dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

人生の目的を語るのは宗教かもしれません。
しかし、キリスト教や仏教などに明確な人生の目的の教えはありません。
人は如何に生きるかということですね。
私は「人生は思い出作りの旅」と思っています。
今日、明日の一つ一つの思い出作りが幸せかなと感じます。
皆さんはいかがお考えでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 皆さんから、多くの回答をいただき感謝しております。

      補足日時:2015/04/05 08:15

A 回答 (13件中11~13件)

我々を構成している物質に「目的」はありません。


しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。
(あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする)

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。
であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。
(「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)
    • good
    • 1
この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。
ゆっくり読ませていただきました。
その通りだと思います。
前半はちょっと難しい文章で、理解できない箇所もありましたが、中盤から後半にかけてはまさに同感です。
質問では、意図的に「お金を稼ぐ、家を建てるなどの物質的豊かさ」を書かなかったのですが、psytex1さんは具体的に指摘していますね。
後半の結論に拍手です。
しかし、そう感じていない人が多いのは、日本が如何に金銭的、物質的に貧しかったかということを感じます。

お礼日時:2015/04/02 13:53

基本的に、目的はそれぞれ自由だと思います。


ですから「好きな事をやって楽しむ」のが私の目的ですね。
今を十分に楽しむ。

と言うことで、好きな事を好きにやってます。

明日になれば、今日のことは思い出になりますけどね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
kanto-iさん、いつも感謝です。
「基本的に、目的はそれぞれ自由だと思います。ですから、好きな事をやって楽しむのが私の目的ですね。今を十分に楽しむ」
→それでよろしいと思います。

お礼日時:2015/04/02 13:57

キリスト教には、目的も記されてますよ。


単に自分の思い出作りの旅人では、むなしくないでしょうか。
傍観者ではなく、主役になれる人生を送りたいですね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「キリスト教には、目的も記されてますよ」
→そうですか、聖書のその箇所を教えていただけますか。
「単に自分の思い出作りの旅人では、むなしくないでしょうか」
→何もむなしくありませんよ。それで十分です。
旅人は傍観者ではなく主役ですから。

お礼日時:2015/04/02 14:00

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!