これ何て呼びますか

1. まづ 神は無いという信仰をお持ちのみなさんには むしろ一般論と
して 神には《人間に対して意志を見せるつもりはない という意志》が
ある。とお伝えしましょう。

2. ふつうは われという一人の主観の内において〔のみ〕 神はわれに
その意志を示すことがある・・・とわが主観が思ったとしても 誰からも後
ろ指をさされるということはない。と考えられる。

3. 神とわれとは タテの関係であり われと他のわれとは ヨコの関係
である。

4. タテの関係が 信仰とも呼ばれる《非思考の庭》なる動態である。
ヨコの関係は 《思考の緑野と感性の原野》とでマジハリ(交通)をおこな
う社会的な人間関係である。

5. ちなみに ヨコの関係なる場に 信仰から脱皮した宗教が棲息してい
る。
宗教は 非思考から思考に移っているので 言わば《信仰という蝉の抜け殻》
である。オシヘとは そういうカスである。

6. で要するに 神に意志があると見るのは 非思考の庭なる信仰にあっ
ての話であり その場合のみである。

7. もし 《われ ‐ われ》なるヨコの関係において 神には意志があると
成ったとすると たとえそうだとしても 直接の意味は生じない。タテとヨ
コとは 直接のカカハリを持たない。タテは 非思考なのだから。

8. ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基
本的に神についての感想やまた思想としての話に限られる。 神論や信仰論
〔ましてや宗教〕といった搾りかすと 生きた神や生きた信仰とは 別です。

9. つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観
が見ているとしても その神の意志は お呼びではない。
フクシマは 神罰だといった夢物語にしかなりません。

10. それでも――つまり いま述べた話の全部をもってしても それで
も――わが主観なる非思考の庭にわが固有の時を憩いながら過ごすとき 神
は この世界のすべてのものごとをつうじて われにつねにメールを送って
来てくれていると思ったとしても 何の問題もないでしょうね。(読めるか
どうかの問題がありますが)。

ご批判を歓迎します。(率直に考えるところにしたがって 応答します。つ
まり反批判をもおこないます)。

A 回答 (10件)

神と人類はタテの関係にあり、神は人類にとって、父や母のような存在である、という事は認めておられるようですね。



では、もしあなたが父なる神であるならば、人類に自分の意志を示したいと思われないでしょうか?

人間の親子でも、共に生活できなくなったら、小さな子供であっても再び会えるように、名前や住所、手紙を残したいと思うものですよね。

神も、人類にご自分を知ってもらいたいと思い、人間に聖書を書かせ、ご自分の意志が何であるかを知らせておられます。

知りたい意欲のある人は、聖書を学んで神のご意思が何であるかを知る事ができるようになっているのです。

その証拠に、
聖書は宗教家などによって全滅の危機にさらされてきましたが、今でも、現代の人が理解して読める状態を保っている。

さらに、神が全ての人に自分を知らせたいと思っておられるので、地上のほとんど全ての人が自分の理解できる言語で聖書を読む事ができるようになっている。

神からの手紙である聖書を、神が読んで欲しいと思っていなければ、このような状態にはなれなかったはずです。

神はご自分の意志を、全ての人に知らせたいと思っておられます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 神と人類はタテの関係にあり
☆ 神は アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神であると語られて
います。人類の一人ひとりの《われ》と タテの関係を成しているので
す。

人類といったひと絡げの言わば頂点にくらいするといったことでは決し
てありません。そのほうが 組織宗教にとっては都合がよいのでしょう
が。

★ 父や母のような存在である
☆ ことさら違うということもおかしいですが でも分かっておられな
いとすれば 述べます。

これは あくまでもタトへです。神は 人間ではなく その経験世界に
おける男女の性別があるわけではないからです。



★ 神も、人類にご自分を知ってもらいたいと思い、人間に聖書を書か
せ、ご自分の意志が何であるかを知らせておられます。
☆ だから タテの関係が 生きたものになっているかと言えば 必ず
しもそうではありません。

イエス・キリストが登場してからは すでに――もともとアブラハムに
とってそうであったように――個別の人間としての《われ》に向けて世
界のあらゆる現象をつうじて 言わばメールを送ってくれている。

ただ それに気づくかどうか。また気づいても それを読めるかどうか
という問題は のこりますが。



神は 普遍神です。神と言えば それ以外にはありません。

ですから ひとり聖書には限らないのです。

聖書 聖書と言いますが 《文字はころし 霊は生かす》です。この文
句の起こり自体は 別のことを言っていましたが いまでは 神を知れ
と言っておしえることはなくなっているのです。

お礼日時:2017/04/28 15:43

否定も肯定もしません。

神は、必要とする人には存在し。
そう感じない人には、必要としません。主観的に見ても、わかりません。
神にもすがると、言いますが、その個人個人の心の価値基準では、ないでしょうか?
神も仏も居ないのでと、言う人には存在意義が、ありません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

おっしゃることは分かりますが――ふつうに一般の人びとの見解を
述べておられる―― 哲学カテとしては 別の視点もある・・・の
ではないか?


たとえば 神は 人間が神を必要とする場合も そんなのはいない
・お呼びぢゃないと突き放す場合も 〔神は〕まったく変化があり
ません。人間がいかにののしっても 神は痛くも痒くもありません。


神は 願い事があれば何でも願いなさいと語っています。何かそこ
に条件があるわけではありません。

まったく自由に 子が父に・あるいは母に対するように 《おねだ
り》をすればよいわけです。

神とわれとのタテの関係について 人びとはあまり注意を払ってい
ないように見受けられます。

お礼日時:2017/04/27 22:40

神は、人間の心には実在しますが、現実世界では、信仰に神がいるかも知れません。


弁神者とイエスやアッラーは、言えるのでしょうか?
イエスは、ガブリエルから神の心理を伝えられ、アッラーは、ジブリエルからと聞きました。神に意志が、あるなら、大震災前から神の警告があるはず、つまり神は人間の心に、宿り、解釈は、人それぞれと、思うのですが?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 神に意志が、あるなら、大震災前から神の警告があるはず、
☆ というのは おそらく厳しすぎるようにわたしには 思われます。

ただし:
★ つまり神は人間の心に、宿り、解釈は、人それぞれと、思うので
すが?
☆ ということですね。《解釈は 人それぞれである》こと。これで
哲学らしくなると思います。


言いかえると わたしたちは 一人ひとりそれぞれが 神からのメー
ルを しかもいつも もらっているかも知れません。

でも 気づくかどうか。そして 気づいたとしても 読めるかどうか。
という問題があるのではないでしょうか。

取りあえずそのように考えます。

お礼日時:2017/04/27 21:52

「私は、妄想の中で生きていて、神の存在と、意志を、妄想している。



「人間(他人)と、神、信仰、について、話しても、意味が無い。」

「妄想は、妄想の中でこそ、存在するので、お互いの妄想を、
 客観的に、論ずることは、無意味だ。」

・・・・と、言う意味で、よろしいのでしょうか?

アホくさ。
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この回答へのお礼

誤解等をありがとうございます。

いえ。失礼しました。ご回答をありがとうございます。


★ 「私は、妄想の中で生きていて、神の存在と、意志を、妄想
している。」
☆ 《妄想》は 人間の感性の原野および思考の緑野において起
きる・また起こす心的現象です。

神は 非思考の庭にて ちらっと思いの中に見たか見えなかった
かする非知なるナゾです。

この人間たるわれと そして 神とのカカハリが いま問題とな
っています。神に意志があるか? と。

どうでしょうか。質問者の捉え方は すでに趣旨説明として述べ
ています。したがって その中身についてコメントをどうぞとい
う問いになります。



★ 「人間(他人)と、神、信仰、について、話しても、意味が
無い。」
☆ 端的に言って 神とわれとのタテの関係は――《わが固有の
時》でもありますから―― われと他のわれとのヨコの関係とは
直接のつながりが ない。こういう捉え方をして問うています。



★ 「妄想は、妄想の中でこそ、存在するので、お互いの妄想を、
客観的に、論ずることは、無意味だ。」
☆ 《非知なるナゾ》は――分かりやすく表現すると・つまり表
現だけで捉えたとすると 神は―― われわれ人間の妄想であろ
うと まぼろしであろうと すべての思考と感性とをおおいつつ
むような恰好で おのおののわれとのカカハリをつくっている。

つまり わが固有の時でもありますが そこで得られたヒラメキ
なり何らかのイマージュなりを 人間の言葉として表出しさらに
自己表現するということは あり得ます。

この自己表現をわれわれは互いに自由に話し合っても かまいま
せん。しばしば有益であり得ましょう。

問題は すでに人間の言葉に表わされた思考内容と そしてタテ
の関係なる時間(非思考なる超時間)とは 直接のつながりは 
ない。ということだと見ます。

《われ》なる存在にあって大きくはその心的領域として つなが
っていると見られもしますが やはり非思考と思考とのあいだに
は 基本的にへだたりがある。こう考えます。

そのへだたりゆえに 良心・信教の自由といった公理がみとめら
れている。こうも考えられます。つまり 信仰と そしてすでに
思想となったオシヘをかかげる宗教とは 雲泥の差がある と。


こういった説明でよろしいでしょうか。

お礼日時:2017/04/25 08:21

質問は 要点を絞ってしろ


     だらだらと 何を聞きたいのかわからん

神 神 と言っているが
  神にも色々あるの知ってるのか

キリスト教の神・・・全知全能
神道の神・・・死んだら神になる
八百万(やおよろず)の神・・・何処にでも いっぱいいる
仏教の神・・・特徴ある 働きとしと捕らえる
八幡神社・・・農耕の神
天照太神・・・太陽神

 勉強して 出直せ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

読んで理解できるようになって また来てみてください。

お礼日時:2017/04/24 20:36

新興宗教の信者獲得 ですか。


神は、人が殺しあう のを、望んでおられるのでしょうか。
神は、人が成しえないこと を、叶えてくれる という、願望で
想像された ただの偶像。
神を信じるのは、己では何も出来ない 心の弱い証拠。
お解りですか。
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この回答へのお礼

お解りではありません。

そんなに神がいては何かが困るのですか?




ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2017/04/24 11:52

会話をしたいなら、聞かれたことに答えろ。



不正受給者、不法滞在者が書き込むところではない。
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この回答へのお礼

まともな社会生活を送っていないと自供したんですか。


標題について自分の考えを述べなさい。

考えたことがなかったなら いま趣旨説明を読んで考えてみなさい。


見解を述べるところです。


ご投稿をありがとうございました。

お礼日時:2017/04/24 11:13

>ヘソが曲がっているので 字面の表現は異なるのですね。



質問や会話に対する答えになっていない。
指摘されるとファビョるだけ、そのために書き込んだというのなら、
それは朝鮮人の理屈というものだ。

半島に帰ってハングルで書き込むがよい。
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この回答へのお礼

感動の余韻が のこっているのですね。


つまり あなたは初めから――批判ではなく―― いちゃもんを
つけているだけ。

あんた 日本人ぢゃないのか。



ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2017/04/24 11:10

批判というよりは不思議に思ったことは、



・御質問者殿が話題にしている宗教は何の「宗教」なのか。
※何の宗教にも属さない者(大半の日本人)には神は存在しない。

・どの宗教の何の神について訪ねているのか。
※少なくとも一神教、多神教で神の定義は違うことくらい日本人なら誰でも知っている。

・神が存在することを前提に何らかの話を進めることの意味、理由について。
※神が存在することを他人にも同意して欲しいなら書き込むところが間違っている。

上記の3つについて詳しく「屁理屈」を願います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 不思議に思った
☆ というのは 感動したということですね。

ヘソが曲がっているので 字面の表現は異なるのですね。

これが:
★ 「屁理屈」
☆ というものです。

お礼日時:2017/04/24 11:02

何が質問の主旨かわかりませんが、


「問題ないかどうか」でいえば、
あなたが何をお思いになっても特に問題を感じません。

あなたの考えに共感するかどうかで言えば、
専門用語が多すぎて理解できませんでした。
「非思考の庭」とか言われてもそれって一般用語じゃないですもんね。
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この回答へのお礼

造語についても特に説明をせよというわけでもないようです。

ので うけたまわったとのみお返しします。

ご投稿をありがとうございました。

お礼日時:2017/04/24 10:55

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