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https://www.youtube.com/watch?v=FfezfZPw-qk

上のビデオのような現象は日本では見られないように思えます。

何故か?

そこには「騒ぐ」=「迷惑をかける」という道徳観念が働いているのか?

日本で上記のような人たちが出現したら、乗客は眉を顰めて顔を背けるか、別の車両に移動するか、或いは「うるさい!」と怒鳴るか、車掌を呼びに行くか。

上記二つのビデオのような「笑い」は日本では生まれないでしょうか?

電車内で歌うのはたのしい?それとも迷惑?

理由を添えて感想をお聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • No.2のneutralingさんが紹介してくれた、ニュー・ヨークの地下鉄でのサックス・バトル(フル・ヴァージョン)




    疲れているのに、子供が寝ているのに、本を読んでいるのに、(隣のともだちと)話をしているのに。でもそれは肩をすくめて苦笑いですませることはできないものですか?

    質問文でも紹介したビデオのような事態は迷惑ですか?

      補足日時:2016/08/09 14:19
  • ビデオ、こちらの方が観易いので。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/10 02:49


  • Adorable little girl walks up and hugs strangers in supermarket

    (Hug の文化って素敵だと思います)

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/10 14:03
  • 緊張と緩和の関係は良い方向に作用しているように感じます。いつもハイテンションでばかりはいられないから、歌ったり踊ったりするのでしょうね。逆に日本はNYに匹敵するような巨大都市東京を歩いていても別に緊張を強いられるようなことはありません。おそらく右を向いても左を見てもそこに居るのは黒人でもヒスパニックでもアジアンでもなくわたしと同じ日本人です。そうなるとどうしても「緊張と緩和」の作用が生じようがない。でも日本人は欧米各国の人たちに比べても桁外れにストレスフルな生活を送ることを余儀なくされているように思えるのです。けれども「緩和」の作法を知らないから、時にそれが暴力として表出される。
    ビデオにあるようなモブと、群集心理=群れたがる心理との比較も面白そうです。

    Hugは、親愛の情の表現であり、スキンシップですから、誰とでもという訳にはいきませんが、やはり大事なふれあいだと思っています。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/11 01:18
  • No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/08/11 01:39

A 回答 (7件)

あまりにも味気ない月曜の朝の通勤電車の中で、みんながよく知っている歌を


一緒に歌えたら、どんなに楽しいでしょうか。

言ってみれば、自我の自由と,連帯感を感じて「幸せ」だから笑えるんでしょう。
生きていること自体が楽しいって。刹那的にせよ。

日本人なら、大企業か行政がやっているなと思うんでしょうか?または、誰の許可
を得てやっているのかと思うのでしょうか?
いずれにしても、心から楽しむことはないでしょう。

ずっと支配されてきて、今だに甘んじている民族だし、それが原因なのか、心が実
に偏狭だから。

欧米に比べ、日本は民主主義の理解がおそろしく遅れていることを感じさせる映像
でした。


迷惑?

ああ、日本人はそう言う人がいるでしょう。でもそれはたいてい「嘘」だと思う。
恥ずかしいとか、照れくさいとか、なんか癪に障るとか、で、「迷惑」ということに
しちゃうんだと思う。
そういう社会だから、創造性が消えていっているんだろうね。
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この回答へのお礼

こんばんは、ニャンポコさん。

映像、愉しんでもらえてなによりです。

>あまりにも味気ない月曜の朝の通勤電車の中で、みんながよく知っている歌を
一緒に歌えたら、どんなに楽しいでしょうか。

そうですね。でも、日本ではみんなが知っていて、洒落た歌ってなかなかないもんですね。結局童謡とか唱歌になってしまうような気がします。なんというか、「欧米」って、もちろんそれぞれ民族も文化も違うんだけれど、映画や音楽などでは、かなり共通点があるような気がします。アメリカとフランス、ドイツとスペインでは違うけれど、日本はもっと遥かに違っているように感じます。地理的な距離が、そのまま精神性の距離に比例しているようです。

>日本人なら、大企業か行政がやっているなと思うんでしょうか?または、誰の許可
を得てやっているのかと思うのでしょうか?
いずれにしても、心から楽しむことはないでしょう。

そうでしょうね。残念ながら。なんでしょうね。特別にモラル意識が高い民族というわけではないでしょうし。

わたしは自分で愉しむことを知らないつまらない人間だと思っていますが、こういう映像を見ると微笑ましいというか、羨ましいというか。やっぱり日本は「アジア」なんだなあと思ってしまいます。
なにがアジアかというと、存在の最小の単位が、「わたし」、「あなた」、「彼」、「彼女」という「個々人」ではなく、何がしかの「集団」なんですね。

「和」って、「なごやか」ではなくて、電車内の「和」なんですね。「調和」「秩序」です。それを乱すと「お騒がせ」=「騒擾」イコール「迷惑」となるように見えるのです。

電車の中で歌うことが「良い事」だとか、車内ライブを推奨しているわけではありませんが、ひとつにこころの余裕のなさ、ユーモアのセンスの欠如を感じてしまいます。

こういうのを見て、「けっ!」というのは全然構わないんですけどね(笑)

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/10 02:13

こんばんは、blueさん。

いつも丁寧なご返事ありがたう。




結局、突然目の前に現れた【楽しさ】【喜び】【しあわせ】を素直に受け取ることができるかどうか!の問題なんぢゃないかな。日本では【すべき】だとか【すべきではない】だとか【空気を読みたまへ】とか、その上で【適切な行動を取りまへ】とか、いろいろ求めすぎなんぢゃないかな、相手に期待しすぎなんぢゃないかな、別の言葉で表現すると【阿吽の呼吸を求める図々しさ】を持ってゐると思ふんですよね日本人は。かういう勝手な期待こそマジ迷惑なんだよねオレにとっては。



車内でのアナウンス、日本語→英語→中国語→ポルトガル語の順で何度も何度も繰り返し流されるのだけど、あれサックスバトルよりずっとやかましいウザい。他には、選挙カーの黄色い声もウザいマジ。宗教の勧誘さんがドアチャイムを鳴らしてそれはそれはけたたましく唾を飛ばしながらまくしたてるのもウザいマジ。何故このやうな騒音を垂れ流すことを日本は許可しているのですか。不思議だと思ひませんか?【交通ルールを守りましょう!】【必ず投票しましょう!】【癌検診を受けましょう!】【地球のためにリサイクルしましょう!】とかそういうのこそ【騒音】であり【声の無駄遣い】なんぢゃないの?僕おかしいですか?


僕は【音】に対しては異常なくらい敏感なんです。おととい図書館で書類を書いてたんですけどね。右隣のヲっさんは派手にいびきを立てて寝ているし、左隣のヲっさんは「暑いなチクショウ」と言って舌打ちをしたり溜め息をついたりしていたのでした。向かい側のヲっさんは指にツバを付けて新聞を豪快にめくっていたのでした。僕はそんな音たちに耐えられなくなったので家に帰りました。「をい!お前ら!うるせえ静かにしろ!」とは言わずに家に帰りました。


【世間体】という言葉は英語や他の言語では何というのでしょうね。他の国にも【世間体】という言葉があったとしても、日本以外の国ではティッシュペーパーやポリ袋みたいに軽いんぢゃないかな、あ、たとへが悪いかな、蝶々や花びらのやうに軽やかなんぢゃないかな。



___________



【山の日】は明日なのだけど、慌てんぼうな僕は今日、山に登ってみました。ツクツクホウシが鳴いていました。なぜかウグイスが「ピ~ッピカチュゥ!」と鳴いていました。他にもいろいろな鳥が囀っていました。滝の音はとても澄んでいました。下山するころにはヒグラシも鳴いていました。僕は、あなたにもあなたにもあなたにもあなたにも、その音たちを聴いてもらいたいと思ひました。とても美しい音でしたので。



なんか書き残しているやうな気がするのですが、気が向いたら続き書きますね。blueさんいつも僕の話を聴いてくれてありがたうXox0 .
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この回答へのお礼

こんばんは、瀬里香さん。

わたし自身、こういう映像を見ると、日本人である自分の限界を感じてしまいます。勿論アメリカやヨーロッパにだって、「ノレない」人はいるだろうけど。

日本人て、飲み会などで、飲めないとか、場に溶け込めない人に対しては、「ほんとうにお前はつまらない奴だなぁ」と言ったり、ひどくなると無理矢理酒を飲ませようとか、歌を歌わせようとかするところがあるように思う。逆にこのビデオのような場面で、車内で一緒に歌を歌わない人は「歌わない自由」として認めるところが欧米にはあると思います。日本では社内や町会の行事に積極的でないと、「わがまま」「自分勝手」と言われそうだしね。

>【阿吽の呼吸を求める図々しさ】それは言えるかもしれません。

前に勧めてくれた中島義道の本に『うるさい日本のわたし』という本がありますね。

ソフィア・コッポラ監督の、確か2003年だかの映画『ロスト・イン・トランスレイション』という東京を舞台にした映画があるけれど、あれはある意味での『絶望系映画』で、Tokyoのグロテスクさをこれでもかといった感じで描き出しています。勿論やかましい「選挙カー」も登場します(苦笑)観た後に熱が出ました(苦笑)

>僕は【音】に対しては異常なくらい敏感なんです

これはひょっとすると、わたしと同じ精神の障害のせいかもしれませんね。発達障害なのかな?
といっても、こういう音の氾濫が平気であることが「正常」だとしたら、なんというか、誰かの言葉ではないけれど、「正常であることが異常を意味する」といった逆説の世界のようです。

「世間」、辺見庸の本では、これに相当する英語は見当たらないようですね。そういえば以前の質問で、「人に迷惑をかけない」ではなく「人様に」ですと指摘されたことを思い出しました。「ひと」ではなく「ひとさま」とはなんだ!?

「世間」とか「人様」だとか「迷惑を掛けてはいけない対象」として、われわれ障害者には理解不能な観念・概念が存在しているようでお手上げです(苦笑)

山は明日(今日)ですか。愉しんできてください、それからなぜか「ピ~ッピカチュゥ!」と鳴くのは本物の鶯ではなくポケモンのキャラですよ(笑)

ほんものの鳥に出会ったら教えてください。

お礼日時:2016/08/11 00:53

#5です。

お礼ありがとうございます。

まあ、そうですね。フランクに自由に生きられる、と言う点では欧米のほうがいいと私もおもいます。私自身、日本の社会になじみきれず、いまでは自由業のような形でほそぼそと生きているからです。

とはいえ、質問自体が
「そこには「騒ぐ」=「迷惑をかける」という道徳観念が働いているのか?」
ということですから、道徳観念について解答をしてるわけです。

ということで補足です。
>じゃあ、彼ら、彼女らは、外の世界で害意を向けられないように、いつも懸命に「営業スマイル」に努めているのかというと、どうもそうではなくて、彼らのSmileは、人と会った時の自然の反応のような気がします。

まあ当然です。日本人は欧米人が自然に笑顔で反応するのと同じぐらい、自然にお辞儀をします。外国人にとって、あの間というか、お互いのタイミングは不思議なぐらい調和が取れているようにみえるようです。日本で仕事をする外国人(特に欧米人)は「どのタイミングでお辞儀すればいいか、分らない」といいますが、日本人だってそれを正確に教えることはできないでしょう。そういう「自然で無意識」なコミュニケーションというのは、どこの国でもあります。

ちょっと別の国の話をしましょう。微笑みの国、タイの話です。
タイにも日本と同様に礼があります。両手をぺったりくっつけて挨拶するもので「ワイ」と呼ばれるものです。あ、ちなみに私の身内にはタイ人と結婚した人がいるので、文化的にはある程度深く知っています。

この「ワイ」実は自分の目上に対しては鼻よりも上に手を挙げて尊敬を表し、同格なら首ぐらい、目下なら胸の辺り、と日本のお辞儀の角度に相当するような違いがあります。これも欧米人には分りづらいらしく「じゃあ、年齢が良くわからなかったらどうするんだ」と聞かれるそうです。

日本人なら分りますよね。とりあえず尊敬を表したほうがよさそうな場面ならより丁寧にし、フランクでいいなら普通にして後で「いやーーお若いですね」とフォローをすることもある、というようなことです。

これらは、みんな「人間関係に無駄な摩擦やストレスを及ぼさない」ための作法です。

またHugについても誤解があります。基本的に欧米人は日本人以上に体に気安く触られるのを好みません。日本の漫才特に関西の漫才は突っ込むときに頭を叩いたりしますが、あれを欧米でやったらどれほど仲がよくても、即喧嘩になります。実は日本人は「仲良くなるとべたべた触りたがる」という習性があり、パーソナル空間が狭いほうなのです。

hugに関しては、アメリカ人も悩んでいる、という話もあります。
参考:http://jp.wsj.com/articles/SB1000142412788732448 …

一般にヨーロッパ人のほうがアメリカ人よりもパーソナル空間は狭く(ただし北欧を除く)Hugとかほほにキスをする習慣などもあります。

アメリカに住んでいた経験からすれば、外国では「お互いの安全性を常に確かめながら街を歩いている」印象が強いです。もちろん、怯えている、とか過剰に反応している、と言う意味ではないのですが、一種の緊張は常にあります。それに比べると日本は無いに等しい、です。

これらの緊張をお互いに緩和したいからこそ、Hugやモブ、そして動画のような行動が生まれるのでしょうし、「良いおこない」とされるような助け合いもネットで拡散するのだとおもいます。

>欧米式がいいに決まっていると言い張りはしませんが、現在の日本は、本来の日本文化の良ささえも最早失ってしまって、糸の切れた凧のように、精神性も、美意識をも持ちえないまま宙を漂っているように見えます。

たしかに、明治時代とか戦後すぐのような「美徳」は影を潜めているように感じます。しかし、東日本大震災でみせたような日本人の「公共社会を保つ能力」があれば、十分だとおもいます。カトリーナ台風のニューオリンズなど、欧米のパニックを見るたびに日本の美徳を感じます。

美意識についてはむしろハグとかモブのような文化を取り入れたほうが楽しくていいと思いますよ。サックスバトルはちょっと同化とおもいますが、みんなで歌を歌うぐらいの器量とゆとりを日本人も持ちたいものだとおもいますし、そういうことを試みる若い人は尊敬に値するとおもいます。

ただ単に社会秩序の作り方が違う、ということ、日本のやり方にも意味があることは肯定してもいいのではないでしょうか。なにせ、日本は世界でも有数の犯罪の少ない秩序のある公共社会の国ですから。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんばんは。再度のご回答をありがとうございます。

わたしは日本で生まれ育った日本人ですが、あまり会社勤めの経験がないので、「お辞儀の文化」が実はよくわかりません。つまりそういう現場に身を置いたことがないのです。ですから「日本はお辞儀の文化」といわれると、「へえ、そうなのか」と、なにやら新たな発見のような気がします。こんなわたしですから、お辞儀文化の中に溶け込めるわけはないですね。わたしはそれに、精神障害者ですから、「空気が読めない」ということもあるかもしれません。日本人であるからお辞儀の文化が自然に身についているとは言えないようです。それはやはり、後天的に学習するものなのでしょう。

お話にあるタイの「ワイ」についても、日本の「お辞儀」同様に、「礼儀作法」であり文化の「型」ですね。それは「門前の小僧習わぬ経を読む」といったように、その文化圏内で呼吸をしていれば自然と身に付くものなのか、それともある程度、「教わり」「学ぶ」ものであるのかは不明です。

堀田善衛の『時間』という小説に、日本の軍隊について、『何故日本(の軍人は)敵国の捕虜であろうと、自分の部下であっても何故ああも頭部、(特に顔)を殴るのが好きなのだろう?』という記述があります。それは言われてみればその通りで、日本人は「ビンタを張る」というのが好きなのかなあという不気味な感じはします。無論殴られる下士官も直立不動です。武士の精神に通じる嗜虐ー被虐の系譜というものは、未だ健在、という気がしています。

よく賞賛される日本人のおとなしさですが、それは従順さであり、逆らわないという負の面と表裏一体であると思います。個人的には、何も欧米に限らず、民衆が時に暴徒化するような国の方が「健全」であるというような気がしています。欧米や他の国では皆が大騒ぎして収拾がつかないという面が確かにあるのでしょうけれど、それは裏腹に、「怒る」「プロテストする」ということを知っている事でもあるのだと思います。文化の長所・短所は相対的なもので、おとなしいけれど権威に従順であることをよしとするか、騒ぐけれど、なびかないことを重んじるかは、それぞれの価値観に依るのだと思います。

どうもわたしは「ここではないどこか」に憧れ、世界中のどこに住もうと、その国を愛し切れない人間なのだと思います。

お礼日時:2016/08/11 00:11

一応帰国子女です。



私も外国特にアメリカなどは恐ろしいぐらいフランクでフレンドリーなのに、なぜ日本はそうならないのか、疑問で結構いろいろ調べてきました。

このようなことが日本では許されない理由は日本が「礼儀でもって相手を認める社会」だからだとおもいます。

簡単に言うと、相手を「笑顔で認める」か「お辞儀で認める」かの文化の違いです。

欧米の人たちは目があうとお互いに「笑顔」で返します。ときには「Hi!」と声に出したりします。これって、日本人から見るとなんか素敵に見えますよね。でもこれはそんな素敵な文化ではないんです。
なぜ笑顔になるか、それは目があっても「オレはおまえの敵ではない」という意思を表すために笑顔になるのです。男性同士、女性同士なら確実に笑顔で返します。公共の人がたくさんいるような場所で「敵」と見られて無駄な摩擦を引き起こすのはお互いにイヤだからです。男性が微笑んでも女性が返さないことはあります。これは「笑顔」が時に「好意」と勘違いされてしまうからです。

これが発展すると、たとえばエレベーターの中での会話に発展します。混雑して、パーソナル領域よりも内側に他人が入ってこられるのはとてもストレスです。このストレスを解消するために会話してお互いが敵意を持っていないことを確かめ合うのです。ですから日本人がひとりエレベーターに乗っていると、外国では大体「日本人?中国人?」などのように話しかけられ、日本人と答えると「寿司サイコー」「イチロー」というような中身のない会話が続きます。これで「エレベーターに乗り合わせた得たいの知れないアジア人」が「害意のない日本人」として認識されるわけです。

日本は礼節をもって公共空間の秩序を保つ文化をもっています。だからむしろ話しかけたりするのは失礼にあたります。静かにしていること、これこそが「公共空間のルール」を守ることであり、ルールを守っている以上「害意のない人物」であることを証明できる、ということになるわけです。

飛行機などに乗っていると、このカルチャーギャップが面白いほど分ります。日本人だけでなくアジア人全体に礼節を重んじる傾向があります。
 飛行機の機長が欧米人だと、機内アナウンスは面白おかしく話すことが多く、機内は爆笑の渦に巻き込まれます。「いっしょに笑うこと」でお互いの害意のないことを照明している部分でもあります。しかし、それを受けた日本語のパーサーのアナウンスや概ねどこのアジア人パーサーのアナウンスも無味乾燥したものになります。それを聴いているアジア人もむっつりと、聞いています。英語が分る日本人は英語で大爆笑するくせに、日本語のアナウンスを威厳をもってむっつりと聞いているわけです。

災害時にパニックにならない、と日本人は海外から賞賛されるわけですが、それは「公共のルールに従うことこそ礼節」という意識があるからです。災害時であればあるほどわがままに自己主張することは「俺は社会的不適合者だ!!!」と喧伝することになります。それは困るので、災害時や困った事態になればなるほど日本人は「公共(世間)が求める正しい行動」を心がけるようになるのです。

このようなことから、今後も日本人が動画のような行動をとることはないでしょう。ただし「その行動が道徳的・社会的に適合している」となれば日本人も参加します。たとえば、最初の動画の理由が「寒い日に仕事をがんばっているみんなのために」ということではなく、「今ここに病気で戦っている車椅子の子供がいて、その子を元気つけるために」と言う理由だったら、日本人の賛同者も増えることでしょう。

でも、そういう動機付けのないサプライズ演出的なモブは日本では受け入れられにくい、と言わざるを得ません。理由は礼節を欠いているから、です。

それでも最近の日本人は昔に比べたらずいぶんフランクになったとおもいますよ。動画のようなことがおきた場合、日本の20年前ならそこそこ、40年前だったらかなりの人が怒り出してしまったでしょうが、いまなら乗らないまでも無視してくれる程度の人がほとんどでしょう。

ただ、最初の動画はまだ無視でいいかもしれませんが、2の動画だと炎上することもありえますね。なぜなら、これは「公共空間で私的な事柄を優先させた」ということになるからです。「何でおまえらのバトルに付き合わなきゃなんないんだ!」という意識が大半を占めるでしょうし、ネットで動画を公開すれば「迷惑!」「よくそんなことができるな!」という批判であふれることになりかねないでしょう。
 それは公共空間での礼節、を失っている、と判断されるからです。
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この回答へのお礼

こんにちは。

わたしはイタリア語やスペイン語はもとより、英語もおぼつきませんが、ネットの世界では、主に欧米の人とのやり取りが多く、また、ヨーロッパの人でも、わたしと同程度の英語力の人も少なくありませんが、なんだか言葉の通じるはずの日本のネット世界よりもリラックスできます(苦笑)

日本国内では、何処へ行っても、隣にいるのは大抵日本人で、彼らの家系を遡ってもやっぱり日本人同士ですが、外国では電車で、クラブで隣り合わせになったのが、国籍は同じでもドイツ系だったりユダヤ系だったりするのが当たり前ですね。
じゃあ、彼ら、彼女らは、外の世界で害意を向けられないように、いつも懸命に「営業スマイル」に努めているのかというと、どうもそうではなくて、彼らのSmileは、人と会った時の自然の反応のような気がします。

「笑顔」と「礼儀」という文化の比較・対比であれば、「笑顔」こそ最高の「礼儀作法」だと思います。

アメリカの映画やドラマを観ていると、どうしてここまでエネルギッシュなんだろうと感心してしまいます。
友達や家族、夫婦の間でも、いつもなにかしらジョークを言っているように見えます(笑)

アメリカなどでは、ひとの資質として、「ユーモアのセンス」を非常に重視していますね。日本ではまず「経済力」だとか「学歴」などが人を判断する基準として上位にありますが、「ユーモアのセンス」の重要度は、おそらく30位以下でしょう。ひとを笑顔にさせるってサービス精神ですよね。頭も使うしエネルギーも使います。なによりセンスが問われます(笑)

では「沈黙」を「善し」とする日本の社会が静寂に満ちているかというと一歩表へ出ると、日本の街中ほど「やかましい」場所って、滅多にないような気がします。至る所で「公共の秩序を守りましょう」というアナウンスが流れているからです。

NYCのサックスバトルは観ていて身体が動いてきます(笑)ジャズの本場ニューヨークならではかも知れません。
日本では確実に警察沙汰です。迷惑行為です。

欧米式がいいに決まっていると言い張りはしませんが、現在の日本は、本来の日本文化の良ささえも最早失ってしまって、糸の切れた凧のように、精神性も、美意識をも持ちえないまま宙を漂っているように見えます。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/10 13:47

blueさん。

ご返事ありがとう。


2番で書いた【駅前演奏披露】は、駅で降りて改札を出てほんの数歩のところで行われています。名古屋鉄道と名古屋地下鉄名城線とJR中央線が交わる駅です。小さな声でしゃべるけど大曽根という駅です。駅の改札を出るとモスバ○ガーやキ0スクや居酒屋やネットカフェや立喰蕎麦屋やネットカフェや服屋や薬屋などいろんな店がある。

大事だからもう一回書くけど◇1.改札から数歩のところで勝手に演奏したり歌ったりしている奴らがいる。大事だからもう一回書くけど、◇2.その近辺で商売をしている人がたくさんいる。◇3.仕事を終えて帰宅ラッシュの電車に乗ろうとしている人(18時~19時ぐらい)も、居酒屋帰りつまり終電に乗ろうとしている人(24時ぐらい)がいる。
まあ興味が無ければ素通りしますが、やかましいから中止したまえ!という人はいませんよ。


大半は歌手デビューしたい人たちが【俺の歌を聴いてくれ!】といって勢い任せでところ構わず演奏したり歌ったりしているのだと思いますけどね、しかもそのやうな自己表現や自己実現をできるだけ近所でできるだけ金をかけずにしたい!と願う人がたくさんいますからね、だからそのために【俺と同じような奴ら】つまり【同志≒ライヴァル】が場所や時間をお互い話し合って譲り合って納得し合った上で取り決め、路上で演奏したり歌ったりしているのだと思ふのですよ。


僕も若いころ駅前でやったことがあります。ダンサーデビューしたくてね。そのとき僕には、敵ではなく仲間

幼い子どもが公園で独り遊びをしていると勝手に【知らないお友達】が現れ仲良く遊んでしまうのと同じで、【ライヴァル】もまた、ははっ!たまたま現れて仲良しになります。大事だから二回書きます。ライヴァルもまた偶然によって出逢います、そうして僕が幸福になるための原動力としてそこにいてくれます。僕が偶然そいつと出逢うことができたのは、【奇跡】あるひは【まぐれ】あるひは【偶然】に他なりません。




ごめんなさい。ここはblueさんのスレなのに、僕が勝手にぶらじゅろ~ぬさんと話したいと思って話が脱線してしまひました。



ついでに更なるご迷惑をおかけすることを許可してもらへますか。ぶらじゅろ~ぬさんと話したいのですが場所をお借りしてもよろしいですか。
僕に【ライヴァル】が必要か?と問われた僕して。僕は【今は必要ない】と答えます。【今の僕】は【戦闘モード】ではないからね。だから今の僕にライヴァルは【必要ありません】。一緒に笑ったり泣いたり遊びに行ったりする仲間は必要だけどね。



お邪魔しました。
明日は丸一日、登山をするので留守にします。朝5時集合なのでできるだけたくさんメシを喰らってできるだけ早く寝ます。24時間ほど反応不能です。お読みいただきましてありがたうごいました。見当違いでしたら読み流してください。
ではでは。(^_-)-☆
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この回答へのお礼

こんばんは。

>モスバ○ガーやキ○スク。。。って全然伏字になってないぢゃん(笑)

外で演奏している場合はさっさと通りすぎればいいんだけど、車内でのライブは逃げ場がないからね。
でも「お騒がせ」の「騒音」という点では、個人的には電車やバスの車内でエンドレスで流れている人工音声の「安全第一・危険回避」のアナウンスは歌を歌う人間よりもずっとうるさいし苛立たしい。

立秋が過ぎました。「秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」
藤原敏行が立秋の日に詠んだ歌ですが、現代の日本人の音に対する感受性って完全にイカレてると思います。

>ライヴァルもまた偶然によって出逢います、そうして僕が幸福になるための原動力としてそこにいてくれます。僕が偶然そいつと出逢うことができたのは、【奇跡】あるひは【まぐれ】あるひは【偶然】に他なりません。

それはライバルに限らず、友達でも恋人でもそうなんじゃないかな?人との出会いって、もちろん偶然の賜物だし、その関係を後に振り返って「奇蹟」だったと感じることは素晴らしいことだと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=FAuPoFRugsM&list …

瀬里香さんにこの曲を贈ります。

"That Sunday, That Summer" Nat King Cole

ナット・キング・コールの『ザット・サンデー・ザット・サマー』


If I had to choose just one day to last my whole life through

It would surely be that Sunday; the day that I met you


この生涯ずっと続く日 そんな日を選ぶのなら

僕はあの日曜日を選ぶ 君と出会った日曜日を


雛鳥の声が丘から響き あっと言う間に来た夏

水仙たちは互いに囁く ほら、早く告白を、と


心に留めていたい瞬間 その瞬間を選ぶのなら

ほろ甘いあの時を選ぶ いつ迄も忘れぬように


君が僕に微笑みかけた あの夏のあの日曜日を。


よい夏を!

お礼日時:2016/08/10 02:46

こんにちはblueさん。


楽しそうですね。




ニューヨークの電車内で突如勃発したサックスバトル。たしかにこんな光景は日本ではあり得ませんね。
全国的にそうなのかは分かりませんが、僕が住んでいるあたりでは、8割の人が静かにスマホの画面とにらめっこ。1割の人が静かに書物とにらめっこ。残りの1割の人は静かに寝て居たり窓の外を眺めていたり。僕は何もせずボーっとしてますけどね。

駅前ライブなら、ええもう本当に駅前の路上で、100メートルに1組の割合で、日替わりでやってますよ。通勤ラッシュが始まる時間帯ぐらいに始まって、居酒屋帰りの人が駅に集まる時間帯ぐらいまで。名古屋市内の某駅で。僕はときどき立ち止まってハンドクラップをしたり座り込んで聴き入ったりしています。


図書館や病院の中でこれをやっちゃうとちょっとまずいと思うんだけどね。【迷惑とは何か】という角度から質問するのも面白そうだなあと思いました。ではでは。
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この回答へのお礼

こんにちは、瀬里香さん。

これはニュー・ヨークの地下鉄みたいですね。楽しそうですね。ジャズ・サックスは大好きです。

>全国的にそうなのかは分かりませんが、僕が住んでいるあたりでは、8割の人が静かにスマホの画面とにらめっこ。1割の人が静かに書物とにらめっこ。残りの1割の人は静かに寝て居たり窓の外を眺めていたり。僕は何もせずボーっとしてますけどね。

東京でもほぼ同じですよ。

>駅前ライブなら、ええもう本当に駅前の路上で、100メートルに1組の割合で、日替わりでやってますよ。通勤ラッシュが始まる時間帯ぐらいに始まって、居酒屋帰りの人が駅に集まる時間帯ぐらいまで。名古屋市内の某駅で。僕はときどき立ち止まってハンドクラップをしたり座り込んで聴き入ったりしています。

へえ。それは文化的に進んでいますね。最近はあまり出かけませんが、それでもそういう光景は渋谷でも新宿でも出会ったことはありません。ひょっとしたらそういうスポット=どこかの駅前があるのかもしれませんね。
そういう場面に出くわしたら、わたしも多分足を止めて聴いてしまうだろうと思います。

>【迷惑とは何か】という角度から質問するのも面白そうだなあと思いました。

それは迷いました。なにを迷惑と感じるかは、個人差もあり、また国や文化によっても違うと思いますが、日本では「お騒がせして申し訳ありません」=「ご迷惑をおかけしました」という迷惑の観念がありますね。

「お騒がせ」というのは、必ずしも物理的な「音」の意味だけではなく、「世間をお騒がせして申し訳ない」というような文脈で使われています。これは考えるとよくわからない謝罪の言葉です。「お騒がせして申し訳ありません」とはどういう形の「迷惑」であるのか?

上記のような社内での音楽も「音」の点では「お騒がせ」かもしれないけれど楽しいですよね(笑)

「音楽」の面から見ても、質問文の「オーバー・ザ・レインボウ」「虹の彼方へ」(映画『オズの魔法使い』テーマ・ソング)のような、誰でも知ってて、誰でも歌える歌がないような気もします。『オズの魔法使い』はアメリカ映画ですが、この歌はヨーロッパでやってもほとんどの人が知っていると思います。

サックス・バトル、となりの車両でやっていたらそこまで飛んでゆきます(笑)

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/09 12:41

メキシコに住んでいますが、このようなのはよく遭遇します。

もちろん、音痴ながら一緒に歌うし、中には踊る人も。婆ちゃんが連れの女の子がいても、イケメンに手を差し出して一緒に踊ろうよ、とか。
神様がこの世に人間をお作りになったのは、神を感謝しながら楽しむことです。知らない人間同士でも、視線が合えば笑顔で会釈。ところが、日本では、嫌なものを見た、って表情を顔に出します。なんで、そんなになってしまったのでしょうかね。
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この回答へのお礼

こんにちは。

メキシコ。中南米の国々はもちろん、イタリアやスペインなど、ラテン系の国ではこういうことって当たり前にありそうですね。日常的にあるなしではなくて、こういう場面に遭遇したら一緒に楽しんでしまうような人たちのような気がします。

>神様がこの世に人間をお作りになったのは、神を感謝しながら楽しむことです。

仰る通りだと思います。文化的成熟度って案外「遊び心」がどれだけあるかということと関係があるのかもしれません。遊び心=こころのゆとりと言ってもいいかもしれません。

>知らない人間同士でも、視線が合えば笑顔で会釈。ところが、日本では、嫌なものを見た、って表情を顔に出します。なんで、そんなになってしまったのでしょうかね。

昨日今日、急にそうなったわけではないでしょうけれど、最近は特にみなこころが荒涼としているように感じます。ミヒャエル・エンデの『モモ』ではありませんが、みんな時間に追われているのでしょうか。

ガルシア・マルケスが、『われわれの文学や現実とは正反対に、時間とは「時計の時間」をしか意味しない、このオリエントの妖怪都市』と、侮蔑を込めた言葉で東京を表現していますね。

遊び心って、窓の外に見える夕陽をきれいだなと思う気持ちや、隣に座っている赤ちゃんに笑顔を向けたりすることであって、車内のみんながゲームに熱中していることではないという気がします。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/08/09 13:00

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