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まず、私の考えをいいますと・・・
神様は存在しないだろうと思っています。
これに対して、いや、違うというお考えがあれば教えてください。


神様が存在するという証拠も、存在しないという証拠もない。
だから厳密にはどちらとも言うことはできない。
でも、存在しそうか、しなそうかということは考えることができる。

存在しなそうという根拠は
1)宗教で考えられている神様は、民族によって内容がバラバラである。これを統一的に考えるのは困難。これらの宗教のうちどれか1つの神様が正しいということを考えることも難しい。どちらかと言うと宗教は衰退しているようにみえる。ヨーロッパやアメリカでのキリスト教信者の減少など。

2)神様が存在するなら、その神様をつくったのは誰か?どうやってつくったのか?という問題が発生する。それに対し、神様はもともと存在したのだという意見も聞くけど、私は納得できない。やはり、最初に誰か(何か)がつくらないと存在できない気がする。

神様説に対する反論として・・・
神様が存在する根拠として世界があまりにもすばらしくできていて神様なしには考えられないというのがあります。インテリジェント・デザインとか。

1)たしかに生物の体はほんとうによくできていると思います。でも誰かがデザインしたにしては無駄が多い。痕跡器官など。これらは生物進化の結果だと思います。

2)地球は人間が住みやすい環境です。これは偶然で説明できるのか?という意見があります。それに対しては人間原理で考えることができます。つまり地球の環境がうまくできているのは、もしうまくできていなかったら人間が存在できない。つまり、「当たり」の環境にしか人間は存在できないので、なんで「当たり」しかないのだろうね、不思議だね。という話になるということ。


「神様を信じるとしあわせになる。だから神様を信じる」というのは、ありだと思います。
ただ、「信じるとしあわせになるから、神様は存在する」というのは論理的につながっていないと思います。

念のために申しますと信仰は各人が選択するもので、そこに立ち入るつもりはありません。神様の存在について客観的なお話を聞きたいだけです。

論理的に神様が存在しそうという考えがありましたら教えてください。


以下、余談になります。
神様の存在を信じている人と議論して不満に思うのは、神様はいないだろうというと、「君は神様が存在しないということを信仰しているのだ」と言われてしまうことです。つまり「君も自分も信仰の方向が違うだけで信仰しているのは同じなのだ」という相対的なあつかいに持ち込まれてしまうのです。

私としては神様が存在する証拠や根拠が納得できれば、神様が存在するほうに考えを変えるつもりなのですが、やはりこれも信仰なのかな?と。

私が「妖精は存在しない」と言ったら誰も「君は妖精が存在しないという信仰を持っているのだ」とは言わないですよね。もし、神様と妖精はどこが違うのでしょうね。もしよかったらこの点もお教えください。

A 回答 (29件中21~29件)

この世は光でできている?



物理的現象として光をみてみます。
光をみるためには観測という行為をします。
光は粒子性と電磁波という波の性質が観測されています。

波として観測すると、波としてみえ干渉縞が生じることがわかります。
複数のスリットを同時に通過もします。

粒子として観測すると、粒子としてみえ観測地点以降は干渉縞は生じません。
スリットも1カ所しか通過しません。

知ろうとする行為によって自在に変化し、実態をつかみにくい。

神の存在に併せてみましょう。
在るとしてみると在るようにみえ、無いとしてみると無いようにみえ、科学的にははっきりさせるのは無理ですね。
証拠が証明に使えないのですからね。
神のカタチがバラバラというのもわかる気がしますね。
見方によって観測結果が影響される。
信仰が神のカタチに影響する。
証拠はないとすると、証拠がなくなる。
あなたが神はいないと思えば、あなたの目の前には神がいない世界があるということになりますよね。


答えになってないかも・・・。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

あると思えばあるし、ないと思えばないということですね。
そうかもしれないですね。でも、それってないと同じような気もしますが・・・。

お礼日時:2015/01/21 19:34

>当時は大変な思いをされたと・・・


私は落ちた瞬間だけ記憶しており、後は何も記憶がないのです。人が死ぬ間際は何も分らないのだと思っています。だから、死ぬ間際はもはや怖くはないのです。人の臨終は苦しくて暴れたりしていないことでも分ります。

質問には敢えて答えていません。人に聞いても分ることではないからです。幼い頃に教えられるか、自分が体験するかがないと理屈では理解できないのです。
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この回答へのお礼

なるほど。理屈ではないと・・・。
再度回答いただき、ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/21 19:27

私が神を信じる理由をお答えします。


この宇宙は、物質のみで構成されている訳ではありません。もし、私たち人間が物質のみから出来ているとしたら、ロボットと同じ存在であるはずです。科学が発達し精巧なロボットが出来ると、そのロボットは世間話をし、またやかんに触れれば熱いと言うでしょう。しかし、ロボットはそう言っているだけで実は何も感じてはいないのです。
これに比べて、人間はやかんに触れれば、実際に熱いと言う感じが生じます。そして、その熱いと言う感じは、物質ではありません。幾ら顕微鏡で脳の中を覗いて見ても、熱いと言う感じを見る事は出来ません。確かに、物質が熱いに対応した動きをしていることでしょう。しかし、それは熱いと言う感じそのものではありません。
脳と言う物質の熱いに対応した動きが刺激となり、私が熱いと感じているのです。熱いと言う感じは物質ではありません。従って、それを感じている私は物質ではないのです。私は、無限の感受性である精神です。
心は、物質と精神のコラボレーションです。物質がなければ、何の刺激も受けないので精神は何も感じません。また、物質のみでは何も感じることが出来ません。
では、一秒前に私の脳が刺激を送っていた精神は、今の私である精神でしょうか。その保証は何処にもありません。精神に記憶が蓄えられるのであれば、一秒前に私の脳が刺激を送っていた精神と、今の私の精神とは同じか違うかが分かるでしょう。しかし、記憶は脳と言う物質に構造として蓄えられます。
脳と言う物質が移動する度に、異なる精神に刺激を送っているかも知れません。一秒前に他の精神が感じた記憶を脳と言う物質に蓄え、今の私の精神に記憶と言う刺激を送っているだけでしょう。そうなると、この宇宙には、精神が満ちていることになります。若し、精神のない空間があるのであれば、人がその空間に移った時、何も感じなくなります。しかし、その様なことは起こりません。
精神は宇宙に一つあり、全宇宙に満ちています。人は移動する度に、その精神の異なる部分に刺激を送ります。ですから、私は私と言う特定の存在ではないのです。他人も私も同じです。ですから、汝の敵を愛することが出来るのです。
物質の全体を宇宙と呼びます。精神の全体を何と呼んだら良いでしょうか。私達は皆、至高な精神の一部分なのです。
また、精神は物質を動かすことが出来るのです。物理学では、物質を動かす力は、重力・電磁力・強い力・弱い力の4つの力であるとします。しかし、実際には、私と言う精神は手と言う物質を動かすことが出来ます。 
そして、この社会は、精神の意思により動いています。この様に、社会の動きを物質のみで説明することは出来ないのです。
そして、この宇宙の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果がまた原因となり結果を生じると言う形となります。宇宙の始まりは、原因なくして結果が生じなければなりません。つまり、無から有が生じなければならないのです。
しかし、物質は無からは生じません。これに比べて、感じは生じたり消えたりします。精神は原因から自由です。従って、宇宙の始まりにおいて、最初に動いたのは自由な精神でしかあり得ません。宇宙を創造した精神を何と呼ぶべきでしょうか。

 私は、その至高な精神がどの様にこの宇宙を作ったのかを探求しています。もし、物質の因果関係のみでは説明出来ないことが残されたら、それは神の存在を証明したことになります。こう言う意味で、物理学と神学とは、排斥し合うものではありません。

詳細は
http://www42.tok2.com/home/catbird/syuukyouhahik …
を参照下さい。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

面白い話題ですね。

>しかし、ロボットはそう言っているだけで実は何も感じてはいないのです。

確かにそうですよね。では、犬ではどうでしょうか?
犬を殴れば痛そうにします。
誰も犬に聞いて、痛いかどうか確認した人はいません。
でも誰でも犬は痛いに違いないと思います。
おそらくロボットの場合は人間がつくっていて中身の構造も全部知っているからでしょうね。

>そうなると、この宇宙には、精神が満ちていることになります。

これがわかりません。精神は脳の中だけにあると私は思います。
もし宇宙に精神が満ちているなら、植物とか岩石にも精神があるのでしょうか?
私には考えにくいです。

>精神は宇宙に一つあり、全宇宙に満ちています。

精神は脳の中にあると思います。脳の数だけ精神があると思います。
もし精神が宇宙でひとつなら、どうして他人の考えがわからないのでしょうか?
もしひとつなら、他人の精神がわかりそうに思うのですが。

>しかし、実際には、私と言う精神は手と言う物質を動かすことが出来ます。 

私が手を動かしたいと思った時は、脳の運動中枢からの電気刺激が腕の神経まで伝わって、そこでATPのエネルギーを使って筋肉が収縮するのだと思います。すべて物質で説明できると思うのですが・・・。


>しかし、物質は無からは生じません。

確かにそれは常識ですよね。でも今の宇宙理論だと無から物質が生じたのだそうです。
いっさい何もないところから、いきなり空間と時間と物質が発生したというから驚きです。


>もし、物質の因果関係のみでは説明出来ないことが残されたら、それは神の存在を証明したことになります。

つまり、宇宙にひとつあるといわれる精神が神ということでしょうか?

お礼日時:2015/01/21 19:26

stimim さん こんばんは。



論理学的に神の存在を知ろうとしても、袋小路に陥るだけだと私は思います。

stimimさんは知っているかもしれませんが、「形而上学」つまりアリストテレスが自然学の次に書いた断片「メタフィジカ」です。

自然現象を扱う自然学は現在の科学において盛んに行われている。

しかし、アルスとテレスのメタフィジカは「自然や物理学を扱う秩序を越えたより上位の原理を扱う学」とされている。

形而上学を論理学的に追求したら、中世の神学のスコラ学がおかした、「普遍論争」のような不毛な学問となってしまう可能性が高い。また、科学万能主義の現在では、「形而上学」はカビの生えた学問と考えている哲学者もいるかもしれません。

では、神をどのようにして人間は信じるか。私は「直感」と思います。

例えば、私はこれまでの人生の中で多くの困難にぶつかり、道の選択に迷ったことが、何回もあります。

しかし、不思議なことに、困難の中でもがいていると、いつも扉が自然に開き、進むべき道が示される。

そして、なぜだか、私は、良い人とめぐり合う運が強いらしく、それらの人が支えてくれる。

これを、単なる偶然か、それとも神の働きによる必然とみるか。

stmimさんは人生の中で、そんな不思議な経験をしたことは、まだありませんか?
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この回答へのお礼

回答をどうもありがとうございます。言われることの主旨はわかります。

神様が存在しないというのは、私は別に袋小路だとは思っていません。
ひとつの結論と思っています。

今回お聞きしているのは「直感」ではなくて、何か根拠的なものがあればお願いしますということでした。

私は不思議な体験というのはないのですが、思えば、今、こうして自分が生きてること自体すごく不思議なことで、幸運なことだと思います。しかしだからといって、「神様がいるに違いない」という感じには結びつかないと思っています。

お礼日時:2015/01/18 21:51

神様は私の心の中に存在しています。

小学生の時に池に落ち、溺れで意識不明で助けられました。子供の頃は神様を意識することは無かったが、大人になり感謝の気持ちが神様の存在を意識するようになりました。毎月のように、寺行く父親と神社に行く母親を見て育ちました。

何か不安があったり、苦しいことがあると自宅の神棚に手を合わせています。それによって気持ちが楽になります。仏壇に手を合わせる時とは気持ちが違います。重大な決断をする時などは失敗を恐れるのですが、一度は死んだ自分だと思って勇気を奮い起こすことにしています。

人生訓としては仏教の経典の教えに照らし合わせることが多いです。その点では神仏混合なのでしょう。だからと言って、頻繁に神社に行くわけでもなく、お寺にも法事以外は行きません。したがって信仰と呼べるものではありません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。当時は大変な思いをされたと思いますがいいお話ですね。
私も神様を信じるという気持ちはあります。
ただ、今回の質問では思うとか感じるとかではなくて、何かできれば客観的な根拠はないものか?ということをお聞きしています。
人間は本当は神様を信じるようにできているというのは思います。
期待していた主旨とは違うのですが、とてもいい回答をいただきました。

お礼日時:2015/01/18 21:44

般若波羅蜜多


prajñāpāramitā

それをどうにかしてください。

あるは無い。
無いはある。

これの繰り返しで疲れる。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
苫米地英人さんが般若心経は間違っているといっていますね。

https://www.youtube.com/watch?v=IG43_Wpttwk
「「般若心経は根本的に間違っている」苫米地英人が語る般若心経のウソ!」

お礼日時:2015/01/18 21:54

 こんにちは。




 ★ 私としては神様が存在する証拠や根拠が納得できれば
 ☆ という場合には その証拠や根拠は 人間の認識できる内容であることになります。

 つまり 人間が 神を人間の持つ知解の能力によって――まぁ 概念として――押さえたことになります。
 
 けれども これは 神の定義にかんして矛盾します。

 人間がつくった・あるいは把握できたというような神など 神ではないと誰もが思うのではないですか?




 ★ 私が「妖精は存在しない」と言ったら誰も「君は妖精が存在しないという信仰を持っているのだ」とは言わないですよね。
 ☆ それは 《ヨウセイ》という名の神だとしたら 神と同じことになるのです。

 人間ではなく幽霊でもなく実際には存在しないところの想像上のものである妖精だと思うなら――そう規定するのなら―― 神とは何の関係もありません。

 ヨウセイというように意味のない名であるなら 神を示す依り代(補助線)に成り得ます。


 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

神様は定義できないということですね。確かに、そんな簡単に神様がどんなものなのか全貌が明らかになるとは思えないです。しかし、その一旦でも明らかにはならないのでしょうか?
例えば、よく言われる(1)神様はこの世界をつくった(2)全知全能である(3)人間を愛している。こうしたことも、やはり正しいかどうかはっきりしないのでしょうか?

定義できないとすると、ご自身が神様について語っておられることも、妥当かどうかはっきりしないということになりませんか?

神様は人間社会に関係しているということもはっきりしないでしょうか?
もしそうなら、そんなはっきりしない神様のことを考えてもしかたない気がします。

これだけはっきりしない神様について、その存在ははっきりしているのでしょうか?
神様の存在するかどうかについて、どの程度確実性があるとお考えなのか気になります。

>人間ではなく幽霊でもなく実際には存在しないところの想像上のものである妖精だと思う>なら――そう規定するのなら―― 神とは何の関係もありません。

存在しないものと規定するなら、それが存在しないのは当然です。

>ヨウセイというように意味のない名であるなら 神を示す依り代(補助線)に成り得ます。

特に妖精と神様は区別ないということでしょうか?

お礼日時:2015/01/21 19:05

「臨死体験」「サードマン 奇跡の生還へ導く人」という本があります。


読むと考えがちょっと変わると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。参考本の紹介をありがとうございました。

お礼日時:2015/01/18 21:55

最近のイスラム原理主義



オウム真理教

さらには

「神のお告げでやった」

などの自己責任回避のための殺人のための代替動機

などを考えると

『神が人を救うため』

のものではなく

【神が人を殺すための道具】

に都合のいいように使われてる気がしてなりません。

なので




神様なる絶対ヒエラルキーはいらない!!




というのが私の解釈です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。そうですね。自分の考えを通すために神様が利用されてはいけないですね。

お礼日時:2015/01/18 21:56

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