
No.9ベストアンサー
- 回答日時:
「王政復古」ということに名目上はなったわけですが、現実問題としては世界の一等国に比肩しうる近代国家を作らなければならない、というのが明治政府の喫緊の課題でした。
それに対して質問者さんとしても異論はないと思います。ウカウカして近代化に取り残されると容赦なく列強の植民地にされてしまいます。アジア最強帝国であった清帝国でさえ欧州列強の草刈り場となっていたわけです。だからこそ、明治政府はどこからその資金をねん出したのか知りませんが、明治5年にもう鉄道を開業しています。大政奉還からたった5年後には近代国家には欠かせない鉄道(蒸気機関)を実用化しているわけですから、明治元勲の近代国家建設への並々ならぬ情熱が伝わるというものです。
さて、新国家を建設するにあたって、薩長を中心とした新政府にとっては関東以北というのは「どアウェー」の地でもありました。箱根から向こうは彼らにとっては浦和のスタジアムに乗り込むJ2のサポーターくらいの気持ちだったと思います。戊辰戦争でも主な戦場はほとんど関東から東北にかけてです。
近代国家建設で、武士の既得権益をどんどん奪う政策を実施したので、明治初期は全国のあちこちで武士階級を中心とした反乱や暴動が発生しています。それまでの年貢制度から税制度にも変えて、そのときに新政府は税金を国民に理解させるために「血税」という言葉を使ったら、みんな「血を抜かれる」と勘違いしたんだそうです(本当)。それだけなら単なる笑い話ですが、役人がある村に税金の調査のためにやってきたら「血を抜きにやってきたぞ」とたちどころに噂が広まりなんと暴動となって死者が出るほどの騒ぎになったという話もあります。そのくらい、日本中が騒然としていて治安の安定も明治政府の重要課題だったわけです。
そして、江戸という場所はかつての敵であった徳川将軍のお膝元の土地であり、江戸市民は徳川将軍の支配には何も不満はなかったわけです(だから江戸時代を通じて江戸で反乱は一度も起きなかった)。新政府が政策をしくじろうものなら、江戸で大規模な反乱や暴動が起きる可能性は高く、そうなれば関東全域や東日本全体に影響を与える可能性だってありました。それは何としても避けないといけなかったわけです。
さて、「マキャベリズム」でも知られるマキャベリは「習慣なんかが違う地域を征服したら、君主はそこに住め」と「君主論」で書いています。君主が直接支配して目が行き届けば速やかに平定できるからです。
その実践例はいくつもあります。有名なのがオスマントルコ帝国です。オスマン帝国はコンスタンティノープル(イスタンブール)を占領しましたが、そこはキリスト教国の中心国でもあったビザンツ帝国の首都だった場所です。敵地も敵地の超どアウェーの場所です。この地を支配するにあたってオスマン帝国がやったことは、皇帝自らがコンスタンティノープルに住んでしまうことでした。かくしてイスタンブールは今やすっかりイスラムの地となったわけです。他にも、岐阜や安土など居場所をどんどん変えた織田信長や、自分の生まれ故郷である三河や駿河ではなく、江戸に幕府を開いた徳川家康も同じといえましょう。
伝統やしきたりにうるさかったのは京都市民で、確かに天皇が江戸に移り住むことに対しては京都では大反対が起こり、そのために明治政府は「違うよ、これは行幸だ。あくまで一時的なことだよ」といって一度江戸に行幸してすぐ帰らせ、「ほら、だからすぐ帰るといったでしょ」とやって京都市民を安心させ、京都市民が油断していた隙に二度目の行幸をしてそのまま現在に至っています。だから、今でも京都市民の中には「天皇陛下はまだ『行幸中』だ」と主張している人もいるわけです。
しかし、京都は天皇にとってはホームの地ですから、ちょっとやそっと裏切っても反乱が起きるほどの騒ぎにはならないのです。
慣例や前例に縛られて改革ができなくなったとき、国家(国家に限らず企業もそうですけれど)は衰退に向かいます。伸びていく組織というのは、決して前例や慣例にとらわれないのですね。明治新政府はそういったフロンティア精神があったのでたちまちのうちに近代国家を作り上げることに成功したのだと思います。
ご回答ありがとうございました。
他国のことも挙げていただきました。
明治天皇は、天皇家の筆頭ばかりでなく、久しぶりに、政治家としての役割も、求められたのですね。その役割の中で、反乱を防ぐことや
<近代国家を作り上げること>、
が期待されたのですね。そのためには、天皇(家)の
<慣例や前例に縛られ>
ることなく、実質的な遷都を、おそらく甘んじて受け入れた、のですね。
No.11
- 回答日時:
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
議論100出、面白いですね。
まずは、東京遷都論ですが、確かに、これまでは、天皇が「詔」(みことのり)を発して、その地へ移られたことを以て「遷都」と呼んでいました。
しかし、明治天皇は「詔」を発しないまま東京に移りました。(一時、帰京はしましたが・・・)
近年、歴史学者や歴史家、歴史作家の間では、「詔」を発しようが、発しまいが、天皇が住まいを移したことを以て「遷都」とみなす、と言う意見に統一されつつあります。
当時、江戸近辺には米国領事館、英国領事館、函館には露領事館等があり、新政府としては、当然、勤皇思想でしたから、これらの諸外国との折衝においても、全ての決済に付き天皇の「お許し」が必要と考えていました。
と、なると、いちいち京都まで「お伺い」をたてて使者を遣わし、その返答を得る。再び、問題が生じると京都への使者を遣わす。使者が江戸へ帰ってから処理をする。
これでは、諸外国との迅速な対応ができない。と、考え、江戸へ移ってもらう必要性に迫られていました。
当然、幕府が滅びるまでは江戸が日本の中心地と諸外国は考えていましたから、江戸近辺に在外公館所を置いていました。
従って、新政府も江戸(東京)を中心として「政」を行う方が便利だった。つまり、それまでの幕府の統治機構を活用した方が何事もスムーズに統治できる、と考えたからです。
後は、皆さん方が言われるように、江戸遷都の反対論や京都の公家たちの猛反対、千年の都を捨てるのかなどの庶民感情があったため、薩長の木戸孝允や大久保利通らは、新政府軍に加担していた公家の岩倉具視(次男の岩倉具定は統幕軍の東山道鎮撫総督に据えられている)や三条実美を説得し味方とし、表向きはあくまで「行幸」という名を借りての密かな京都脱出劇だったのです。
明治天皇はこの時16歳、歴代の天皇を顧みると「遷都」は容易なことではない、ということは分かっていたとは思いますが、やはり、側近の岩倉や三条らに薦められるままに東京へ移らざるを得ない、と考えたのではないでしょうか。
(よもやま話)
★統幕軍は慶応4年4月11日、江戸城無血開城に際して、草鞋(わらじ)履きのまま江戸城内に入り、将軍の政務を行った「白書院の間」や「黒書院の間」、大広間、中奥、大奥にいたるまで畳の上を土足で入りこんでいます。
★もっとも、この頃の江戸城は資金不足から屋根の瓦は落ちていたるところで雨漏りがしており、石垣は崩れ、回廊などの柱も映画やTVで見るような朱塗りではなく、色あせた白色化していました。
http://www.saigo-takamori.net/archives/124
★天璋院(篤姫)は、将軍家に隠し事がないことを(恭順の意を)示すため、宝物蔵から徳川家代々の宝物(櫛や簪(かんざし)にいたるまで)を表と大奥に全てを飾り付けて、4月11日、統幕軍が大手門を入るのを見届けてから不浄門といわれる平川門からひっそりと一橋邸へ向かいました。
ちなみに、NHKの大河ドラマ篤姫では、脚本家の田淵久美子氏が大奥に生け花を飾ってのラストシーンでしたが、多分に、「宝物」とは何を飾れば良いのだろうか、と悩んだ末、生け花を飾ったのだと思います。
ご回答ありがとうございました。
<天皇が住まいを移したことを以て「遷都」とみなす>
という考えもあるのですね。私は、詳しいことを知らなったので、当然だと思っていました。
新政府の考え方について。
1.<新政府としては、当然、勤皇思想>
でしたから、重要件こついては、あくまで、天皇に許しを求める、すなわち自分たちが最高権力者とは思っていない、のですね。
2.<それまでの幕府の統治機構を活用した方が何事もスムーズに統治できる、と考えた>
のですね。すなわち、人心一新するためには、行政の首都を他所(上方など)に移転しよう、とは考えなかった、のですね。
3、弱年の明治天皇は
<側近の岩倉や三条らに薦められるままに東京へ移らざるを得ない>
になったのですね。しかも、敵勢力であった武家の城(行政機関でしょうが)に入り込んだ、のですね。
No.10
- 回答日時:
当時の即位したての明治天皇にどの程度の自覚があったかはわかりませんが、少なくともその後の明治天皇のふるまいは自分を近代国家の立憲君主としてよく理解し、理想的に立憲君主として振舞っています。
明治天皇の君主としての資質に異議を唱えることができる人はなかなかいないでしょう。
遷都が日本にとって必要と理解すれば、積極的にそれを行える君主だと思いますよ。
あとはどう京都民をごまかすかだけです。
ご回答ありがとうございました。
明治天皇は。前例や慣習をまもる天皇としてばかりでなく、立憲君主とし久しぶり野政治家の側面も持っていました。その政治家として、(京都や取り巻き連の反対を抑え)遷都を選択したのですね。
No.8
- 回答日時:
遷都ではなく、一時行幸しているだけだという理解もありますね。
でも政治としては、首都が東の京都。となったとされています。首都とは天皇がいるところですね。
しかし天皇思想の中では天皇のいるとことは京都の御所です。
そのあたりが齟齬が出てきているが、天皇のいるところというのは御所であってもいいと思います。
薩長の懇請で政治にかかわる居場所として東の京都に行幸しているで、そこがだから首都だといっていいのでしょう。
万世一系、そして記紀の伝える神の子孫というのはあくまでも神話であり、事実の側面もありますが内容の多くは架空でしょう。
一定の目的と機能のための伝説でしょう。
神といっても、ギリシャ神話のような神であって、宇宙創造や主なる神ではなく、日本人の心性は汎神論でありアニミズムでありますから、誰でもなんでも神ですね。そういう神が天皇の祖ということでその権威はあくまでも伝説の中のことであって、先に尊天皇という思想が先なんです。
ご回答ありがとうございました。
神は、幅広い意味を持っていますね。天皇は、神といっても、
<宇宙創造や主なる神ではな>
いですね。ギリシャ神話のなかの神やアニミズムにおける神ですね。なにせ、遷都を甘んじて受けるような
受け身の神ですから。
No.7
- 回答日時:
なるほど 経緯ですね
簡単に言うと明治天皇が新政府に騙された と言う事です
京都は戦火に巻き込まれるので危ない 東京に移動しましょう と
明治新政府の役人が騙したのです
再度のご回答ありがとうございました。
<騙された>
のですね。維新のころ、複雑な駆け引きがあったのですね。”安全になるまで、とりあえず行幸で”となったのでしょうね。
No.6
- 回答日時:
No.2です
わざわざお礼を記入頂きありがとうございます
お礼の中に「実質的には、遷都と思われていたと思います」とありますが、実情はやや違っています。「行幸」「奠都」という言葉は使われましたが「遷都」という言葉は正式に使われたことがありません。
現在も日本の首都をどこにするのかという法律上の定義がありません
東京と京都が並立していると考えている人もいます。
京都市民をはじめとして正式には京都が首都だと言う人もいます。
単に言葉上の問題だ、ということでは済まされない問題が含まれています。
下記のサイトをご参照ください
明治新政府の手にはおえなかったようです。
取り扱いを間違えると再び内乱を起こす危険性が含まれていました
まったくややこしい話です
東京奠都 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/東京奠都
日本の首都 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/日本の首都
「古い時代のことは、一般の人(知識人は別として)は知らないし気にしていない、と思います。」とされておられますが、仰るようになかなか一筋縄ではいきません。
天皇の戦争責任論が後ろに控えていますので、昔の話だ庶民は知らないとも言えません。
なにかの折によく蒸し返されます。
ともかく天皇がからんできますと話がどんどんややこしくなります。
何を常識というのかという途方もない議論になってしまいます。
ごの質問趣旨とは大分離れてしまいました。
天皇が行幸したのは、ご指摘のように天皇の意志ではありませんでした。
明治新政府の要請であったことには違いがありません。
蛇足
明治新政府の高官にたいする畏敬の念があまりにもなかったので、帝国大学の卒業生をもって権威としたという話もあります。
学士様ならお嫁にやろか、あすは博士か大臣か、とかなんとか言われていました。
当節の学卒とはだいぶ違います
天皇が偉いということを教えるのにお稲荷さんが引き合いにだされました。
お稲荷さんは正一位である。正一位というのを決めるのは天皇である。しかるに天皇はお稲荷さんよりも偉いのだ。
まるで落語ですが結構納得性が高かったようです・
現在のように政府はバカだ官庁はアホだなどと言われても平気な時代には考えられない価値観です。
威厳だに権威だのというのが相当に大事だったようですね~
まぁ~今も権威主義の人は沢山いますけれど・・・
再度のご回答ありがとうございました。
引用して頂いた資料を興味深く読みました。維新前後の短い期間に、複雑な動きがあったのですね。当時の人の黄虚々実々も、今の私には楽しいです。奠都も遷都も行幸も区別して使った方が臨場感がありますね。
<ともかく天皇がからんできますと話がどんどんややこしくなります>
ですね。言葉一つからややっこしくなりますね。
<天皇が偉いということを教えるのにお稲荷さんが引き合いにだされました。>
一般の人にとって、天皇は遠い存在で、偉いにかどうかはわからないのですね。一君万民という思想は、知識人階級のみが書物で知った、のかもしれませんね。
No.5
- 回答日時:
明治新政府は、外交上の都合などから、東京に行政府を置くことにしました。
そこで、江戸城を拠点にしたいと考え、明治天皇に見聞目的での行幸をお願いしました。
明治天皇は京都を離れたくなかったが、政府の願いを聞き届けて嫌嫌ながら江戸城に行幸されました。
行ってみたら余りにも素晴らしかったので、京都へは帰りたくないと駄々をこねられた。
一旦帰京はされたが、お城の素晴らしさが忘れられず、お城住まいを強く希望されたので、江戸城に永住されることにりました。
そこで政府は別に政庁を建て、宮内省を江戸城内に置くことにしました。
その様な流れがあったと、何かの本で読んだ記憶があります。
ごく最近まで京都の人達は、『天皇を東京にお貸ししている』と考えていたようです。
尚、現在の京都御所は離宮の一つで、大火の後に仮宮とされたまま現在に至っているとのことです。
大極殿は火災焼失した後再建されること無く、京の都は未完成の宮域なのです。本来の皇居は大宮通の突き当たりに計画されていました。大極殿跡地はそのあたりに比定され、石碑で跡地と記されています。
早速のご回答ありがとうございました。
新政府は天皇を引っ張ってきたいと思っていただろう、ということは考えています。しかし、明治天皇が
<京都へは帰りたくない>
と思ったのは、意外でした。上方の文化・雰囲気に取り囲まれていた人が、東(あずま)のあらえびすの環境が気に入ったとは、思ってもみなかったことです。行幸でも遷都でもどちらでもいいですが、一人の個人の思惑が歴史に大きく影響したのですね。
No.4
- 回答日時:
明治初期の日本人は、薩摩藩とかの藩人という意識が
強く、日本人という意識は希薄でした。
そこで山県有朋と西周が相談して天皇を持ってくることに
したのです。
お前らは、薩摩藩人という以前に、天皇が治める日本という
国の国民である。
つまり、日本人である、という意識です。
この日本人という意識、現代人は当たり前ですが、
当時は大変なことだったのです。
中国などは大正時代になっても、庶民に中国人などと
いう意識は持っていなかった、と言われています。
日本への留学生ですら、上海人、北京人でした。
日本人に日本国の国民である、という意識を醸成
させるためには、首都である東京に、天皇を持って
くる方が良かったのです。
ということで、これは新政府の強い要望だと
思われます。
早急の回答ありがとうございました。
申訳ないのですが、私の質問が適切でないため、弁解やら補足やらをいたします。
<新政府の強い要望>
なのですね。その理由は、
<藩人という意識>
ではなく
<日本人に日本国の国民である、という意識を醸成
させるためには、首都である東京に、天皇を持って
くる>
という強い要望なのですね。
No.3
- 回答日時:
知らない?
天皇はあくまで「東京に行幸中」と言うことに成っています
行政上 首都は東京ですが
正式には京都が日本の首都ですから
天皇が正式に「遷都」をした例は
藤原京、平城京、長岡京、平安京の4例のみです
早急の回答ありがとうございました。
申訳ないのですが、私の質問が適切でないため、弁解やら補足やらをいたします。
知らなかったです。
<あくまで「東京に行幸中」>
形式上、行幸であろうが、遷都であろうが、天皇の居る所が変わった(一時的ではなく)ことについて、どの様な経緯なのですか、という質問をしております。
No.2
- 回答日時:
移転したことにはなっていません。
あくまでも行幸中です。
京都御所には大極殿がありますが皇居にはありません。
明治新政府も東京行幸をお願いしただけです。
現在の制度と混同しないようにして下さい。
天皇家が仕来りを墨守しなくてはならないことはありません。
後醍醐天皇をはじめ歴代の天皇は仕来りを改革してきました。
仕来り墨守なら昭和軍部もデカイ顔はできなかったでしょう。
今上皇后陛下も皇太子妃も即位できませんでした。
天皇家は政治に口出しするな、書物だけ読んでいろと言ったのは江戸幕府です。
公家諸法度などというものを押し付けただけです。
明治新政府が行幸を仰いだのは江戸っ子に徹底的にバカにされたことが原因の一つです。
公方様のおひざ元の江戸っ子にとっては、明治政府の薩長の人間なぞ、田舎大名の下っ端ざむらいです。
何処の藩も歴代の藩主というのはよほどのことが無い限り江戸生まれ江戸育ちです。
早急の回答ありがとうございました。
申訳ないのですが、私の質問が適切でないため、弁解やら補足やらをいたします。
<あくまでも行幸中です。>
ついては、形式的には行幸となっていても、実質的には、遷都と思われていた、と思います。
<歴代の天皇は仕来りを改革してきました。>
<天皇家は政治に口出しするな>
については、古い時代のことは、一般の人(知識人は別として)は知らないし気にしていない、と思います。
最後の4行は、貴重な指摘でした。
薩長からなる明治政府は、江戸ッ子から芋侍などとバカにされるので、体制のシャッポに崇高なお天子様を引っ張り出してきた、ということですね。
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