アレルギー対策、自宅でできる効果的な方法とは?

例外のない法則はない とよく言われますが 本当に例外のない法則はないのでしょうか?

例外のない法則 真理と言い切れるものはあるでしょうか?

もしあれば一つでもいいから教えて頂けないでしょうか?

よろしくお願いします。

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A 回答 (16件中11~16件)

流通分


流通分(るづうぶん、るずうぶん)とは、経典を序分・正宗分・流通分と3つに分ける「三分(さんぶん、三科分類法)」の1つ。流通とは、流れ通じることで、広く行きわたることを意味する。また三分の中ではそれを説いた部分をいう。流布(るふ)と同義。
漢訳仏典では「流布」が一般的であるが、中国人の撰述した文献では「流通」が比較的多く散見される。のちに中国では仏教の経典を、科段(分科・科文)といって1つの経を内容によって分類されるようになった。経典を科段に分ける場合、序説の部分を「序分」、本質を説く部分を「正宗分」、そしてその内容を広めていくように勧めた部分を「流通分」と分科した。
流通分はこの三分のうち、その経典や教えの功徳を証して弟子に附属し、その経典を受持し流布することを勧める内容が書かれている部分を指す。
たとえば法華経では、大きく分けて序品を序分、方便品から分別品の前半までを正宗分、分別品から勧発品までを流通分と分科する一経三段と、またそれを細かく分けて、法華経の前半・迹門と後半・本門の2つに分け、その迹本二門にもそれぞれ序・正宗・流通があるとする二経六段がある。


https://ja.wikipedia.org/wiki/流通分


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



富楼那(ふるな、サンスクリット:Purna Maitrayani-putra)は、釈迦十大弟子の一人。説法第一。
十大弟子中では最古参。大勢いた弟子達の中でも、弁舌にすぐれていたとされる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/富楼那

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


ソフィスト(古希: Σοφιστής、ソピステース、英: Sophist)は、ペルシア戦争(紀元前492年 - 紀元前449年)後からペロポネソス戦争(紀元前431年 - 紀元前404年)ごろまで、主にギリシアのアテナイを中心に活動した、金銭を受け取って徳を教えるとされた弁論家・教育家。ギリシア原語に近い読みはソピステースである。「sophistēs」という語は「sophizō」という動詞から作られた名詞で、「智が働くようにしてくれる人」「教えてくれる人」といった意味がある。代表的なソフィストにはプロタゴラス、ヒッピアス、ゴルギアス、プロディコス等がいる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ソフィスト

~~~~~~~~~~~~~~~~~~
思想・良心の自由(しそう・りょうしんのじゆう)とは、人の精神の自由について保障する自由権[1]。「思想・信条の自由」といわれることもある。

概説[編集]
精神の自由は、生命・身体の自由と並び、人間の尊厳を支える基本的条件であると同時に民主主義存立の不可欠の前提ともなっている[1]。思想・良心の自由は、それが宗教的信仰として表れるときは信教の自由、科学的真理の探究として表れるときは学問の自由、その外部への伝達として表れるときは表現の自由という形をとる[1]。
西欧諸国において思想・良心の自由は言論・出版の自由として捉えられ、また特に良心の自由は宗教の自由の内容あるいはそれと不可分一体のものとして捉えられてきた[1]。






日本[編集]
大日本帝国憲法(明治憲法)[編集]
大日本帝国憲法(明治憲法)には思想・良心の自由を特に保障する規定はなかった[1][2]。
日本国憲法[編集]
日本国憲法は思想・良心の自由について第19条に規定を置いている。
日本国憲法第19条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/思想・良心の自由


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



そもそも宣伝しなければ知りようが無いだろう
というもっともな意見はともかく

布教をしないとか宗教は個人の問題だとかは
考え方としては宗教が内面化している。
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この回答へのお礼

官僚並みの頭脳だそうですよ よかったですねえ。

ところでこれは回答ですかねえ?

お礼日時:2017/04/14 18:13

「人間は、必ず、死ぬ。

」と言う法則。
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この回答へのお礼

Thank you

人間は必ず死ぬ 今までそうだったし 今からも永遠に生きる人間はいない?

人間精神をコピーして永遠に残していくような事にならないでしょうか?

お礼日時:2017/04/14 18:10

?例外の無い「規則(ルール)」は無いではなかったかな。


法則だと質量保存の法則とか、エネルギー保存の法則などほぼ全てが例外は無いよ。
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この回答へのお礼

Thank you

エネルギー保存の法則には例外はないのでしょうか?

ビッグバン以前はエネルギーはどうなっていたのでしょうか?

1000億年後エネルギーはどうなってるのでしょうか?

お礼日時:2017/04/14 18:08

「法則」なんて概念に既に例外があるので、例外のない法則はありません。

以上ですよ。

全ての例外を含む法則に例外はありません???
「人間は真理を知ることが出来ない」という法則の例外が真理に当たります???

無益な言葉遊びに陥るんですよ。
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この回答へのお礼

Thank you

法則という概念に例外がありますかね?

法則という言葉が完全ではないのでしょうか?

法則なんて真理ではないのでしょうか?

全ての例外を含む法則と言うのがあるのでしょうか?

真理を知る事は非常に難しいですね 無理ですかね?

お礼日時:2017/04/14 18:05

「例外のない法則はない」という法則

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この回答へのお礼

ありがとう

「例外のない法則はない」という法則 に例外はないのでしょうか?

お礼日時:2017/04/14 15:33

論理学で考えろ。

死ぬまでほかの事を考えるな。
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この回答へのお礼

ありがとう

なんか自信満々というか 死ぬまでほかの事を考えるな と言うのは極端ですねえ。

論理学、数論理学には例外のない法則があるんですかね。

お礼日時:2017/04/14 17:58

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Q人間とは 何でしょうか?

そもそも人間とは何でしょうか?

実存とか精神とか 性善説とか性悪説とかありますが

人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

Aベストアンサー

> 人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

それを探求し続け、現時点では、その末にすべてを解明する可能性がある、宇宙で唯一の生物・・と言うところじゃないですかね?

もし仮に、「神」とか「宇宙の意思」なんてのが存在し、その意思のもと、人類が何らかの目的とか、何らかの使命を帯びて誕生した生物であれば、宇宙や生命科学の真理に到達するか?
たとえ到達せずとも、その手前くらいまでは辿り着くと思いますが。

やっぱり神などはおらず、人類は特に目的なども無い生物なら、地球と言う惑星に偶発的に発生しただけの生物であって、いずれは死滅する存在じゃないかと。
そんな生物であれば、「人間とは?」などと大上段に考察する必要もなく、多少の知性などはあるものの、本質的にはアメーバーなどと大差は無い生物ってことで良さそうです。

一方、近年の宇宙科学とかでは、「ホンマかいな?」と言う様な発見や研究が多いのですよ。
たとえば、「重力は小さすぎる」なんてのが証明されて、「その力はどこに消えてるのか?」などが研究されるたり、「未知なる『第5の力』がある!」なんてことも言い出しました。
そうなると、高名な学者が「宇宙は少なくとも5次元以上で構成されているが、人間の脳は、まだ3次元までしか感知,認識し得ない」みたいな説を唱えたりもしています。

何か「言いたい放題」みたいな感じなのですが、1つのことが判れば、謎は深まるばかりと言う様相で。
ご質問も、それこそパスカルの時代から存在しつつ、誰も明確に正解を答えられない問いですが。
結局のところ、「人類はまだ、何も判っていない」に等しい状況と言えそうです。

もう一つ、興味深い説があって、宇宙には人類以外の知的生命体がいる存在は、否定されつつあります。
これはちょっと寂しい気もする説ですが、これが事実なら、冒頭の「真理を突き止められる可能性がある、宇宙で唯一の生物」と言うことになります。

また、上でも少し触れましたが、宇宙と脳には各種の関連性が指摘されていて、まあ人類も宇宙の子ですから、関連があって当然ながら、何らか「宇宙の意思」的なものがあって、その様に作られているのかも知れません。

いずれにせよ、人類は未だ「人間とは何か?」に対し、明確な答えを得ておらず。
その答えを得るためには、まだ戦争などの愚かしい行為も繰り返しながら、もっと科学技術などを高める必要性はありそうだし。
戦争などとは無関係に、宇宙や生命科学の真理を探求できる状態になる頃には、完全なる平和なども手に入れねばならないです。

現代に生きる我々に出来ることは、我々の子孫が真理を解き明かすことを願い、我々の時代を少しでも良くする努力をすることではないか?と思います。
また、もし真理に到達すれば、それが「宇宙の意思」そのものと言えそうで。
「人類こそが、宇宙の意思であった」と言えるのかも知れません。
あるいは、人類の産物であるAIなどが、人類の意思を引き継いで、それを実現するのかも知れませんが。
出来れば、私のDNAもちょっとは受け継いだ、人類であって欲しいです。

> 人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

それを探求し続け、現時点では、その末にすべてを解明する可能性がある、宇宙で唯一の生物・・と言うところじゃないですかね?

もし仮に、「神」とか「宇宙の意思」なんてのが存在し、その意思のもと、人類が何らかの目的とか、何らかの使命を帯びて誕生した生物であれば、宇宙や生命科学の真理に到達するか?
たとえ到達せずとも、その手前くらいまでは辿り着くと思いますが。

やっぱり神などはおらず、人類は特に目的なども無い生物なら、地球と言う惑星に偶発的に...続きを読む

Q無謬性

人間は本然的に無謬性を求める、と言えると思います。
無謬性という概念は「信仰」につながると思います。

人々はかつては宗教にそれを見ました。「聖書の無謬性」などという言葉もあります。

現在は科学にそれを見ているのではないでしょうか?
わからないことがあるにせよ、科学的に証明されたものは「絶対に正しい」、と。

あるいは、人間は間違えるが、AIは絶対に間違えない、と。
そこから、AIに対する「神格化」の感情が急速に高まっていると思います。

しかし、AIは設定された条件内においては間違いはないと思いますが、その「条件」
の中に誤謬があるいは不完全性がありうると思います。

また、科学が証明したものは、宇宙の中のどの位置にあるのか?つまり、科学そのものの
無謬性は証明できるのか?

無謬性ということについて、あるいは無謬性と信仰について、無謬性と科学について、そ
の他、なんでも結構です、よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

伝統的宗教が歴史の中で
人間にとっての社会を維持するために
直観的に正しいと思われる価値観の正当性の拠り所として
神もしくはそれに類する存在を土台にした無謬性を構築する必要があった。
というのは科学が未熟な時代を経ながら進歩せざるを得なかった
人類にとって避けて通ることができなかった必然の過程だと思います。
現代という時代は
そうやって積み重ねられた歴史の成果としての科学という客観的な拠り所によって
無謬性を検討できる時代にはなっていると理解していいのではないでしょうか。

物質科学の隆盛期にこじれた宗教と科学の関係も
物質科学の先に展開することが可能になった精神科学に照らして
整合性を検討することで新たな展開も期待できると思います。

科学の世界における無謬性においても人間の認識能力の構造的限界というものがあって
その閾値以下の部分においては信仰という拠り所の必要性はなくならない。
そしてその領域の拠り所を求められる局面もなくならない。
今のところそんなふうに考えています。

Q不完全性定理って 現実から離れた数学としての真理なのか? それとも 現実に即しているのか?

次の解説をめぐって 二つ目に引用した事例に沿って問います。

▲ (哲学的な何か、あと科学とか:不完全性定理) ~~~~~~~~~
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html
不完全性定理は述べる。

「どんな理論体系にも、証明不可能な命題(パラドックス)が必ず存在する。
それは、その理論体系に矛盾がないことを
その理論体系の中で決して証明できないということであり、
つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない」

▲ (同上) ~~~~~~~~~
たとえば、ボクが、「ボクは嘘つきだ」と言ったとする。

もしこの言葉が「真実」であれば、ボクは「嘘つきである」ことになるが、
そうすると「嘘つきなのに、真実を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。

一方、この言葉が「嘘」だとすれば、
ボクは「正直者である」という事になるが、
そうすると、「正直者なのに、嘘を言った」ことになってしまい、
おかしなことになる。

結局、ボクの言葉が、真実でも、嘘でも、
おかしなことが発生してしまうのだ。
~~~~~~~~~~~~~~

☆ おそらく取り上げた事例がふさわしくない――つまり ただの論理だけで
現実のものごとを扱っている――と思うのですが このタトへなら 

 《ウソをつかない人間はいない》

と返しておしまいではないのだろうか?

定理がどうの数学的真理がこうのと言うまでのことではないのではないか?




具体的に見ても その《ボク》が生きて来ている歴史においてその振る舞いを
実際に捉えてみれば すぐ分かることだ。つまり: 

 《ほんとうのことを言う場合もあれば ときにはウソをつくこともある》

と。あるいは:

 《社会に生きる人間であるなら ホンネは違っていても止むを得ずタテマヘ
 に従わざるを得ないと――おのが心で――判断し そのタテマヘに従うこと
 を 現実的なホンネとする》

ということ。――こうではないか?




もし そうだとしたら・この限りで このゲーデルの定理は 形式主義の数学
がそうであるように 現実から遊離した世界の中での或る種の真理をこそ・そ
してそれのみを扱っている・・・ということなのか?

それとも そうではなく まさしく人間の現実世界に対応している真理なのか?

どうなのでしょう?
なお ヰキぺの解説を見ても数式がよく分かりませんので 言葉で表現しても
らえればさいわいです。

次の解説をめぐって 二つ目に引用した事例に沿って問います。

▲ (哲学的な何か、あと科学とか:不完全性定理) ~~~~~~~~~
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/fukanzen.html
不完全性定理は述べる。

「どんな理論体系にも、証明不可能な命題(パラドックス)が必ず存在する。
それは、その理論体系に矛盾がないことを
その理論体系の中で決して証明できないということであり、
つまり、おのれ自身で完結する理論体系は構造的にありえない」

▲ (同上) ~~~~~~~~~
たとえ...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは、概ね回答は出揃っているのですが、2、3・・・


 まず、第1不完全性定理とは、

「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。」のことです。


 以下は、言葉の定義です。

・無矛盾性:公理自身が矛盾していないかどうかのこと。なお、このω無矛盾は後のロッサーにより、単なる”無矛盾”まで、拡大されました。

・完全性:ある一組の公理から,そこに含まれるすべての命題を導くことができるというもの。

 逆に言いますと、

・不完全性:ある一組の公理から,そこに含まれるすべての命題を導くことができないものが必ず1つは残ること。を意味します


 この定理は、「真」として、証明されてしまっていますので、どうしようもありません。



 そこで、

(1)不完全性定理って 現実から離れた数学としての真理なのか? それとも 現実に即しているのか?

 そもそも、「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば」、という前提がありますが、”この世界”がそのような無矛盾でありえないと思います。事実様々な公理(らしきもの)がありますが、これらが一切矛盾せずに(当然、例外などはあってはなりません)であるのか?と問われれば、「偽」だと考えられるからです。


(2)つまり ゲーデルのこの定理を出して 哲学カテの哲学問題についての回答とする場合が あとを絶たないように見られます。

 そもそも、人間が作ったものには、限界がある、もしくは、人間理性には限界がある、ということを言いたかったのだと思います。少なくとも、当初の哲学者は、です。ですが、これが拡大解釈されるようになってしまったのだと思います。


(3)無矛盾で出来ている公理系で 真偽を決定することができる場合もある。一部で 決定できない場合がある。
 ということらしいですね。

 はい、そのようになります。”少なくとも1つは決定できない場合がある”ことを証明したものですから。




 以上、ご参考まで。

こんにちは、概ね回答は出揃っているのですが、2、3・・・


 まず、第1不完全性定理とは、

「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。」のことです。


 以下は、言葉の定義です。

・無矛盾性:公理自身が矛盾していないかどうかのこと。なお、このω無矛盾は後のロッサーにより、単なる”無矛盾”まで、拡大されました。

・完全性:ある一組の公理から,そこに含まれるすべての命題を導くことができるというもの。

 逆に言いますと、

・不完全性...続きを読む

Q人びとはなぜ神のことが分からないのか

1. 神などはいるもんかと言う。
――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことに
よって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。

2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。
――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形にな
る。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。

3. 神は 精神だと言う。概念だと言う。
――けれども 精神も概念もは 人間のもの。自然本性としてそなわったも
の。《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経
験事象であるのか。



人びとはどうして神のことが分からないのか?

Aベストアンサー

遅くなりました・・・すいません^_^

悪の体験をすることも、望んでいる・・・という所ですか・・・

正確には、望んでいるとはいえないのですが・・・要するに、望んでも、望んでいなくともない・・・という事です

神には、望みはひとつしかありません
・・・それば、すべてを経験することです、いい事も悪いことも含めた、すべて です!

だから、神は、価値判断もしないし、優劣もつけません、ただ経験を観察したい・・・という希望を持っています

だから、すべての人のあらゆる行為や考え方を否定せず、ただ見守ります

その人が、悪事を働く場合も、否定をしません・・・なぜなら、その人が良い行いをする為には、正反対の悪い事とは、なんなのか・・・という経験も必要だからです

だから、神は最終的には、良い人を支持するのでしょうが、途中経過としては、悪の経験も必要だと考えます

正義を知る為には、悪を知る必要があります

ちょっと、違ういいかたをすれば、例えば、よく思うのですが、私は、いつも、ワガママな人とかに、あった場合、イライラしてしまいます

そして、自分を人として、ダメな奴だな〜〜と自己嫌悪におちいります

でも、そんなダメな奴でも、天国に行って、いい人のなかにいれば、それなりに、徳がある人の様な振る舞いはするだろうと思います

しかし、天国の様な場所では、悪い人がいませんから、こんな私でも、徳のある人の様な、振る舞いをしますが、この世に戻って、イライラする人に会えば、また自己嫌悪するような、行動を起こします

つまり、私には、自己嫌悪する様な、要素があるにもかかわらず、それを出させる対象物がなければ、その状態には、なりません

言い方を変えれば、その人に、悪の心があっても、それを引き出す 要因が無ければ、その人は、悪の心を出せません

では、悪の心を持ったまま、それに気づかずに、過ごすのと、悪の心をしっかり認識する為に、悪の経験をするのと・・・どちらが、良いのでしようか?

もし、不本意ながら、自分の悪をしっかりと受け止めたい場合は、悪の経験も必要になります

だから、神は、悪も否定しません、
よく、神と聞いて、慈悲あふれる神を想像する方は、神の半分しか理解していない といわれます

だから、悪を望んでいる訳ではないですが、否定している、訳ではありません・・・どちらも、成長する為に必要な要素なのです・・・

遅くなりました・・・すいません^_^

悪の体験をすることも、望んでいる・・・という所ですか・・・

正確には、望んでいるとはいえないのですが・・・要するに、望んでも、望んでいなくともない・・・という事です

神には、望みはひとつしかありません
・・・それば、すべてを経験することです、いい事も悪いことも含めた、すべて です!

だから、神は、価値判断もしないし、優劣もつけません、ただ経験を観察したい・・・という希望を持っています

だから、すべての人のあらゆる行為や考え方を否定せず、た...続きを読む

Q▽1+1+1=1?

日本では 永山基準がというのがあって、通常、3人以上殺人を犯すと死刑になります。
しかし、
「なぜ死刑って二人か三人殺したらなんですかね。人一人殺したら死刑でいいと思うんですよ。」
という声も多いです。
でも、その論理だと 1人殺したのと3人殺した差は何だと思いますか?

Aベストアンサー

1人殺すのと3人殺す事の間に、何か明確な線引きがある
わけではありません。
特に、日本の法律において、受刑の目的は罰や報復ではなく、
更生なので、よほどの確信犯や再犯が確実でない限り、
「更生の原則」を覆すほどの裁定はなされないのです。
その点、3回も繰り返すならば、「実態も分かっており、
再犯の可能性も十分な、強い信念を持った確信犯だ」と
判断しても、世間は納得すると考えられたのでしょう。

Qロリコンを殺す事に反対する理由は何ですか?

小児が被害となった性的殺人事件が起こるたびに、ロリコンの検査をして見つけるべきという意見が出ます。しかし、多くの意見が検査のみで、検査後にどうするのか?という話が書かれません。

そして、検査後に殺害することを明記すると反対意見が多くなります。
何故なのでしょうか?

小児性愛というのは、遺伝や幼児期の体験、個人の置かれている状況などで発現する異常行動です。そして、それらを発見する方法は既に脳マッピング、遺伝子検査、幼児期の体験、等で確認されています。だから、検査して発見することは簡単です。

問題は、発見後にどうするか?です。
社会は隔離や治療を求めるでしょうが、治療はホルモン注射や外科手術も含めて効果は薄く、ホルモンバランスを崩すので日常生活が難しくなります。隔離しようにも、犯罪を行なっていない人間を拘束する必要がありますし、暴動を防止するために一定の自由や生活レベルを与える必要があります。
しかし、残念なことに両方とも行なえる人員や資源、予算の余裕は、日本にありません。
まして、変質者の生かすために税金を支払うのを人々は嫌がるでしょう。

そこで、彼らを発見しては収容所で駆除するのが、もっとも現実的だと思われます。

この中のロリコンとは、予備軍も含まれています。
予備軍とは、脳マッピングでロリコンの診断を受けた人間の直系の血縁者(父、母、息子、娘)、幼少時の体験(児童虐待やイジメの被害者)を有する者を意味します。

なぜ、反対する人が多いのでしょうか?

小児が被害となった性的殺人事件が起こるたびに、ロリコンの検査をして見つけるべきという意見が出ます。しかし、多くの意見が検査のみで、検査後にどうするのか?という話が書かれません。

そして、検査後に殺害することを明記すると反対意見が多くなります。
何故なのでしょうか?

小児性愛というのは、遺伝や幼児期の体験、個人の置かれている状況などで発現する異常行動です。そして、それらを発見する方法は既に脳マッピング、遺伝子検査、幼児期の体験、等で確認されています。だから、検査して発見...続きを読む

Aベストアンサー

今回もまた色々と前後しているのでご了承を。

>質問本文を精読することをお勧めします。

意味不明。
あなたは質問本文でもロリコンとその血縁者を駆除しろ殺せと主張しているではないか。
そしてそのままお返ししよう。

立ち返ってみよう。

>(最初の質問文より)それらを発見する方法は既に脳マッピング、遺伝子検査、幼児期の体験、等で確認されています。だから、検査して発見することは簡単です。

以前にも同じような質問をしているようですが、その時もこの検査で簡単に見つけられることに関して懐疑的な意見がありました。
私も不勉強なので聞いたことがない。
ロリコンを簡単に見つける検査があるのなら、信頼の置ける情報ソースを示して欲しい。

>(最初の質問文より)特定の職業から除外しよう、という意見が出ます。

これは確かにあります。
学校の教師のように子供と直に接する機会の多い職業です。

>また、それらの嗜好を有する人間を社会から排除しよう、子供の近くから排除しようと、いう意見も上がります。

子供から遠ざけると言う意見はあっても人間社会から排除しようとする意見はありません。
あなたが都合の良い解釈をしているだけです。


>社会が許せないから、社会が排除を求める存在を最終的な解決法を問うているだけです。性的嗜好に合致する、しないは関係ありません。

これは異な事を。
多くの一般的な人にとってロリコンは気持ち悪いと言う感情はあるだろう。
そして子供に直接接する教師のような職業からロリコンは就けないようにした方が良いという意見もあるだろう。
しかしロリコンそのものを社会から抹殺せよと言う意見は無い。
駆除しろ、殺せと主張しているのは老け専のあなただけだ。
普通の男からすれば老け専も薄気味悪い。
婦女暴行のニュースを見ていると、たまに結構な年齢の女性が被害者だったりする。
幼女と熟女を同列に語るのは確かに難しいが、それでも女性やその家族が受ける心の傷は計り知れない。
となれば、ロリコンだけでなく老け専も駆除の対象にすべきでは無いか。
当然あなたも含まれる。

>憎いから、気に入らないからです。彼らの存在は種の存続を危うくします。ただ、私は否定し、嘲り、侮蔑しますが、それは法律の範囲内でしか行ないません。

これまた御都合主義なことで。
では何故ロリコンだけは法を無視しているのか。

>(最初の質問文より)なぜ、反対する人が多いのでしょうか?

老け専のあなたにはロリコンの葛藤が分からないように、どんなに説明しても絶対に理解できないでしょう。

今回もまた色々と前後しているのでご了承を。

>質問本文を精読することをお勧めします。

意味不明。
あなたは質問本文でもロリコンとその血縁者を駆除しろ殺せと主張しているではないか。
そしてそのままお返ししよう。

立ち返ってみよう。

>(最初の質問文より)それらを発見する方法は既に脳マッピング、遺伝子検査、幼児期の体験、等で確認されています。だから、検査して発見することは簡単です。

以前にも同じような質問をしているようですが、その時もこの検査で簡単に見つけられることに関して懐疑的な...続きを読む

Q現代では何かを哲学的に論ずることは難しいのでは・・・?

100年前なら神や宗教、人間の心みたいな部分は直観的な哲学に頼るしかなかったから哲学者による研究が第一だったと思いますが、現代では神や宗教という概念すら科学的に発生原理がおおよそ理解されてきてしまっています。


つまり、これを哲学的に論じようとするならば、その科学的側面を具体的に理解したうえで「それは間違ってる可能性がある」として新たな命題を出していく必要がありますが、普通の人がその科学的側面を把握するのは非常に難しい。


結果、科学的側面を無視したうえで論ずるしかなくなってしまってるただの哲学好きが大半で、それは哲学ではなくただの「無知の思い込み」にしかならないと思います。


よって、極めて博識な哲学者でもない限り、現在では哲学から研究するというのは難しいのではないかと思うのです。


もちろんあらゆる学問に哲学的な考え方は必要であることはわかっています。
しかしそれはそれぞれの分野で哲学を用いてるのであって、哲学者が何かを論じているのではないです。


そんな現代でも、「哲学者」と呼べる人はどのぐらい居るのでしょうか?

100年前なら神や宗教、人間の心みたいな部分は直観的な哲学に頼るしかなかったから哲学者による研究が第一だったと思いますが、現代では神や宗教という概念すら科学的に発生原理がおおよそ理解されてきてしまっています。


つまり、これを哲学的に論じようとするならば、その科学的側面を具体的に理解したうえで「それは間違ってる可能性がある」として新たな命題を出していく必要がありますが、普通の人がその科学的側面を把握するのは非常に難しい。


結果、科学的側面を無視したうえで論ずるしかなくな...続きを読む

Aベストアンサー

今の哲学って「へ理屈」との違いは有りますか?
数学・物理学・化学・天文学・地学・論理学・宇宙論・生物学・・・、これ等は哲学から分離・独立した分野です。

それらが独立して抜けて行った今の哲学には何が残っているのでしょうか。

現代原子物理学、数学の一端を担った、ラザフォード、ボーア、リンデマンは哲学科出身です。

数学科、物理学科は無かった。全てが哲学科に属していた。
僅か、百年位前の話です。

Q《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》とは どういう意味か

1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。

2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。


◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~

3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。

4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思います。

5. むろん、どちらも、その大元を辿れば1次元の拡がりをもつ弦( 超
弦)であると推測されるところまで来ているようですが、では、その超弦
は何からできているのか、ということになるでしょう。

6. つまり、理由が分かったとしても、その理由に対する理由が永遠に
付きまとうわけなので、永遠に不可知と言わざるを得ません。

7. よって、

  「人智の及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさ
  せる力)に起因して我々は生まれた。( A )」

を定理として認めざるを得ない。

8. この場合、

  「我々は [ 人類の一員としての我 ] でありさえすれば摂理の要件を満
  たすに十分なのであって、 [ 自我としてのこの我 ] が存在しなければ
  ならない必然性は(摂理にとって)皆無である( B )」

7. よって、

  「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

という命題が結論として導き出される。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

8. まづ用語です。
《不可知》は 質問者としては 《知り得ないと証明されたものごと》と
定義しますが どうもここでは 《知り得るか知り得ないかが知り得ない
ナゾ》としての非知のことを指して言っているように思われます。
その点 どうなんでしょう?

9. 《大元の大元》としてここでは《ナゾ》という言葉で統一したいと
思うのですが (7)なる命題(つまり A )は 次のようにみちびかれ
ているのでしょうか?

9-1.(編集版A‐1) ナゾはナゾであり続けるゆえ それを《人智の
及ばぬ自然宇宙の絶対的摂理(=あらゆる事象をバランスさせる力)》と
呼び 同じくそのように説明する。

9-2.(編集版A‐2) われわれは ナゾによって・絶対的摂理によっ
て・あらゆる事象をバランスさせる力によって生まれた。

10. (8)の B なる命題について:

10-1. 《摂理の要件を満たす》とは どういうことか? すでにこ
の摂理によってわれわれは生まれて来ているのではないか? すなわち生
まれて来たときに 《[ 人類の一員としての我 ] でありさえ》しているの
ではないか?

10-2. 《 [ 自我としてのこの我 ]》が分からない。《[ 人類の一員
としての我 ]》と《自我としてのこの我》とは 別なのか? 別だとすれ
ば 《自我》について説明が欲しい。

11. (7)の C なる命題において 《我 や 彼》は どうなのか?
つまり おのおのが《[ 人類の一員としての我 ]》であるその人間のこと
か?

11-1. もしそうだとすると この命題で《彼は我であったかもしれ
ず うんぬん》というとき 一方では 《[ 人類の一員としての我 ]》どう
しとしては互いにその存在を共通のものとしていると言えると同時に 他
方ではなぜ――だからと言って――それぞれが互換が可能であるかのよう
な見方をしなければならないのか? という疑問がとうぜん起きる。

12. 果たして 命題 C は どういう意味なのか? つまり おのおの
の意志自由は互いに――社会的に相対的に――独立しているはずであり だ
からいわゆる個性があり得ると考えられるとき それらをめぐって 何を言
おうとしていると解釈すべきなのか? 

12-1. 人間は 人類として重んじられるが 一人ひとりの存在はど
うでもよいものだ――と極論して受け取らざるを得ないようにも感じるの
ですが 果たして どうなんでしょう?

1. 或る回答を引用して 問うものです。規約違反であれば したがい
ます。

2. 前々から分からなかったのですが ひとまとまりの説明を得ました。
なお分からないのですが 疑問を呈して問い求めをすすめ得ればと考えま
す。


◆ 《彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない》~~~

3. 我々の身体は原子からできているし、宇宙はブラックホールにより
誕生したのかもしれない。

4. しかし、その原子やブラックホールが何からできているのかは永遠
に不可知だろうと思...続きを読む

Aベストアンサー

#72です。

(ア)
>連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。

おっしゃっりたいことはよくわかります。
「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則・原因」という定義に対する批判ですね。
「法則・原因」はあるとしても、それによって、
★経験事象 A を顕現させている
とは限らない、ということなのでしょう。

私の場合、
★自然宇宙の絶対的摂理=あらゆる事象をバランスさせる力
というスタンスがあります。
卓袱台返しをするわけではなく、逆に言うと、
★あらゆる事象をバランスさせる力
が無ければ、宇宙・世界はバラバラにならざるを得ないはずなのだから、それを、
★自然宇宙の絶対的摂理
と呼ぶのは論理的であり妥当な思考だろう、ということ。
その上で、経験事象 A が
★自然宇宙の絶対的摂理
以外によって顕現しているとするのは極めて不合理なのであるから、
★「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則・原因」
のように定義したとしても何ら齟齬は生じない、という論理になるかと思います。

上の表現において、
★ならざるを得ない
★妥当な思考だろう
★何ら齟齬は生じない
などの見解が、その根拠と共に示されていると思いますが、それらは(今のところ)わたしにとって動かしがたいものであるようで、経験事象 A と、それを顕現させている法則・原因が、
☆非連続
であるといった視点をとることは、なかなかむずかしいようです。
やはり「見解の相違」という落としどころに来ているように思うのですけどね。

(イ)
>~~《物理現象⇒物理法則⇒その抽象化・純粋化》は 非連続を無
視していると見られてしまいます。
じつは それゆえにも――詭弁を弄すると映るかも知れませんが――《非
知》という想定を初めに持って来るのです。人間の思考としての投影作業
を この定義の仕方によって切ったのです。
ですから:
★ ただ、個人的には、これは「思考の停止」と位置づけます。
☆ に対しては 《非思考》を掲げるわけです。

ともおっしゃるわけですが、「思考の停止」を否定する必要はないという気もするのですけどね。
ここにきて、神と摂理の食い違い、つまり信仰と論理の問題。も生じてくるのかもしれません。
その場合、(本来の)信仰が思考停止であるとして、それは、むしろbragelloneさんにとっても本意ではないか、という印象も受けるのですが、その点についてはまた別の機会に譲るのが妥当なのでしょう。

(ウ)
>神をその限りで――シルシなる仮りの小世界における限りで―― 思考の対
象として扱っています。
けれども だからと言って:
★ 「神」がすでに思考対象として 認 識 さ れ ていることになる。
☆ ことは ありません。思考され認識されているのは あくまで神を指し
示すシルシとしての言葉であり その概念内容なのです。

ここも実によくわかるのですが、(イ)と同様、
★神と摂理の食い違い
についてつまびらかにしないまま論じるのは難しいように思います。
☆非連続
と前提するなら、たしかに
☆神は非知
と言う論理は成立するでしょうね。
この辺りの論理はおかげさまで腑に落ちました。
ただ、そうした前提が(神に対して)妥当か否か、という問題と、仮に妥当だとして、それを「絶対的摂理」にも適用することが妥当か否か、という2つが論点としてあると思われます。
わたしの場合、現時点では、とりあえず、後者については(見解の相違という形ではありますが)否定しつつ、前者については積み残しの状態と言えるでしょう。

#72です。

(ア)
>連続性は基本としてありません。地続きではありません。
あると見えるのは 人間の思わくです。哲学としての神論ではなく 
神観として広く人生観を成すような要素に成っているのかも分かりま
せん。神への甘えです。

おっしゃっりたいことはよくわかります。
「絶対的摂理=経験事象 A を顕現させている法則・原因」という定義に対する批判ですね。
「法則・原因」はあるとしても、それによって、
★経験事象 A を顕現させている
とは限らない、ということなのでしょう。

私の場合、
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Aベストアンサー

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているとは言えない」ということになります。(もちろん、その例が荒唐無稽なら別ですが。)
逆に、貴方の質問の回答として「賛同した」と言うには、「全ての『しかるべき反論や批判を行わなかった人』が賛同しているという根拠を示す必要がある」のです。もしくは、「賛同していない例は存在しない」ということを示すのでも良いでしょう。

また、あくまでも「可能性」であって、事実とは限らない、というご指摘かと思いますが、何しろ、私は「しかるべき反論や批判を行わなかった人」本人ではありませんので、可能性以外を指摘しようがありません。
「事実」以外不要、とのことでしたら、ご質問文に「私の過去質問に回答をした人、または、回答しないまでも見たことのある人限定で」と書くべきでしたね。

貴方の求める回答は何でしょうか?
互いに意見を戦わせ、議論をしたいのだと受け取りましたが、貴方の態度はそれと正反対に感じられます。
もしも、過去質問においてもそのようなやり取りしかないのであれば、回答者様たちは、それを不毛に感じて「しかるべき反論や批判」をする意欲を失ったのでは・・・と思いました。
まあ、過去質問を拝見してませんので、単なる感想です。

この回答にどのような返信をいただいても、私はもう回答はいたしません。
さすがに少々疲れました。
ご了承ください。

No.25です。
前回でもう終わりにするつもりでしたが・・・

> ☆ この回答は 残念ながら 回答には成っていないと申し上げなければ
> なりません。
>
> ただの可能性を――そしてそのひとつのみを――言い当てた。だけのもの
> だからです。

それはおかしいですね。
貴方のご質問は
「同じような内容で何度質問しても しかるべき反論や批判が出ないのは 賛同したということでしょうか」
です。
ですので、「賛同してない例」を上げました。
1件でも賛同してないという例が挙がれば、「全ての『しかるべき反論や批判...続きを読む

Q唯我独尊は治りませんか?

いろんなことを考えるのは自由ですね。
哲学についても同様です。

ただ、自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。
自分の考えも、他の人の考えも共に尊重していきたいものです。

孤独の中で考えていると、どうしても自分の考えだけが正しいという結論にたどり着いてしまいます。
そうなると、他人が馬鹿に思えてしまうようです。

どんな考えも自由ですが、他の違う考えにも耳を傾けたいものです。
そうでないと、誰にも理解されず、最終的には自分が疲弊していきます。

人生も半ばを過ぎると、唯我独尊はなかなか治らないものですか?

Aベストアンサー

記憶によると、「天上天下、唯我独尊」だと思いました。
詰まり、当時は色々な宗教が、ごちゃごちゃしてましたので、
「新しい価値観を、自分が切り開いていく。」みたいな意味合いで
理解していました。

それはいいとして、「唯我独尊」と釈迦の言葉と結びつける
必然性もないし、確かに「己を信じる。」と言う意味では、
良いのではないか、と思います。

問題は、「自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。」です。

少し謙虚に考えて、己の全ての知識、思考は、その源を
他者に依っています。

先ず、それを認めることが重要です。

教育を受け、書を読み成長してきたのであれば、それは
先人の知恵を頂いてきた事でもあります。
このことを謙虚に認めないといけない、と思います。
認めて初めて、他者に耳を傾ける事が、出来る。

哲学も同じでしょう。
私は、哲学で、路傍の石ひとつも動かせるわけでもなかろうに、と
思っていますが、それでも、存在を全く否定している訳でもありません。

しかし、独善的な論理構成と結論には、悲哀を感じます。

そういう人は、自分が受けてきた教育や読破した書の価値が
理解できていない。
どのように自分の血となり肉となったか、の理解も出来ていない、と
思っています。

まあ、病気なんだと思っています。

記憶によると、「天上天下、唯我独尊」だと思いました。
詰まり、当時は色々な宗教が、ごちゃごちゃしてましたので、
「新しい価値観を、自分が切り開いていく。」みたいな意味合いで
理解していました。

それはいいとして、「唯我独尊」と釈迦の言葉と結びつける
必然性もないし、確かに「己を信じる。」と言う意味では、
良いのではないか、と思います。

問題は、「自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。」です。

少し謙虚に考えて、己の全ての知識、思考は、その源を
他者に依っています。

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