dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

○ 神とは何か?

§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。

質問者からの補足コメント

  • うまそうだ。


    昼まで 出かけます。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/04 09:00
  • №52つづき

    ★ 可能性ではなく原理的に、です。
    ☆ それは・つまり 原理的にという視点を持ち出すということは この世
    の中がすべては 相対的な関係として成り立っていると言っているのだと思
    います。

    それは そうなのでしょう。――でも それ以上のことは あまり言ってい
    ませんね。

    原理的にただしさ(変わらざる真理)が証明されないということは 相対的
    な世界で 可能性として妥当であったりなかったりするということなのでは?





    ★ 「マーフィー則」
    ☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。




    ★ では、・・・1/87のアメリカの鉄道模型です。
    ☆ 実際のがいいです。実際のなら 鉄道全般が 好きです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/07 10:36
  • 経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
    内容としてのものです。

    それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
    えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
    美があるという見方です。

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 07:24
  • ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。

    どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
    すみません。


    あらためて聞いてみます。

    No.66の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 08:52
  • 前野説は ダメです。

    能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。

    その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。

    ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
    たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
    指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。

    ところが
    ▲ 神は 生きている者の神である
    ☆ とイエスは はっきりと言っています。ですから 誤解もはなはだし
    い。

    プラトニズムと一緒にしてしまうという誤解をした人びとのその思想を批
    判しているに過ぎない。

    つまり 聖書を何にも知らない。阿呆です。

    こういう事例は 例外ではないのです。



    マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。

    これは とても科学する心だとは言えません。

      補足日時:2017/11/10 16:02
  • 1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
    な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
    説》が当てはまると。

    2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
    ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

    3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

    4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
    定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

    5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
    のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
    という意味では やはり神の霊なるチカラである。

    こういう問題なのでは?

      補足日時:2017/11/11 04:32
  • つづき

    ★ 我々は、時に、相手を思いやり、時に、意地悪をし、時に、相手の
    不幸を最高のイベントにします。
    ☆ それらすべてにわたって ひとの意志を踏みにじっていないかどう
    かや また同じことですが ヤマシサ反応に逆らっていないかどうか
    このリトマス試験紙が あてがわれます。区分されます。



    ☆☆ 抵抗も抗議も原状復帰も ナンセンスなことになります。
    ★ ~~~
    そのとおりです。
    ・・・
    手の付けようがないんですね。

    実際、兄貴のような考えでよくしていこうというのは不可能であると思
    います。
    ~~~
    ☆ ですから そういう自由度が――悪貨が良貨を駆逐するごとく――
    優勢であった時代・つまりじんるいの《前史》から やがて内なる開花
    とともに 《後史》に入ります。

    No.97の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 08:57
  • つづき

    ★ テトリス、コスモス、和の心の、神は調和的に人類の見方でした。正義の
    味方です。true justice.
    ☆ なぜ そうなりますか? 属性を考えて 真理・愛といったことを持ち出
    しましたが 《正義》は どうでしょう? 

    つまり 否定しようとはしませんが 愛が 愛憎を超えたものであるように 
    正義も 正邪を超えたものなのでしょう。


    ★ ボジョレーヌーボー開けて待っててね。
    ☆ ワインも何も 飲まなくなったなぁ。

    No.102の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 17:52
  • ▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
    丸山 圭三郎 (著)
    https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8 …

    ☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

    丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

    カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。

    No.156の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/16 16:35
  • 回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

    間違えました。すみません。

    特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
    間違えています。

    ご海容のほどをお願いいたします。



    (補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。

    No.176の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/17 14:12

A 回答 (290件中271~280件)

ーーーーーー


★ 宇宙の法則=神
☆ 宇宙は やがて――と言っても けっこう長い時間を経てでしょうが――
ほろびるんでしょう?
そういう法則が 神なんですか?
超自然 超経験 あるいは 人知を超えたところ でなきゃ おかしいでしょ。
ーーーーーー
ーー>
うーーん・・・
やっぱりちがいますよね。
超自然となると、自然法則は神ではない?
しかし、自然法則は神が制御している。
とすると、自然法則も神と言っていいのでは。
そこが違うから話が合わないんです。

関係ないけど、
では「神に酔える無神論者」スピノザのいう神は何でしょうか。
この人の言う神は自然法則ではないでしょうか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

▲ (ヰキぺ) トマス・ネーゲル・・・は一人称的な世界の眺め、つまり
自分が体験している主観的な今・ここからの眺めと、特定の中心を持たない
無中心の客観的な世界の記述、この二つの対比を通じて、問題を語った。
☆ という場合にも ネーゲルというひとりの存在とその意志ないし主観が
基本の単位体としてはたらいている。ということだ。


▼ …特定の一人物、特定の一個人、すなわち、ある客観的に無中心な世界
のなかの多くの人物のうちの一人にすぎないトマス・ネーゲルが、いかにし
てわたしであるということが可能なのか。
☆ と考えているあなたが 特定のひとりの存在であるからだ。

▼ …わたしがトマス・ネーゲルや、他の客観的に特定できる人物に対して、
もつかもしれないどんな関係も、偶然で恣意的なものにすぎないと思われる。
☆ だから どうなのか? 

そういう意志行為の相互関係が 現実であり 主観相互の社会的・歴史的な
縁起共生として ひとは生きている。

ただし その社会関係をさらにどう捉えどう受け留めるかは またおのおの
主観の意志行為であり 違いがある。



▼ 無中心の宇宙が、その限りない全時空のなかで、よりによってわたしを
生みだしたこと、しかもトマス・ネーゲルを生みだすことによってわたしを
生みだしたことを信じるのは奇想天外に思える。
☆ そう思うことは 自由である。そこ〔だけ〕には哲学としての解はない。


▼ 長いあいだ、わたしというものはなかった。しかし、ある時ある場所で
特定の物理的有機体が形成され、突如、わたしというものが、この有機体が
生きながらえるかぎり、いる。秩序ある宇宙の客観的な流れにあっては、主
観的には(わたしにとっては!)驚くべきこの出来事も、ほとんどさざ波す
らたてはしない。一つの種の一成員の実在が、こんな注目すべき結果を、ど
のようにしてもちうるのだろうか。
…わたしであるという唯一無二の特性をもつものを、宇宙がふくむようにな
ったということへの驚きは、かなり原始的な感情なのである。
☆ おどろきだけでは 哲学の解には成らない。たとえば 全世界・あらゆ
る時空間が われのことだと思えば済むことだ。

お礼日時:2017/11/04 08:06

把握しようとしている者が、把握されねばならないものでもある、


ということが哲学が行き詰まる理由であるのです。
「自分で、自分を持ち上げようとしている」
がわかりやすい「たとえ」です。
観測者は、不動の足場から観測できる立場ではなく、観測されるべき
対象でもあるからです。
足場がないのです。
足場を設定しないまま、整理できないかと考えたのは、フッサール
でしょうか?
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像19
    • good
    • 1
この回答へのお礼

▼ (ヰキぺ) シュレディンガー:はたして彼は、君とは違う誰か他の者
であったのだろうか。
☆ そのとおり。存在が(身も心も)別。意志の主体として 別である。

▼ 彼は君自身、すなわち君の自我ではなかったのか。
☆ 身にも共通性や類似性があるが 心ないし精神は 記憶(秩序作用)と
知解と意志との三つの行為能力を持つという成り立ちが ヒトにとって共通
である。

しかも 誰もが《われ》という同じ言葉で自称する。だから そういう問い
を発したいという錯覚に落ち入ることはあり得ます。

▼ …はたしてこの「誰か他の者」とは、明瞭な科学的意味をもったものな
のであろうか。
☆ 単位体としての存在の違いが――具体的には 身の独立性および意志の
主体としての違いが―― 科学的な意味だと言ってよい。

▼ …なぜ君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないの
か。
☆ そのように生まれついた。なぜ そのように生まれついたのか? これ
は 分からない。そして この分からなさは 誰にも共通である。

▼ もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君
にこの違い─君と誰か他の者との違い─をかたくなに見いだそうとさせてい
るのであろうか。
☆ ひとりという存在がである。意志ないし心としての主観が 違うという
ことだ。

同じことを言ったりおこなったりしたとしても それぞれは互いに主体とし
て意志を発揮している。そのことが違う。

おれの代わりに意志を発揮しておいてくれということは 成り立ち得ないこ
とに成っている。そういう人間の条件のもとに生まれて来ている。

▲ 人格の同一性( Personal identity: 異なる時間的(空間的)位置にあ
る人間が、同じ個人であると言えるための条件というのは何か、という形の
問い)
☆ 愚問である。

お礼日時:2017/11/04 08:02

ーーーーー


▲ 「なぜ今、ここなのか?」
・・・この地と図とは 全体の場として――その動態として――互いに一体で
あるかも分かりません。

ただ それだけのことでしょう。その中で 一人ひとりのわれがいると
いうことだと思われます。
ーーーーーー
ーー>
「なぜ私は、この私なのか?」
「なぜ私は、2017年にいるのか?」
「なぜ私は、日本に居るのか?」

すべての疑問は、考えている者(全体を把握しようとする者)と実際に
存在する者を区別することから生じています。どうしても、把握する者
を考えなければいけないからです。
しかし、その考え、把握せんとする者も実は把握されなければならぬ者
なんです。

ーーーーーーーーーー
▼ (パスカル) 私が生きるべき与えられたこのわずかな時が、なぜ
私よりも前にあった永遠と私よりも後に来る永遠の中のほかの点でもな
く、この点に割り当てられたのであるかということを知らない。
ーーーーーーーーーー
ーー>
パンセですね。
私はなぜあの人でなく、この人(A2、私)であったのか?
と同じですね。

ーーーーーーーーーー
☆ ぢゃあ その今の点と前後の永遠とをぜんぶ合わせた《永遠》とわ
れとは 一体であると思っていればよろしい。
そういう――ひとつの解ですが――事情なのだと思うということ。です。
ーーーーーーーーーー
ーー>
これは意味不明です。
「永遠と私が一体」というのが意味不明なんです」
哲学は、文学ではないので、詩的な表現は許されません。

>あとは 文学の夢物語でしょう。と哲学は 答えます。
ーー>
まさにそうです。

ーーーーーーーーーー
▼ (トマス・リード) 私の脳がその本来の構造を失い、その何百年
か後にその同じ素材で同じ知的なものが制作された場合、その存在は私
と言ってよいのでしょうか
☆ クローン人間としてのもう一人のわれだと捉えましょう。
ーーーーーーーーーー
ーー>
私とは何?
という問題ですね。
その私は前の私なのか?
細胞がどんどん入れ替わる、それでも私か?
ここでも、私に2つの意味があることが問題です。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像18
    • good
    • 1
この回答へのお礼

うまそうだ。湯気が立っているともっとよかった。
ご回答謝謝。

★ 「なぜ私は、この私なのか?」
☆ そのように問うているのが われです。

★ 「なぜ私は、2017年にいるのか?」
☆ 生まれて来ていままで生きているから。

★ 「なぜ私は、日本に居るのか?」
☆ ほかのところへ移らなかったから。

★ すべての疑問は、考えている者(全体を把握しようとする者)と実
際に存在する者を区別する
☆ なぜ? でももしそうだとしたら われ( A )が考えるわれ( A1 )
やボケっとしているわれ( A2 )などとしてその示し得る側面を言うに
過ぎない。


★ どうしても、把握する者を考えなければいけない
☆ それも われです。

★ しかし、その考え、把握せんとする者も実は把握されなければなら
ぬ者なんです。
☆ これも われ。



★ 「永遠と私が一体」というのが意味不明なんです
☆ ここの《永遠》は パスカルが言ったから用いたまでです。永遠を
言うなら その永遠とわれは一体だと〔自由勝手に〕思っていればよろ
しいと。疑問は溶けます。


▼ (トマス・リード) 
★ その私は前の私なのか?
☆ 総じての存在とわれなる意識の統覚があれば そうです。

★ 細胞がどんどん入れ替わる、それでも私か?
☆ そのとおり。


★(№19) 「自分で、自分を持ち上げようとしている」
☆ そうしなければよろしいです。そうしたとしても その《自分を持
ち上げようとしている》という自覚があれば じゅうぶんです。われの
整合性・真面目さは 保たれます。

★(同) 観測者は、不動の足場から観測できる立場ではなく、観測さ
れるべき対象でもあるからです。足場がないのです。
☆ 《足場がない》と言っているのは われです。足場であり 家本体
でもあります。

★(№20) しかし、自然法則は神が制御している。とすると、自然
法則も神と言っていいのでは。
☆ と推測したところの神です。本体ではありません。スピノザは さ
らに延長して自然即神と見ました。特殊な神観です。

★(№22) ~~~~
 ○ A1≠A2であるのになぜ A1=A2であるのか?
 ☆ となるよ? んなばかな!
 ★ しかし、それは同じものでなくてはなりません。
~~~~~
☆ そのままです。

お礼日時:2017/11/04 07:57

ーーーー


▲(ヰキぺ) 世界中に今現在 沢山の人がいる、・・・この人物なの
か?」
☆ そのように問うて考えている人が あなたであり ・・・いま
《わたし》と言っている人は〕 ほかの誰でもなく ひとえに 
あなたであるからです。
ーーーー
ーー>
それがこの問題なんですよ。
私と言っている人と、あなたと言われている人がどういう関係かなんですよ。
「私はなんで私なんだ?」
の場合、初めの私と後の私が異なっていることが前提なのです。
もしそうでなければ、「A=Aはどうしてなんだ?」という意味
のない質問になってしまいます。この場合、「A1≠A2であるのになぜ?」
なんです。
今これを考えている私(A1)と私と言われるもの(A2)がどうして同じなのか?
という問題です。A1はどうしてA2であるのか?他にもたくさんいるのに、
どうしてA2になったのか?A3ではなかったのか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

分っかんない。

★ 「私はなんで私なんだ?」
の場合、初めの私と後の私が異なっていることが前提なのです。
☆ どうして? 


★ 「A1≠A2であるのになぜ?」
☆ ちょっと待った。これは:

○ A1≠A2であるのになぜ A1=A2であるのか?

☆ となるよ? んなばかな!

お礼日時:2017/11/04 00:02

ーーーーーーーーーーーー


☆ 何ですって? この意味での自然法則が 神なのですか?

思考の形式(すなわち内容)は 経験合理性にもとづきますが もしく
は経験法則に従いますが そしてそれらは 摂理としてのダルマのもと
にもあると想定され得ますが それらはまだ 神ではありません。

神について――その非経験の場だという想定にもとづき――人間が忖度
し思考して得た〔と言っている〕認識です。

これらを超えた場が 神です。

経験世界と非経験の場との区別が 大事なのでは?
ーーーーーーーーーーーーー
ーー>
神の定義が違うみたいですね。
私の場合、
宇宙の法則=神
なのです。
あなたの場合、
宇宙の法則と神は別なんです。
つまり、整理の仕方が異なっているのです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 宇宙の法則=神
☆ 宇宙は やがて――と言っても けっこう長い時間を経てでしょうが――
ほろびるんでしょう?

そういう法則が 神なんですか?


超自然 超経験 あるいは 人知を超えたところ でなきゃ おかしいでしょ。

お礼日時:2017/11/03 23:55

わたしは、唐突に、「善そのもの、とはなにか?」と問われると、普通に思考停止に陥ります。



しばらくひとりで考えて、(善) = (羊ソー口)、羊ソース掛け、一口、美味しい、 などと遊んだ後に、

(善そのもの)と(トレッキングシューズ)

と置いてみる。この二つは全くレベルの合わないものの取り合わせなのですが、

ガラスの破片の山があって、これに裸足で登ろうとする人にとっては、まさに天からの恵み、善そのものだ!と思います。


少し冷静になってから、トレッキングシューズは天からの恵みじゃなくて、誰かのおかげだよな、とも思います。


(善そのもの)と(トレッキングシューズ)を置いてみたら、(ガラスの破片の山)が出てきたのですが、

(善そのもの)は触媒であり、(トレッキングシューズ)は反応物、(ガラスの破片の山)は生成物と考えるでしょうか。


(ガラスの破片の山)のような地獄があって、(善そのもの)のようなものをアタマに頂いている知恵者が(トレッキングシューズ)があったらいいのにな、と思い、作るあるいは作らせたと考えるのが普通のように思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そうですね。

ものごとの良し悪しは やはり良心のハタラキにおいて・したがって(という
のは 思考を超えた庭ではたらくと思われるからですが)あくまで基本は 主
観的なものだと考えます。

ヤマシサ反応が起きたら それは良心のハタラキによると想定していますから
そのやましい(あるいは恥づかしい)ことをやめるのが よいことで それに
逆らって突っ走ることが 悪しきわざであると考えます。




ところが この主観が ほかの人たちのそれと照らし合わせてみると そこに
共通の物指しがあると分析して得られる。ようなのです。

存在を抹殺することには ヤマシサ反応が起きて 悪しきわざだという主観が
じつは ほとんど皆に共通であると。

基本としては 人には自由意志があって この意志自由を誰かが踏みにじるこ
と。――これが 《善》ではない。《負の善》である。つまりまたの名を《悪》
と呼ぶ。



この意志を大事にし それぞれの存在(あるいは 人間性ないし人格)をとう
とび 共に生きる・よく生きる。――これが 善だと考えます。



★ ~~~~~~~~~
(トレッキングシューズ)〔は〕・・・ガラスの破片の山があって、これに裸
足で登ろうとする人にとっては、まさに天からの恵み、善そのものだ!と思い
ます。


少し冷静になってから、トレッキングシューズは天からの恵みじゃなくて、誰
かのおかげだよな、とも思います。
~~~~~~~~~~
☆ われも生きる なれも生きる かれも生きる。にかなうことは よいこと
だと考えます。

お礼日時:2017/11/03 18:25

そして、感想聞かせてください!


前の返信では、満足できません!
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像14
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲(ヰキぺ) 世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの
人が生まれてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろ
う。しかしそれにも拘らず「なぜ私は他の誰かではなく、この人物なの
か?」
☆ そのように問うて考えている人が あなたであり 〔同じような問
いを問うている人がほかに幾人もいたとしても いま《わたし》と言っ
ている人は〕 ほかの誰でもなく ひとえに あなたであるからです。

仮りに二人・三人とあつまって同じ問いを考えているとしましょう。
でも 一人ひとりは 存在が別です。意志が別です。(それゆえにも自
由意志という捉え方が出来ます)。

この意志行為の――社会的で相対的な――独立性。これによって それ
ぞれの《われ》は 特定されて決まります。そこにあいまいさは あり
ません。

▲ 「なぜ今、ここなのか?」
☆ ほかの時・ほかの場所のことを その《いま・ここ》に立って思い
めぐらし考えたりするということを言っています。

ヒトは その自然本性のあり方として そのような――相対的で有限だ
と思われるところの――時空間の中にあるということです。

あるいは その時空間は 全体の場とわれとをくらべつつ捉えようとす
るならば 言わばそれぞれが地(ぢ)と図の関係に当たる。

この地と図とは 全体の場として――その動態として――互いに一体で
あるかも分かりません。

ただ それだけのことでしょう。その中で 一人ひとりのわれがいると
いうことだと思われます。


▼ (パスカル) 私が生きるべき与えられたこのわずかな時が、なぜ
私よりも前にあった永遠と私よりも後に来る永遠の中のほかの点でもな
く、この点に割り当てられたのであるかということを知らない。
☆ ぢゃあ その今の点と前後の永遠とをぜんぶ合わせた《永遠》とわ
れとは 一体であると思っていればよろしい。

そういう――ひとつの解ですが――事情なのだと思うということ。です。

あとは 文学の夢物語でしょう。と哲学は 答えます。


▼ (トマス・リード) 私の脳がその本来の構造を失い、その何百年
か後にその同じ素材で同じ知的なものが制作された場合、その存在は私
と言ってよいのでしょうか
☆ クローン人間としてのもう一人のわれだと捉えましょう。

(字数制限にて)

お礼日時:2017/11/03 07:59

わたしはなぜわたしなのか


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C …

をもう一度熟読してちょ!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーサム
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像13
    • good
    • 1
この回答へのお礼

№12と同じお応えです。

お礼日時:2017/11/03 07:36

もう一つの返信に対しては、後から返信したいとおもいます。

「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像12
    • good
    • 1
この回答へのお礼

分かりました。

お礼日時:2017/11/03 07:36

>★ 私はなぜわたしなのか?



ーー>
うーーん
紹介した
参考文献をよく読んでいただけましたか?
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像11
    • good
    • 1
この回答へのお礼

全部は読んでいません。

だったら 問題点を取り上げて――ヰキぺの記事内容とわたしの
仮説内容とを照らし合わせた上で 指摘すべきところを―― 明
らかにしてください。


ヰキぺ氏の仮説内容とあなたの思想とは 一致しているとは限り
ません。ですから 重要点をふたつ・三つでも取り上げてみてく
ださい。

むろん どこを問題にするのかを明らかにしてください。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/03 07:35

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す