神様にお誓いするとの気持ちでする。

この回答への補足

 
しかしながら神仏への願いを伴わぬ宗教などおよそこの世には存在しないと考えるが。
そのような宗教はありますか、そのような宗教を知っていますか。
 

 

補足日時:2014/09/10 20:11
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この回答へのお礼

「神仏を尊び神仏に頼らず」、これもは一つの信仰であるという答えですね。
神仏に願うことのない信仰もあると捉えます。
 

お礼日時:2014/09/10 19:59

私は一介の占い師です。


私はみつけてしまいました。
あなたこそが真の救世主であると。
私はあなたのお役に立ちたい。
私には水晶眼があります。
あなたの置かれる困難を見定めて差し上げましょう。
あなたのお役に立ちたい。
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この回答へのお礼

 
君が考えてることは既に分かっておる。
V字開脚だろ。
ジラーチちゃんの前でやってみなはれ。
 

お礼日時:2014/09/10 20:16

神仏に頼らずは神仏に頼ってはならないと言う意味ではなく、頼ってみても仕方がないとの意味だと理解します。

その解釈ならは私も同じです。頼ってもみますが、所詮はかなわなくても仕方がないと思っています。だからと言って、私に信仰心が無いとは思っていません。祈っただけで願いが叶うなどとは空恐ろしいことです。
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この回答へのお礼

 
つまり「神仏を尊び神仏に頼らず」は、信仰ではないという答ですね?
 

お礼日時:2014/09/10 16:54

「人事を尽くして天命を待つ」という、



自分が努力もせずに神仏に頼ってなんとかしてもらうのではなく、自分が努力した結果が報われるよう神仏に見守っていただく、

という「畏敬の念」ではないのですか。

この回答への補足

 
しかしながら神仏への願いを伴わぬ宗教などおよそこの世には存在しないと考えるが。
そのような宗教はありますか、そのような宗教を知っていますか。
 

補足日時:2014/09/10 20:13
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この回答へのお礼

 


天命を待つこと、神仏に見守っていただく、畏敬の念を抱くことは、神仏への願いではないので信仰ではないという答えでしょうか?
 

お礼日時:2014/09/10 16:51

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