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「論理的」

お恥ずかしい質問で恐縮ですが、この論理的と言う言葉の意味がイマイチ理解できません。

サルでもわかるように文字で教えていただけないでしょうか。

A 回答 (5件)

「論理的である」というのは、原因(理由)と結果(結論)に明確な因果関係があるということです。



「雲が出て来たから傘を持って行きなさい」と言われて「どうして傘を持って行かなければいけないの?」と聞き返す人はいないでしょう。これは、雲が出て来たために雨になるかもしれないということを誰でも理解できるからです。

ですので、「雲が出て来たから傘を持って行きなさい」というのは論理的と言えます。これに対して、「雲が出て来たから早く寝なさい」は、論理的とは言えません。なぜならば、「雲が出て来た」ということと「早く寝る」ということには何の因果関係もないからです。

論理的であることの大切さ
http://mondai-kaimei2011.blog.so-net.ne.jp/2014- …
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2016/10/19 16:21

>論理的と言う言葉の意味がイマイチ理解できません。



だいたい、その背景は想像つきます。

ここのサイトの占いのカテゴリでは、2ヶ月に一度ぐらいは、「占いは、論理的か非論理的か」とか、「占いを信じますか」という題材が出てきます。でも、占い自体に、論理とか非論理というような、対立構造を作ること自体が、意味がないように思えるのです。

そもそも「論理的」という言葉を使った時に、私には、どこか、滑稽な言い方だと感じます。人生経験の乏しい若者が、自分の理屈で他人を屈服できないもどかしさに、捨て台詞のように、「論理的ではない」「非論理的だ」とか言います。その言葉は、科学的・非科学的という話も同様で、物理科学を主としたもので、他の科学は見向きもしません。しかし、その「論理的」という言葉は、若者を、酔わせるような魅力のある言葉なのかもしれません。

一般の日本の社会の会話として「論理的だ」とか、「非論理的だ」などいうのは、言葉の使い方を知らないのであって、もし、そういう表現が使え、許される(不適切ではない)場所は、非常に限られたものです。

論理は、相手から突っ込まれない、相手に立場を奪われないための、理論武装の技術のひとつであって、それ以上にはないと思うのです。多くの「論理的」「ロジカル」を主張する考え方は、自分の持つ原則論を越えない線形の思考法です。線形の思考法とはレールに乗って脱線することもない、ということです。

特に、そのような人は、演繹的な思考法に頼ろうとします。
【演繹法:一般的な前提から、経験にたよらずに論理・原則によって個別の結論を導き出すこと。三段論法など】

ところが、相手が、その原則を認めなければ、話にもならないことに気が付かないのです。日本の教育は、戦後、社会主義教育に準じたと言われています。唯物的にみて、自分たちの説明できないもの、現行の科学にはないものを排除して、現実論だけで物事を組み立てようとするから、どうしても、そこに矛盾が生じてしまっているのです。その原則が絶対なものとして、それ以外のものはあえて無視しようとしているわけです。だから、「論理的」というものには、自分自身さえも否定するということも起きてしまうわけです。

論理の裏側にある原則自体を受け入れられるなら、その話は成立するけれども、そうでないなら、ただの屁理屈にしか聞こえません。人間というものは、果たして論理的な存在といえるのか、人を好きなるというものに、本当に論理的な思考が働くか、もしあれば、それは打算でしかないのではないか、と思ってしまいます。

最後に、論理的という言葉の裏側にあるの「原理・原則」が、あまりはっきり見えてこない、そういう主張は、どんなに論理的に説明しようとしても、人には通じないことが多いのではないでしょうか。

昔、内田春菊さんの漫画に、男性の話は、積み木を積み上げているようなものだ、組み立てているところが面白いようです。ところが、女の一言「つまんないわ」で、その積み木は崩れてしまう、「論理的」というそんなものだと思うのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2016/10/19 16:21

論理的と言うことについて、私の講義を聞いたお方がその感想文にお書きになった文章の一部を以下に紹介します。



「人間がきちんと社会に生きて行けるのに必要なのは、まさにロジカルに考えてコミュニケーションがとれることだと実感し、、、」

「ちなみに『コミュニケーション』とは、相手の気持ちが読み取れること、それに対する思いやりが持てることが前提である。これが社会に生きる一個人に必要な最低限の能力であり、これらを『考える力』や『人間力』『生活力』といった言葉に置き換えるならば、それらを伸ばし、豊かにすることがいわゆる講師がおっしゃる『教養人』ではないかと思った。」

以上、「論理的」であるとは「意思伝達能力」があるあることであり「人間力」があることであると捉えると腑に落ちるようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2016/10/19 16:21

例えば、ある場所で夕焼けの景色を見て、「きれいだ」と思ったとします。



この「きれいだ」は、感情的、感覚的です。
「そのように思ったから、感じたから」ということになります。

これを「論理的に」ということになれば、どのような作用によってそれが引き起こされているのかを説明することになります。

ある物事に対して、様々な考えで説明することが「論理的」ということですね。
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この回答へのお礼

教えて頂きありがとうございます。

お礼日時:2016/10/16 12:55

ホールワープ法でしたっけ?


例題として言いますと、
私は〜が好きだ。理由は2つありまして、1つは〜で、2つは〜です。
だから私は〜が好きだ。
こういう感じでしょうか?
こうしか説明できません。
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この回答へのお礼

教えて頂きありがとうございます。

お礼日時:2016/10/16 12:54

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