いちばん失敗した人決定戦

1. 次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう
問いです。

 ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80

 § 仏陀の範囲

 ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶよう
になったり、

 ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッ
ダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。

 ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれること
もある。

 ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB% …

 § 概要

 ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれ
ているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち
最初の四仏といわれる。
 過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 2. 問いです。
 【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 
何を言おうとしているか?
 
 3. ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ その
ような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?

 4. 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? 
 ( a )のゴータマの境地は 人間としての相対性の世界にしたがうか?

 5. ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているという
ことなのか?

 6. 【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。な
らば・・・

 7. ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれる
こともある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?

 8. ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在におけ
る《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わね
ばウソではないか?

 9. ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 

   《無い神:アン(無)-アートマン(我・霊我)》

 と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている
何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔な
る信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?

 10. けれども
 【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と
呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベル
の差がつねにあると見るべきなのか?

 11. けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》
と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらない
のではないか? 

 12. とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何を
もって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシヘは言うのか? つまりは やはり それ
ら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 
話はまとまりがつかないのではないか?

 13. ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつ
づくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミ
ソだと考えられるがどうか)。


 14. 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

質問者からの補足コメント

  • お礼欄の議論は 重要だと思い BAとしました。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/12/10 22:16

A 回答 (13件中1~10件)

お礼ありがとうございます。



○宗教の教えを説く。ブラジュ信仰論を説く。これは同じことだと思います。
違うんだ、と仰るでしょうが、何が違うのかが分かりません。

私は「布教」というものは、説けばいいのだと思いますが、この後に人は色々
なことをします。どうしてもこの人には幸せになってほしいと思うあまり、し
つこくなったり、功名心のため、仰るように策略的になったり。
しかし、これは本人あるいは組織の上の立場の人間の責任であり、宗教の責任
ではありません。
言ってみれば、「世間はこういうものだ」という認識のせいといえるでしょう。

○宗教が組織を作るのと、事業において組織を作るのと、私は同様のことと思
います。つまり、目的の効率化と個々の個人を守るという二点です。
組織に入らなければ信仰が成り立たないとは思いませんし、私自身、個人主義
が強いので組織は苦手です。
しかし、組織が有機的であればあるほど、布教が進むし、個人の信仰も高まっ
てゆく。組織とは本来そういうものであると思います。
もちろん、組織悪もありますし、リーダーが悪ければ、崩れてゆきます。

○私が誘われて行った宗教の教義はすべてインチキだと思いました。共通点は
色々な宗教の特徴をくっつけたもので、なんだかわからないし、説明する人も
自分で何を言っているか分からなくなるんです。
キリスト教(ある派)は、ごまかしは感じられませんでしたが、ハッキリ間違い
だと思いました。

○私は、病気を自分で治せないので病院に行きます。同様に、宗教でなければ
できないことがあると思うので、信仰をする気になったのです。気休めしかで
きないのであれば、私には宗教(信仰)は必要ありません。この点をハッキリさ
せておきたいと思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

111. 宗教と信仰との違いですが 信仰が《われ神を信ず》というとき 宗教は
《〈これこれの神を信じなさい〉と説く》ということにあります。

112. すなわち宗教は オシへによって成り立ちます。(教義のほかに教祖と教
団があります)。オシヘは 人間の言葉で表現されているからには 《思考に非ず》
ではなく 《思考する対象である》となります。つまり オシへは 信じるものでは
ないわけです。

113. しかも宗教が 組織をつくると ほとんどつねにこのオシへを無条件に受
け容れなさい(つまり 信じなさい)と伝えます。

114. あるいは 教祖やその時の指導者を信じなさいという場合は論外として
神を信じなさいと普通に言うときにも その宗団のオシへ(および解釈)にもとづき
信じなさいと言うと思います。

115. これらは 良心・信教の自由を――理論的には侵すことはないのですが事
実問題としては――侵すおそれがつねにある。と捉えます。そのオシへが示す内容を
つねに人との話し合いにおいては是としまさにオシへに従わねばなりません。オシヘ
は つねに疑問を持って考え研究するものです。

116. ですから 宗教組織というのは 信仰には直接に触れないで あとは聖典
の勉強や社会奉仕といった活動をおこなう集団であるなら ふつうの組織であるとな
ります。

117. 《信仰》論も 思考の問題です。オシへというよりは 哲学・思想だと捉
えます。宗教も オシへを説いてもけっきょくそれを哲学思想として扱っているなら
ふつうの人間どうしの対話であり ふつうにコミュニケーションの一環だと見られま
す。

118. そもそも《哲学》というものは 煮詰めたかたちでは《人間》しかも《わ
たし》の問題です。ですから 特に《信仰》というような《わが固有の時》を扱うな
ら おのおの《わたし》の心の中にまで手を突っ込んで来るというほどの問題にかか
わっています。

119. 哲学の門を入るときには 《精神のストリップを恥ぢることなかれ》と書
いてあったはずでなのです。

120. 信仰は 〔何ものかナゾの存在によって〕あたえられなければ それをい
だくことはないと考えます。というふうに哲学は 交通整理をします。宗教は しば
しばこの民主的な手続きを飛ばしてしまいます。

お礼日時:2015/12/05 22:28

お礼ありがとうございます。



ここで、一点申し上げたいことがあります。
宗教、特に新興宗教と呼ばれるものについて、「強引な勧誘」
「組織による圧迫」などのイメージが強いと思いますが、私の
経験から言えば、それは「めったにないこと」となります。

私は知人の誘いで多くの宗教の会合に参加しました。それは、
私の強い好奇心と、「どうせインチキに決まっている」との思
いがあったからなのですが、いずこにおいても、強引な勧誘な
どありませんでしたし、けっこう仲良く和気あいあいとやって
ましたね。

そもそも、「この宗教を信じなさい」なんて言われて、「ハイ
わかりました。」なんて人がいるでしょうか?
皆、自分なりに納得をして、信仰に入ってゆくものです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

99. ひとつに宗教の欠陥は ひとえに《思想として考えるためのオシへを 無条件に
受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くこと》にあると考えます。

100. 《勧誘》については 表現の自由のうちの結社の自由において 組織を成すこ
ともゆるされていますので まさに組織への加入を勧誘することもみとめられています。

101. 《強引な勧誘》については その事例が有意な数において(つまり 放ってお
けない程度に)出て来たら それでアウトです。

102. わたしは統計を採ったことはありませんし しらべたこともありません。

103. 聞くところとわたし自身の経験から言って 問題はあるようです。
(あ) 入らないと あなたや家族に不幸がおとづれると言って脅す
(い) 先に入会の手続きを――こういう場合は友だちが――おこなっておいて 徐々に
組織になじむようにさせる
(う) その勧誘の集まりで 試しに入会をしておいて あとで考え直せばよいと言い
決してうんと言うまでは帰らせない

104. もう今ではどうでもよいことかも分かりません。

105. もうひとつ重要なことがあります。
★ 皆、自分なりに納得をして、信仰に入ってゆくものです。
☆ ということは つねに言えることでしょう。

106. ただし 基本的に言えることは 《組織に入るかどうかは 〔わが固有の時と
しての〕信仰があたえられることとは まったく関係しない》ということです。

107. 宗教組織というものは 信仰とは関係がありません。信仰について話をし合っ
たりオシヘについて学んだりするでしょうが 信仰を持つ(信仰はあたえられるのですが)
ことと何ら関係しません。

108. 宗教組織の成員が おのれのこととして信仰を持つことはありますが それは
宗教や組織とは何ら関係していません。

109. オシへを信じた・あるいは組織を信じた・またその聖職者や指導者を信じたと
いったことは 通俗的には言っていますし・その限りであり得ていますが 哲学としては
認められません。

110. オシへを よい思想として受け留めたとか 組織がよさそうなので中に入って
活動しているとか 先輩や指導者の人柄や知性に感動を受けたといった事態があっても
それは 信仰とは別です。

お礼日時:2015/12/05 14:42

お礼ありがとうございます。



○「唯我独尊」を棄てるというわけではありませんが、真意を計りかねている
ということです。
少なくとも、キリスト教の神のように、絶対的存在で人々など取るに足らない
存在であるという意味では、仏教の精神から考えてありえないことだと思いま
す。

○ブラジュ信仰論によれば、非知たる存在の「真理」、(これは「神」と呼んで
いいのですね?)と我々人間の関係は、梵我一如など色々な言い方はあるけれど
も、本来そういう関係なので、人工的な教えである宗教などを信じて行ずるこ
となど、その本来の良い関係の邪魔をすること以外の何物でもないということ
なのですよね?
自然に生きていれば、真理(神)に包まれて、幸せに生きて行けるはずである、と。

ゆえに、釈尊はペテン師で、キリストは大ウソつきであり、聖徳太子はハナクソ
太子である、と。

○宇宙の元初の時を想定したときには、そうであったかも知れないということは
言えそうです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

87. アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)やマハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)
は ブラフマン神と同じく 実質的に何だ?と言えば 神であり絶対存在だと思いますよ。

88. 信仰にあって 神とわれとの関係は 梵我一如= 仏仏一如として説明されるとい
うとき さらに 聖書のイエスの神についても =霊霊一如ですよ。ブッダターがやどると
いうのとまったく同じく 神の霊がやどると言います。

89. だって 神と言えば 普遍神しかないはずで 名前が違うだけでみな同じくひとつ
なはずでしょう。

90. ええ。《非知たる存在の真理》のことです。

91. ★ 人工的な教えである宗教などを信じて行ずることなど、その本来の良い関係の
邪魔をすること以外の何物でもないということなのですよね?
☆ 《梵我一如》というのも 広くはオシへであるかも分かりません。でも 《わたし》の
信仰と宗教のオシへとの違いは 梵我一如というオシへを信じなさいとは 信仰は言わない
ことです。ただ 信仰の中身を 仏仏一如や霊霊一如として説明しているだけです。

92. みんなが集まって勉強会を開いてもいいですが そのときいわゆるヒエラルキアな
る組織の権限関係にもとづく人間の上下関係によって その勉強の中身を左右されては困り
ます。

93. あるいはまた あろうことか そのオシへを無条件に受け容れなさい(つまり信じ
なさい)と説くことは 行き過ぎだと考えます。信教・良心の自由をまもるべきです。

94. オシへは 人間の言葉で表現されていますから すでに思想となっています。思想
は 人間が考えるものです。信じる対象ではありません。

95. ★ 自然に生きていれば、真理(神)に包まれて、幸せに生きて行けるはずである、
と。
☆ はい。そしてそのことを自覚するなら ほかの人にも説明することが出来るようになり
ます。そのおこないにおいてすでにブッダです。

96. 聖徳太子は 政治家としてやっていることと仏教徒として――たとえば《世間虚仮
唯仏是真》というのも しゃきっとしませんが――言うこととが違うと思いますので 鼻糞
太子だと思います。

97. ゴータマ氏は さとりとは何かを明らかにしていればよかった。

98. イエスは 大嘘をついても 普遍神を指し示した。

お礼日時:2015/12/04 16:20

Q-2について



○「天上天下唯我独尊」は長阿含経に説かれているということで
やはり、法華経ではありません。
釈尊が摩耶夫人の右脇から生まれ、七歩歩いて、右手で天をさし
左手で地をさし言ったということですが、これが事実であるわけ
がありません。何らかの意図があっての、方便の教えという以外
にないでしょう、私にはその意図は分かりませんが。

○「梵我一如」というのは、バラモン教の根本原理であるという
ことのようですが、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)は、仏
教においては大梵天王となり、帝釈とともに仏を守る存在となる
ということです。
仏教においては、宇宙の根本原理は仏と呼ばれ、一人一人の人間
の中には「仏性」があり、「仏性」があるということは、仏にな
れる可能性があるということと考えます。
№8に書いた、威音王仏という名の仏が無数存在したということは
仏の教化により、多くの仏が生まれたことを示すものと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

76. 《天上天下唯我独尊》は棄てるということですね?

77. ただしなお引っかかるところは のこります。《ゴータマ・ブッダが 唯一最高の
ブッダであり 基本的に言って〈神〉でもある》と説かれた場合です。そうすると 唯我独
尊の問題になります。生まれたときにそう言ったという話は別にしてです。

78. ブラフマン神ないし梵我一如なる信仰のかたちは やはりいまの唯我独尊をめぐる
《神》の問題につらなります。

79. ★ 宇宙の根本原理は仏と呼ばれ――☆ ということですが 一般にそれは《神》
として受け取られるはずなのです。

80. 詳しく言えば 《宇宙の原理》というよりも――なぜなら 宇宙は経験世界のこ
とですから その経験事象を超えているところに《非経験の場》を想定するからには――
その一段上のメタ原理のようなものが 神です。

81. 原理ないし法則として知られているならば それは人間の認識しうるモノです。
《ダルマ》とも言うのだと思いますが 認識されうるなら人間の言葉で表わされたオシへ
でしょうし 認識を超えている(非知である)ならば そのナゾです。

82. 非知なるダルマは ブラフマン神のことになるはずです。
 人間におけるその神の霊と呼応するのは アートマン(霊我)と呼ばれています。

83. ゴータマが アン‐アートマン(無我・非我)と言ったあと 後世のブディストら
は ふたたびアートマンを取り上げて ただしこの霊我を ブッダター(仏性)と言った
ものと思います。

84. ブラフマン神(ないしダルマ)のことは たとえばアミターバ・ブッダ(阿弥陀
仏)という名で言わば受け継いだのだと捉えます。

85. ですから 梵我一如= 無梵無我一如= 仏仏一如 といったかたちの信仰の中
身になるはずなのです。どれも 同じひとつです。

86. すなわち人は生まれつき 《仏仏一如》なる信仰がそなわったブッダなる存在で
あると。オシヘやその教化無しに すでにひとはブッダであると。強引ですか?

お礼日時:2015/12/03 23:12

こんばんは bragelloneさん



>人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

ブッダの最終目的は、苦しみから解放された人々の姿を観て幸せな気持ちになることです。
自分で悟った(気持ちを切り替えて、苦を克服した)なら、菩薩ですよ。
ミラーニューロン(共感細胞)の達人=ブッダとか。

なるほど、ブッダはマーガンディアの気持ちも観えていたのですね。一件落着。

私は忙しいので、これで失礼つかまつります。
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この回答へのお礼

韃靼海峡のてふ_てふうさん ご回答をありがとうございます。

65. ★ ブッダはマーガンディアの気持ちも観えていたのですね。一件落着。
☆ どう《落着》しているのか 分かりません。
【Q:美女マーガンディヤーとゴータマ・《ブッダ》】
 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8539819.html&isShow …

66. ★ ミラーニューロン(共感細胞)の達人=ブッダとか。
☆ これは 《鏡の方程式》ですね。たとえば:
▲ マタイ福音 8:28~34 
(悪霊に取り憑かれたふたりの者が イエスに出会って イエスがミラーニューロン現
象を起こし自分たちの心の状態に共感しているのを知り 自分たちのほうからその悪霊
を追い出してくれと つまり悪霊を追い出し近くを行く豚どもの中に入れてやってくれ
と頼む話です。)

67. のちに取り上げる《苦からの解放》ですね。

68. 黙って坐ればピタリと当たる。

69. ★ 自分で悟った(気持ちを切り替えて、苦を克服した)なら、菩薩ですよ。
☆ まぁ そうなんですが そのボディサトワに成るチカラは 一般にブッダターだと
言われています。つまりは 《われわれ一人ひとりがブッダである》という問題です。
よ。

70. ★ ブッダの最終目的は、苦しみから解放された人々の姿を観て幸せな気持ち
になることです。
☆ 《幸せな気持ちに》ブッダ自身が成るんですか? 

71. それと ひとは――それぞれがブッダであるというのは―― すでに生まれた
ままの自然本性において《苦から解放されている》んぢゃなかったのですか?

72. 《無明》は 後天的にあとからへんなクリスマスツリーの飾りつけのように
つけるカルマ。つまりだからシガラミと呼ばれるような《カザリ》を自分自身につける
そのカルマでしょう。

73. ひとは 巡礼の旅路をあゆむものですから けわしい道をむつかしい問題をか
かえて歩かねばならないときがあります。道無き道をゆく山の上の寺院をまわらなけれ
ばならない時もあるでしょう。――といった《苦》にも出遭います。

74. つねに しかしながら われに立ち還りもともとの自然本性を取り戻すこと。
ということでいいんぢゃないですか?

75. すなわち《われはブッダなり》と一人ひとりが そのまま 言う。

お礼日時:2015/12/02 07:07

時間の関係で、少しずつ。



○「過去の七仏」については、私が信頼する書物にありました。
但しこれは、「小乗経」に説かれているとのことです。

ご存じのとおり、法華経の開経といわれる「無量義経」に、
「四十余年には未だ真実を顕わさず」と、また法華経方便品
第二に「正直捨方便」と説かれているように、法華経以前の
経は、人々の「機根」つまり理解の度合いを高めてゆくため
の教えということと思うので、その中には、全く真実でない
こともあるでしょうし、何かの概念を説明するために引用し
たものもあるでしょうから、権教(法華経以前の教え)の文で
もって、本質を論じようとすることは、間違いが生ずる可能
性が大きいと思います。

また、法華経常不軽品第二十には、威音王仏という仏が説か
れていて、この時に同号の仏が二万億存在したということで
一劫に千仏という単純なものではないようです。

従って、Q-1につきましては、全く分かりません、分かる気
がしません。
ただ、仏はそれぞれ持っている教えは異なるもので、その仏
に縁のある衆生に教えるのだということは、聞いた記憶があ
ります。


○次に「悟り」ということについて。
先生は、「真理」のことを「生命」というと難しいと仰いま
すが、私には子供のころから聞いていることですので、違和
感がないどころか、様々なことに合点がいくんです。

つまり悟りとは、苦しい修行の結果、「真理」を自分の中に
発見することだと思います。
「真理」=「仏性」=「生命」=「世間でいう神」だと思いま
す。
自分の中の「真理」を深く信じたときに、宇宙の「真理」と
冥合するということだと思います。


すべての人に「仏性」がある。だから人は本来「仏」である。
それが、分からんうちは「凡夫」、分かったら「目覚めた人」
ということなんでしょう。
ただ、頭で分かっただけではダメみたいですね。昼行燈のよう
な私が「目覚めた人」とはどうも思えませんから。

○釈尊がなぜ「仏性」を説かなかったか?これも聞いたことがあ
るのですが、難しくて理解していません。勉強中です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

54. 過去仏については 七仏や一劫に千仏といった数では効かないほどゆえ
★ Q-1につきましては、全く分かりません、分かる気がしません。
☆ そう受け留めましょう。

55. ★ ただ、仏はそれぞれ持っている教えは異なるもので、その仏に縁の
ある衆生に教えるのだということは、聞いた記憶があります。
☆ これは どうでしょう。
 (あ) 教え方や表現が違ったりするが 内容は同じなのか。
 (い) 内容は同じだが 浅い深いが違うのか。
 (う) 言いかえると つねに最高の中身を伝えているとは限らないのか。

(う)みたいですね。

56. ★ 「真理」=「仏性」=「生命」=「世間でいう神」だと思います。
☆ 《生命》は 摂り入れてはいるのです。
《神》は やはり《非経験の場= 非知なるナゾ》と定義したいと思います。

57. ★ 自分の中の「真理」を深く信じたときに、宇宙の「真理」と冥合す
るということだと思います。
☆ でしたら 《梵我一如= 無梵無我一如= 仏仏一如= 霊霊一如》なる冥
合が 非思考の庭に成ったことだと受け取ります。

58. ★ つまり悟りとは、苦しい修行の結果、「真理」を自分の中に発見す
ることだと思います。
☆ 《真理の発見》は 理論として前項の《梵我一如》なる冥合であり じっさ
いには 経験的なことがらとして表現するなら 《わたしがわたしである》自己
に到来することなどと表わすと思います。

59. 自然本性なるわたしに立ち還ることとしてです。

60. その意味では その自己還帰がいつ・どのようにして成るかは 必ずし
も《苦行の結果》だとは限らないと見ます。

61. ★ すべての人に「仏性」がある。だから人は本来「仏」である。

62. だとしたら
★ それが、分からんうちは「凡夫」、分かったら「目覚めた人」ということな
んでしょう。 / ただ、頭で分かっただけではダメみたいですね。
☆ と捉えるのではなく そうではなく やはりすでに初めから《われわれはそ
れぞれブッダである》と言って行けばよいのではないでしょうか。

63.《昼行灯》が どうして目覚めたブッダでないと判定できるのですか?
せいぜい 他人のことは判断できないと言うにとどめるのがよいのでは?

64. 全体として 今回は どうでしょう?

お礼日時:2015/12/01 21:08

懐かしいです。

小学生のときの考えですが書かせてください。
 ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今回は見ておりません・
 


【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 
何を言おうとしているか?
ゴータマ・ブッタも人である。
 
 3. ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ その
ような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?
ゴータマのさとりは他6人と会話をし得られた。
 4. 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? 
なし。 
( a )のゴータマの境地は 人間としての相対性の世界にしたがうか?
ゴータマは従わない。
 5. ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているという
ことなのか?
ブッタはずる賢いということ。
 6. 【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。な
らば・・・
ブッタ。

 7. ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれる
こともある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?
ブッタは自分の考えたことにするので不合理ではない。

 8. ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在におけ
る《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わね
ばウソではないか?
どんぐりの背比べ。

 9. ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 

   《無い神:アン(無)-アートマン(我・霊我)》

 と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている
何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔な
る信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?
あり得ない。

 10. けれども
 【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と
呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベル
の差がつねにあると見るべきなのか?
つねに差があると見るべき。

 11. けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》
と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらない
のではないか? 
さとりを開いていないブッタにあわせる理由はない。
 12. とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何を
もって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシヘは言うのか? つまりは やはり それ
ら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 
話はまとまりがつかないのではないか?
さとりのすべてが相対性の世界には従うことはないので考える必要なし。

 13. ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつ
づくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミ
ソだと考えられるがどうか)。
七転び八起き。


 14. 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

誰でも産まれたときは皆ブッタだから。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

42. ★(14) 誰でも産まれたときは皆ブッタだから。
 ☆ この命題を推し出したいですね。わたしも。
 潜在的なチカラであってかまわないわけです。

43. ★【Q‐1】 ゴータマ・ブッタも人である。
 ☆ ごもっとも。質問者もそう言いたいところです。

44. ★(3) ゴータマのさとりは他6人と会話をし得られた。
 ☆ なるほど。わたしから言わせれば 物語として成り立つものと思われます。

45. 次のみっつは (43)と同じ意味合いだとしてよいでしょうか?
★(4) 〔《さとり》に程度の差は〕 なし。 
★ 〔人間としての相対性の世界に〕 ゴータマは従わない。
★(5) 〔逃げ道(理屈)うんぬん〕 ブッタはずる賢いということ。
☆ あっ 真ん中は ぎゃくかも知れない。(?)

46. ★(6)〔【Q‐2】 唯我独尊・・・ならば〕 ブッタ。
☆ ん? 豚でしょうか?

47. ★(7) ブッタは自分の考えたことにするので不合理ではない。
 ☆ (45)⇒(5)の《ずる賢い》?

48. ★(8) どんぐりの背比べ。
 ☆ (42)⇒(14)の《自然本性としてのブッダ》と受け取ります。

49. ★(9) 〔ゴータマ・ブッダは《無神論としての信仰》を持った〕――あり得
ない。
 ☆ 可能性として・エコヒイキして・どこかでは花を持たせてやるかたちで どうでし
ょう?

50. ★(10) 〔さとりには〕つねに差があると見るべき。
☆ このことは (42)⇒(14)の《自然本性としてのブッダ》であることと両立す
ると見ます。自然本性のたどる言わば巡礼の道におけるそれぞれの段階として。

51. ★(11) さとりを開いていないブッタにあわせる理由はない。
☆ なるほど。もうひとつの見方としては 《まだ開かれていないその潜在性としてのブ
ッダなる本性》に合わせるという理屈。

52. ★(12) さとりのすべてが相対性の世界には従うことはないので考える必要
なし。
 ☆ たぶんここは なのんなさんの勘違いではないか。《ブラフマン神とアートマン霊
我》は 相対性の世界を超えています。

53. そして相対性の世界においては 確かに:
★(13) 七転び八起き。
☆ なのである。《(8) どんぐりの背比べ》なのである。でしょうか。

お礼日時:2015/12/01 12:48

最澄は、人は誰でもブッダになれると主張していたんじゃなかったでしたっけ?


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%80 …
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

36. そうなんでしょうが 微妙ですね。

37. つまり《ブッダになれる》ではなく 《ブッダになる》でも必ずしもなく ひとは
すでに生まれつきの自然本性において《ブッダである》という見方なのです。これを問うて
います。

38. あるいはつまり《天上天下唯我独尊》とは 人間なら誰もがおのおのすでに言って
いることである。ということでなければおかしい。――と問うています。

39. ゴータマ・ブッダを 特別の存在だと見ることはあり得ない。という意味です。
 どうでしょう。

40. ひとが普遍神のもとにあるということは そういうことなのだと。

41. 《無い神》という普遍神のもとにある場合も そのまま自明なように 同じことと
してです。

お礼日時:2015/12/01 08:07

仏陀の覚醒は宇宙にごろりんと居ます。


仏陀の偉業は生きたままの人間が悟りを得た、悟りを得られる、このことを体現するために彼は顕れたのです。
常識な知識です。
誉れることは考えより行いである。

馬鹿はこれが分からない。幾転生を経ても分からない。
仏陀も、私は過去世で我が愚かを放置していたと、述懐している。
馬鹿にはもう一度言わなければならない。
仏陀が得た悟りは宇宙のごろりんは人には真似ができない。
仏陀は出来るとそれを示した。
馬鹿には馬鹿の言い分がある。それは分かる。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

31. んーん。ずばりお訊きしますが けっきょくブッダのさとりとは何だった
のですか?
 
32. ★ 宇宙のごろりん
 ☆ って何ですか?

33. この《ごろりん》が
 ★ 考えより行いである。
 ☆ ことにかかわっているのですか?

34. ★ 人には真似ができない。
 ☆ と言ったって その真似する対象がはっきりしていないんですから どうしよ
うもないと思いますけれど。

35. われわれ一人ひとりが自分でこれが《ごろりん》だと思うことをやればよい
のでしょうか?

お礼日時:2015/11/30 14:22

仏教に関する文献というものは、十分ご存じかと思いますが、


骨董品のように数多く出回っており、実に様々な説があるよう
です。
ここで引用された二つのwikiの記事も、出典不十分となってお
ります。
そのうえ、世間一般には、仏教の知識というものが、皆無に等
しいといっていいと思います。
つまり、仏教についての議論は極めて意義のあるものになりに
くいといえましょう。

かくいう私も、そういう環境で育ちながらも、全く全く不勉強
であります。
しかし、私は信仰の必要性を感じ、これまでの態度を改めるつ
もりです。

このご質問については、今の私の僅かな力をもって、調べなが
ら、回答したいと思いますので、すぐに締めないで下さいませ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 22. 文献資料とその扱いについて不備があるではないかというご指摘は
じつは 基本としておっしゃるとおりです。

 23. その上で ただし次の問い返しをすれば じつはかなりその不備だ
と思われた推論の組み方も持ちこたえるのではないか。
 
 24. すなわち 《もしゴータマ・ブッダが ただ独りのブッダであり
けっきょくブッダとして絶対の存在である》という説に従うならば 次のよう
な問い返しが有効になると考えます。

 25. (あ) 絶対であるなら ゴータマ・ブッダは神か?
 (これは 非経験の場が 経験存在であるとなりますから イエスなる人間
が キリストなる神〔の子でありみづからも神〕であるという神論に重なりま
す。その辺をきちんと説明しなければならない。がこれまでなされていない〕。

 26. (い) 《人間であり同時に神であるかどうか》を措いても また
《ブッダのさとりが 絶対なのか相対なのか》を問わないとしても そのさと
りの中身をきちんと明らかにして――哲学としては――問い求めに応じなけれ
ばならない。意外と 成されて来ていない。
 
 27. 後世のブディストの人びとに対して要請されているものと思います。

 28. (12)の自灯明・法灯明については けっきょく――《慈悲》に
ついて問うたように――それらが 人間の振る舞いとして経験しうることなの
か それともあくまで《絶対》の領域のこととして アートマンやブラフマン
などと同じように神ないしその霊を想定して言っているのか。
 これを明らかにする必要があると考えます。

 29. 従来――二千年を超える長い間―― 《ほとけ》と《神》とは違う
のだという仮説命題の一点張りだったのではないでしょうか? そこから外へ
開かなかったのでは?

 30. 待ってます。

お礼日時:2015/11/30 11:59

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