
江戸幕府にとって天皇や貴族の存在価値って、権威以外に何かあるんでしょうか。あまり力を持ち過ぎると面倒なので、これでもかって言うくらい骨抜きにしてしまえばよかったのではないでしょうか。
例えばですが、
養子は認めない、庶子は寺へ、高位の役職についていない貴族は貴族として認めない(商人扱いにする)等々。もともと何かを生産する訳ではないので、不便もないと思います。
天皇家とあと数家、総勢10名くらいの組織にして、しれっと江戸城常駐にさせてしまえばもはやいてもいなくてもよくなります。
No.10ベストアンサー
- 回答日時:
たぶんですが、あれでも江戸幕府は相当に公家を骨抜きにしたのだと思います。
でもあれ以上できなかった、というのが真相ではないでしょうか。そもそも日本の歴史の中で天皇を中心とする朝廷、というのは実に独特の存在であるといえます。武家政権は鎌倉幕府に始まりますが、あれは事実上東国が鎌倉幕府の支配、西国は一応鎌倉幕府の権力は認めるけど、面従腹背だった、といえます。ですから、鎌倉幕府は六波羅探題を置いたわけですし、それでもなお南北朝に分裂するような紛争が起きています。
なぜ、これほどまでに朝廷の力が強かったのか、といえば「日本を統一した政府」が朝廷だったからでしょう。鎌倉幕府にしても徳川幕府にしても、朝廷から征夷大将軍の勅旨をもらわないと将軍の継承ができなかった、と言う事実があり、極端にいえば朝廷を滅ぼすと「自分たちの地位のお墨付きが無くなる」ということになってしまうことになりました。
ですから、朝廷の力をよわめるにも限度があり、江戸幕府としては「天皇や公家の権威を失わせない程度、ギリギリ」の線まで天皇家を弱めていたといえるでしょう。
そう言う意味で京都所司代を作り、禁中並公家諸法度を押し付けた徳川幕府は相当に罰当たり、であったともいえます。
実際のところは武士の下で支配されている農民(百姓)などへの配慮もあったのだと思います。江戸の初期には百姓などが苗字を名乗ることを禁止しますが、実際にはほとんどの人が苗字をもっていました。彼らの苗字は平安時代ぐらいから続く名籍もたくさんあったわけです。
彼らからすれば「武家政治のおかげで名乗ることはできないが、先祖代々もらった苗字は大切にしている」ということであり「百姓こそが国の根幹」というプライドもあったようです。
嘉永6年(1853年)陸奥国の三閉伊一揆では「 士農工商天下の遊民 源平藤橘の四姓を離れず 天下の庶民皆百姓なり」とうたわれており、朝廷からもらった苗字をもらった百姓こそが国を動かしてる、と宣言しているのです。
朝廷の権威をあまりにも傷つけ、有名無実化する、というのは、百姓というか当時の国民の9割を占める農民からみえば「名前をくれた恩人になにしてくれるんだ!」ということでしょうし「お前ら武士の名前だって元は天皇からもらったものだろう」という意識になるでしょう。
つまりあまりにも朝廷の権威を貶めると、武士の権威も落ちてしまうわけです。
それでも徳川幕府はそれ以前の武家政権に比べればかなり思い切った縛り付けを行っている、といえるのではないでしょうか。その結果が350年におよぶ徳川泰平の時代であるわけです。
No.7
- 回答日時:
No.5の回答には疑問があります。
当時の一般庶民は京都の人々以外は天皇家などという存在はほとんど知らないと思います。
武士階級の人達は朝廷(天皇家)や公家といわれる階級の人達が存在することは分かって
いたでしょうが、一般庶民にとっては天下を治めているのは徳川将軍家であってそれ以上の
階級の人達が存在すること自体ほとんど知られていなかったのではないでしょうか。
また、明治新政府によって天皇家は神格化されたものでありますから「神の一族である天皇家」
などという認識は江戸時代の庶民には絶対にあり得ないことです。
なお、倒幕運動の中心的な役割は薩長に代表される西日本の諸藩です。
決して京都の公家勢力によって徳川家が倒された訳ではありませんから質問にあるように天皇家
の力をもっと弱めておいても意味のないことかと思います。
ご回答ありがとうございます。
鳥羽伏見の戦いでは「錦の御旗」が戦況を大きく左右しました。また勤王の志を持つ徳川慶喜はさっさと江戸へ遁走しました。仮に天皇とその周辺貴族が骨抜きになって江戸にあれば西南雄藩は大きな精神的支柱を持てなかったのではないでしょうか。
No.6
- 回答日時:
天皇は宗教的存在なので、それなりの
畏れがあったのだと思います。
現代でも、天皇を特別視する人は少なく
ありません。
皇太子の結婚後のパレードのとき、いざ
出発というときに、いままで降っていた雨が
ピタリと止みました。
それを目にした少なくない人は、やはり普通の人とは
違うんだ、と思いました。
現代でさえそうなのです。
迷信深い昔の人の、天皇に対する想いは相当
なものであったと思われます。
北条義時は、天皇と揉めたとき、雷や地震
があるたびに、天皇の祟りだ、と恐れおののいた
と吾妻鏡にあります。
天皇家とあと数家、総勢10名くらいの組織にして、
しれっと江戸城常駐にさせてしまえばもはやいて
もいなくてもよくなります
↑
それをやっていたら、幕末、日本は列強の
植民地になっていたかもしれません。
将軍の受け皿としての天皇があったので
助かった可能性があります。
No.5
- 回答日時:
どうも、西尾みゆきでございます!
えー、まず江戸時代と言えば江戸幕府と徳川家と思いがちですが、他の人々のことを忘れてはいけません。 そう、農民や町人です。このような庶民は、神の一族である天皇家を第一に考えています。その思いは当時の権力を欲しいままにしていた幕府をも凌駕していたのです。それというのも、元々天皇家は神の一族であるという「常識」があった上に、権力を持ちすぎた幕府は無理な政治を敷き、しょみんから嫌われていたのです。
その鬱憤が爆発して起きたのが江戸後期の攘夷活動ですね。
つまり私が言いたいことは、どんなに強い力を持った政治家がいたとしても、国民がいなければ国はできないということです。
当時の国民にとって天皇家は至上の存在であり、命を投げ出しても惜しくない存在。
そんな天皇家をもしもぞんざいに扱う。ましてや滅ぼすような暴挙に出ようものなら、自分の国民全てを敵に回してしまうことになるのです。
そんなこと、あなたならしますか?しないでしょう?と言うか出来るわけがないでしょう!?
だから、天皇家は多少なり姿を変えつつも、今のように残ったのではないでしょうか。
以上のことを、私独自の考察として、紹介しました!西尾みゆきでした~!
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