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自閉症の人の(サヴァン症候群を除く)才能って、一つの事に非常に集中すること自体が才能になるんですか?または、ある特定の分野に才能があり他の普通の人や他の自閉症の人より簡単にできるということが才能になるんですか?

A 回答 (12件中1~10件)

#1です。



やはり、なんだか「文章だけのやり取り」だと「誤解を招く」ようですね。

「才能」の定義で、私は2通りの案を出しました。「能力があり、一定の生活ができるようになる物」(=求めれれるレベルの高いほう)か「能力があり、人から尊敬を勝ち得る物」(=求めれれるレベルの低いほう)と。

それに対して、あなたの「定義」は「私の案」の「求めれれるレベルの高いほう」以上の「レベル」を求めているものでした。

ですので、あなたの「定義」は「天賦の才」と言う範囲になり「才能」という範囲ではないと答えました。

>インターネットや自閉症の専門的な解説書には「自閉症の人はある一つの事に非常に強い興味を持ち集中してしまう。この集中してしまうのもある意味才能です。」みたいな事もよく書かれていますが、これはどう思いますか?

ここでの「才能」とは「能力があり、人から尊敬を勝ち得る物」と言う「定義」に当てはまるものです。そして、その前についている「ある意味」と言うのは、「正確には違うけれど、見方を変えれば、そう見える」ものに対して使う言葉です。

ですので「自閉症の人はある一つの事に非常に強い興味を持ち集中してしまう。(時には集中しずぎることで、本人がつらくなることもある。だが、)この集中してしまうのもある意味(分野を限定し、社会にとって有益と思える成果を上げるためには必要な)才能(といえるもの)です。」とは言えると思います。

>やはり大半の自閉症の人達は特に特別な才能や能力は何も無いと考えた方がいいんですね。

「何もない」訳ではありません。それが「生活の糧を得れるほど特殊」でないと言うだけです。

私の学校の生徒でも、カレンダーを見ないで「2015年12月25日は?」と聞けば「金曜日」と正確な曜日が言える子がいます。彼にとっては「当たり前のこと」なのですが、自閉症でない人にはこれは「ほぼ不可能」です。

しかし、これで彼が「生活の糧を得れるか?」と聞かれれば「ノー」でしょう。でも「素晴らしい才能」であることは間違いがありません。

ちなみに、この「カレンダー当て」を「サヴァン症候群」のように言う人がいますが、自閉症の子には「よく見られる才能」なので「特殊」とは言えません。

また、自閉症の子が描く絵で多いのが、「緻密な細密画」や「その場に行っていないのに描ける鳥瞰図」などがあります。これは「誰でも描ける」ものではありません。

美術の世界では「神は細部に宿る」と言うものがあります。「細部へのこだわり」を持っていないと「美術では才能がない」となります。自閉的な「細部へのこだわり」が「才能」へと変わる例だとは思います。

>なんだか才能ってよく深く考えると簡単に「A君は他の人より何倍もできたから才能あるな!」とは言えないもんなんですね。

いいえ。普通の「能力があり、人から尊敬を勝ち得る物」を「才能」と言うのならば、その言葉は「言える」のです。

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つまり、自閉症だから「才能がある」訳ではないが、自閉症でも「才能がある」分野はあるということです。

世の中は「ゼロか百」ではありません。「自分の強み」を最大限に活用して「弱み」をカバーすれば、「特殊な才能」を持たない自閉症の人でも、自閉症でない人と「同じ」ように「活躍」はできるということです。

ご参考までに。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。自閉症の人全員に必ず才能がある訳では無いんですね。でも普通の自閉症でも興味を持った事に非常に強く集中すれば活躍できる可能性はあるんですね。

お礼日時:2014/12/30 19:52

まずアメリカには、その人の能力に応じた飛び級という制度もあって、日本でいう所の「学歴」とは違う感覚が下地としてあります。

ですので日本との比較が難しいのですが、仰るような事例は、特に自閉症の人という事に限定せず、よくあります。アメリカには、研究を支援する民間の出資者が沢山いるからでもあります。研究には、お金がかかるんですよ。
また日本においても、大卒ではない人が、大学で教えているケースがよくあります。大学に所属する研究者となると、なかなか難しい現実がありますけれどね。民間の研究所になら、いない事もないと思います。要は、その研究にお金を出してくれる出資者がいて、研究成果を論文として発表し、一定の評価を受ければ、誰だって研究者ですし、そのチームとして働けば誰だって研究員です。
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この回答へのお礼

なるほど。色々と回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/30 23:57

勿論、研究者になる必要なんてありませんよ。

なりたい人が、なればよいのです。
私も、当時でいう養護学級にいました。高校へも進学しませんでした。あなたと同じです。社会人として過ごしてから、障害児童に惹かれ、大学で学びたいと思い、大学受験資格の検定を受けて、予備校へ行って、大学に進学して卒業して、現在に至ります。
本当の知識者は、大学だけにいるとは限りません。様々な学びに、私も邁進して参りたいと思います。
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この回答へのお礼

再び回答ありがとうございます。回答者様もいろいろと頑張ってきた結果研究者になれたのですね。ちなみにこういうのって、日本では研究者になるためには必ず猛勉強して大学に行かなくてはいけませんが、アメリカだと必ずしも猛勉強して大学へ行かなくても知識の量などで誰かが認めてくれていきなり研究者になれるんですか?なんか私の母が、自閉症の人ならアメリカでは猛勉強して大学行かなくても才能や能力があれば認めてくれて簡単に研究者になれるとよく言ってるのでそこが疑問です。

お礼日時:2014/12/30 22:40

あなたが言われているのような本が、一般書といわれるものです。

それらは、自閉症と関わる一般の人に分かりやすく、実用的に解説されたものです。
専門書を読みこなすのは、難しいかどうかの知性の闊達さより、センスです。自転車に乗るようなものです。興味があるかどうかにもよるでしょうね。それらを読むと、また次の疑問が自然と湧いてきます。その本が、どの年代に書かれていて、同じ著者の研究がどのように発展されたかにも注目して、次の本を選んで下さい。さらに、疑問が湧いて来ます。また、さらなる専門分野へと知識の冒険を心ゆくまで、楽しんで下さい。私は、そうして研究者になりました。
また、あなたの立場では、定型発達者とは、どのような存在かを知る事も重要です。そちらの方が新鮮な驚きに満ちているかも知れませんし。あなた自身を知る手掛かりかも知れません。
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この回答へのお礼

なるほど。とりあえず後日機会があれば読んでみます。ちなみに回答者様はそういう分野が好きでどんどん追求していく内に研究者になったんですね。でも私は小~高校までずっと特別クラスや養護学校に通っていて中卒なんです。でも今は一般企業に就職しています。でも私学歴全く無いので回答者様みたいに研究者になるのは無理かなとも思ってしまいます。

お礼日時:2014/12/30 22:05

そうですね。

図書館を利用なさる方が、より幅広い選択が可能だと思います。専門書はお値段が張りますからね。
地域の図書館に無くとも、取り寄せ可能な場合がありますから、システムを確認して見て下さい。まず五冊、著者や同じ研究所が被らないように選んでみて下さい。
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この回答へのお礼

やはり図書館にも自閉症の専門的な解説書は置かれているんですね。自閉症の専門的な解説書となると、よく本屋にあるようなお母さんや普通の大人向けに簡単に解説されている自閉症の本の内容とは全く違うんですかね?

普通の大人や子供では小難しくってなかなか簡単に理解できない本ですか?

お礼日時:2014/12/30 20:57

お礼有難うございます。


再度回答させて頂きます。
ここへ、あなたの疑問に関する回答を求めても、「一般に、自閉症はどのように認知されているか」という回答しか得られません。言うまでもなく、「自閉症」とは一般知識では無いのですから、無駄です。
一般とは定型発達者です。定型発達者とは、分からないパーツをイメージで埋めて、分かるように整える存在でもあるんです。本人もそれが、イメージである事に気付かない。ですから、無駄です。
ご自分で、専門書を読むことです。自閉症についての、一般書を読んではいけませんよ。一般書は定型発達者が納得出来るようにしか書いてありませんからね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。後日機会があれば自閉症の専門的な解説書を読んでみます。ちなみに自閉症の専門的な解説書って、本屋だけでなく小難しい本が揃う図書館にもありますか?

お礼日時:2014/12/30 19:53

「自閉症の人はある一つの事に非常に強い興味を持ち集中してしまう。

この集中してしまうのもある意味才能です。」

この文章の才能という言葉に深い意味はありません。
「ある意味」って書いてますよね。ある意味○○です。という文章は○○そのものじゃないけど、考え方次第では○○だと言えなくもない、という程度の意味です。
何かに強い興味を持って集中した結果、社会的に才能だと認められる能力を発揮する場合もある、ということです。
たまたま絵を描くことに集中した自閉症の人が絵を描きまくった結果、絵が上達して「この子は絵画の才能がある!」と回りの人が認めることもあります。
でも長年絵を描きまくっても上手い絵や人に感銘を与えるような絵を描けるようになるとは限りません。
むしろ自閉症の場合は本人に目的意識がないことが多いですから回りから認められる能力にならない場合も多い。
あと、自閉症の人の全員が何かに強い興味を持って集中するわけでもありません。
自閉症に妙な夢というか幻想を抱くのはやめたほうがよろしいかと。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。自閉症にあまり夢を膨らませない方がいいんですね。ちなみに私自身も自閉症ですがね(笑)

お礼日時:2014/12/30 19:42

#1です。

お礼ありがとうございます。

>ちなみに私の才能の定義とは、ある特定の分野が全く努力無しに(感覚としては頑張るという思いが全く無い状態でその分野が成功の連続みたいな感じ)他の人よりも簡単にできるというのが私の才能の定義となっています。

それは「才能」と言うより「天賦の才(てんぷのさい)」と言われる類の能力です。

そんな「特殊な能力」は、自閉症であろうとなかろうと世界中で数人しか持ち合わせていないでしょう。

発明王と言われるエジソンは「天才とは99%の努力と1%のひらめき」と言っていますが、これも「誰でも努力すれば天才になる」ということではなく「99%努力しても1%のひらめきが無ければ、天才ではなく。1%のひらめきがあっても99%の努力がなければ、天才とは言えない」ということです。

>よくインターネットや本などで才能を調べると、普通の人は才能あっても少しは努力しないといけないが、自閉症の人は才能あるだけであとはそれに非常に強く興味を持ち集中すればそれだけで才能が発揮できるみたいな事が書かれていました。

どう言ったサイトなのでしょうね。いわゆる「こうすれば儲かる」式の「サギめいた」サイトなのではないでしょうか?

どんな人でも「努力」しなければ、「退行」します。『持っている機能を失っていく』のです。

これは「天賦の才」でも同じです。日々の積み重ねがなければ、能力は「退行」します。

どんなに身体の丈夫な人でも、2か月以上、ベットに横になって、1歩も起き上がらければ、「立つことができない」ほど筋力は落ちます。それは人間の身体のどの部分でも同じことです。

自閉症でも自閉症でなくても、同じです。

「それに非常に強く興味を持ち集中す」ることが「努力」なのです。あなたにとっては「努力」のイメージではないかもしれませんが。

人は「好きなことに集中する」ことを「努力」とはあまり言いませんが、周囲の者からすれば、それはあきらかに「努力」なのです。

因みに蛇足ですが、自閉症は「脳の機能障がい」と現在では考えられています。けっして「精神疾患」ではありません。

http://kokoro.umin.jp/autism/4-1.html
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この回答へのお礼

なるほど。でもインターネットや自閉症の専門的な解説書には「自閉症の人はある一つの事に非常に強い興味を持ち集中してしまう。この集中してしまうのもある意味才能です。」みたいな事もよく書かれていますが、これはどう思いますか?

お礼日時:2014/12/30 16:31

はっきり言ってまだ脳のことは不明なことも多いので自閉症だけど特殊な才能に目覚めた人の脳内でどういうことが起こっているのかはまだ正確にはわかっていません。


書籍とかインターネットの記述も適当な思い込みで書いてるのが多いのであまり鵜呑みにしないことです。

あと、自閉症だからって何かの才能があるというのは間違い。
なんら特別な才能を示さない自閉症のほうが多い。
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この回答へのお礼

やはり大半の自閉症の人達は特に特別な才能や能力は何も無いと考えた方がいいんですね。

お礼日時:2014/12/30 16:27

私は、特に障害児童の発達の研究職に就く者であり、自身が発達障害者でもあります。

そして、診断としては知的障害もあります。
まず、一点申し上げたいのは、自閉症は精神障害ではありません。脳機能の偏った在り方のひとつです。何から偏っているのかと言えば「平均」から偏っているのですね。この平均の範囲内に収まる人を定型発達者と一般には解釈します。これは、100人のうちの平均を取るというような、相対的な考え方です。
「才能」を、一般的ではない特殊な能力の発揮だと考えれば、定型発達者には才能が無いという結論になりますが、これは乱暴過ぎる理論展開だと、私は考えます。その人のみを見て評価すれば、昨日よりも機能が向上した時に、能力が高まったとみえますし、どこまで向上するかという可能性は、数値とし難くもあります。また「平均」とは、非常にバランスが取れた、極めて美しい機能の在り方のひとつとみますし、見事な「平均」というものも、滅多にお目にかかれない特殊な事例でもあります。
「普通」というものは、発生したその瞬間から「異常」へ向かって歩み出しますし、「異常」というものも、発生したその瞬間から「普通」へ向かって歩み出そうとするものなのです。殆どの人は「普通」と「異常」の間で生きているのだと考える事が出来ます。その時々に、人は能力を発揮する、その側面が、時々は「才能」だと評価されるのだと考えます。この考えから照らせば、「才能」の発揮とは、極まった「普通」と、極まった「異常」に二分化されます。これらは、どうのような「見方」を取るかという、指標を模索する考え方のひとつです。
そして人は、常に多様な人の中のひとりである。あなた自身が、ひとつの事に集中している最中。その環境を維持する働きをしている誰かがいて、それが成し遂げられるのです。様々な条件が揃わないと、個人の能力は発揮されません。発揮されたとしても、その機能はその人自身のみの手柄ではないのです。であれば、その人の能力の発揮が結果として人の役に立った時、その能力は「才能」として、認知されるのだと考えます。
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この回答へのお礼

詳しい回答ありがとうございます。なんだか才能ってよく深く考えると簡単に「A君は他の人より何倍もできたから才能あるな!」とは言えないもんなんですね。

お礼日時:2014/12/30 16:25

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