夏休みの宿題で……。

夏休みの宿題で、「聖徳太子は生きた時代にどのような影響をあたえたのか。」
っていう歴史の宿題がでてます。

調べても、あまりでてこなくって。
知ってる方、ぜひ教えて下さい。

A 回答 (3件)

四天王寺や斑鳩寺を建立し、仏教の隆盛に努めた。


遣隋使を派遣し、大陸文化を日本に取り入れた。
冠位十二階の制度を作り、中央集権国家の礎を作り上げた。
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天皇中心のくにづくりを目指した(今でも日本では天皇は国の象徴とされている)。


十七条の憲法をつくった。(今でも守るべき憲法がある。)
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1回で10人の話を理解できる耳を大量生産し、その時代の経済的な発見を大きくもたらしましたが、だんだんと売れ行きが悪くなり、倒産して

しまった暁には、レモネードスタンドで生計を立ててました
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Q聖徳太子は存在していなかったかもという頓珍漢な話が出てきたのはなぜですか? 聖徳太子が存在しなかった

聖徳太子は存在していなかったかもという頓珍漢な話が出てきたのはなぜですか?

聖徳太子が存在しなかったら17条の憲法も存在しないはずなのに存在してるし、中国の方も聖徳太子を認識してたわけで中国の方も聖徳太子に仏教の書を送ったのに聖徳太子がいなかったら受け取れてないし聖徳太子がいなかったというのはさすがに無理があるのでは?

Aベストアンサー

歴史は、事実が明らかになることで
常に進化しています。


厩戸王(うまやとおう)が
聖徳太子の本当の名前です。


「伝説の学習参考書」と呼ばれた『大学への日本史』では
人物名は「聖徳太子」とせず、本来の名である

「厩戸王(聖徳太子)」

としています。

次第に「聖徳太子」の名前が消えて行くので
「存在しなかった」となるんでしょうかね。


そして

・冠位十二階などは「多くの人物」の手による合作
・憲法十七条は彼よりも「後の時代」に完成した
・遣隋使は小野妹子より「以前から」派遣されていた


・・など新事実も明らかになってきています。

Aベストアンサー

上記の方が言っておられますが、仏教が伝来したのは聖徳太子の時代ではありません。
伝来の時期については諸説ありますが、欽明天皇(539年即位。第29代天皇)が百済の王から伝来されたという説について簡単に説明します。
このとき、朝廷では蘇我氏や物部氏が権力を握っていました。欽明天皇が仏教を受けいれるべきかと聞いたとき、蘇我氏が賛成し物部氏が反対しました。一旦受け入れたものの、流行り病等が起こったので物部氏はこれを「日本古来からの神のたたり」と主張し、廃仏が実施されます。
後年にも同じようなことが起こりますが、最終的に、この両氏の戦いは蘇我馬子の時代に蘇我氏が物部氏を倒したことにより、決着。後に、馬子が支持していた推古天皇が即位したことにより、仏教を受け入れることが決定的となりました。
聖徳太子は推古天皇(593年即位。第33代天皇)の摂政として政治を行いましたが、幼少期の伝説や彼の建てた法隆寺を見れば分かるとおり、仏教を受け入れました。馬子と協力して仏教の道徳観に基づいて政治を行ったといわれています。
聖武天皇は(724年即位。第45代天皇)、在任中に病気や災害が数多く起こったため、仏教に帰依しました。結果、東大寺を建立し大仏を作りました。


余談ですが、日本における律令時代とは大化の改新を皮切りに始まる(近年では疑問視され始めていますが)天皇に全ての権力を集めようとする一連の流れもしくはその制度が施行されていた時代のことです。この大化の改新は、中大兄皇子と藤原鎌足が、前述した蘇我馬子の孫・蘇我入鹿を暗殺しその父蘇我蝦夷が自殺したことに始まります。これにより、蘇我体制の政治が終わりを告げ、数代の天皇を中大兄皇子や中臣鎌足がサポートするようになります。最終的に中大兄皇子は天智天皇(661年即位。第38代天皇)となり、その死後、壬申の乱で勝利した大海人皇子が天武天皇(673年即位。第40代天皇)として、さらに中央集権を推し進めました。
この律令制は、聖武天皇が墾田永年私財法により、「土地は天皇のもの」という律令の根幹が揺らがされ、桓武天皇(781年即位。第50代天皇)の時代に、大きく行政改革がなされたことで終わりを迎えました。(この終焉にも諸説在ります。)


上に幾度か書いていますが、この仏教伝来の流れについては諸説あります。ご自分で調べて見られるのもいいと思いますよ。

上記の方が言っておられますが、仏教が伝来したのは聖徳太子の時代ではありません。
伝来の時期については諸説ありますが、欽明天皇(539年即位。第29代天皇)が百済の王から伝来されたという説について簡単に説明します。
このとき、朝廷では蘇我氏や物部氏が権力を握っていました。欽明天皇が仏教を受けいれるべきかと聞いたとき、蘇我氏が賛成し物部氏が反対しました。一旦受け入れたものの、流行り病等が起こったので物部氏はこれを「日本古来からの神のたたり」と主張し、廃仏が実施されます。
後年にも同...続きを読む

Q聖徳太子が摂政となる593年の語呂合わせ

聖徳太子が摂政となる593年の語呂合わせ

●国民期待の聖徳太子(当時国民という意識はあったのか?公地・公民だから大丈夫?)
●聖徳太子はコックさん(料理が得意だったり、そういう役目だったの?)
●ご苦労さんです聖徳太子(ご苦労さんて上から目線かな?596年と間違いやすい。)
●コックリさんと聖徳太子(ちょっと不謹慎な気が)
●五組に通う聖徳太子(本当?)
●国産大好き聖徳太子(遣隋使も送ってたから国産大好きとは言いがたいか?)
●極彩色な聖徳太子(派手だった?)

ネットで調べたり自分で考えたりして上記のような語呂合わせが集まりました。
括弧の中はちょっとした疑問点です。
更に良い語呂合わせはあるでしょうか?もしくは上記の中でこれが一番だというのがありましたら理由を教えてください。時代背景までわかるような語呂合わせなら最高です。

Aベストアンサー

敢えて、この中から選ぶとすれば、

●極彩色な聖徳太子

が時代背景にも反映されますし、一石二鳥かと。

何故に極彩色かと言えば、聖徳太子は「冠位十二階」を制定しています。603年に定められた位階制度です。推古天皇の摂政となった、丁度10年後ですね。位は冠の色で区別されています。

1.大徳 (だいとく)(濃紫)
2.小徳 (しょうとく)(薄紫
3.大仁 (だいにん)(濃青)
4.小仁 (しょうにん)(薄青)
5.大礼 (だいらい)(濃赤)
6.小礼 (しょうらい)(薄赤)
7.大信 (だいしん)(濃黄)
8.小信 (しょうしん)(薄黄)
9.大義 (だいぎ)(濃白)
10.小義 (しょうぎ)(薄白)
11.大智 (だいち)(濃黒)
12.小智 (しょうち)(薄黒)

どうです。極彩色でしょ?最初の語呂合わせから10年後に冠位十二階は非常に覚えやすいですし、時代背景も映し出してますし、最適な語呂合わせと思われます。更に翌年604年には「十七条憲法」がやはり聖徳太子により制定されています。連動してて覚えやすいですよね?試験なんかでは、よく間違えやすいところです。

次の文章の間違いを指摘せよ
「推古天皇の摂政となった聖徳太子は604年に冠位十二階制度という位階精度を定め、冠の色で役職を区別した」

もう間違えやすい紛らわしい問題ですが、もうお分かりですよね?冠位十二階は「極彩色な聖徳太子」が10年後に定めた制度ですから、604年では無く、603年が正解です。

この語呂合わせで覚えればオールOKです。

敢えて、この中から選ぶとすれば、

●極彩色な聖徳太子

が時代背景にも反映されますし、一石二鳥かと。

何故に極彩色かと言えば、聖徳太子は「冠位十二階」を制定しています。603年に定められた位階制度です。推古天皇の摂政となった、丁度10年後ですね。位は冠の色で区別されています。

1.大徳 (だいとく)(濃紫)
2.小徳 (しょうとく)(薄紫
3.大仁 (だいにん)(濃青)
4.小仁 (しょうにん)(薄青)
5.大礼 (だいらい)(濃赤)
6.小礼 (しょうらい)(薄赤)
7.大信 (だいしん)(濃黄)
8.小信 ...続きを読む

Q小野妹子は聖徳太子の国書を持って隋に行ってどうして生きて帰ってこれたのでしょうか?

小野妹子は聖徳太子の国書を持って隋にいって、どうして生きて帰ってこれたのでしょうか?
聖徳太子の国書は「日出る処の天子,書を,日没する処の天子に致す。恙なきや。」で始まっていますが、中華思想の強い中国の王朝では非常に無礼なものと考えられたと思います。特に強大な力をもった統一王朝の隋に行って、対等な関係を示す「天子」を持った国書差し出せば無礼者としてその場で殺されてしまうような気がします。
ところが現実には裴世清を伴い帰国し、聖徳太子の対等外交政策は一応成功しました。高句麗の脅威に対抗するため倭国と手を結ぶ必要があった等の説明を聞きますが、どうもそれだけでは「天子」という言葉の記載のある対等の国書を受け取った上裴世清まで使者として送った理由としては、彼らの中華思想の強さや何百年かぶりの統一王朝の隋の登場といった背景を考えると、説得力がやや弱いと思います。
聖徳太子や小野妹子は隋王朝内部にコネがあったり、彼らの弱みを握っていたのでしょうか? あるいは朝鮮半島出身ではなく、大陸出身の渡来人がブレーンとしていたのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。

598年の高句麗との戦いで大打撃を受けたことと、607年に高句麗が東突厥に同盟を持ちかけたことで、隋はかなりの緊張感を持たざるおえなかったのだと思います。

有史以来、争いの絶えない大陸で生き抜くには、かなりのリアリストでなければ無理なのであり、尊厳よりも時には実益を選ぶ柔軟さが必要なのではないでしょうか。
太子は、その絶妙なタイミングを見計らって、国書を送ったのではないのかな。


ご存知とはおもいますが、ブレーンとしては「秦河勝」が有名ですね。
まさしく大陸出身の秦氏です。

Q聖徳太子について

聖徳太子の本を読んでいて、実は聖徳太子は存在していないと仮説を
立てた「逆説の日本史」という本からの質問です。聖徳太子は、中国から来た渡来人の神様だったのではないかと思っています。その訳は
日出ずる天子→宗教権威がある人に対して使われる言葉だからです。
その他、聖徳太子の像があるお寺と、法隆寺のお寺の違いは何なのか?
という事に疑問を感じました。豪族蘇我氏の祖先が聖徳太子だったので、蘇我氏のお墓がある明日香村に聖徳太子の像が、祭られている。(蘇我氏の氏寺と考えていいのでは?)蘇我氏というのは渡来人で中国人であったのではないかと思います。法隆寺は、聖徳太子の怨霊を弔う為であったとすれば、やはり、存在しなかったということになるのでしょうか?

Aベストアンサー

あなたが最後に書かれているように、法隆寺が聖徳太子一族の怨霊を鎮めるために建てたものならば、存在したという事ではないですか?

本名厩皇子といい推古女帝の甥で政治・経済・軍事・外交などすべてを担当していたのは、当時の中国で女性は相手にされないからです。
ただこれほど偉大な人物が天皇になる前に死んだので多大の同情を招き怨霊信仰の対象になったと思われる。

聖徳太子の聖徳は、謚で死後付けられた名前です。
徳の付く謚を持つ天皇・皇族は、仁徳、安徳、顕徳、順徳、崇徳、文徳といますが、不幸な死に方をした人達ばかりで怨霊になる恐れがあります。  「徳」の字は、それを鎮める意味があると思います。
なお、怨霊思想は、仏教には死に方に区別なく本人の信仰だけで、神道のみの思想です。

したがって、聖徳太子は、日本人で存在したと考えられます。

Q原始時代から平安時代までと 奈良時代から室町時代までの 間にそれぞれ何がありますか?

原始時代から平安時代までと
奈良時代から室町時代までの
間にそれぞれ何がありますか?

Aベストアンサー

原始時代から平安時代までには「(古墳時代と飛鳥時代と)奈良時代」
奈良時代から室町時代までには「平安時代(と鎌倉時代)」がありますけど、試験範囲でしょう?
多分「そう言う話じゃない」はずで、事象は多岐に及ぶので、教科書や年表・資料をもう一度読み返しましょう。
としか言い様がないです。

Q浄土真宗のお寺になぜ聖徳太子?

浄土真宗のお寺はどこでも聖徳太子を阿弥陀様の横にお祭りしていますがどうしてですか?親鸞聖人が聖徳太子を大変敬われたからだと聞きましたが
それはなぜでしょう?聖徳太子は在家の方で親鸞聖人も同じ在家だからだと聞いた事はあるのですが。聖徳太子はあらゆる宗派、一部の神道にまで崇拝され、未来預言やオカルトまがいの話まであります。専修念仏とか阿弥陀一仏礼拝ということに結びつきにくいのですが。

Aベストアンサー

坊さん@浄土真宗です。聖徳太子は通常は阿弥陀さまの横には安置しません。内陣ではなく余間です。お祭りでもありません。
信仰上の礼拝の対象ではありません。あくまで敬う意味合いで安置しているのです。
聖徳太子さまは、親鸞聖人が「和国の教主」とまでおっしゃっていて、たいへん尊敬なさったお方です。
親鸞聖人が二十年の比叡山での修行に決別して、師である法然上人とお出遇いになるきっかけが六角堂での百日間参龍における聖徳太子さまの夢告であったといわれています。つまり、親鸞聖人にとっては、聖徳太子さまはとても大切なお方だったのです。親鸞聖人は自らの和讃(正像末和讃)で聖徳太子さまのことを
「和国の教主聖徳皇 広大恩徳謝しがたし 
 一心に帰命したてまつり 奉讃不退ならしめよ」
と「和国の教主」として、仏教を日本でもさかんにしようとして594年に仏教興隆の詔(みことのり)を出し、四天王寺や法隆寺を建て、また、経典を研究し「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」という注釈書をあらわした(その太子の仏教奨励策の結果で飛鳥地方を中心に仏教文化がさかえた。)聖徳太子さまを常々お敬いだったのです。そのお心を受け継いでいるのが真宗寺院なのです。
したがって私たちも、聖徳太子さまをお敬いするのです。

坊さん@浄土真宗です。聖徳太子は通常は阿弥陀さまの横には安置しません。内陣ではなく余間です。お祭りでもありません。
信仰上の礼拝の対象ではありません。あくまで敬う意味合いで安置しているのです。
聖徳太子さまは、親鸞聖人が「和国の教主」とまでおっしゃっていて、たいへん尊敬なさったお方です。
親鸞聖人が二十年の比叡山での修行に決別して、師である法然上人とお出遇いになるきっかけが六角堂での百日間参龍における聖徳太子さまの夢告であったといわれています。つまり、親鸞聖人にとっては、...続きを読む

Q夏休みの宿題 歴史新聞

夏休みの宿題で歴史新聞というのがあります!
それで、一人歴史上の人物を調べなければいけないんですが
まったく決まりません。
出来ればありきたりでは無いもので
かつマイナーすぎないものがいいんですが。。。
後、調べやすい人です。
ちなみに人物は外国の方でもいいですし
最近の方でも死んでればOKです。
皆さんは何かお勧めはあるでしょうか??

Aベストアンサー

中高生なら近代史をおすすめします。

政治なら米内光政はいかがでしょう。
海軍大将でありながら政治感覚・国際感覚ともにバランスの取れた人です。
いわゆる軍国主義からはかけ離れた人なので抵抗は少ないでしょう。

文筆家なら森鴎外はいかがでしょう。
太宰治や芥川龍之介と違って国際感覚を持った人です。

医学なら北里柴三郎はいかがでしょう。
言わずと知れた日本の細菌学の父です。

いずれにしても近代の日本に活躍した人、言い換えれば現代の日本の礎を作った人をよく知ることが良いと思います。

Q「17条の憲法」は本当に聖徳太子が作ったのですか?

「17条の憲法」や「冠位12階の制度」は、聖徳太子が制定したと学んできました。

しかしある本で、「これらを聖徳太子が制定したとはどこにも書いてない」とあり、ショックを受けました。
ではなぜ、これらは聖徳太子が制定したとされてきたのでしょう?

これらが制定された時期、聖徳太子が政治の実権を握っていたのは間違いないのですか?
蘇我氏など他の大臣たちが制定したものじゃありませんか?

Aベストアンサー

 聖徳太子って謎の部分が多い人なので、いろいろな説が生まれてきます。「<聖徳太子>の誕生」と言う本は(大山 誠一著)は、聖徳太子不在論争のきっかけとなった本で、聖徳太子の存在を否定するものは幾つかあります。だからといって 十七条の憲法冠位十二階を「蘇我氏など他の大臣たちが制定したものじゃありませんか?」と言うことにはなりません。#2さんの言うとおりです。もし、聖徳太子という人物がいなかったとしても、そのモデルとなる、蘇我氏に抵抗するあるいは対等以上の立場をとろうとする皇族がいたことは間違いないと思います。

 そこで、聖徳太子をもしもう少し調べてみてもいいようなら、実在していることを前提にしっかり書かれていながら、信仰としての聖徳太子についてもしっかり書かれている、岩波新書の「聖徳太子」(吉村 武彦著)がおすすめです。
 マンガでは私は、「日出処の天子」(山岸涼子)(白泉社)をおすすめします。日本の古代研究の第一人者梅原猛先生のお墨付きももらっているマンガです。聖徳太子が超能力者的に描かれていてウソの話が多すぎると言う意見もあるが、彼の伝説にそういう話は結構あって、その他当然つくられた話の部分もありますが、その当時の時代の雰囲気がつかめるおもしろい作品です。池田理代子さんの作品もいいですよ。
話がそれてしまいました。聖徳太子ってとてもおもしろい存在です。

参考URL:http://homepage1.nifty.com/umayado/who/book/books.htm

 聖徳太子って謎の部分が多い人なので、いろいろな説が生まれてきます。「<聖徳太子>の誕生」と言う本は(大山 誠一著)は、聖徳太子不在論争のきっかけとなった本で、聖徳太子の存在を否定するものは幾つかあります。だからといって 十七条の憲法冠位十二階を「蘇我氏など他の大臣たちが制定したものじゃありませんか?」と言うことにはなりません。#2さんの言うとおりです。もし、聖徳太子という人物がいなかったとしても、そのモデルとなる、蘇我氏に抵抗するあるいは対等以上の立場をとろうとする皇族が...続きを読む

Q旧石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代・・・

と日本史の資料集では、そうなっていたのですが、旧石器時代→新石器時代(縄文・弥生時代)→古墳時代とすると誤りなのでしょうか?

Aベストアンサー

縄文と弥生は土器の種類からくる名前ですよね。逆に新旧石器時代というのは、土器がなく石器しかなかった時代と考えれば、「新石器時代(縄文・弥生時代)」という考え方にはならないと思います。


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