痔になりやすい生活習慣とは?

長いです、現代語訳、お願いします!

やがてその日に御所へ入らせたまふと聞きしほどに、十八日よりにや、「世の中はやりたるかたはら病の気おはします」とて、医師召さるるなど聞きしほどに、「しだいに御わづらはし」など申すを聞きまゐらせしほどに、思ふ方なき心地するに、二十一日にや、文あり。

「この世にて対面ありしを、限りとも思はざりしに、かかる病に取り籠められて、はかなくなりなむ命よりも、思い置くことどもこそ罪深けれ」と書き書きて、奥に、
A 身はかくて思ひ消えなむ煙だにそなたの空になびきだにせば
とあるを見る心地、いかでかおろかならむ。げに、ありし暁を限りにやと思ふも悲しければ、
「 B 思ひ消えむ煙の末をそれとだに長らへばこそ跡をだに見め
ことしげき御中はなかなかにや」
とて、思ふほどの言の葉もさながら残しはべりしも、さすがこれを限りとは思はざりしほどに、十一月二十五日にや、はかなくなりたまひぬと聞きしは、夢に夢見るやりもなほたどられ、すべて何と言ふべき方もなきぞ、我ながら罪深き。

「見果てぬ夢」とかこちたまひし、「悲しさ残る」とありし面影よりうち始め、憂かりしままの別れなりせば、かくは物は思はざらましと思ふに、今宵しも村雨うにそそきて、雲の景色さへただならねば、なべて雲居もあはれに悲し。「そなたの空に」とありし御水茎は空しく箱の底に残り、ありしままの御移り香はただ手枕になごり多くおぼゆれば、まことの道に入りても、常の願ひなればと思ふさへ、人の物言ひも恐ろしければ、泣き御陰のあとまでも、よしなき名にや止めたまはむと思へば、それさへかなはぬぞ口惜しき。

明け放るるほどに、「かの稚児来たり」と聞くも、夢の心地して、自ら急ぎ出でて聞けば、枯野の直垂の雉子を縫ひたりしが、なえなえとなりたるに、夜もすがら露にしをれける袂もしるくて、泣く泣く語ることどもぞ、げに筆の海にも渡りがたく、言葉にも余る心地しはべる。

「彼の、『悲しさ残る』とありし夜、着替へたまひし小袖をこまかにたたみたまひて、いつも念誦の床に置かれたりけるを、二十四日の夕べになりて肌に着るとて、『つひの煙にも、かくながらなせ』と仰せられつるぞ、言はむ方なく悲しくはべる。『参らせよ』とてさぶらひし」とて、榊を蒔きたる大きなる文箱一つあり。御文とおぼしき物あり。鳥の跡のやうにて、文字形もなし。「一夜の」とぞ、初めある。「この世ながらにては」など、心あてに見つづくれども、それとなきを見るにぞ、同じ水脈にも流れ出でぬべくはべりし。

浮き沈み三瀬川にも逢ふ瀬あらば身を捨ててもや尋ね行かまし

など思ひつづくるは、なほも心のありけるにや。



誤字あるかもです(T_T)
お願いします!

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A 回答 (1件)

So-netで、「とわずがたり」の現代語訳が、UPされているから、ご自分で調べてごらんなさい。

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Q古文「とはずがたり」についての質問です

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-7-kiraku.htm
(本文についてはこちらのサイト様をご覧くださるようお願いいたしますm(_ _)m)

この本文の
「御おぼつかなくおぼえさせおはしまししほどに」
「あはれに悲しくおぼえさせおはしまして」
「聞えさせおはしませば」
「くらべられさせおはします」
「おぼえさせおはしまして」
の部分についてです。


まずこの「あはれに悲しくおぼえさせおはしまして」の部分なのですが、私の使用している参考書に

このさせは使役の助動詞であるため、「(遊義門院)あはれにかなしくおぼえさせなさって」、転じて「(私は)気の毒で悲しく思い申し上げて」となるのである。

と説明されていました。なるほど、尊敬の使役だと謙譲的に変わるのだなぁと納得したのですが、このような使い方は古文で一般的な物なのでしょうか。それなりの古文には触れてきたつもりなのですが、初めて見る言葉の使い方だったため少々疑問に思いました。


次に先程あげた5つの部分についてなのですが、この参考書に従い、これらは全て尊敬を使役している形で問題ないでしょうか。

しかし「聞こえさせおはしませば」、「比べられさせおはします」について気になることがありまして、
手持ちの参考書でこの二つが
「他人の袂もいっぱいになるほどに(泣いていらっしゃるのが)聞こえなさったので」
「比べられなさるような気持ちがしました」
と訳されているのです。
この訳だと「他人」が尊敬され、また遊戯門院が「比べられなさる」ような気持ちを作者がするという少し変わった解釈になってしまわないでしょうか。

これらの訳は
「他人の袂もいっぱいになるほどに聞こえさせなさったので」(自発の「聞こゆ」の使役)
転じて「他人の袂もいっぱいになるほどにお見えになったので」
「比べられさせなさるような気持ちがしました」
転じて「比べられ申し上げる気持ちがしました」
となると考えたのですがどうでしょう。

大変面倒な質問内容かと思いますが、ご回答の程どうぞよろしくお願いいたします。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-7-kiraku.htm
(本文についてはこちらのサイト様をご覧くださるようお願いいたしますm(_ _)m)

この本文の
「御おぼつかなくおぼえさせおはしまししほどに」
「あはれに悲しくおぼえさせおはしまして」
「聞えさせおはしませば」
「くらべられさせおはします」
「おぼえさせおはしまして」
の部分についてです。


まずこの「あはれに悲しくおぼえさせおはしまして」の部分なのですが、私の使用している参考書に

このさせは使役の助動詞で...続きを読む

Aベストアンサー

No.1です。訂正 「おぼゆ」を「おぼす」と錯覚していました。「おぼゆ」は尊敬語ではなく、ほぼ語源の意味通り「自発」の意味があり、「(自然に)思われる」の意味でした。

その後の回答も無さそうですので、訳を検討してみた結果、これはなかなか難しいと言うことが分かってきました。この下方に古典文学全集の訳文を引用しましたので、それを参照しながらご理解ください。

 「御おぼつかなくおぼえさせおはしまししほどに」はの「おぼえた」のは筆者なのですが、その下に「させおはしまし」という最高敬語が付いている理由を、校訂の久保田氏は「それは東二条院の状態に関してなので、東二条院に対する敬意を表すため「御」「させおはしまし」などの敬語表現を用いた」と書いています。(今時の人には理解しにくい)

 「あはれに悲しく覚えさせおはしまして、」も上記と同様の注があります。「あわれに悲しく覚えた」のは筆者なのですが、「させおはしまし」がついている(だけ)ことになります。

 「聞えさせおはしませば」
「聞こゆ」は「言う」の謙譲語(申し上げる)は間違っていませんが、下の現代語訳では「お噂申し上げた」になっています。ここでも「させおはしませ」は上の二つと同様の使い方。

 「くらべられさせおはします」
これも筆者が「比べられる」ような気持がしたのです。「させおはします」は上の三つと同じ、東二条院への敬意。

 「おぼえさせおはしまして」
も「思われた」だけでよかったのです。全部で五つが同様の使い方でした。

 「よその袂も所せき(場所がない、すなわち涙が拭ける場所がなくなる)ほどに涙で濡れて聞こえ(噂を申し上げた)た」(全部の人の袂が涙でぐっしょり濡れた状態です。)

『新編日本古典文学全集47』 小学館 久保田淳校注・訳より
都の方のことなどを聞くうちに、正月の初めごろであったろうか、東二条院がご病気だと言う。どのようなご様子だろうかと、人知れず気がかりにお思い申しあげるけれども、尋ねるべき方法もないので、よそのこととして伺っているうちに、もはやどうしようもないご容態となって、御所(富小路殿)をお出になるということを、伺ったので、無常はこの世の習いであるけれども、住み慣れていらっしゃったお住まいまでもお出になるのは、どのようなご事情だろうと、后として御門の玉座にお並びになられ、朝政をも輔佐し申しあげ、夜はご一緒に夜を専らとなさった御身でいらっしゃるから、今はご臨終という場合でも変る御事はないであろうとお思い申しあげていたのに、どうしてであろうかなど、気がかりにお思い申しあげているうちに、「はや、お亡くなりになられた」ということでたいへんな騒ぎである。
折も折、都近くの住まいにおりましたので、何となく伏見殿のご様子も知りたくて、拝見しに参ると、「まず遊義門院が御大臣様がお出になられる」などと言っているうちに、遊義門院の御幸が、まずお急ぎになるということで、遊義門院の御車を寄せると拝見していると、また、まだしばらくお出にならないということで、また車を退けて立ち戻られたかと思われることが、二、三度にもなったので、お母君の最期のお姿を御覧になるのもまたいつのことかと、遊義門院がお名残惜しくお思いでいらっしゃることも、哀れに悲しく思われて、大勢見物する人たちもいるので、それに紛れて御車近くに参ってうかがうと、すでに御車に乗られたと思ううちに、「またお戻りになられたのだろうか」と言っているのが聞こえる。お乗りになった後も、普通ではないお心まどいのご様子は、他人の快も涙でいっぱいになるくらいにお噂申しあげたので、心ある者も心ない者も、快を絞らぬ人はいない。束二条院様には宮様は大勢いらっしゃったけれども、皆、先立ってお亡くなりになられて、遊義門院がただおI人いらっしゃったのだから、お互いのご愛情の深さは、さぞかしと拝察されるとおり、お悲しみが深くお見えであったことこそ、数ならぬ身であるこのわたしが父を失った時の思いにも、つい比べられるような心地がしました。
 御葬送の御幸を拝見するにつけても、昔のままの身であったならば、どのようだったのかなどと、思われて、
 さてもかく……
 (それにしても、このように物の数でもないこの身は長らえて、東二条院様のご葬送を、夢かと思いながら拝することは悲しい)

No.1です。訂正 「おぼゆ」を「おぼす」と錯覚していました。「おぼゆ」は尊敬語ではなく、ほぼ語源の意味通り「自発」の意味があり、「(自然に)思われる」の意味でした。

その後の回答も無さそうですので、訳を検討してみた結果、これはなかなか難しいと言うことが分かってきました。この下方に古典文学全集の訳文を引用しましたので、それを参照しながらご理解ください。

 「御おぼつかなくおぼえさせおはしまししほどに」はの「おぼえた」のは筆者なのですが、その下に「させおはしまし」という最高敬...続きを読む


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