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神が何かも分からず、神に祈ることはできないはずである。
神が何かも分からず、その神に願うことは無意味である。
神が何かも分からず、その神を信じることは愚かである。
しかし神が何であるか分かれば、これらのことが全て無意味であることが同時に分かるのである。
神は祈るものではない、神は何かを願うためのものでもない、ましてや神は信じるものではないのである。
何故なら神は宇宙の法則だからである。

有瑠慶此即宇宙法則

そして宇宙の法則は永遠不変だからである。

有瑠慶此即恒常不変

なぜ宇宙の法則は永遠不変なのか。
それは宇宙の法則は完全無欠であり、正しいが故に変わる必要はないからである。
だから神に祈ること、神に願うことは一切無駄である。

有瑠慶非信非拝非願

神は信じるものではなく、感じるものである。

有瑠慶可能感可能解

神に祈っても神に近づくことは出来ない。
唯一つ真理の探求によってのみ神に近づくことが出来るのである。
そして神を感じることが出来るようになるのである。


神が何かも分からず、その神に祈ることは無意味である。
それでもあなたがたは神に祈りますか。
 

「神が何かも分からず、神に祈ることはできな」の質問画像

A 回答 (26件中11~20件)

やあ犬。


宇宙の秩序や法則が真理の一つだとしよう。
それは意思を持つ神かね?
聖霊の案内だと神は生命の根源であると同時に、神自らが生命だと確認したげだったよ。
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この回答へのお礼

 
君は今荒れているね。
ちゃんとV字開脚はやったか。
わしは今ジブリちゃんと一緒にぷちょぷちょしてて楽しいな。

>それは意思を持つ神かね?

宇宙の法則は神の意志だよ。
 

お礼日時:2014/10/31 22:08

 こんばんは。




 神が何であるかが ほんとうに分かったとしたら それは ただの思考や想像や感性の内におさまるモノや観念であるしかありません。

 神が何であるかが分かったというのは あくまで神を仮りに説明するとすれば かくかくしかじかであるという代理表現での理解なのです。輪郭として・あるいは建築物のための足場として 理解できたというのであって その神本体については ついぞ人間には分からないというのが 神の神たる所以です。

 だから 感じるではなく考えるでもなく 非思考としてわが心に受け容れるというかたち。これが 神とわれとのふつうの関係です。これを 昔から人びとは信じるという言葉で呼んで来たのです。





 《いのる》問題は 問題にならないと確認しておいてください。
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この回答へのお礼

 
> だから 感じるではなく考えるでもなく 非思考としてわが心に受け容れるというかたち。


それは極めて危険な発想です。
その非思考なる発想はカルト宗教にとっては最も都合の良い環境になります。
あらゆるカルトは環境準備としてまずそこから始まります。
あなたは自分の考えていることが結果として何をもたらすのかそんなことは考えないのですか。

お礼日時:2014/10/31 21:59

以前から不思議に思っているのですが、いわゆる普通の神様に祈る人を


増やしたいから書き込みしてあるのかなと。
それが狙いで書き込み続けているのかなと。

好きなもの・好きなこと・好きな人、信じていることなど
反対されればされるほど人はより熱心になりますよね。
恋愛を反対されると余計に燃え盛るようなもので。

それが人の心の法則ですから。

宗教にはまってる人に、さらに強い信仰心を与え
今まで興味が無かった人にも興味を与えますよね。

文面通りやめさせたいなら、まったくの逆効果ですよね。
強く祈らせるために、書き込みしてるのでしょうか。
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この回答へのお礼

 
>以前から不思議に思っているのですが、いわゆる普通の神様に祈る人を
増やしたいから書き込みしてあるのかなと。

普通の神様ってどんな神様のことなのかな?



>文面通りやめさせたいなら、まったくの逆効果ですよね。

別に人のやってることをやめさせたいとか考えているわけではございません。
ただ真理を語ってるだけです。
ここは哲学カテなのだからゴマカシは許されるべきではないと考えています。
もちろんいまこの世界で起こってる戦争とかテロとかジハードとかカルト教団とか宗教に起因する様々な弊害も背後にはありましょうが。
一体何が不思議だと言うのですか。
 

 

お礼日時:2014/10/31 20:24

 ★ (No.10お礼欄) なぜなら宇宙の法則は完全無欠であり、正しいのであるからこれを変えてはならないからである。


 ☆ この命題は 何の実質的な意味もありません。どうかよくお考えになってください。



 ♪ 南妙法蓮華経は 宇宙の生命でありその根源的な力である。

 ♪ 何ものも この力にさからっては 何も出来ない。宇宙の法則である。

 ♪ 世界でただひとり日蓮のみが これをよく体得し体現している。その日蓮が遺したご本尊こそが 完全無欠な宇宙のチカラである。このチカラをおのれに受け取らねば人間は何ひとつ成すことはできない。唱題せよ。


 ととなえるのと何ら変わりはありません。




 《いのる》問題は 問題にならないと確認しておいてください。
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この回答へのお礼

  
こともあろーに、あの低俗カルトの南妙法蓮華経+創価学会+日蓮と我が偉大なるアルケーの神を一緒に並べるなんて神に対する無礼冒涜としか言えないね。
 

 

お礼日時:2014/10/31 18:14

私は何者であるか判らない神に祈ることはできません。

全知全能の神も宇宙創造の神も何者であるのか判らないので関心がありません。
それでも、近くの神社の神様にはお参りに行きます。毎年正月には家族で祈願をして貰います。困った時にはお願いなどもします。神様が何者であるのかは知っています。全国の神社仏閣にはよくお参りに行きます。必ず由緒書を読みます。大抵が先人達です。しかし訳の判らない仏像を拝んだりはしません。
私は釈尊の教えの方が性に合っています。嘘も本当もあるでしようが、なるほどと思うことを取り入れています。しかし、釈尊にお願いをすることはありません。お経を唱えても祈ることはありません。
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この回答へのお礼

 
つまりあなたにの神とは神社仏閣の境内掲示由緒書にかかれた人達が神ということですね。
そのような神に願い事をするとはつまりあなたは来世を信じているわけだ。
今の世の中にあってそのよーな人間がいたとは驚きです。
 

お礼日時:2014/11/01 21:37

神を信じる人は、神の事を分かっているからではない。


存在の意味や生きる目的など、世界について分かって
いないから、第一原因として全知全能の存在が必要だった
のだ。
ゆえに、進化論やビッグバンなど世界について「分かる」
事が、信仰のじゃまになったのだ。
分からない事で信じられるものもある。
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この回答へのお礼

 
>ゆえに、進化論やビッグバンなど世界について「分かる」
事が、信仰のじゃまになったのだ。


神が何かを知るのに進化論やビッグバンを知る必要はない。
神が何かを知るために必要なことは唯一つ、神が宇宙の法則であることを知ればそれで十分なのである。
 

 

お礼日時:2014/10/31 17:05

 こんにちは。



 《いのる》というのは いまここにわたしはいますと確認し自覚することです。


 いのる内容については 人間が祈ることをする前にすでに神は もし神が神であるなら そのことをあらかじめ知っているということです。


 それだけこのことであり 問題は 経験行為については人間がそれぞれのチカラと意志とでおこなうというだけの話です。

 信じているひとは いちいち神のことを気にしていません。


 信じているというところに 神を分かっているという現実があります。

 それは 考えて分かっているのではなく また感じて分かっているのでもないわけです。


 受け容れている=信じている という問題です。
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この回答へのお礼

 
> いのる内容については 人間が祈ることをする前にすでに神は もし神が神であるなら そのことをあらかじめ知っているということです。


もちろん神はそのことを含め全てを分かっている。
同時にたとえ人がどれほど熱く祈ったところで、神はこれらに一切感知してはならないことも分かっているのである。
なぜなら宇宙の法則は完全無欠であり、正しいのであるからこれを変えてはならないからである。
 


 

 

お礼日時:2014/10/31 17:17

あなたが必要性を感じないのであれば、祈る必要はないのです。


なんの問題もありませんよ。安心してください。
『祈らなければならない』と言うから問題になるのですから。
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祈ったことが無駄になるかどうかは関係ないんですよ。


人間の意志ではどうにもならない宇宙の偉大な真理に神を感じるから祈るのです。
それが信仰心というものです。祈ろうと思って祈るのではなく、心が祈りたいと感じて祈ってしまうんです。
あなたも宇宙の偉大な真理を肌で感じることができれば、知らないうちに祈っている自分を見つけることができるでしょう。
肌で感じるから有無を言わさず祈らされてしまうんですよ。
頭で考えても無駄です。
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この回答へのお礼

 
祈るというのは神を感じることが出来ず、ただ神を信じたいと願う人が行う行為に過ぎない。
神を感じることは神を信じようと願う段階を遥かに超越しているのです。
既に神を感じているのであれば、神に対する一切の疑いも一切の迷いも無いのであり、それゆえ祈る必要は全く無いのです。
 

お礼日時:2014/10/31 14:20

祈りというのは他者になにかを伝達するのではなく、自らの希望・意思を言語化して復唱することで大脳の辺縁部に希望や意思情報を固定することである。



したがって、形式上の相手は神であっても、仏であっても、大根であっても、ニンジンであってもよいのです。
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この回答へのお礼

 
イエスキリストもヤーベもアラーもヒンズーの神もいずれも神ではありません。
これらは神が何であるかさえ理解できない愚かな者達が信じようと願って作り出したものに過ぎないのです。
これらの愚かな者達はイエスキリストが神であるとか、ヤーベが神であるとか、アラーが神であるとか、ヒンズーの神が神であるなどと愚かなことしか考えきれないのである。
そしてこれらの愚かな者達は自らの神の名をかざして今も争い続けています。
宗教戦争が絶えないのは当然である。

万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神が唯一絶対の神であり、アルケーを除いて如何なる神も存在しないし、また存在し得ないことが分かればこの世界から無用な争いは無くなるのである。
 

お礼日時:2014/10/31 14:10

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