性格いい人が優勝

『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上
げ問います。

§ 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは 弟子アーナンダの不明の所為か?

▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~~~~~~~~~~~
 ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限り
 この世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。
 
と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのよう
にあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して
《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・
幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。
それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・
(中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか? 悪魔に取り憑かれるとい
う表現が 成り立つだろうか 哲学として。

【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(? 豚肉?))を食べて体調をくづしたと
き ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしている。だが このアーナンダの
《悪魔憑き》については どういう振る舞いと見ればよいのか? 《おまえの罪 おまえの過失
である》と言っている。

§ 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?

▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~~~~~~~~~~
・・・尊師はこのように言われた。
  ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹
  の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・
    修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは も
  し望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだで
  も留まることができるであろう。・・・
 (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い
続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。
(つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えるこ
とが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆で
はないのだと)。

【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? 
けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。

§ 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?

▲(自灯明・法灯明) ~~~~~~~~~~~
  ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島と
  し 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。
 (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)
~~~~~~~~~~~~~~~~~

【Q‐5】 《島》を 灯明として解する説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 
《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから 
その区別を明らかにすべきではないか?

【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし〈灯
明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かりあるいは光》
とするだけではないのか?
 
つまり 医学などの科学としての光明や人間としての思いやり・愛情として暖かみやは 何も
《さとり》を得なくとも 人間の能力と人生経験と心において得られるものである。
 
ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己
のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主
題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか? 

みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか? 水をどこか
から引っ張って来る。あるいは その時その場で光を灯すということは出来ても 長続きする水
や光は 《わが心の灯心そのものを灯す》こととして問い求めなければいけない。ブッダである
なら。
 
《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に
違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無
常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。



 
これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは やっぱ阿呆である。
以上について よろしくご教授ください。

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(? 豚肉?))を食べて体調をくづしたと
    き ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしている。だが このアーナンダの
    《悪魔憑き》については どういう振る舞いと見ればよいのか? 《おまえの罪 おまえの過失
    である》と言っている。
    ☆ この《おまえの罪であり過失である》という咎めは 取り下げられなかった。

    どういうわけがあるのか?

    ゴータマが アーナンダを咎めるのは 筋がとおらない。阿呆である。

      補足日時:2016/02/09 09:26

A 回答 (9件)

弟子だけでしょう? 説法ができるほどに育った優秀な子は。


さとくない衆生は、理法も解せず不出来なまま置いてけぼりになるから、アーナンダも嘆くんじゃありませんか。
ブラジュロンヌさんが何を言いたいのか、あたしにはわかりません。
一劫が43億年とかでなく120年なのは、もしかして、ひろさちやさんではないですか?
    • good
    • 12
この回答へのお礼

弟子も ダメ修行者でした。

法華経・方便品で シャーリプトラがゴータマに さとりとは何かを何度も
尋ねています。その答えは 説き明かしても人びとは理解しない 捨ててし
まうから 言わないということでした。

最後まで ダメ弟子でした。

そして 何も説明しないゴータマもゴータマでした。

それが 真実です。

これを無視するのは めちゃくちゃな回答ですよ。


でもご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/02/07 21:35

>デスノートって何ぢゃいな。



死神が持つてゐるノートです。人の名前を書くと、その人は死んでしまひます。死因を記載しなければ、心臓麻痺で亡くなります。自分の寿命の半分と引換えに、死神の目を得ることができます。アーナンダはさうしたのだと思ひます。他人の寿命を見ることができたのですから。

>要するにゴータマは 阿呆なのかいな? どうなのかいな。

もしかすると、正体は「L」なのかもしれません。さうだとすれば天才です。

あまがつぱさんが優れた内容の投稿をなさつてゐますので、私は他のカテゴリでつづきをやります。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

すべて 受け容れることができません。

というより 検討するにあたいする中身を見出し得ませんでした。
あしからず。

でも ご回答をありがとうございます。

回答№6&7についての評価も 取り上げるにあたいしません。

お礼日時:2016/02/07 20:15

> ☆ ゴータマの死や寿命にアーナンダがかかわると言うのは言いがかり


> である。まるで自分(=ゴータマ)の本性が悪魔であるかのごとく 
> アーナンダにイチャモンを浴びせ 罪を着せている。

というものでも、

> § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは 
> 弟子アーナンダの不明の所為か?

というものでもなくて、

親心としては、法を知らない至らない子らを此の世に置いて親は逝くつもりだけれども、成り行きを覆して延期することが出来る方法を長子に教えてやった。念のためしつこく繰り返した。長子はうわの空でろくに理解していなかった。このあとで、もういいじゃんと悪魔に話しかけられ、ではあと3ヶ月で逝こうかなと親は決めた。変な大地震や雷鳴が起きて、成り行き通りに親が逝く段になって、地震の意味を理解した長子は大慌てで逝かないでちょうだいと嘆き悲しんだ。成り行きを止めるにはもうとっくに遅く、此の世に残されたすべての子らはチャンスを逃し、とうとう親なしである。仏伝の筆者もちと無念である。皆のためにならん何ちゅうことをしでかしてくれたんじゃボケ-----。親は長子に、お前の失敗だぞい、こうなったらなったで無常ということなんだから嘆くな、とにかく皆は法を守って教わったとおりに修行しなさいと慰める。あれこれまだまだ、あと3章分くらい旅も続くし言い残すことも続くのである。。。

伝記筆者の視点も混じるせいだと思いますが、人々が釈迦を失う、というデメリットの視点が重要なわけで、自分が死んじまうのは不利益だという視点は入っていませんからね。

こんなのはいかがですか。キリスト教と比較しつつ考察されています。
http://higurasi101.hatenablog.com/entry/2012/06/ …
    • good
    • 12
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 法を知らない至らない子らを此の世に置いて親は逝くつもり
☆ これはありません。次の話が根拠です。:
▼ (ゴ―タマと悪魔との対話) ~~~~~~~~~~~~~~
〔* ゴータマのかつて語ったことを悪魔がそのまま引用するかたちで〕
――悪しき者(=悪魔)よ。わが修行僧である我が弟子どもが 賢明にして
 よく身をととのえ ことがらを確かに知っていて 学識があり 法をたもち
 法に従って行ない 正しい実践をなし 適切な行ないをなし みづから知っ
 たことおよび師から教えられたことをたもって 解脱し 説明し 知らしめ 
 確立し 開明し 分析し 闡明し 
 異論が起こったときには 道理によってそれをよく説き伏せて 教えを反駁
 し得ないものとして説くようにならないならば 
 その間は わたしはニルワーナに入りはしないであろう。

(中村元訳『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』1980 p.69 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 根拠にならないとすれば この話のほうが ウソをついていることになり
ます。それほどの《阿呆》です。

あとは 残念ですが 意味が取れません。

もし 《親を失う》ことについてなら 趣旨説明の§ 3 の《自灯明・法灯明》
の問題になるはずです。

《こんなのはいかが》については わたしが質問する側ですから どう答えて
いるかを明らかにしない回答は そのままでは受け容れられません。

読み始めたら 《一劫が 120歳くらい》だとあったのを見て 聞いたこと
がないと思い 読むをやめました。

要するに №6のお礼欄にのべたくわしい批判について何ら答えられていない
と申し述べます。

お礼日時:2016/02/07 20:12

ブラジェロンヌさんのアーナンダの抜き書きは、釈迦が悪魔にしたがって入滅を決めた話の尻尾の部分だと思います。


もともと、釈迦は悪魔との約束を引き延ばす契機が特になければ、入滅するだけだったわけですよ。もっと早くから。
釈迦が人々のために入滅の機会をここまで引き延ばしてきたということ、そしてアーナンダが釈迦の話をよく呑み込めておらず、請願が間に合わなかったこと、さらに、嘆き悲しむアーナンダにはたして咎があろうか、なぜなら入滅を急がせたい悪魔がアーナンダを操って失敗させたのだから、ということを読み取るべきです。釈迦が親の愛みたいなもので弟子達のそばに長く居たということをふまえての、引き際のドラマです。キリスト教に関心のある方にも興味深いでしょう。イエスの引き際のドラマとくらべてみましょう。
    • good
    • 11
この回答へのお礼

ご回答謝謝。

中村元訳書の《第三章》でゴータマは悪魔と対話をしています。
悪魔の言うには すでに弟子たちを育てたゆえ ゴータマよ ニルワーナに入りたまえと。

そこでは注目すべきことも言っている。
▼ (前掲書 pp.69-71 )異論が起こったときには 道理によってそれをよく説き伏せて
教えを反駁し得ないものとし〔* 要するに納得させなさいと〕・・・
☆ けれども ゴータマの語りも振る舞いも 《道理》がない。シャーリプトラがさとり
を説明して欲しいと懇願したのをしりぞけている。ハグラカシは 道理か?

さて ゴータマは悪魔に答えた。:
▼ ( ibid ) 悪しき者よ。汝は心あせるな。久しからずして修行完成者のニルヴァーナ
が起こるであろう。いまから三か月過ぎて後に・・・亡くなるであろう。
☆ つまり アーナンダは 関係ない。
★ 入滅するだけだったわけですよ。

☆ ゴータマの死や寿命にアーナンダがかかわると言うのは言いがかりである。まるで自分
(=ゴータマ)の本性が悪魔であるかのごとく アーナンダにイチャモンを浴びせ 罪を着
せている。

★ イエスの引き際のドラマとくらべてみましょう。

お礼日時:2016/02/07 09:59

アーナンダはデスノートを所持してゐました。



「かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。」
(『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』第3章第4節 中村元訳 岩波文庫67ページ)

といふ「悪魔」はもちろん死神のことです。○○霊樹の地は楽しい、との記載がありますから、リュークの好きな林檎の樹があつたに違ひありません。ブッダは他人の寿命を知つてゐました。これは、アーナンダから教へてもらつたのでせう。

「わたしはそなたの寿命の長さを知っているのだ。」
(『悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』第6篇「梵天に関する集成」第1章 第4節 中村元訳 岩波文庫 95ページ)

アーナンダにはブッダの寿命がわかつてゐましたが、ブッダ自身はそれを知りません。ブッダはそのことが悔しくて、質問文のやうな反応を示したのだと思はれます。

なほ、歴史上の人物ではほかにアイザック・ニュートンもデスノートを持つてゐたやうです。下記回答番号3-7。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/9095879
    • good
    • 1
この回答へのお礼

デスノートって何ぢゃいな。

それで 要するにゴータマは 阿呆なのかいな? どうなのかいな。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/02/07 00:13

むかし、むかし、~と言う程の過去ではありませんが。


日本語が下手な、頭の悪い老人。についての非難投稿が、広がりをみせていました。
的を得た批判だったのか、彼の文章は、要素としての言葉を列記し。組み合わせ、方向性を作り出し、主張する。5次元解析という言葉もあった。昔流行った、と言うほどでもない手法とも見えましたが。惜しむらくは、惜しむほどのこともありませんが。自己を度外視して、あるものをあるがままに見る、哲学者、の姿勢ではなく、自分に都合よく思う。「好嫌戦慄は己より発し己を去る。(ブッダ)」も解らず、自分を利口だと思わせたい、思われたいために、人を阿呆(=自分の方が賢い)と主張する。典型的、思惑愛好家、のようでした。
偉いのかどうか、反省することはなく、「どうぞご批判を」などと開きなおり。批判していた、方、の何人かが、このカテを見限り去ったようですが。現在も、読者を減らす、質問狂、になっているようです。
同じ年頃の者が同じ年頃の者を喜ばせる「古代ギリシャの諺」貴方を賢い人物と評価する者もいるのは当然のことですが、****は、やっぱ阿呆である。の方が多いと思います。質問の回数を減らしたらどうです。
少し言葉の内容に触れますが。さて反論です。は止めてください。同じ年頃の老人が口論したら、笑われるだけでしょう。お互い大人しく黙って死にましょう。
梵我一如と漢訳されていると思われる。「ブラフマンはア-トマであり、ア-トマンはブラフマンである。」という言葉は。ウパニシャド、哲学、を代表する。と言われる言葉であり。宗教、のことば、ではなく、哲学、の言葉であるとすれば。全体(ブラフマン)は、個、最小単位(ア-トマン)である。とは、全体世界、宇宙、も、根源単位、個人も
その在り方、起こり方の根源は同じである。というような意味ではないでしょうか。佛教は理論物理学である、として。クオ-クの方向性に、佛教にちなんで、八っの道、と名付けた。との話しもあります。
貴方が揚げている、経典、や言葉、は多分にヒンズ-教の中の、蓮の花に座った、お釈迦、の教えです。
一度、法印、について考えてから、釈迦を論じましょう。
諸行無常(常はない、すべては変化していく過程として、今ある)
諸相無我(あらゆる者は物理的存在であり、我が思っても、変わらない。神や我を離れた霊魂は存在しない)
の二つに
一切行階苦、(すべては、苦、どうにもならない在り方である)
 涅槃寂静(心を滅し、知恵に浸るなら、静かでやすらいでいる)
を加えて、四法印と言い。
一切階苦、涅槃寂静のどちらか一方を含めて、三法印 と言い。少なくとも
三法印を教義に掲げている宗教は佛教、釈迦の思想、と認める。
という、世界仏教会、の取り決めです。
あなたの掲げる経典や言葉は法印から外れています。あなたは、釈迦の思想ではない、経典、や言葉を掲げて。釈迦は阿呆、と言っているのです。
昔、女の子が、馬鹿という方が馬鹿、阿呆と言う者が阿呆や。とよく言っていました。言われていました? かな。
    • good
    • 8
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

§ 1 の《アーナンダの悪魔憑き》については 特に反論はない。
というご回答でしょうか。

§ 3 の《アートマン》論については 梵我一如の信仰のかたちについては 是として
おられるようです。

ただし ゴータマは それについて《アン-アートマン(無我・非我)》を打ち出した
とは言うものの なおまだはっきりしません。――という批判ですが これについても 
特に反論はなされていない。


§ 2 の《苦》説についてです。

★ 一切行階苦、(すべては、苦、どうにもならない在り方である)
☆ この命題について 質問としては批判しています。趣旨は そうではなくて むし
ろ《楽》を地(ぢ)としてその上に《苦》が図となって――人間の心や身には――現わ
れる。こう見るべきだという批判です。

曲りなりにもさとりを得ることが 人間に出来るのなら そう見るべきだ。《苦》をあ
たかも直らないトラウマのごとく扱うべきではない。です。

それに対しては 法印がどうのこうのと 教科書流の作文した命題を掲げておられるだ
けです。反批判にもなっていません。

お礼日時:2016/02/06 17:49

あたりまえです。

人間は全員がアホなのだから....

何か意見あれば、アホではない人って誰?具体的な名前を挙げたあとにしください。
    • good
    • 8
この回答へのお礼

そうですね。

まづは ご回答をありがとうございます。


§ 1: 悪魔が憑いたにしろどうであるにしろ 寿命が延びなかったのは
ほかの誰だれの所為だと言うほど わたしは阿呆ではありません。

§ 2: 心は 自然本性として自性清浄心であると捉え その上で・その
カンバスの上に苦楽があるという考え方をしなかったり棄てたりするほど
わたしは阿呆ではありません。

§ 3: 《アートマン》は そもそも《霊我》である。理性や意志として
の心(精神)を超えた《非思考の庭》にあって マクロコスモスたる宇宙
神ブラフマン〔の霊〕と呼応し一体となっているミクロコスモスである。

そのことが分からないほどわたしは 阿呆ではありません。

具体的に名前を挙げました。

お礼日時:2016/02/06 11:19

ゴータマシッダールタも、孔子も頭がぼけたので、それを悟りだと勘違いしたらしいです。

    • good
    • 8
この回答へのお礼

そうですか。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/02/06 06:12

仏陀なぞアホ扱いなさるは、さすがは厄病神。

腐っても神ですな。

究極のアホが仏陀だということは分り切ったこと。賢者に仏陀はつとまらん。
なにをいまさら。
    • good
    • 8
この回答へのお礼

その感想を得たには 非常な研究と総合的な判断があったのでしょう。

ご回答をありがとう。

お礼日時:2016/02/06 06:12

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!