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まず、私の考えをいいますと・・・
神様は存在しないだろうと思っています。
これに対して、いや、違うというお考えがあれば教えてください。


神様が存在するという証拠も、存在しないという証拠もない。
だから厳密にはどちらとも言うことはできない。
でも、存在しそうか、しなそうかということは考えることができる。

存在しなそうという根拠は
1)宗教で考えられている神様は、民族によって内容がバラバラである。これを統一的に考えるのは困難。これらの宗教のうちどれか1つの神様が正しいということを考えることも難しい。どちらかと言うと宗教は衰退しているようにみえる。ヨーロッパやアメリカでのキリスト教信者の減少など。

2)神様が存在するなら、その神様をつくったのは誰か?どうやってつくったのか?という問題が発生する。それに対し、神様はもともと存在したのだという意見も聞くけど、私は納得できない。やはり、最初に誰か(何か)がつくらないと存在できない気がする。

神様説に対する反論として・・・
神様が存在する根拠として世界があまりにもすばらしくできていて神様なしには考えられないというのがあります。インテリジェント・デザインとか。

1)たしかに生物の体はほんとうによくできていると思います。でも誰かがデザインしたにしては無駄が多い。痕跡器官など。これらは生物進化の結果だと思います。

2)地球は人間が住みやすい環境です。これは偶然で説明できるのか?という意見があります。それに対しては人間原理で考えることができます。つまり地球の環境がうまくできているのは、もしうまくできていなかったら人間が存在できない。つまり、「当たり」の環境にしか人間は存在できないので、なんで「当たり」しかないのだろうね、不思議だね。という話になるということ。


「神様を信じるとしあわせになる。だから神様を信じる」というのは、ありだと思います。
ただ、「信じるとしあわせになるから、神様は存在する」というのは論理的につながっていないと思います。

念のために申しますと信仰は各人が選択するもので、そこに立ち入るつもりはありません。神様の存在について客観的なお話を聞きたいだけです。

論理的に神様が存在しそうという考えがありましたら教えてください。


以下、余談になります。
神様の存在を信じている人と議論して不満に思うのは、神様はいないだろうというと、「君は神様が存在しないということを信仰しているのだ」と言われてしまうことです。つまり「君も自分も信仰の方向が違うだけで信仰しているのは同じなのだ」という相対的なあつかいに持ち込まれてしまうのです。

私としては神様が存在する証拠や根拠が納得できれば、神様が存在するほうに考えを変えるつもりなのですが、やはりこれも信仰なのかな?と。

私が「妖精は存在しない」と言ったら誰も「君は妖精が存在しないという信仰を持っているのだ」とは言わないですよね。もし、神様と妖精はどこが違うのでしょうね。もしよかったらこの点もお教えください。

A 回答 (29件中11~20件)

こんばんは。




「無」ですか。

>「論理的に神様が存在しそうという考えがありましたら教えてください。」

「無理」も無理、では?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。せっかく回答いただきましたが、意味がわかりません。

お礼日時:2015/01/21 18:46

>なぜ神様が概念だけなのかを説明しないと、、、、



メタフィジックスとマテリアリズムでは説明が異なるかもしれませんが、、、、

存在とは測定可能なもの(長さ、質量、電荷、温度、光量、寿命、等々)か、あるいは測定可能な部分を含んでいます。

神様は測定可能でなく、測定可能は部分を含んでもいないから、純粋概念であって、存在ではないのです。

リンゴと神様の違いがご理解いただけたでしょうか?
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この回答へのお礼

明快な回答ありがとうございます。
そのようにスッパリと割り切ることは考えていませんでした。
つまり物理現象としてとらえることができないものは存在しないということですね。
音波や電磁波は物質ではありませんが波長などを測定できるので存在することになりますね。
納得しました。
ただ、お答えを聞いて心に浮かんだ疑問があるのですが・・・。
(今までのお答えに感謝しております。何度もお手数かけて申し訳ないのでお答えいただかなくても結構です。)

1)昔の説話や聖書の記述では神様が測定可能な実体としてあらわれます。
姿をみたり、声を聞いた預言者がいたりしました。つまり測定できたという話は文書で残っています。こうした話はすべて架空という扱いになるわけでしょうか。

2)例えば「愛情」は測定不可能と思いますが存在している気がします。
こういったものはどのような扱いになるのかな?と思いました。
「愛情」は存在しないもの扱いなのかなと。

お礼日時:2015/01/21 18:46

証拠があれば信じる・・これは信仰ではないし“信じる”と言う行為ではないですよね。


例えば貴方は親を信じますか?友人を信じますか?信じていないですよね。信じていると言うのならその証拠はどこにありますか?100%確証のある証拠でしょうか?違いますよね。
信じると言う行為に対し証拠を求めることなど出来ません。それは科学も同じです。科学を信じるなど愚かなことです。なぜなら科学は「進歩」という言い訳でいつでも裏切りますから。正しいと信じていても次の瞬間否定されるかもしれません。それが科学です。
確証があれば信じる・・・これは信じていることではありませんし、信仰ではありません。これは取引です。
「信じるに値うものを得て、その代償として信じる」と言う取引なんです。

別に神を信じなくてもいいんです。なぜなら動植物はだれも「神を信じている」などとは言いません。では彼らは神を信じないから天国にいけないのか・・?
神の法則それは宇宙の法則、「ことわり(理)」であるはずです。であれば、その断りのままに生きている動植物は完全なものともいえます。彼らこそ人間より優先的に天国に行くでしょう。

では人間における断りとは何でしょうか?本能のままに生きること?でも本能と欲望は違いますよ。本能ってなんでしょうね。人間に与えられた理が本能のままに生きるなら、なぜ人間に智恵とか理性とか与えられたのでしょう。断りによって与えられたものを無碍にする事は理に反することではないのでしょうか?

人間が人間らしく生きていさえすれば、神を信じると意思表示をしようがしまいが関係ないのです。ただし、人間らしい生き方を考えも求めも是巣に欲望のままに生きるのであれば、それは理に反していると言う事になります。そこが人間と他の生物との違いです。そしてそれが何かを求めることが真の意味での宗教なんです。

神を求めると言う事は真の人間らしさを求めること。神を信じると言う事は「人間に与えられた理」があると信じることです。確証などありません。求めているのですから。そしてそれは常に自分の中のものと天にあるものを見詰めなければなりません。それが信仰です、信じて仰ぎ見ることです。

神と妖精の違いですか?ないですよ。
神と言う語句の意味は「人智を超えた存在」です。別に創造主でもなければ教祖でもありません。真の神と言うものであってもいいし、人間でも構いません。優れたもの、秀でたもの、先祖などなどすべてが「神」です。
近年若い人が「神降臨」とか「だれそれは神」とか言いますが、これが最も「神」という語句を理解していると言えます。ですから人間では到底ありえない妖精も“小さな叔父さん”も「神」と呼んだっていいんです。別に万人が神と認める必要もありません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。部分的な内容は理解できるのですが、全体としての主旨がよく理解できませんでした。どのようなスタンスでお書きなのか?お答え全体がどのようにつながっているのか理解できないまま書いているので、私のコメントはトンチンカンかもしれません。

もし質問が「キリスト教に入信したいのですが、神様の存在を信じることができません。神様が存在する証拠はありませんか?」という質問だった場合は、そのような回答になるのかなと思いました。私は宗教的な観点は排除して考えたいと思っています。

「信じる」「信じない」と言った場合に、まったく信じないか100%信じるしかないのでしょうか?私の中では信じるといってもいろいろなレベルがあります。「この人については日常的な範囲では信用するけど、本当に重要な話はやめておこう」とか。親とか兄弟に対する信頼度は高いですが、それでも100%信じているわけではありません。

疑うのがいけないみたいに言われますが、疑うということは重要です。もし疑うことがなかったら社会的に安全に暮らしていけなくなります。例えば詐欺にあうとかカルト的な宗教に引っかかってしまうかもしれません。もちろんすべてを疑っていたら生活できないので、何をどの程度疑い、どの程度信用するのかは考えておかないといけないですが。

疑うと言えば、常識的なことを含めてすべてを疑うのが哲学です。「本当に世界は存在しているのか?」とか。その意味では、信じることが基本である宗教と、疑うことが基本である哲学がおなじカテゴリーにあるというのは不思議ですね。まったく逆ですから。

信頼は取引と言えばいなくもないと思います。そのように考えるなら、宗教もまた神様を信じる代償に心の平安を手に入れる取引行為だと思います。

科学については、その分野の専門家が実験や観察などの客観的根拠をもとに出した結論を、他の数多くの専門家が検証した結果なので、かなり信頼しています。現状においてこれ以上信頼できるプロセスはないと思います。間違った結果が発表されることもありますが、それらは他の研究者によって追試されて再現できなければ排除されます。

私が科学的に正しいと思っていることであっても、1000年先の未来の人間からみたら間違いだらけかもしれません。でも、それでいいと思っています。現状でできることはそれしかないのですから。過去の理論が間違っていて訂正されることもあります。その時、別に私は裏切られたとは思いません。より正しくなってよかったと思うだけです。別に誰かをだまそうと思って間違った理論があったわけではないですから。

天国は存在しないと思っています。生物は死ねばすべて消滅です。

人間に知恵があるのは、それを武器に生存競争を生き抜いてきたからです。肉食動物が鋭い爪と牙で生存競争を生き残ったのと同じです。

「人間がどのように生きるべきか」は決まってはいないと思います。人間が考えて決めればよいことだと思います。そのよりよく生きることについてやはり神様が必要なのでしょうか?別に神様を信じなくても、よく生きることはできる気がするのですが・・・。
日本人は神様を信仰している人の割合は少ないですが、よりよく生きていると思います。

より人間らしく生きる生き方というのは時代や文化によって変わります。昔だったら他の民族を滅ぼして、自民族の領土を拡大するのは正義でしたが今は侵略行為とみなされます。旧約聖書にも「ここの土地はおまえらにやるから他民族から奪い取れ」と神様が言う話がありましたよね。宗教の一つの問題として、それが成立した時代には正義であり人間らしく生きることだったことが、現代では考え方が代わり正義ではない場合に教えを訂正するのが難しいことです。現代では男女同権があたりまえなのに、宗教ではしばしば女性差別が行われているように思います。確かに昔はそうした考えが主流でした。その時代ではよかったのかもしれませんが、これは何とかならないものかなと思います。

そうすると宗教抜きの神様というのはありえないということなのですね。
宗教は「人間はこう生きるべき」というのがつきものですから、それと神様はセットになっていると・・。

何か超自然的な能力をもっている未知の存在があっても、それが人間はこう生きるべきであるということを示さないとしたらそれは神様じゃないということですね。

例えば、宇宙全体をつくって、あとは何もしない、何も考えてないという存在があったとして、それは神様じゃないということですか?

>神と妖精の違いですか?ないですよ。

「それが神様だと思えば神様になる」という話でしょうか?そうすると、神様とは人間の外部に存在しているわけではなく、人間の思いがつくりだしているとお考えなのでしょうか?

お礼日時:2015/01/21 19:52

存在しない。



するとしたら自分自身の中にある。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
シンプルな回答ですが、それが本質なのかもしれないですね。

お礼日時:2015/01/20 00:53

こんにちは。




☆神様が存在するという証拠も、存在しないという証拠もない。
だから厳密にはどちらとも言うことはできない。
◇実証主義的な観点からすると、
神様は存在しているのか、存在していないのか、
どちらとも言えない。
ですから、
実証主義や自然主義的は、神様問題を扱いません。
神様を対象にせず、自然現象などの説明に神や神に類する超自然の存在を用いなければ、済む話なので。
すべて、我々の経験のうちで語ればいいだけですよ。
そして、
神は、科学や哲学とは無関係なもので、信仰に関する問題として切り離す。神を信じるのも信じないのも自由でありどちらでも構わないけれど、ただ、哲学や科学の説明原理ににこれを持ち込まなければいい。
あるいは、
神に関わる問題については判断停止・エポケーする。

これが現代的な考え方であり、立場であります。


☆でも、存在しそうか、しなそうかということは考えることができる。
◇考えることは自由ですが、白黒はつけられませんよ(ポリポリ)。



☆1)宗教で考えられている神様は、民族によって内容がバラバラである。これを統一的に考えるのは困難。これらの宗教のうちどれか1つの神様が正しいということを考えることも難しい。どちらかと言うと宗教は衰退しているようにみえる。ヨーロッパやアメリカでのキリスト教信者の減少など。
◇これは反論になっていない。
たとえば、
 「リンゴは空を飛ぶ」

 「空を飛ぶリンゴが存在する」
は、おそらく間違っていますけれども、
だからと言って、リンゴが存在しないということにならない。
「神様が宇宙を作った」
がウソだとしても、「神様が宇宙を作った」ということや造物者としての神が否定されるだけであって、神を否定したことになりません。

また、
富士山は見る位置によって、天候などによっても、その姿を変えます。
嘘を語っていないことを前提にしますけれども、
その姿を目にした人たちの「(俺の見た)富士山は○○」という主張が互いに矛盾するように思えても、
これらの主張は互いに矛盾したものではありません。
これと同じように、
神に対する言及が「民族によって内容がバラバラである」ということは起こりえますし、
同時に、我々が神に対する全体像を知りえない故に、矛盾しているように思えるだけなのかもしれません。

ですから、これは反論になっていません。


☆2)神様が存在するなら、その神様をつくったのは誰か?どうやってつくったのか?という問題が発生する。それに対し、神様はもともと存在したのだという意見も聞くけど、私は納得できない。やはり、最初に誰か(何か)がつくらないと存在できない気がする。
◇「○○は△△が作った」、「△△は◇◇」が作った…というように無限遡及できないように、悪循環できないように、
神は作れれないもの、被造物でないものとして想定、仮定されています。
この想定、仮定を疑うのも、納得できないのも自由ですけれども、
これもまた反論になっていませんよ。
一応、論理的には瑕疵のない体系だと思いますよ(笑)。

だからと言って、この仮定が正しいとは言えないけれど(ニコニコ)。



☆1)たしかに生物の体はほんとうによくできていると思います。でも誰かがデザインしたにしては無駄が多い。痕跡器官など。これらは生物進化の結果だと思います。
◇神様は意外にバカかもしれない。バカでない保証はどこにもない。全知全能でないかも知れない。
あるいは、
規則や法則だけを作り、あとは、進化の方向性を含めて、この宇宙に住む生き物の自由な選択に任せているのかもしれません。

反証可能性がないので、いくらでも神様を弁護できますよ(ポリポリ)。
同時に、いくらでも神様の存在を否定できます。



☆2)地球は人間が住みやすい環境です。これは偶然で説明できるのか?という意見があります。それに対しては人間原理で考えることができます。つまり地球の環境がうまくできているのは、もしうまくできていなかったら人間が存在できない。つまり、「当たり」の環境にしか人間は存在できないので、なんで「当たり」しかないのだろうね、不思議だね。という話になるということ。
◇矛盾したことをおっしゃっているように思うのですが…。
これでは神の存在を認めていることになってしまいますよ。



☆「神様を信じるとしあわせになる。だから神様を信じる」というのは、ありだと思います。
◇私なんぞは、真っ先に、
「神様を信じるとしあわせになる」
という仮定を疑ってしまいますが…。
私の目には、「神様を信じて不幸せになっている」人がこの世に多数存在しているように映るからです。
また、ここでいう「しあわせ」という言葉も、現世的な幸せ、たとえば、お金持ちになるとか、美人やイケメンと結婚できるとか、いつもおいしいものが食べられる、何でも自分の思い通りになるといったことを幸せといっているのか、宗教的な幸福感をいっているのか、曖昧過ぎます。
まして、あるかどうかわからない来世の幸せをさしているのかもわかりません。
あまりに曖昧過ぎます。
それに
 「神様を信じるとしあわせになる」
は、特称なのか全称なのかも不明であり、
 神様を信じるとしあわせになる。だから神様を信じる
が論理的に成り立つためには、全称、つまり、
 「すべての人は神様を信じるとしあわせになる」
ことが必要になります。
特称、つまり、
 「神様を信じると幸せになる人がいる」
では、
 神様を信じるとしあわせになる。だから神様を信じる
は、論理的正しい推論ではありません。


ですから、
☆ただ、「信じるとしあわせになるから、神様は存在する」というのは論理的につながっていないと思います。
◇と五十歩百歩ですよ。
論理的にいえば、まぁ、どちらも誤りですね。



☆論理的に神様が存在しそうという考えがありましたら教えてください。
◇たぶん、神の存在論的証明のことをいっているのだと思いますが、これが無意味なことはよく知られています。

参考までに紹介しますけれども、
 完全なものは存在する(存在しないのであれば完全ではない、から)
 神は完全である
 よって、神は存在する
とか。

逆に、全能者としての神の否定は、背理法を使って、
 神は全能である。
 全能であるから、神でさえ壊せないものを神は作ることができる。
 しかし、神は全能であるから、神でさえ壊せないものをも神は壊すことができる。
 矛盾している。
 よって、神は全能ではない(神は存在しない)
なんてものが知られていますけれどもね~。

ただ、こんなものは、いずれも言葉遊びに過ぎないので、
現代ではこうした存在論敵な神の証明、神不在の証明は、誰もしませんよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
いろいろ鋭い指摘をいただいて、感心しました。
ただ、私が考えていたのと少し違う方向の回答と感じました。

神が存在するかしないかは証明不可能と思っています。この点について同意見ですよね。
そこで考えたのは「存在しそうか、しなそうかということ」を考える、つまり蓋然性の話です。

>◇考えることは自由ですが、白黒はつけられませんよ(ポリポリ)。

白黒はつけることは最初から捨てています。
白っぽいのか、黒っぽいのかを考えるという話です。

私が考えた話に対して、その考慮外の可能性が存在するという指摘はその通りだと思うのですが、それにどの程度蓋然性があるのかが問題だと思います。

例えば、古代の人間Cさんが、生涯独身だったか、奥さんがいたのかが問題になったとします。
過去の文献にCさんは生涯独身だったというのが何件か存在しています。
過去のCさんが本当に独身だったかは証明不可能ですが、独身だったと推定するでしょう。
この時に「妻帯者だった可能性がある」と指摘することは可能です。たしかに文献が間違っている可能性だってあるでしょう。
しかし、独身説を否定するには、それらの文献の信頼性が低いことか、新たに妻帯者であったことが書かれた文献を示す必要があると思います。
最初に提出された説の蓋然性が低いか、他に自分が持ち出す説の蓋然性が高いことを示す必要があります。

私の言及したことの蓋然性が高いのか低いのか?もし、別の可能性があるならその蓋然性はどうなのかということです。

>神に対する言及が「民族によって内容がバラバラである」ということは起こりえますし、

起こる可能性はあると思います。その蓋然性はいかがでしょうか?
高いとお考えですか?

> 神は作れれないもの、被造物でないものとして想定、仮定されています。

この点について、これはありそうですか?なさそうですか?


>◇神様は意外にバカかもしれない。バカでない保証はどこにもない。全知全能でないかも知れない。
>規則や法則だけを作り、あとは、進化の方向性を含めて、この宇宙に住む生き物の自由な選択に任せているのかもしれません。

これらも可能性の指摘で、その可能性を否定はできないと思うのですが、NemurinekoNyaさんはどの説の蓋然性が高いとお考えなのか?


>◇矛盾したことをおっしゃっているように思うのですが…。
>これでは神の存在を認めていることになってしまいますよ。

人間原理の話のところですが、よく理解できませんでした。
どうして人間原理が神の存在を認めることになるのか?


>☆「神様を信じるとしあわせになる。だから神様を信じる」というのは、ありだと思います。

この文章がなんでそんなにひっかかるのかよくわかりません。
これは私の考えではないですが、そうした考えの人は結構いそうですよね。
そうした考え方を理解しますよという意味です。

全称ではないです。ちゃんと書くなら「神様を信じると私はしあわせになる。だから私は神様を信じる」ということです。
命題と思って書いていなかったので、その指摘は驚きです。
なかには「宗教を信じれば誰でもしあわせになります」なんていう人がいるかもしれませんが、それは確かに問題と思います。

何がしあわせかは人によってそれぞれでしょうから一概に言えないと思います。
神様に愛されるからしあわせとか、死んでも天国にいけるから安心という話は聞きます。


>☆ただ、「信じるとしあわせになるから、神様は存在する」というのは論理的につながっていないと思います。

> 論理的にいえば、まぁ、どちらも誤りですね。

「論理的につながっていない」というのが誤りとは、論理的につながっているという意味ですか?
ここらあたり、ちょっと意味が理解できないのですが・・・。


>☆論理的に神様が存在しそうという考えがありましたら教えてください。
>◇たぶん、神の存在論的証明のことをいっているのだと思いますが、これが無意味なことはよく知られています。

それは誤解です。まさかそのように理解されるとは思っていませんでした。
私が言いたかったのは、「心で感じれば神はいるんだよ」というような感覚的な話以外でお願いしますという意味です。
「Aということがあるだろう、Bということがあるだろう。AとBを考え合わせるとCになるだろう。だから神様はいるんだよ。」
というような話の筋道をたてて、理解できるように答えてくださいという意味でした。



以下、今回の話とはずれますが・・・


>神は、科学や哲学とは無関係なもので、信仰に関する問題として切り離す。

昔は神と哲学は仲良しだったのにいつの間にか無関係になってしまったのか不思議です。形而上学など神様なしには成立しないですよね。
デカルトのあたりなのかなあ?そのうち調べてみたいと思います。


> 逆に、全能者としての神の否定は、背理法を使って、
 神は全能である。
 全能であるから、神でさえ壊せないものを神は作ることができる。
 しかし、神は全能であるから、神でさえ壊せないものをも神は壊すことができる。
 矛盾している。
 よって、神は全能ではない(神は存在しない)

そうした話は聞いたことがあるのですけど、神様でも論理証明の制限を受けるのか疑問に思いました。
論理的には矛盾していても、神にはそれができるということはないのでしょうか?
神様でも論理証明を超越できないとしたら、それはどうしてなのかな?と。

蓋然性とは全然別な話になってしまいますけれども。

お礼日時:2015/01/22 22:02

神様は概念ですから、存在ではありません。



「概念も存在の内だ」と主張する人がおりますが、そうすると「存在しないものはない」ということになります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
思ったのは・・・。「リンゴ」も概念だけど、存在します。ですから、世の中には概念だけのものと、概念と存在が両方あるものがあるわけですよね。なぜ神様が概念だけなのかを説明しないと、「神様は存在しないから、存在しないのだ」と言っているのとあまり変わらない気もします。

お礼日時:2015/01/20 00:59

神様は、「存在」してはマズいだろう。


存在する限り、陽子や中性子、電子などによって構成
されており、物理法則に従うはずであり、全知全能で
などあり得ない。
また、そうした存在性が、量子的な不確定性に基づき、
認識の有限性によって二次的に派生している事が判明
しており、「無であると分からない事が有」=ヒトの
方が造「物」主である時、神が「造」られては都合が
悪いだろう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。神様がそうした物質でできているという発想は思いつきませんでした。何か物質ではないものでできているような気がしていました。もしそうした物質でできているなら言われる通り、いろいろ制限がありそうですね。興味深い考えですね。

お礼日時:2015/01/20 01:02

ゲーテ全集13巻 「箴言と省察」 神と自然



1)「私は神を信じる。」これは美しい、賞賛する言葉である。しかし神がどこにどのように顕現しようと、神を承認すること、これこそ、真に現世の至福である。

2)神の器官としての自然を否定する者は、、ただちにあらゆる啓示を否定するがよい。

3)「自然は神をかくしている」という。しかしだれにでもというわけでない。

4)自然はつねにエホバである。自然としていまあるものも、以前あったものも、これからあるであろうものも。

5)どの面を注視しても自然から無限のものが発する。

6)物事の関係はすべて真である。あやまちは「「人間にのみ」」存する。人間の真とは、彼があやまちを犯すこと、自分自身、他人、物事と彼との関係をつかめぬことにほかならない。

7)自然はあやまちをなんら気にかけない。自然自身は、どういう結果が生ずるかおかまいなく、ただ、永久にまちかいなく行動することしかできない。

8)ケプラーは言った「私の最高の願いは、私が外界の至るところに見出す神を、内界にも私の内部にも同様に認めることである。」この高貴な人はまさしくその瞬間に、彼の内にある神的ものが宇宙の神秘なものときわめて密接に結びついていることを意識しながらに感じていたのである。

9)神の存在に関する目的論的証明は批判的理性によって排除された。わたしたちはそれを認めよう。しかし、証明として通用しないことも、感情として私たちに通用するはずだ。それゆえわたしたちは雷神学から雪神学に至るまで、この種の敬虔な努力をふたたび呼び寄せる。わたしたちは、稲妻や雷や嵐のなかに圧倒的な力の接近を、花のかおりやなごやかな風のそよぎのなかにやさしく近づいてくる存在を感じてはいけないだろうか。

10)略

11)真実は神に似ている。直接には現れず、私たちはその示顕によって真実を推測するほかない。

以後、省略。

パソコンで書くのにも疲れましたが、stmim さんはゲーテ様をどう思う。まあ、神はぜったいに、いないというかたくなな心では、ゲーテを読んだ所で、stmimさんは「ぱっぱら分かず理解できません」で私の貴重な時間をstmimさんへの回答に割いた時間は無駄骨となるであろう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。残念ながらゲーテは読んだことないです。

「自然はすばらしい、だから神様は存在する」みたいな感じでしょうか。
私は神様は絶対に存在しないなんて思っていないですよ。
もし、存在しそうならすぐそちらの方に考えを変えるつもりです。

私は理解できなくても、このサイトを読んだ多くの人には参考になったかもしれないですよ。そう考えれば、有意義かもしれません。

お礼日時:2015/01/21 18:55

神と言うのは一つの考え、概念であるので、事実上存在します。


例えば言葉というものは存在しています。同じ様な形で神も存在しているのです。考えですから表記することも可能ですし、話の題にすることもできます。
一方で、表記し得ないものというのが存在そのものです。例えば、ここに「リンゴ」と、文字で書いてもそれを食べることはできません。
神も、いくら語れどもその実体に出会うことはできないのです。まして神はただ形而上の産物の中でも、超越者と言われている考えであり、言葉の上にしか存在しないのです。
もし神に出会ったという話を聞いたならば、それは見神体験と言われるものです。これについても複数の種類と、それらを比較した哲学の論文があるので良ければ探してみてください。西洋の見神体験と、東洋の禅の見性との比較、と言った文献が存在します。
見神体験は、幻視か、脳内現象か、或いは思考のブレイクスルーと言ったものだと私は見ています。中には病的なものも混じっている可能性もあります。見性も同じ様なものと思っています。禅は当然神を想定していませんが、仏と言う超越的存在を前提としていますから、見神体験と同じ様な現象に見舞われたとしてもおかしくはありません。そういう事が起きる下地は、似ているのではないでしょうか。
また、西洋的神と東洋的仏の大きな違いは、神がクリエイターであるのに対し、仏は人間が修行して成るという違いがあり、この違いは看過できない大きなものです。クリエイターとしての神には、概念の枠を越えた実体を伴う可能性がでてきます。SFの話になりますが、未来人や宇宙人は、クリエイターとしての神に違いと思います。もし存在すれば、神がかった力を持っていることでしょう。一方、仏の方は、修行完成者でもありますから、要するに仙人です。仙人に出会えるかというと、
どうなんでしょう、俗世を脱した仙人は、数少ないでしょうがいるかもしれません。

まぁ、取り留めもない話をしてしまったでしょうか、私は神も仏も存在し得ると思っているわけです。この世なんて、如何にも作り物っぽいところがありますし、そういう意味でクリエイターは存在しえると思いますが、この場合、一者ではないと思います。また、この世が作り物っぽい故に、そこから脱した道の人、仙人も存在しうるとも思えるのです。
神と妖精の違いですか?
それはイメージの違いでしょう。
神をイメージした場合と、妖精を
イメージした場合とでは明確に違いがあるはずです。私のイメージでは、(西洋的唯一神の場合)神は闇で輝く白い光、恒星のようですが、妖精はティンカーベルです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
つまり神は概念だけ存在して、実体は存在しないということですね。

お礼日時:2015/01/21 19:36

問題は、それを自己確認する気があるか・出来るかにな


るかと
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
自己確認?・・・どうゆうことなのかなあ?
自分で神様を感じれば、神様は存在するということなのでしょうか。

お礼日時:2015/01/21 18:57

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