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【戦争】なぜ日本は中国を助けるために中国を攻めたのでしょうか?


安部首相は欧米列強から中国を助けるために日本は中国を攻めたと安部談話を発表しました。

欧米列強は中国に攻め入った日本を非難しましたし、満州国樹立を非難しました。

要するに欧米列強はそもそも中国を占領する気はなかったのです。

占領する気が無かった欧米列強から中国本土を守るために仕方がなく日本は中国を助けるために攻めた。

安部談話おかしくないですか?

あと満州国樹立のきっかけになった鉄道爆破事件(柳条湖事件=日本の自作自演だった)のときに満州国を樹立出来るだけの日本兵を既に中国に配置していた。

暴動と同時にそれだけの人員を送り込める準備をしていた。

これのどこに中国を助けるために満州国を樹立したと言える根拠があるのでしょう。

欧米列強は中国を支配する気はなかった。日本はどこの国から中国を守ろうとしたのでしょう。

安部談話は虫が良すぎます。

戦争を美談化して、日本が中国に攻め入ったことは欧米列強から救うためだったので良いことだった。日本人は恥じることはない。

恥じるべきです。

戦争は良くない。

戦争を美談化する安部談話は許せません。

日本の歴史教科書は日本を美談化して描かれている。

A 回答 (4件)

西洋の国に占領されるぐらいなら、隣国の我々が先に、、、って感じ。


中国人にとっては、五十歩百歩でしょう。
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この回答へのお礼

みなさん回答ありがとうございます

だから、西洋の国は占領する気がなかったんですよ。
ちゃんと読んでますか??

お礼日時:2015/08/17 19:23

質問者さんこそ大丈夫ですか…?


安倍談話では中国を助けるために出兵した、欧米から助けるためだったなどとは一言もいっていませんが…。

安倍談話にある「欧米諸国の植民地政策による経済のブロック化による政治・経済の行き詰まりを力の行使で解決しようとした」という事をへんな風にとってしまったのではないでしょうか。
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「香港」「アヘン戦争」



調べてみてはいかがでしょう。
ちょっとは楽しいと思います。
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63歳主婦です。



ナナミさんは、在日の方ですかね?

どうも、独断と偏見が強すぎるように思います。

ちよっと長くなりますが、当時の世界情勢を書いて見ますね。

300年から500年という長い間、欧米諸国による植民地支配により、アジア、アフリカの諸民族は非道な搾取に疲弊し苦しんできました。
発端は、大航海時代にスペイン、ポルトガルがアジアの物産獲得のために世界進出したことに始まります。
世界の全域を2分割して、たがいの進出範囲を決め、南北アメリカ大陸(米大陸)、アジア、アフリカなどの地域に進出して行きました。
米大陸では、原住民が、スペイン、ポルトガルの侵略によって奴隷化され虐殺されました。
その結果、激変した労働力を補うためにアフリカの黒人が奴隷として米大陸に連れて行かれました。
また、北米大陸への英仏による進出が早かったため、オランダは
北米大陸をあきらめ、アジア、とりわけインドネシアへと進出しました。
ここからインドネシアの苦渋の歴史がはじまります。
一方、イギリスは北米大陸やインドの植民地独占により豊かになり、
産業革命が起こりました。
そのため原材料確保の植民地支配に一層拍車がかかり、アジアの植民地化
が急速に、より広範囲に展開されました。インド全域の支配だけでなく、
東南アジア、中国、オーストラリア、オセアニアなど次々に進出していき
、イギリスは空前の経済発展を遂げました。
イギリスの発展に刺激された他のヨーロッパ諸国は、自らも産業革命を起こし、まだ進出の余地があったアフリカの争奪戦が始まります。
産業革命による大量生産の出現は、大量の資源が必要になり、その生産地である植民地の獲得欲を、欧米諸国は、異常に増大させていったのです。
資源の獲得のためには、手段を選ばない非人道的な行為で、原住民の
有色人種を抑圧し支配し、時には死滅に追い込むこともありました。
欧米では、アメリカ独立戦争やフランス革命に象徴されるように、
キリスト教の精神に基づいて「自由、平等、博愛」といった理想主義が
高く掲げられ、近代国家が作られて行きました。
しかし、この理想主義はあくまでも欧米社会のものであって、自分たちを
繁栄させる資源の獲得をするための原住民には適用されるものではありませんでした。
このような植民地政策によって、清は植民地ではないものの欧米の支配下
にあり、第二次世界大戦前には、アジアで独立を保っていたのは、わずか日本とタイの二カ国だけでした。
有色人種の中には、長い植民地支配の中で、いつしか有色人種は白人より
劣っているという劣等意識が根付き、民族の誇りや独立の気概が失われて行きました。

明治38年(1905)に日本がロシアに勝利した「日露戦争」。
開戦当初、日本以外の国では、近代化を進めてわずか40年の極東の
小国日本が大ロシア帝国に勝てるとは思っていませんでした。
日本の勝利は、植民地支配で苦しんでいる人や人種差別下にあった人たちに独立の気概と勇気を与えました。
親日国として有名なトルコでは「東郷通り」などの名称が付けられ、子供に「トーゴー」や「ノギ」の名前を付ける人が今でもいると言います。

日露戦争は、有色人種国家(日本)独自の軍隊による、白色人種国家(ロシア)に対する近代において初となる勝利でした。

国際会議において「人種差別撤廃」を明確に主張した国は日本が世界で最初です。
第一次世界大戦後に開催されたパリ講和会議(1919年)において
日本代表は、国際連盟の規約に「人種差別撤廃」を盛り込もうとの
画期的な提案を行います。
しかし、国際連盟規約委員会の出席者16人中11人の賛成を得たにもかかわらず「全会一致ではない」というウィルソン議長(アメリカ大統領)
の判断で否決されました。
この「人種差別の撤廃」の提案は、会議開催国フランスをはじめ、多くの国々から共感をよびました。
賛成・反対は次の通りです。

賛成
日本2票、フランス2票、イタリア2票、イタリア2票、ギリシャ1票、
セルブ・クロアート・スロブエーヌ(後のユーゴスラビア)1票
チェコスロバキア1票、ポルトガル1票、中華民国1票

反対
アメリカ合衆国1票、イギリス1票、ブラジル1票、ルーマニア1票

でした。

イギリス、フランスなどの西洋列強が世界規模で植民地化を進め、
いわゆる帝国主義時代のただなかで、日本は西洋列強による日本の植民地化に強い危機感をいだき、吉田松陰をはじめとする維新の志士たちの燃えるような意思と努力によって明治維新を達成し、日本は独立を全うし、西洋に伍するアジア唯一の近代国家となりました。
明治期、日本は朝鮮半島の混乱と日本への脅威をめぐって清国と戦った日清戦争、アジア征服への野望
持つロシアと戦った日露戦争、ともに勝利して日本国の独立を維持し、
そしてアジアでは突出した国力を持つ日本は、アジアへの責任を重く持つに至りました。
日清戦争によって、それまで清国の付属地とされていた台湾が日本の統治
となり、その後、朝鮮半島が日本の領土となりました。
台湾はそれまで清国の領地とされていましたが、清国自身は台湾を
「化外の地」(支配が及ばない地)として放置したままで、台湾は原住民
(高砂族)と中国から渡った中国人たちの単なる居住地にすぎませんでした。そのような地に、日本は台湾総督府を置き、巨費を投じ、ダムを建設し、学校を作り、日本の領土として、台湾人を日本国民として、その発展に尽くしました。
だからこそ、いまでも日本の統治を体験した台湾人たちは、かつて日本人
であった事を誇りに思い、日本を懐かしみ、日本の善政を高く評価し続けています。
朝鮮は、歴史的に中国大陸に勃興した諸王朝の属国として扱われ続けてきましたが、清朝末期には国としての機能麻痺を起こし、遂に明治43年(
1910年)、朝鮮国王との間で日韓併合条約が結ばれ、朝鮮半島は日本の
領土の一部となりました。
この併合には朝鮮半島の開発に多額の費用が掛かる為、日本国内からも
反対がありました。
事実、当時の日本の国家予算の半分近くを使い、インフラ及び教育などあらゆる分野に投資しました。
西洋列強の植民地政策と日本の台湾・朝鮮の植民地政策は全く違ったものでした。
西洋は植民地をただの自国の富のための収奪の地とのみ考えていたのに対し、日本は台湾や朝鮮をじこくの領土と考え、日本列島と同様に、その血を開発し、その地に住む人々を日本国民として扱い、その生活を豊かにしようとしたのです。

このように日本の考え方は一貫していました。
中国大陸の北方、北東アジアの地域に、日本は満州国を建国しました。
これは決して侵略などではありません。
そこは荒涼とした無主のちであり、匪賊や馬賊の横行する地域であって
そこに住む住民はいつ匪賊の襲撃を受けるかわからない、一日として安心して暮らせる土地ではありませんでした。
その地に、漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人、日本人の五族が平和に暮らすことを謳った「五族協和」を「建国の理念」とする「理想国家」が建設されたのです。
しかし日本が大東亜戦争に敗北したことにより、満州国も姿消しました。
中国大陸の中央部は「中原」と呼ばれますが、ここに、十七世紀、北方民族である女真族が攻め入り清王朝を樹立し、中国全土を支配します。
しかし、その後、清朝末期の十九世紀から二十世紀初頭にかけて
西洋列強が押し入り、植民地化されてしまいました。

そのやり方は実に卑劣なもので、イギリスなどは、植民地であるインドで栽培したアヘンを中国人に売りつけて巨富を得、清王朝がその取り締まりに出ると武力で清を屈服させたのです。(アヘン戦争)

日本は、明治期、多くの日本人が海外に移住し、朝鮮、中国のみならず
アメリカ、南米などにも多くの人が渡りました。
中国大陸では治安が極度に悪化しており、日本人居留民の保護が絶対に必要でした。
そのため、日本政府は居留地に日本軍を派遣しました。
蒋介石率いる国民党とソ連指導下の中国共産党の覇権争いが激化し、中国国内の治安がますます乱れました。
その中で、日本人居留地を標的にした事件が相次ぎ、不本意ながら日本軍は居留民保護の規模を拡大せざるを得なくなり、遂に広大な中国大陸に戦線が拡大しました。それにより、日本軍と日本人居留民は中国大陸の地を
離れざるを得なくなったのです。



長くなったので次に続きます。
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