A 回答 (16件中11~16件)
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No.7
- 回答日時:
「我思う故に我あり」は哲学野に入ったものにしか分からない。
私が言おう。哲学野はまっすぐで賢くて馬鹿にしか入れない世界。
神の思し召しは私にも分からない。お前らの馬鹿にはなおさらである。
「我思う故に我あり」、これは真である。
どうして、わたしが知らぬデカルトを援護するのか。
No.5
- 回答日時:
1. デカルトのこの命題は アウグスティヌス(354-430)の
( a ) 《われあやまつならば(あざむかれるならば) われあり。 Si fallor, sum. 》
の二番煎じです。次の回答№5を参照してください。パスカルがその二番煎じ問題につ
いて議論しているところを扱っています。
【Q:"cogito"(コギト・エルゴ・スム)は真か?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7902812.html
2. アウグスティヌスは どう言っているか?
( a-1 ) もしわたしがあやまちを侵したと気づいたときには 考えや振る舞いについ
て間違う行為とそれに気づき正す行為とがあると知られ このふたつの――時間的な隔
たりのある――コトをとおして わたしはそのどちらについても わたし〔が行為主体〕
であることを確認します。自己同一性(アイデンティティ)です。――この自己・この
わたしがあると知られます。
( a-2 ) わたしはもし誰かにあざむかれたとしますと そうだとしてもその欺かれた
というコトは わたしが存在していなければ成され得ないことです。犬や猫も存在して
いるとすればそう見なされると思うのですが つまりもしそれらを人間がだましたとし
て ひとつに 存在しているとする限りで だからだませたとなるでしょうし 存在な
どしていないと見るなら そのダマシなどは あって無きがごとしとなるでしょう。そ
のようにです。
3. このアウグスティヌスの命題( a )を デカルトは――人びとが思うには――わ
るく言えば パクッたということになります。《あやまちに気づく》ならば なぜそう
したのかなどについてわれは考えますし あるいは《騙された》とするならば やはり
どうしてそうなったのかと思いをめぐらし考えます。だから 《思う・考える》という
表現に替えたのでしょう。
アウグスティヌスの原文(翻訳ですが)と併せてその点については たとえば次の趣旨
説明欄を見てみてください。
【Q:デカルトは《コギト》をアウグスティヌスからパクった】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8937694.html
4. ただし デカルトはすでに生前にそのこと(パクリ疑惑)について指摘を受けて
それについては 反論して答えています。――いや そうぢゃない この《思う・考え
るわれ》は 決してあやまちや欺きといった経験的な事態にかかわるわれではない。そ
うではなく むしろ《霊としてのわれ》なのだと。その《考えるわれ》とは英訳で《非
物体的なもの( an immaterial substance / incorporeal》なのだそうです。
5. すなわち
▲ Renati Descartes Epistolae (デカルト書簡集)(*註)
http://catalog.hathitrust.org/Record/009287973
(ここから cogito で検索して p.404 をクリックしてください。次のページです)。
http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=ucm.532354 …
( d )(= p.404 ) ego vero illud adhibeo adprobandum me cogitant-
em esse immaterialem & incorpoream substantiam;
( d-E ) Appendix IV. Augustine's "Cogito Argument:"
http://www2.fiu.edu/~hauptli/AppendicestoDescart …
I use it to make it known that this “ I ” who is thinking is an
immaterial substance, and has noting in it that is incorporeal.
( d-J ) アウグスティヌスの《あやまつならわれあり》をわたしは次のことを明らか
にするために応用しました。すなわち 《考えるわれ》は 非物質的で非物体的な実体
なのであると。
☆ (ぶらじゅろんぬの自由な解釈) あやまちに気づかされるときには われなる人
間としての思考を超えて(思考によってだけではなく思考を超えて) ヒラメキが得ら
れると見ることもできる。ヒラメキは インスピレーションとして 神の霊としてのハ
タラキに属するという見方だと思われる。
6. さらにこの話には後日譚のようなことがついています。
(あ) 《考える〔そのみなもとの〕われ》は むしろ《霊》であるとなったところで
これを承けて 18世紀の科学者のゲオルク・クリストフ・リヒテンベルクがその霊の
ハタラキを例の《エス( Es :それ・あれ)》と言ったそうです。
(い) ( a-d-Lichtenberg :《エス・デンクト( It thinks. それが考える)》
http://blogs.yahoo.co.jp/hiraokakimihiko/1244544 …
稲妻が走る〔es blitzt〕と言うのと同じように、それが考える〔Es denkt〕と言わね
ばならない。
(う) この《エス(英: it )》が 《無意識》といった意味合いを帯び ニーチェを
経てフロイトに行き着いたのだそうです。
☆ この(6)は特に孫引きが多く さらに精確を期したいとは思います。おしえてく
ださい。なお この《エスないしムイシキ》をその作用としてあたかも脳の独立した部
位において想定したところでは もうついて行けないと言うべきだと考えます。
7. *(5)の註:デカルトの書簡については 『デカルト全書簡集』全六巻として
ちょうどいま日本語訳が刊行中のようです。
8. デカルトの反論は その場のデマカセくさいように感じられます。そうでなくて
も もし霊のハタラキを言うとすれば 《考える》とは別にそれとして持ち出せばよい
はずですし そういう問題はアウグスティヌスがすでに言っていないわけがないのです
から。(デカルト書簡集をすすめましたが いまこの意味では あまり生産的ではない
かも知れません)。
No.4
- 回答日時:
この世はすべて幻、バーチャルリアリティーかもしれない。
そうでない、という証明はできないだろう。
しかし、そう考えている私の存在だけは確かだ。
てのが、我思うというやつです。
これには疑問があります。
1,そう思っている思考の存在は確かだが、その思考の
主体の存在、つまり「我」の存在まで確かだと言えるのか。
2,デカルトのこの論法により、心身二元論が導出され
肉体は、精神の入れ物に過ぎない、という結論に
いたる訳ですが、
近年の研究では、肉体と精神は合一的なものである
ということになりつつあります。
デカルトの「我思う故に我あり」で一般的に主張されているような
自我(思っている私)を証明出来るという方はいますか?
↑
と、いうことで、デカルトの主張には問題があると
考えます。
No.3
- 回答日時:
物事、行動を見ていると、何かしらの思考があるのだと分かることがあります。
例えば、食事のメニューを選ぶ。選ぶということには思考が働いています。行動を見ればすぐ分かることで、論証しろと大騒ぎするような類いのものではありません。私がこうやってパソコンを打っている。それでもう思考があることが直に分かります。しかしもっと細かく話は見ていかないとなりません。行動するもの全てに思考があると言えるのか。言えないケースがあるのではないか。機械も動物も行動しますが、思考があるとは常に言えません。思考というより、プログラムや本能に従っているだけなのかもしれません。しかし言語はどうでしょうか。人間が考えていることを立証していないでしょうか。いや、この話、私が考えたわけじゃなくて、デカルトが考えたことを、私がうろ覚えで勝手に要約しているだけなんですけれどもね。しかし機械とか動物と人間が違う理由を言語に求めたという話は、未だに哲学でデカルトを基盤に議論されていることです。さて話を戻します。この話はトートロジーなんですね。「我思う」という言葉を発した時点で、言語使う主体である「我」は既に「ある」のです。彼が言語を使い、言葉を記しているということそれ自体が、思考している彼が存在することの何よりの証拠です。
No.2
- 回答日時:
いません。
これは公理みたいなものなので証明できないし、証明不要なこととして扱うしかない。公理みたいなものというは、公理じゃないから。
つまり、我思う故に我在り・・・みんなそうだよね、ということ。だからといって、彼思う故に彼在りじゃないし、彼思う故に彼は我在りと認識する、ともいえない。ま、そういうことだ。
心理学も土台は曖昧。心とは何か・・・・みんな心はわかるよね。はーい。と同じ。
それと我が何かを明確にしてないまま、我思うといわれもね。誰だよ、ってこと。我は我だよ、当たり前じゃんという人が受け入れてその先をすすめたらいい。そうでない人は我を深く掘り下げたらいい。
No.1
- 回答日時:
高校の頃勉強したことがあります。
もしも私が何も出来ない無の存在であったら、自分が何をしたいとか、何でこれはこうなっているのだなんて考えることはありません。誰かにこうしろと命令されて何も考えないでそれを実行すれば何の問題も無いし自分なんか必要ないわけです。
その当時は奴隷がいましたので、奴隷は確実に命令されたことをするだけです。
そうじゃない、自分で考える人たち「市民」は考えることが出来る、そのことが人間の価値であると言う話なのです。
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回答ありがとうございます。
デカルトの「コギト」については哲学史や他の哲学者を交えて色々な解釈があるとは思うのですが、ここではそのデカルトの言った「コギト」の背景や解釈ではなくて、一般的な自我(思っている主体としての私)を証明出来るかどうかについてのbragelloneさんの意見を聞きたいです。
回答ありがとうございます。
>「我思う故に我あり」、これは真である。
上記の理由について、もし失礼でなければ説明してもらえると幸いです。
尚、デカルトの「コギト」については哲学史や他の哲学者を交えて色々な解釈があるとは思うのですが、ここではその様なコギトの解釈ではなく、「一般的な自我(思っている主体としての私)は成立しうるか」についてのあなたの意見を書いて頂きたいです。
回答ありがとうございます
>>「我思う」という言葉を発した時点で、言語使う主体である「我」は既に「ある」のです。彼が言語を使い、言葉を記しているということそれ自体が、思考している彼が存在することの何よりの証拠です。
上記についてなのですが、
言葉を発している事が、思考をしている主体の存在を証明している。という事は分かるのですが、何故その主体が,我,になるのでしょうか?
また、>>思考している彼が存在することの何よりの証拠です。
という部分についてなのですが、
>>思考している彼が存在することの何よりの証拠です。
と思考しているのは一体誰なのでしょうか?
それも「彼」でしょうか?
ではそれを思考しているのは、また一体誰になるのでしょうか?
おそらくこの問いかけは永久に続くと思います。
では改めて聞きますが、,思考している主体,というのは本当に存在しているのでしょうか?
これは簡単です。読者であり、より局所的にいえば、私です。
>ではそれを思考しているのは、また一 体誰になるのでしょうか?
上記のそれを思考しているの,それ,とは、あなたの,思考しているのは私です。,という答えであり、その答えに対して「ではそれを思考しているのは、また一体誰になるのでしょうか?」と問いているのです。
故に思考しているのは報告を読んだ私ではありません。
回答ありがとうございました。
文の中で解らない部分も多くあったのですが、
《思う・考える》⇒《その行為主体はわれである》⇒《そのわれが存在していることに別にうたがいを入れる必要はない》。なぜならその思いや考えはやがてほかの人に伝えられることになるからです。
この部分について質問なのですが、
何故他人に考えや思考が伝わると、考えて思考している主体が我になるのでしょうか?
また、ここでの,他人,とは何のことでしょうか?
ここでの,他人,とは,世界を開拓しているもの,のことを指しているのでしょうか?
もしそうなら、その,他人,を想定するのはナンセンスとしか言えません。
何故なら想定に過ぎないからです。
勿論逆に、,他人,は存在していない。というのもナンセンスです。
故に,他人,を想定して論を進めていくのはナンセンスとしか言えません。
,世界を開拓しているもの,を知ることは不可能です。
回答ありがとうございます。
以下の部分について質問させて頂きます。
>>☆ 互いに認識しあっておりその伝達についても互いに確認しあっているからです。
この,互いに認識、伝達しあう,とはどういうことでしょうか?
ここは、言葉が交わされ合っている様な形式をしているにしても、だからといって互いに認識して、互いに確認し合っている様には思えません。それは言葉が交わされているということから導いた想定に過ぎないのではないでしょうか?
想定から論を進めていくのはナンセンスとしか言いようがありません。
ご指摘の,世界を開拓しているもの,とは、,世界が開かれている視点,、,コギトする〈もの〉,という意味で使用しました。
回答ありがとうございます。
>>☆ たとえばこのようにそれぞれの自己表現の《やり取り》がおこなわれている。その認識がなおまだ互いに相互の理解に達していなかったとしてもあたかもボールが相手のコートに入ったということは双方とも確認している。 ――これで ひとまるマジハリが現象している。ということでいいのではないですか?
〈やり取り〉という現象が事実として,ここ,にあるのは確かです。
しかし、では,ここ,に、互いに認識し合っている、互いに確認し合っているという現象があるでしょうか?
互いの認識と確認がなければ〈やり取り〉は成立していない。
というのは想定に過ぎません。
,ここ,にあるのは、言葉が交わされているという現象のみです。
そこから認識している、確認している主体を想定するのはナンセンスです。
ありがとうございます
まず前提に、,認識、確認している主体,を,ここ,に想定するということは、コギト的主体(思っている、思考している主体)を,ここ,に想定する事と同意になってしまう。そのことについては問題ないでしょうか?
これを前提にした上で、
>なぜならすでにやり取りをおこない合っ ている時点で取りあえずその行為の主体となってもいる。とふつうに・自然に見るわけです。
この上記の,その行為の主体となっている。,の,主体,とは何を意味しているのでしょうか?
もしこれが、認識、確認している,主体,を意味しているのであれば、それはコギト的主体(思っている、思考している主体)を,ここ,に想定する事と同意になってしまいます。
つまり私は、〈やり取り〉という現象が,ここ,に成立しうる上で、認識、確認している主体、つまりコギト的な主体(思っている、思考している主体)は想定しえないと言いたいのです。
回答ありがとうございます。
では最後に、
★(№8補足欄) 何故他人に考えや思考が伝わると、考えて思考している主体が我になるのでしょうか? ☆ 互いに認識しあっておりその伝達についても互いに確認しあっているからです。
ここで最初に質問したことなのですが、
結局、
何故、〈やり取り〉が現象としてここにあるという事から、考えている、思考している主体が我になるのでしょうか?
尚、やり取りという現象から認識している主体、確認している主体を想定するのはナンセンスです。
さらにそこから認識している、確認している主体を我としてしまうのは最もです。