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次の疑問について、よろしくお願いします

①仏教は「お釈迦さん」の教えであるとの原則がある。
②お釈迦さん極端な考えは否定されていた(中道)
  その否定されていたひとつに「常見」があり それは現世と来世が連続しているという考え方であると言われていますが・・

上記のことから起こる疑問ですが 日本仏教の「浄土系宗派」は ②については連続しているとの教えが強いように思えます これだと「仏教」と言えないのではないでしょうか? 智恵の無い私の頭は そう思って それより先に進めません ちなみに私の家は浄土宗です
この辺のところは どのように理解すればよいのでしょうか。
よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • mapascalさん
    再度のアドバイス ありがとうございます
    >宗教は、人間の為のものではないのでしょうか。時代の要請によって宗教も変化していくもので良いのでは
     勿論 私もそうだと思います 救ってくださる教えは私たちにとっては願ってもない幸せなことです

    私は「浄土系宗派」の教えが間違っているとか 全く救いにならないとか言っているのではありません
    仏教の原則が「お釈迦さんの教えである」とならば お釈迦さんの教えから 外れているのではないですかとの疑問を持っているだけです
    そんな疑問を持つたから それで皆さんに その辺ところを教えて頂きたかったのです

    再度言いますが 「浄土系宗派」の教えが悪いとかの批判の投稿でないことを知って頂きたいです。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/05/21 19:50
  • gouzigさん
    ありがとうございます
    私の質問の意味を理解して頂き とても嬉しいです 
    投稿した甲斐がありました。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/05/21 19:53
  • 皆様へ
    皆様に貴重なアドバイスを頂き ありがとうございました
    読み直しをして 勉強させて頂きます 
    ありがとうございました。

    ちなみに私の家の宗派は「浄土宗」です
    毎日 仏壇に手を合わしていますが
    私が今回のような質問を持っているため
    なんだか 仏様に心苦しくてね(笑)
    その悩みを解消するための投稿でもありました
    そのような主旨から「ベストアンサー」を決めさせて頂きました。

      補足日時:2015/05/23 08:53

A 回答 (10件)

お礼、ありがとうございます。




☆お釈迦さんが中道を重んじられたのは そんなわからないことは否定 または無視された 極端なことは避けられた
◇「あの世があるか?」という質問に対して、歴史上、実在したゴータマは答えず、「悟りを得ることに無関係、益なし」と沈黙を守った。
形而上学的な質問に対しても一切答えなかった、されております。
これが歴史上実在した釈迦、ゴータマ仏陀のスタイル。

ですが、世界最古の仏典とされる『スッタニパータ』には
「修行僧コーカリヤは死んでから紅蓮地獄へ落ちました」と梵天がゴータマに告げる場面があり、そして、これを受けて、ゴータマが地獄について弟子たちに語っている場面があります。
これは後世に挿入されたものと考えられますが、
最初期の仏典において、地獄、つまり、あの世が語られている。
そして、十二因縁が過去世、現世、来世の三世と関連付けられて理解されている。
ですから、仏陀滅後、数百年して作成された大乗仏典以前に、仏教には既にこうした思想、考え方があったのは事実です。
こうした一連の考え方、教説が、歴史上実在したゴータマの説く仏教とどのような関係があるのかは、ゴータマ滅後2500以上経過している現在において、推測の域を出ないのが実情です。

そして、般若経、法華経、阿弥陀経などの大乗仏典は、歴史上実在したゴータマが説いたものではないのと同様に、
原始仏典とされるパーリ語仏典のほとんどすべてもゴータマ滅後100年以上経過した後に作成されたものであって、ゴータマの教えをそのまま記したものではない。
大乗経典が非仏説であるように、小乗の経典も非仏説なんでございます。
歴史上実在したゴータマの教えがどのようなものであったかについては、今となっては、復元できない。推測の域を出ません。

ですが、私の個人的な見解としてですが、
おそらく、実在したゴータマ、そして、その教えを直接受けた仏弟子たちは、
人々を仏教へ導くために、
あの世や地獄という世俗的な教え、考え方を使ったのだと思います。
つまり、《方便》として使ったんじゃないか。
このように考えております。

ただ、
浄土宗系で常用される浄土三部経どれも紀元後、つまり、ゴータマ滅後500年以上経過され作成された(捏造された?)経典なので、歴史上実在したゴータマの仏教とはかなり違ったものになっているのは事実です。
浄土三部経の一つ、『観無量寿経』は、おそらく中国で作成された偽典(偽のお経)であり、中国や日本の浄土教に大きな影響を与えた『浄土論』もインドで作られたものではない。
また、インドにおける浄土思想、信仰も、仏教本来的なものというよりは、たぶんに異教的なもので、インドの土着信仰や民間信仰、そして外来のゾロアスター教やキリスト教などの影響を受けている、とされております。


まっ、そういうことで。
浄土教が仏教でないのか、ゴータマ説を順次拡大し発展させた仏教の発展形なのか、
この判断は質問者さんにお委ねします。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
凄く関心のあることを、わかりやすく教えて頂きました 
勉強してみたいと思います

ありがとうございました。

お礼日時:2015/05/22 16:03

質問の意味が、ある意味中道でないような気もしますが?


中道である事が、常見と断見を否定している事は確かですが、常見と断見の解釈が偏っているような気がします。
常見とは、すべての物が常在するように考える事で、現生と来生が連続している事自体が原因では無いです。
断見にしても、すべてのものは滅すると考えるだけで、現生と来生が連続していない事自体が原因では無いです。
どちらにしろ、考え方の違いであって、現実がどうであるかは誰もわからないわけです。
中道は、どちらでも無く、有益な方法を取る立場だと言う事です。
縁起自体は、本来は心理的な因果関係を説いたものですが、縁起自体が意味を持つわけでは無いです。
念仏する事が中道でないわけでは無いです。
法然上人が阿弥陀仏を念仏する事により、中道を経て、浄土往生の境地に至ったのならば、それも真理なわけです。
少なくとも、法然上人の修業は、中道であったと思います。(浄土往生にこだわった事が中道で無いと考える事もできますが、修業自体は、極端な苦行などは行っていません)
個人的な考えですが、仏教の本質的な部分としては、煩悩を消し去り(煩悩に囚われず)、悟りの境地(世の理を受け入れ)に至り、往生(成仏)する事だと思います。
行(修業)の方法に囚われず、往生する事が中道では無いでしょうか?
ならば、専修念仏する事も中道です。
法然上人は、専修念仏しなければ往生出来ないとは言っていません。
専修念仏で往生できるのなら、その方法を選んだ方が楽だと言っているだけです。
中道とは、解脱する方法を決めつけず、自分が悟れる方法を選ぶ事では無いでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます
「中道」について 確かに充分に理解できてないかも知れません
それで使い方に間違いが出ている そう指摘されると 「そうだったんだ 見直ししてみよう」との気持ちになります ごめんなさい。

おしゃられるところで 私が特に疑問を持つところが浮かび上がっています
>往生する事が中道では無いでしょうか?ならば、専修念仏する事も中道です。
>法然上人は、専修念仏しなければ往生出来ないとは言っていません。専修念仏で往生できるのなら、その方法を選んだ方が楽だと言っているだけです。
上記についてですが お釈迦さんは「覚り」を開くためには 具体的には8つの実践方法(八正道)を示されている
そして、 その八正道に沿った生活を実践することが「中道」だとも言われています 私はそう理解しています
仏教にはそのような基本的な教えが確立 ちょっと言い過ぎかな? いえ 基本教義ですよね?
>法然上人が阿弥陀仏を念仏する事により、中道を経て、浄土往生の境地に至ったのならば、それも真理なわけです
よくわかりませんが 真理(仏教の真理)って あちこちにあるのでしょうか? そうであれば「お釈迦さんの教え」を否定しているように思えるのです?
基本原則は「仏教」はお釈迦さんの教えとの枠がある それからはみ出してもいいのかな?との思いです

今回の質問は そのところにあったのです
お釈迦さんの教え(仏教)を否定しているのであれば? 仏教と言えるのかなぁ・・・と?  との素朴な疑問です

私のうすっぺらな知識で まだわかってないところが多々あると思います
それでいて 好き放題なことを書いていることをお許し下さいね。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/05/23 08:41

来世に救いを求める、と云った印象が浄土宗には有りますね。

yamasitaさんの疑問は私の疑問でもありました。だから浄土宗に限らず"宗派の教え"は勉強して居ません。
仏教としては発句教を通して四諦八正道を知り、私はこれで十分と思いました。

yamasitaさんには明治から大正にかけて活動されたお坊さん「山崎弁栄(べんねい)《浄土系》」と云う人の存在を知ってほしいと思うので、この弁栄上人の文章の、ほんの一部を以下に紹介します。

小冊子、『自覚の曙光』から。(学僧へのメッセージなので、厳しい表現もあります)

『仏教は、人の本然本有の霊性を開発し真実の霊我実現的に行為し、現世を通じて永遠の霊界に進趣するを目的とす。即ち自己の深奥なる霊我を覚醒し、また他にも覚らしめ、円満に自己を完成し、霊我の理想を実現的に行為すべき教えを仏教と為す。

仏教が人の精神の知力と感情と意志との三面に対する功能の格言を標(ひょう)せば、
一 転迷開悟 人の知力を開示し自己と及び人生の真理を覚らしむ
二 抜苦与楽 感情を融化し、人生の歓喜平和等の霊福を感ぜしむ
三 廃悪進善 意志を霊化し人格を高等にし天分を果たさしむ

将(まさ)に真門を叩きて自覚の道を求めんと欲せば、各自が現在抱持(ほうじ)する処の人生目的観につきて這個(しゃこ)の問題を自問せよ。一、人は何の為に生まれ来たりしや。二、人は何の為に活けるや。三、人生の終局目的は那辺に在るやの自答を試み給へ。
此れ個の解答は現在自己の人格を計るの秤りなればなり。人生目的観の浅劣なる者は人格の劣等なるは論を俟(ま)たざらむ。
次に人生の目的を自覚せんには、その階梯たる他の生活と比較して、以て人類の位置を知るの要あらむ。
概して地上に生活せるものを分かちて三階とす。
一、植物生活。二、動物生活。三、精神生活。これらの生物には通じて二つの職分あり。一に栄養、二に生殖。前者は自己保存の為、後者は種族保存を目的とす。人類もまた生物なり。他の生物と共通せる二の職分を営まざる可(べ)からざるは無論なれども、ただ形体の長大のみを以て誇りとせば、長松大杉の前には屈服せざるべからず。
種族保存の力は植物には及ぶべからず。彼らは数百年の生命を保ち数千年の種族を増殖す。次に高等動物は日に数十斤(すうじゅっきん)の肉を喰らひその体力の強きこと人類よりは遥かに優れたるものあり。
今、人類は精神生活を以て万物の霊長と自ら誇るにあらずや。若し人にして、ただ生理的の職分のみを以て目的と為す如くならば霊長の意義那辺にか存すべき。人類生存の目的に進んで特長たる精神生活の中に深重なる意義の存在せることを発見ぜざるべからず。
ついては人類もまた動物、即ち精神的動物なり。他の高等動物との共通性と独り人類の特有性とあり、これ人の内的生活の宮室たる頭脳を三階に分かちて、共通と特有との性あることを知り、各部に亘りて完全に発展せんことを要する所以なり。
仏教には人の精神を四階に分かつ。今は便宜上、性相学の三性に由る。面部の眼より下部を天性と云う。これ五官の官能感覚作用等は他の動物と共通して、生理上欠くべからざる部として有するものなり。中階を理性と曰ふ。眼より額の中位に至る理性または人性と曰ふ。これは唯人類特有の性なり。人はこの理性ありて世界万差の事理を解すべし。
科学に研究すべき自然の万法もこの理性にして能く認識することを得、また実行上の道徳も法律もこの理性ありて行はる。心理上に判断し弁別し観察し思考する等もまた是れ理性の力なり。三に上階を霊枢性と名ずく。人はこの霊性ありて超絶界の不可思議の霊物、すなわち神と交感することを得。若しこの霊性開く時は絶対の大霊と合明し永恒の生命に入ることを得。
霊性は無限の霊に接触する窓にて不思議の力を授かる手なり。
霊の眼(まなこ)なくば神光を知見するに由なく、霊性開けて初めて真に天を覚ることを得む。』

この後も『諸々の賢者よ、・・・』と続きますが、この辺で。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
私と同じような疑問を持たれていたと お聞きすると 安心しました。

「四諦八正道」 それに前に書かれていた「慈悲の心」
仏教実践の中心的考えであってほしいですね 私もそう思います。

「山崎弁栄」さん 知らないです
難しいですね  またボツボツと勉強してみたいです

このたびはありがとうございました。

お礼日時:2015/05/23 08:32

仏教という大海に流れ着くためには、大川の本流に乗ることです。


川の淵に拘っては仏教の真の教えは見えません。

浄土宗の開祖、法然のお歌を一首ここに挙げます。
「我はただ仏にいつかあふい草、心のつまにかけぬ日ぞなき」
人は恋をすると四六時中その人のことを思うように、仏様の心に接しようと思わぬ日はない、と詠ったのでしょう。

輪廻転生はいわば"人生"への警告。

生命には"種"があり、その芽が育って「私」となります。
「私」は死ねば消えますが、その種は残ります。

たとえれば、芝生は冬枯れますがその根は生き続け、また芽が育ちます。
そのように人間も今生の生き方が"魂"に残り、来世の"生"への種となるのです。
要は、来世に悪い種を撒かないように、という警告が輪廻転生なのです。

仏教の本質は、苦しまなければならないという宿命を持った"生命"を憐れみ、わが懐にい抱こうという慈悲の想いなのです。

幼子をい抱く母親のように。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
仏教のことがよく解ってないので 間違ったことを書いているかも知れませんがお許し下さいね

>そのように人間も今生の生き方が"魂"に残り、来世の"生"への種となるのです
 私もそのような仏教は惹きつけられます
 浄土系仏教は そのような生き方の努力に対して厳しさがなく甘いような教えに聞こえます
 現世で悪の生き方をしていても「阿弥陀さま」にお願いすれば極楽浄土に連れていってくれる
 貴方様の言われるように、自力で何とかするとの教えではないですよね?  そのように理解しています

この辺のところを上手に書けないので 極端な言い方で申し訳けありません
浄土系の教えは、現世は苦しみばかり だから来世で幸せになりましょうとの教えが中心のような気がしてならないのです
お釈迦さんの教えは、現世に目を向けたものだと思いますので やっぱり現世を少しでも改善して幸せの膨らみを大きくする それが仏教の真の教えではないかと思うのです
お釈迦さんの教義「縁起」 原因と それが導き出す「結果」 この縁起の教えを使うところは 正に現世を幸せにするためのものではないのかな? と思っています
現世の苦しみ(結果) その原因は何かを探り出して 処置する  それが「お釈迦さん」が言われる縁起ではないのかと・・・

勝手な理屈ですみません。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/05/22 20:52

こんばんはです。



☆それは現世と来世が連続している
☆②については連続しているとの教えが強いように思えます
◇「変わらず」に続いていれば、常見ですね。
ですが、
実際は、因や縁により時々刻々と変わり、原因と結果という形で《連続的に》繋がっているのだから、常見にはならない。
常見とは、このこと、つまり、縁起の理法を否定することです。
そして、
仏教で否定するのは、アートマン(我)のように恒常不変のものがあるということです。。
仏教は連続性を否定していないし、原因と結果という連続性を否定したら、仏教は成立しえませんよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
「常見」という表現に間違いがあれば お許しください ごめんなさい。

>実際は、因や縁により時々刻々と変わり・・
縁起の理 お釈迦さんの教義でも中心的な教えですね 
「諸行無常」 全くその通りだと思います

「原因」と「結果」により連続的に繋がっているものを否定するとか しないとかを言っているつもりはありません
お釈迦さんの「縁起の理」は具体性があり証明ができます 哲学です
私が質問したのは、来世のとらえ方です
来世のことなど誰にもわかりません 全く具体性がないのです それを縁起の理で解けるのでしょうか?
お釈迦さんが中道を重んじられたのは そんなわからないことは否定 または無視された 極端なことは避けられた
その否定されたところが 日本仏教の「浄土系宗派」に強く入っているように思えて 今回質問のタイトルになった次第です

私のような仏教知識が未熟な者が入る落とし穴? かもしれませんが 素朴に気になるところです。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/05/22 09:34

その人の生き様どおり世界が死後その人に現れる。

これは決まっている。
三千世界、八百とは数多いという意味である。無限数と捉えてもある時は差し支えない。
釈迦は現実派であったので死後の事を説いても昔の(今の)人には分からない。
分からない事にやつれさせることよりも、
今の生き様を変えんとすることにその人の労を負えさせ、釈迦自身も労を負ったのである。
人らしくその人自身が変えることによって、死後の世界、そしての生まれ変わりの生きるであろう世界、これを善いにならしめる。
これが現実派である。要するに釈迦は、ほぼ、何でも知っていたので現実派と評される行動を採ったのである。
今は、末法である。仏門に下って厳しい修行を修めた者でも、何にも知らない。
仮に、仮にであるが光ある霊性の魂が天界に居られたとしてもこの世に生まれることは無い。
訳があるが説いても分からない。
飾らない、昔の仏法の書籍を求めて自己の生き様を考えることが正しい、仏教に惹かれる者の生き方である。
これがわたしの説であるが、採り入れようと採り入れまいがわたしは何の責も負わないと明らかにしよう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました
>その人の生き様どおり世界が死後その人に現れる
>釈迦は現実派であったので・・
>飾らない、昔の仏法の書籍を求めて自己の生き様を考えることが正しい

私もよくわかりませんが そのような思いがあります
今回の質問(疑問)も、それらを基本にすると 日本仏教のある宗派は そこから逸脱しているように思えて? そんな思いになったからです。
ありがとうございました。

お礼日時:2015/05/22 09:32

No.2 gouzigです。


「そうなんですね その変節程度が お釈迦さん(仏教)の基本部分から逸れるようでしたら それはダメですよね」
→なるほど、yamasita7802さんは開祖した釈迦の教えに忠実にあれ、というお考えなのですね。
それは、一つの見識でしょうね。おかしくないと思います。
「私の頭って単純でしょう」
→そんなことはないでしょう。
あなたは実直な方だと思います。
この回答への補足あり
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貴方の考えでは「宗教の為の宗教」になっているように感じます。



宗教は、人間の為のものではないのでしょうか。時代の要請によって宗教も変化していくもので良いのでは。
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おじさんです。


「浄土系宗派は仏教と言えるのですか? 素朴な質問です」
→いい質問ですね。
私も家は代々浄土宗、大学はプロテスタント、現在は地元神社の総代をしております。
そのために、いろんな宗教を分け隔てなく学んでおります。
「仏教は「お釈迦さん」の教えであるとの原則がある」
→その通りですね。
仏教を開祖した釈迦は、仏教名を仏陀(ブッダ)といいます。
釈迦は元々は釈迦族の王子でゴータマ・シダールタという名でした。
仏教はその後分裂をし、日本へは大乗仏教の教えが伝わりました。
その後に多数の宗派に分かれて現在に至りました。
ご質問にある宗派による教えは、様々な分裂の中で変節されてきています。
ですから、最初の釈迦の教えも仏教、分裂してきたそれぞれの宗派の教えも仏教ということでしょう。
宗教の分裂による宗派の教えの違いは、仏教に限らず、キリスト教、イスラム教も同様だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
>様々な分裂の中で変節されてきています
 そうなんですね その変節程度が お釈迦さん(仏教)の基本部分から逸れるようでしたら それはダメですよね
 以前に浄土系宗派の講座に出かけたことがあります
 その中でのお話は、当宗派はお釈迦さんの考えに沿った・・・・・ を強調されていました
 そんな説話を聞くと 今回の疑問を持っていれば どうしても反発心が湧くのです(笑)

これは全く関係のないことですが・・
今回質問するに当たり 前もってインターネットで 各宗派の「ウィキペディア」を見ました
「天台宗」「曹洞宗」「臨済宗」「日蓮宗」を見ると 仏教の基本教義とかが整理して画面右に載っていました 同じものだと思います
ところが「浄土宗」「浄土真宗」は それが掲載されていません なぜ?
「ウィキペディア」を作成された方も 私と同じような疑問を持っておられて それで仏教教義の説明などを省かれた? 
そんなことはないと思いますが そんな思いをしたのも本音です。

念仏も「南無阿弥陀仏」ですね 違うでしょう 仏教だから「お釈迦さん」でしょうとの思いです(笑)
私の頭って単純でしょう。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/05/21 16:57

日本において「仏教」に分類されますね。

日本で仏教は分化して進化したと考えれば良いのではないでしょう。

キリスト教でも大きくは、カトリックとプロテスタントがありますが、プロテスタントがたとえ傍流だいとう解釈があったしても、キリスト教と云うでしょ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
私の心が狭いせいか なかなか納得ができません(笑)
仏教の核心部分が異なっているように思い キリスト教の違いの比ではないような気がしています
もしお釈迦さんが生存されておれば 許されるのかなぁ?との思いです。

お礼日時:2015/05/21 16:13

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