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神は 《神は有る》という表現も 《神は無い》をも 許容する。

どちらか一つに定まったとしたら それはどちらにしても 人間が勝手にその
ように神を規定し創ったに過ぎない。

あるいはつまり その人間たる人が 神は何であるかが分かったと言っている
ことになる。

つまりは その人は神になったか もしくは神と同等の存在になったことを意
味する。

あり得ない。


 
あり得るのは 神をその人の・人間や世界の見方に引き下ろして来たというだ
けである。

 
《かみ》は 言葉でもあるから いかようにも想像し作文することが出来る。

《神は存在する。これを信じないのはバカだ》派も 《神などはいない。いる
というのは阿呆だ》派もいづれも ひとしくアホバカ教である。

人間が神になったつもりでいる。


なんで神の心が人間に分かるのか。また 分からないとのみ決めつけるのか。


という問いです。

質問者からの補足コメント

  • ★ 経験的なものごとに当てはめて神を・・・有ると言うとき、無いの否定を
    含意するし、無いと言うときは有るの否定を含意します
    ☆ という経験事象における規定が 非知については《実質的に意味を持たな
    い》のです。仮りのシルシとしての表現だからです。

    ただし そんな《意味のない選択(有るか無いかの)》でも 個人としては 
    呼び名としてのシルシを得ることにはなります。好きなときに呼び出せばよい
    わけです。

    《無い神》派は もう呼び出すこともなくなる。という状態で 《神とわれと
    の関係》を成しているわけです。

    どちらでも構いませんが どちらか一方のみが神を《排他的に正しく》規定す
    るのだと言うなら それは間違いです。非知だから 他を排除していません。

    個人としては いづれか一つだけで済みます。宗旨替えをしてもかまいません。

    あるいは 《われは 普遍神を信ず》という表現でもよい。

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/03/01 00:31
  • ★ (№9) 何のために「表現上は」なんて言葉を使って混乱させる
    ☆ 《表現上は》というのは 経験現象としてはという意味です。非知なる
    神は 人間の言葉による表現を むろん超えています。だから――善悪の彼
    岸とも言われるように――《有る》をも《無い》をも包み含んでいます。そ
    のどちらでも――表現上は――あり得るとなります。

    ★ そもそも神が非知ならば「神は神である」という言明って
    ☆ 成立しますが 神にとっては何ともありません。影響を受けません。

    そういう意味で:
    ★ 非知という概念の意味を考えると神に関するあらゆる言明は間違いだと
    言えてしまうんじゃないか
    ☆ となります。ただし 人間は・そして個人としては 神についてシルシ
    をもとめます。
    《無い神》というシルシとしてもです。

    そのように《神とわれとの関係》を 個人としてのわれが えらべたならそ
    れで不安・矛盾はなくなります。

      補足日時:2017/03/01 00:44
  • みなさん 趣旨説明を読んで考えてくれたことに感謝。

    どなたか一人に BAということになるのを避けて なしとします。

    あたらしい質問へ よろしかったら移ってみてください。

      補足日時:2017/03/01 21:39

A 回答 (9件)

神は人間の願いにより作られる。

日本は小さな村の集合体だから八百万の神では無いでしょうか?
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この回答へのお礼

なあーんも考えてないでしょう?



ご回答をありがとうございます。



ここは 哲学カテですよ。

お礼日時:2017/02/27 12:28

なるほどカバラ教は知っていましたが阿呆馬鹿教ですね。

信者になりたい。
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この回答へのお礼

質問の趣旨説明に沿って――つまり反論・批判は 自由で
あり 大いに歓迎ですが 言わばたたき台の内容をふまえ
て―― ご見解をお寄せください。

お礼日時:2017/02/27 12:42

回答御ありがとう御座います。

あなた様が御言いに成りましたよ。俺馬鹿じゃけんヲあなた様にはついていけません。ヲあなた様をご批判など俺馬鹿じゃけん出来ません。ひとしくアホバカ教である。とはをあなた様が御書きになったことですよ。俺にわかるわけねえじゃろがい!
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回答したさかいなんか言わんかいわれ

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神の問題は 論理的裏付けがなく 妥当性に問題がある 非科学的な


幼稚な考えです 「霊」とか「占い」とかと 同じですね

だからといって キリスト教 仏教 儒教等が 間違っていると決め付ける事は
できません
本来の教えは正しいからです

仏教にしてもキリスト教にしても 世界宗教に発展した理由に、
普遍的な心理を含むものがあり、 人間の捉え方にしても、
事物の本質の掘り下げ方にしても、万人が納得いくものがあった、と言えます

人類文明にこの二つの宗教が無かったら、人間の知恵はいかにも底の浅いものに
なっていただろうと思います その役割は大きかったと想います

昔、人は禽獣と変わらず、善悪の判断も無く、親を敬う事も、
恩を感じる事も無く生きていたのです
 やがて、道徳が生まれ、宗教(キリスト教 仏教)が生まれ、
人間らしくなっていったのです

では 何故 このような堕落した 宗教になってしまったのか

それは 聖職者 僧侶の堕落が原因です
特権階級のようにふるまい 宗教を仕事にし 十字軍に象徴されるよう
戦争をはじめるのです 日本とて同じ事です 
源平合戦の発端の保元の乱は坊主です

宗教は悪くなく 正しいのです

今の世 エセ教祖が多いので しっかり学びましょう
この世は科学です 原因のない結果等 絶対ないのです
宗教も科学です 妥当性のない結果のみを解く宗教に騙されないようにしましょう


参考にして http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage31.htm

http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage8.html


神を信じている人からすると
キリスト教でないのに
クリスマスやバレンタインのバカ騒ぎ 
教会で結婚式 
正月の初詣は神社(神道)  葬式はお寺
  
メチャクチャで そのだらしなさは 笑える
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

(あ)★ 論理的裏付けがなく 妥当性に問題がある 非科学的な幼稚な考え

(い)★ 間違っていると決め付ける事はできません / 本来の教えは正しい

☆ これら(あ)と(い)とのあいだに矛盾がありませんか?

問題は 一般論だけに終わっているからではないでしょうか? というよりこ
の質問の趣旨(≒たたき台)をめぐって お考えを具体的に述べて欲しいので
す。

★ 普遍的な心理を含むものがあり
☆ と言われますが ふつう一般に《人間の心には 他人(ひと)を思いやる
愛もあれば こころよく思わず何かにつけよくないところを強調し足を引っ張
る憎しみもある》という心理学も 普遍的です。何も宗教のオシヘを持ち出す
こともありません。

★ 人間の捉え方にしても、事物の本質の掘り下げ方にしても、万人が納得い
くものがあった、と言えます
☆ 例証が俟たれます。

もともと人はその生まれつきそなわった身と心との能力を活かして互いに生き
る――われも生きる かれも生きる――という心根の思いを持っていた。ので
はないでしょうか?

和を以て貴しと為せと オシヘ(掟・取り決め・のり)が言わなかったなら
わたしたちは 和を乱すというようなことは知らなかった。のです。

元凶は 宗教にあります。一部分でしょうが 人を禽獣にひとしい状態に落ち
入らせたのです。無間地獄に落ちよとののしっているのではありませんか?
宗教家こそが ただの気ちがひです。

堕落したからではないのです。もともと 人間の自然本性なる心の奥底にある
ともしびのごとき――わが固有の時間にして 孤独ゆえにとうとき――生きる
チカラを 信じることから離れ これをオシヘとしたからです。

信じる(無条件に受け容れる)ではなく あたまで考えることへと切り替えて
しまった。ここが 信仰と宗教との分かれ目です。

だれにそんな権限があるのか? 
神の代理だって? 自分はこの上なき知恵のさとりを成就したのだって?
バカも休み休み言いたまえ。
何の根拠があって言っているのか?
ただの精神錯乱でなくて 何であろう?



とにかく 情報交換は 相手の思想内容とからめて 自分の考えを述べるもの
です。

お礼日時:2017/02/27 21:46

>なんで神の心が人間に分かるのか。

また 分からないとのみ決めつけるのか。

信仰は人それぞれですから

それより
>神は 《神は有る》という表現も 《神は無い》をも 許容する。

それならどちらか一つに定めても間違いではないですよね
だって有っても無くても許容されるんだから
どちらか一つに定めるのがあり得ないなら
《神は有る》かつ《神は無い》という表現のみを許容すると言わなきゃダメですよ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~
  >なんで神の心が人間に分かるのか。また 分からないとのみ決めつける
  のか。

信仰は人それぞれですから
~~~~~
☆ ですから 《わたしは神の心が――わが非思考の庭と言うべき信仰にあっ
って――分かった》と言うのと そう決めつけるのとは 別だってってんぢゃ
ん。

★ ~~~~~
それより
  >神は 《神は有る》という表現も 《神は無い》をも 許容する。

それならどちらか一つに定めても間違いではないですよね
~~~~~~~~
☆ そう言いつづけてます。

★ だって有っても無くても許容されるんだから
☆ だ・か・ら 《表現が許容される》ってんだろ? いつ・だれが:
★ 有っても無くても
☆ ってったんだよ?


★ どちらか一つに定めるのがあり得ないなら
☆ そうだよ。
★ 《神は有る》かつ《神は無い》という表現のみを許容すると言わなきゃダ
メですよ
☆ だ・か・らぁ 《神は普遍神なり》と〔だけ〕言えばよいのです。

ただし人びとは 経験的なものごとに当てはめて《有るか無いか》で神を捉え
たいし そう呼びたい。ということです。それだけのことです。

どちらか一方の好きなほうをえらんで呼べばよいのです。ただし その《一方
のみがただしく 他方はあり得ないし 邪教である》と言うのは 根っからの
アホバカ教であるという趣旨です。

分かりましたか?

お礼日時:2017/02/27 21:57

なんで神の心が人間に分かるのか。


  ↑
人間が創造したものですから、わかるのは
当然です。



また 分からないとのみ決めつけるのか。
     ↑
神なんて概念を持ってくると、無数の矛盾が
発生します。
その矛盾を説明できないので、偉大なる神の
心など人間には理解できないのだ、と説明する
わけです。
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この回答へのお礼

それは おもちゃの神でしょう。

おっしゃるように 想像や思考の産物としての神です。

ご回答をありがとうございます。


たとえば 《永遠》をわれわれ人間は知っていましょうか?

《永遠なんて概念を持ってくると ええっ? あんたは 永遠に生きた
んかいな? と訝(いぶか)しがられます》。

ただし《もちろん 永遠なんて分からない。それはいま言ったのは 概
念だけのことだ。思考と想像とで言葉をあやつって遊んでいるだけだ》
と言えば ふつうに合理的です。

つまり おもちゃの神(=永遠)も――言葉は シルシであり・つねに
その内容を相対的なものと見なしてよいとする概念となっていますから
―― あり得ます。

神をなんで人間の創造物として捉えるのか?

《永遠》が 人間の創造物であるなら その中身をみなに分かるように
説明しなければ(つまり あなたが永遠に生きてみせるのでなければ) 
あなたの見解は成り立ちません。

アホバカ教徒らの親分を自任しておられるようですが。

お礼日時:2017/02/28 08:21

お答えのお答え


(あ)★ 論理的裏付けがなく 妥当性に問題がある 非科学的な幼稚な考え

(い)★ 間違っていると決め付ける事はできません / 本来の教えは正しい

☆ これら(あ)と(い)とのあいだに矛盾がありませんか?


「矛盾」とかのお答えに お答えしておきます

多くの科学者が 宗教を否定しない理由がそこにあります

いくら論理的な説明ができなくても 科学で証明されなくても
生命の誕生は事実です 論理的に生命は誕生しないのです これ「矛盾」といえますね

ユング(スイスの精神医学者)の「集合無意識」等も
実在する事が 実験で分かりましたが では 論理的には説明できないのです
これ「矛盾」 といいます

背中に人の視線を感じる これ 実験で証明されました 
でも 論理的に 科学的に 説明不可能なのです  これ矛盾です

人には 予知能力がある事も 科学的には 非科学です が 実験で証明されています これ矛盾です

アインシュタインも 科学では証明不可能な現実を予測しております
現在 多くの科学者が 理論では説明不能な現象を認め
「ありのままを受け入れるしかない」 と言っています
矛盾を認めているのです

キリスト教では 神 仏教では 久遠元初の本仏 儒教では天意 西洋哲学では自我

我々の 浅い知識と 僅かな経験と あさはかな知恵で 結論を簡単に出すのは おこがましいと思いなす
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

どうも神論の一般を問題にしておられるようです。
この問いは 具体的に有神論か無神論かの問題を扱います。

信仰および宗教について基本的な問題を問うことも 何度もして来て
いますが いまは【Q:《マツリゴト》とは どういうことか?――宗教
批判です――】が それです。

さて 《矛盾》についてです。
★ 生命の誕生は事実です 論理的に生命は誕生しないのです これ
「矛盾」といえますね
☆ いいえ。《生命》について ふたつの概念に分かれましょう。

経験存在としての生命体とそして――もしそうだとしたら――非経験
の場としての生命(その場・そのチカラ)とです。

生命現象は それとして・或る程度 経験合理性で理解できるように
説明され得ます。さらにも研究されて行くでしょう。未知の部分を必
ずしも矛盾と呼ぶこともありません。

非知なるナゾとしての――生命のみなもとなる神としての――生命は
次元が違います。矛盾と言って言えなくもないでしょうが 朽ちるべ
き存在としてのいのちと 絶対なるいのちの場とは 言ってみればむ
しろ後者が前者をおおいつつむような関係にあります。矛盾と言う必
要はないでしょう。

★ 集合的無意識
☆ は あくまで経験現象としての心性です。或る程度の規則的な要
素が捉えられましょう。

人が 知恵ある年長者をとうとぶのも 男がよき母親の姿に魅かれる
のも いちいち《ムイシキなる独立した部位》を仮定しなくても み
ちびき出される経験科学的事態です。矛盾ではありません。

★ 背中に人の視線を感じる
☆ ごく一般的事実です。

★ 予知能力
☆ 推理は 自由です。予知として当たった場合も当たらなかった場
合も ごくふつうにあります。それだけのことです。

★ 多くの科学者が・・・矛盾を認めている
☆ 経験事象における未知のことがらであるか。あるいは 不可知と
して その推理ないし仮説が成り立つけれど その解については知り
得ないと証明されたと見なす場合であるか。それだけのことです。矛
盾と言うほどではありません。

★ 浅い知識と 僅かな経験と あさはかな知恵で 結論を簡単に出
☆ した結果が 趣旨説明になっています。神論をめぐるひとつの仮
説です。

どこが浅はかな推論であるかを示すのが 回答者のつとめでしょう。

お礼日時:2017/02/28 12:02

お礼見ましたけど


どう見ても言ってることが矛盾してるように見える箇所があります

それならどちらか一つに定めても間違いではないですよね
~~~~~~~~
☆ そう言いつづけてます。

★ どちらか一つに定めるのがあり得ないなら
☆ そうだよ。

↑どちらか一つに定めることは間違いではないが、あり得ないと言っているように見えるんですが
これ普通に考えたら意味わかんないですよ
bragelloneさんの論理を理解するには非知の概念を間に挟まなきゃきっと理解できないですよね?
非知とは分かるか分からないか分からないってことでしたよね
これは単に分からないという意味ではなくて分かることが不可能という意味で使ってたと思います
つまり分かるとも分からないとも本質的に言うことができないわけですよね
それで神は非知ですから《神は有る》と言っても《神は無い》と言ってもbragelloneさんの神論では誤りになる
なぜなら神の存在の有無も非知だから《神は有る》とも《神は無い》とも「言うことができない」
これがどちらか一つに定めるのがあり得ないという意味

次にどちらか一つに定めることは間違いではないとはどういうことか
ここが特にわからない
だってどちらか一つに定めるのがあり得ないのだから神の有無についてどちらか一つに定めることは
間違いでなければならないはずです
そこで推測するに《表現が許容される》という括弧をつけることで《神は有る》《神は無い》で用いられる
有無の概念を実質的に意味のない言葉とbragelloneさんの頭の中で見なしているために
どちらか一つに定めることは「表現上は」間違いではないという結論になるんじゃなかろうか
つまり表現上、どちらか一つに定められているかのように見えるが、そこで使われている有無の言葉は
実質的に意味がないから神について何も言っていないに等しい
故に表現上、どちらか一つに定めることは少なくとも間違いではない、なぜなら何も意味を持たないから
これで合ってるでしょうか?

概ね合ってたとしてbragelloneさんの神論に「表現上は」間違いではないという論はハッキリ言って蛇足
読んだ人に混乱を与えるだけだと思います
>ただし人びとは 経験的なものごとに当てはめて《有るか無いか》で神を捉え
>たいし そう呼びたい。ということです。それだけのことです。
>どちらか一方の好きなほうをえらんで呼べばよいのです。

こんなこと言ってますけど、経験的なものごとに当てはめて神を《有るか無いか》で捉えるならば
有ると言うとき、無いの否定を含意するし、無いと言うときは有るの否定を含意します
どちらか一方を選ぶということは他方を否定するのが経験的な有無の概念です
経験的な有無に当てはめて好きな方を選べばよいといいながら他方はあり得ないと言うのはアホバカ教だなんて
これ支離滅裂ですよ
何のために「表現上は」なんて言葉を使って混乱させるような話を付け加えるのか目的がわかりません

>《神は普遍神なり》と〔だけ〕言えばよいのです

あと素朴な疑問なんですけど
神は非知であると言っている以上、神についての言明は↑のようにトートロジーにならざるおえないとは思いますけど
そもそも神が非知ならば「神は神である」という言明って成立すると言えるんでしょうか?
論理的には正しいんですけど、非知という概念の意味を考えると神に関するあらゆる言明は間違いだと言えてしまうんじゃないかと思うんです
それは「神は非知」であるという言明についても言えて、神が非知ならば神が非知であるということすらも分かりようがないはずです
どうも自己矛盾に陥るような気がするんですがbragelloneさんの神論ではどうやってこの矛盾を回避するんですか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆(№6お礼欄) どちらか一方の好きなほうをえらんで呼べばよい
のです。ただし その《一方のみがただしく 他方はあり得ないし 邪
教である》と言うのは 根っからのアホバカ教であるという趣旨です。
☆ この趣旨にもとづいて 受け取ってください。

★★ (回答№6) ~~~~~
 >神は 《神は有る》という表現も 《神は無い》をも 許容する。

それならどちらか一つに定めても間違いではないですよね
~~~~
☆ この場合は 個人が有る神をえらぶか無い神をえらぶかを《定める》
ことについてです。

そのあと続いてのご議論ではありますが 次の場合は 神論として一般
的に神はどうであるかを《定める》ことについてです。:
★★ ~~~
だって有っても無くても許容されるんだから
どちらか一つに定めるのがあり得ないなら
《神は有る》かつ《神は無い》という表現のみを許容すると言わなきゃ
ダメですよ
~~~
☆ 神論として 神はたとえば《有る神》だけだと定めることはあり得
ない。という意味です。

なぜなら つづく文章の:
★★ 《神は有る》かつ《神は無い》という表現のみを許容すると言わ
なきゃダメですよ
☆ は明らかに 個人がどちらをえらぶかではなく 一般的に神はどう
規定すればよいかの議論だからです。

《定める》という同じ言葉が 別々の場合に用いられているので 紛ら
わしい〔わたしの〕表現になりましたが 最初に掲げたように趣旨はは
っきりとしているはずです。

★ つまり表現上、どちらか一つに定められているかのように見えるが、
そこで使われている有無の言葉は 実質的に意味がないから神について
何も言っていないに等しい
☆ というようにあたかも導けるかに見えますが 次のように微妙です。

《有るにせよ無いにせよ 実質的に意味がない》とき それでも人びと
はおのおのわが神とカカハリを持つからには 神のシルシを《有る神》
か《無い神》かに決めているという意味はあります。

神は 非知であり絶対ですから つねに相対存在である《われ》にとっ
ては――非思考の庭にあって――それとしての意味を持ちます。たとえ
ば ヒラメキが得られます。あるいは 良心とよぶものとしてわが心に
やましさ反応を起こします。(恥づかしさに顔を赤らめるなど)。

補足欄へ。

お礼日時:2017/03/01 00:20

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