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誰にでも、主観と客観をもっていますね。
でも、その濃淡は人それぞれです。
ご自分、或いは他人を見て、そのバランスをどのようにお考えでしょうか。

A 回答 (18件中1~10件)

気楽な時は主観がメイン、公正が求められるときは客観がメイン、という感じです。


後者に関して一言付け加えると、客観の方が主観よりも普遍的である確率が高いからです。
ただ、客観が必ずしも普遍的であるわけではないのでその相関の精度を高めるための
世の中の進歩が大事だということになります。
気楽な時の主観も多様でいい範囲内でということが大事で、
どういうものが多様でいいかということに関しても
普遍性を目指した世の中の進歩が大事になってくると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「気楽な時は主観がメイン、公正が求められるときは客観がメイン、という感じです」
→なるほど、その意味するところは分かります。
suzumenokoxさんはマナーも大切にしているのでしょうね。
「普遍性を目指した世の中の進歩が大事になってくると思います」
→難しい言い方ですが、そこにはいろんな思いが含まれているのでしょうね。

お礼日時:2015/06/21 20:38

すいません。


うっかり間違えたので、削除願い出してます。
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自分のこととして想像できるかどうかではないでしょうか。

ちなみに、自分と他人を認識している部分は同じ脳の領域だそうで、見つめ返すものはただの外観、同じ人間。そこに感情が加わったり、あるいは分析しようとしたりするのではないでしょうか。主観が極端に少なければ、、、親身になって気持ちをはかることができるかもしれません。少なからず主観を通して。そうなると、自分で信じたくなくても他人に自分を見ることができるかもしれません。信じたくなければ見たくなくなります。信じるものだけ見ようとしていくと、自分の主観が強くなるかもですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「自分と他人を認識している部分は同じ脳の領域だそうで、見つめ返すものはただの外観、同じ人間」
→その通りでしょうね。
「信じたくなければ見たくなくなります。信じるものだけ見ようとしていくと、自分の主観が強くなるかもですね」
→同感です。

お礼日時:2015/06/21 12:47

わたしがひねくれているのかもしれませんが、純粋の「客観」は存在し得ないと思います。


ネット辞書で一応確かめてみると、
1 観察・認識などの精神活動の対象となるもの。かっかん。⇔主観。
2 主観から独立して存在する外界の事物。客体。かっかん。⇔主観。
3 当事者ではなく、第三者の立場から観察し、考えること。また、その考え。かっかん。
などとなっていますね。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/54335/m0u/
こちらの3の意味でのご質問だと思うのですが、「第三者の立場から観察し、考える」という行為は実は不可能であって、厳密には、『「第三者の立場から観察し、考える」という気持ちになって考えること』だろうと思います。
なぜなら、「第三者の立場から観察し、考える」という行為自体は意志行為であり、意志する以上、それは思考することに他ならないからです。
「物自体」と言う表現を使う哲学者がいましたが、それになぞらえるなら、「客観」を認識することはできるが、「客観自体」を理解することはできない、とでもなるでしょうか。
ですから、「第三者の立場から観察し、考える」ことはできず、あくまで「第三者の立場から観察し、考えたつもりになる」ことしかできないはずです。
こうした理由で主観100%(にならざるを得ない)というのが、わたしの基本的なスタンス。
もっとも、(言語は所詮、人間の作り出したものであるのだから)そうしたことはすでに前提に含まれているのであって、「第三者の立場から観察し、考えたつもりになる」ことを客観と呼んで、特に問題はないのだ、という考えもあるでしょう。
いずれにせよ、「第三者の立場から観察し、考える」という行為は、かなり想像力を要する作業にはなりそう(または、作業であるよう)ですね。
そう考えたとおり実行できるか否かはまた別問題でしょうが、人類の進化が進むにつれて、「客観的もどき」の視点が主観の領域に食い込んでいく割合が増加していくような気はします。
一番、怖いのは、客観だと信じて疑わない主観でしょう。
当面、目指すのは、「主観色の極めて希薄な客観」といったあたりでしょうか。
主観を排除できないという前提に立てば、こうした視点も可能になると思います。
純粋の客観があるなどと考えてしまうとオールオアナッシングで、危うい道を辿らざるを得なくなる。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「わたしがひねくれているのかもしれませんが」
→大丈夫です。素直に読ませていだだきました。
「第三者の立場から観察し、考えることはできず、あくまで第三者の立場から観察し、考えたつもりになることしかできないはずです」
→そうでしょうね。そのお考えでいいと思います。
「一番、怖いのは、客観だと信じて疑わない主観でしょう」
→おっしゃる意味は理解できます。
自己顕示欲が強く、権力志向の人に、そのような傾向が時々見受けられますね。
「純粋の客観があるなどと考えてしまうとオールオアナッシングで、危うい道を辿らざるを得なくなる」
→そうだと思います。
私は民主的という考え方が好きなのですが、民主主義や正義感といったものをあまり強く出すと自分勝手な思考に陥りかねませんね。

お礼日時:2015/06/19 08:28

一般社会と深くつながりがあったときには、”誰が見ても正しいことをしてゆこう”と心がけていましたので、ずいぶんと無理をしていました。

あの頃は、情報を取り入れて客観的な判断を下し、自我に箍をはめるようなやり方で生きていました。

最近は、一人暮らしの隠遁生活で、プライバシーを何よりも大切にしています。そうなると、自分のやりたいことが最優先です。こう、決断を下すときの矢印の方向が、心から外界に向かって放たれている感覚ですね。でも、従心所欲、不踰矩の心境には、まだ暇がかかりそうです。

人間としてどちらが幸せか。。。仕事をしている状態であれば、多分50/50でバランスが取れているのが、精神的にも楽なのではないでしょうか。

女性からみると、男性の考え方は、より客観性に立脚しているようにみえますが、どうでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「一般社会と深くつながりがあったときには、”誰が見ても正しいことをしてゆこう”と心がけていましたので、ずいぶんと無理をしていました」
→その無理は、一般社会というよりも、ビジネス社会かもしれませんね。
「最近は、一人暮らしの隠遁生活で、プライバシーを何よりも大切にしています。そうなると、自分のやりたいことが最優先です。こう、決断を下すときの矢印の方向が、心から外界に向かって放たれている感覚ですね。でも、従心所欲、不踰矩の心境には、まだ暇がかかりそうです」
→いい雰囲気のように思えます。
私も年金生活が長くなりました。企業では内外の競争の中でしたが、今は地域や地元神社での人達とのお付き合いで人生最高の穏やかさです。

お礼日時:2015/06/18 08:11

問いは、主観と客観のバランスに付いてなので、弥次郎兵衛の頭を傾げて見せたのですが、例えが飛躍していたようです。



客観が主観を少し超えていると云うバランスが、日本の和の文化に適用されるのではないか、との私の考えに賛同の様なコメントを頂いたので、先のような喩えを以て、こうした姿勢が好ましいのではないかとの思いを込め、好きだと云ってみました。

西洋の主観が幅を利かせる世界では争いが収まりそうもありません。

日本以外で平和を維持している国の"バランス"はどうなのでしょう。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
yy8yy8azさん、このご説明はよく分かりました。
「西洋の主観が幅を利かせる世界では争いが収まりそうもありません」
→その通りでしょうね。
「日本以外で平和を維持している国の"バランス"はどうなのでしょう」
→インドとベトナムは素晴らしい温和な人達の国ですね。

お礼日時:2015/06/18 07:49

私の敬愛する"弥次郎兵衛様"の、ほんの少し頭を傾げた姿、が大好きです。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「私の敬愛する"弥次郎兵衛様"の、ほんの少し頭を傾げた姿、が大好きです」
→大好きなのはいいことですね。
でも、意味が分かりません。

お礼日時:2015/06/17 23:32

主観と客観につきましては、何度も論じられてゐますので、新規の見解を出せるわけではありません。

私としましては、その定義次第でどうにでも解釈できるものだと思つてゐます。

例として、私の「主観」をひとつだけ挙げておきます。このQ&Aサイトには、名言格言の類を偉人の名前だけでありがたがつたり、科学用語をちりばめただけの文章を高評価する風潮が強く見られる、特に哲学カテゴリならば、その内容で評価すべきではないか、といふ見方です。質問内容とはまつたく無関係の回答で明白な規約違反であるはずの「科学的(?)」文章に感動してベストアンサーに選ぶ人もゐます。

私はただのアホなので基準にはならないのですが、他の多くの人たちも同様に、「科学的(?)」文章の回答に対して正直にわかりません、とコメントしてゐるのを見ますし、偉人の名前を強調するのみで文脈をすら無視した名言の扱ひに疑問を呈してゐます。人数が増えれば客観的であると断定できるわけではありませんが、少しはそのやうにいへるかもしれません。

このふたつの立場はどちらも基本的には主観なのだと思ひます。勝てば官軍などといはれますが、勝ち負けは別にして、最終的に生き残つたほうがあるとすれば、それを客観的と呼べるかもしれません。進化の理論における適者生存といふ概念と同じく、世の中の多くのものの理由は「あとづけ」にすぎません。生きのこるまでは、何が適者なのかわかりません。私の主観は誤りかもしれません。それが証明されたときは、このQ&Aサイトの存在意義が消失したときだと思つてゐます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「このQ&Aサイトには、名言格言の類を偉人の名前だけでありがたがつたり、科学用語をちりばめただけの文章を高評価する風潮が強く見られる」
→そういう傾向は、あるかもしれませんね。
「特に哲学カテゴリならば、その内容で評価すべきではないか、といふ見方です」
→その通りだと思います。
質問される方は二つに分けられると思います。
一つは、純粋に知識を求める。
もう一つは、考え方を求めるです。
一方、回答者も同様で、自分の知識を出す人と、考え方を出す人に分けられますね。
また、利用者によっては、「ここは議論の場ではない」と厳格に意見交換を否定する人もいます。
しかし、私はこのサイトは単なる知識だけの質問の場ではなく、ある程度の意見交換の場だと考えています。
そうでないと。お礼コメント機能の意味はありません。
単にお礼だけをいうなら、ボタン一つを押せば「ありがとうございます」という定型お礼コメントが送信される機能があれば十分ですからね。
もちろん、サイト管理側の「炎上を避けたい」という意図も理解出来ます。

お礼日時:2015/06/17 23:30

客観的に考えることが大事、というのは良く聞きますし、自分でも気を付けていましたが、正直どちらで考えようが、個人として下される判断や行動は、結局同じではないかと今は思います。


だから、バランスすることはできないと言えるかもしれません。
主観は、自身の考え、客観は第三者としての立場からの考えとなるかと思います。
裁判や組織など大勢がかかわる場合は、客観が占める割合を高めなければ、収拾がつきませんから客観の比重が重くなければなりませんが、自分一人で思考する場合は客観性を求めるのは、難しいと考えています。
例えば、相手のことを思いやるというのは、まさに主観です。これを客観的に第三者としての立場から見た場合であっても相手の状況がわからなければ、判断のしようがありませんので、結果自分の中の価値基準に照らして、良いか悪いかを判断することになってしまいます。これは結局主観です。
毛沢東が雀を見て、害鳥だと言った結果、虫を食べる鳥がいなくなり、農作物があれまくって餓死者が数千万人出たというのは、どう考えるべきでしょう。
毛沢東は、客観的に雀を害鳥だと判断したのかもしれません。学者がそう指摘したし、そういう物証があったかもしれません。しかし、結果は悲惨でした。歴史を知っている我々が見ると、あるいは科学が進展した今から見ると、毛沢東は主観的に判断してこの結果を招いたように見えますが、常識が時代とともに変われば判断軸を変えなければ不公平だと言えます。
主観と客観にはバランスはなく、すべて主観で動いている、とだから考えています。
客観性が必要なのは社会を運営するための知恵であって、個人には当てはまらないのではないかと思います。
重要なのは、そういった見方を変えた事象に対して、どういう判断をするかとなるので、そこではイデオロギーの問題かと思います。
民主主義が良いのか共産主義が良いのかで争った冷戦時代は、お互い主観的にも客観的にダメ出しをしあっていたことからも、そうかなあと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「正直どちらで考えようが、個人として下される判断や行動は、結局同じではないかと今は思います。
だから、バランスすることはできないと言えるかもしれません。」
→最初の出足で?を感じました。
でも、その後を読み、理由が分かりました。
「例えば、相手のことを思いやるというのは、まさに主観です。これを客観的に第三者としての立場から見た場合であっても相手の状況がわからなければ、判断のしようがありませんので、結果自分の中の価値基準に照らして、良いか悪いかを判断することになってしまいます。これは結局主観です」
→その考えでは、自分が考えることは全て主観になってしまいます。
他人が考えることが客観ではありませんね。
主観も客観も、自分の考えの中にあります。
ですから、
「相手のことを思いやるというのは、まさに主観です」
→それがまさに客観ということです。

お礼日時:2015/06/17 19:31

お礼ありがとうございます。



>なるほど、ご自分が主観に走り過ぎないためですね。

そう見えるかもしれませんね。

私としては、「互いに笑顔で居られる」が
私の望みですから、そのポイントであればいいだけです。
ですから、毎度探します。

根拠は、まったくの主観です。
手段は、根拠にそって選ぶこと。
結果として何を選ぶかは、その時しか分からない事も多いです。
自分のアイデアが頼りです。


>はい! 常に諸行無常ですからね。

ご名答。その通りです。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。
日々を無理なく過されているようですね。
お人柄が偲ばれます。

お礼日時:2015/06/17 18:53

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