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文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

○ 神とは何か?

§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。

質問者からの補足コメント

  • うまそうだ。


    昼まで 出かけます。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/04 09:00
  • №52つづき

    ★ 可能性ではなく原理的に、です。
    ☆ それは・つまり 原理的にという視点を持ち出すということは この世
    の中がすべては 相対的な関係として成り立っていると言っているのだと思
    います。

    それは そうなのでしょう。――でも それ以上のことは あまり言ってい
    ませんね。

    原理的にただしさ(変わらざる真理)が証明されないということは 相対的
    な世界で 可能性として妥当であったりなかったりするということなのでは?





    ★ 「マーフィー則」
    ☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。




    ★ では、・・・1/87のアメリカの鉄道模型です。
    ☆ 実際のがいいです。実際のなら 鉄道全般が 好きです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/07 10:36
  • 経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
    内容としてのものです。

    それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
    えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
    美があるという見方です。

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 07:24
  • ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。

    どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
    すみません。


    あらためて聞いてみます。

    No.66の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 08:52
  • 前野説は ダメです。

    能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。

    その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。

    ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
    たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
    指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。

    ところが
    ▲ 神は 生きている者の神である
    ☆ とイエスは はっきりと言っています。ですから 誤解もはなはだし
    い。

    プラトニズムと一緒にしてしまうという誤解をした人びとのその思想を批
    判しているに過ぎない。

    つまり 聖書を何にも知らない。阿呆です。

    こういう事例は 例外ではないのです。



    マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。

    これは とても科学する心だとは言えません。

      補足日時:2017/11/10 16:02
  • 1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
    な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
    説》が当てはまると。

    2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
    ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

    3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

    4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
    定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

    5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
    のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
    という意味では やはり神の霊なるチカラである。

    こういう問題なのでは?

      補足日時:2017/11/11 04:32
  • つづき

    ★ 我々は、時に、相手を思いやり、時に、意地悪をし、時に、相手の
    不幸を最高のイベントにします。
    ☆ それらすべてにわたって ひとの意志を踏みにじっていないかどう
    かや また同じことですが ヤマシサ反応に逆らっていないかどうか
    このリトマス試験紙が あてがわれます。区分されます。



    ☆☆ 抵抗も抗議も原状復帰も ナンセンスなことになります。
    ★ ~~~
    そのとおりです。
    ・・・
    手の付けようがないんですね。

    実際、兄貴のような考えでよくしていこうというのは不可能であると思
    います。
    ~~~
    ☆ ですから そういう自由度が――悪貨が良貨を駆逐するごとく――
    優勢であった時代・つまりじんるいの《前史》から やがて内なる開花
    とともに 《後史》に入ります。

    No.97の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 08:57
  • つづき

    ★ テトリス、コスモス、和の心の、神は調和的に人類の見方でした。正義の
    味方です。true justice.
    ☆ なぜ そうなりますか? 属性を考えて 真理・愛といったことを持ち出
    しましたが 《正義》は どうでしょう? 

    つまり 否定しようとはしませんが 愛が 愛憎を超えたものであるように 
    正義も 正邪を超えたものなのでしょう。


    ★ ボジョレーヌーボー開けて待っててね。
    ☆ ワインも何も 飲まなくなったなぁ。

    No.102の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 17:52
  • ▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
    丸山 圭三郎 (著)
    https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8 …

    ☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

    丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

    カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。

    No.156の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/16 16:35
  • 回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

    間違えました。すみません。

    特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
    間違えています。

    ご海容のほどをお願いいたします。



    (補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。

    No.176の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/17 14:12

A 回答 (290件中231~240件)

ーーーー


★ 大学時代
☆ っていうことは もう《お歳》ですか? 当方は 1946~です。
ーーーー
ーー>
ご無礼をご勘弁!
当方は
1957年に出てきてしまった若造(?)者なんです。
しかし、まだまだ若造気分なんですよ!
ーーーー
★ 物語 ユダヤ人の歴史
☆ カスタマーレヴューがついていないですね。この種の本は 読んで
います。
ーーーー
ーー>
さっすがー!

ーーーー
▲ レイモンド・P.シェインドリン
☆ という名を知らなかったので ちょっと恥づかしい。
ーーーー
ーー>
うーーん
それは問題ですね!
軽蔑します!

ーーーー
★ 一神教 文明からの問いかけ
☆ これも読んでいません。2000年前から2008年ごろまで 読
書の空白期間があります。少なくとも買って読むことはしなかった。

でも そのあとでは 図書館でこの聖書関係の本は 片っ端から借りて
読んでいるんですが うちの図書館にはなかったんですかね。
ーーーー
ーー>
この中で、科学のナンセンスが語られています。
私は科学者ですが、それだからこそ反科学なのです。
シロニー氏が語っています。
感動しました。
是非読んでください!

ーーーー
▲ 大貫 隆
☆ は 荒井献の系譜(弟子)でその内の何人かの著書を読んでいます。

もっとも荒井(偉いひとは 呼び捨て)の思想には あまり賛成してい
ません。(粗い。粗雑。ただし ナグ・ハマディ文書など 一次資料の
研究には目を見張るものがあるようです)。

大貫氏には 反対の立ち場ではありません。(が 必ずしもはっきりと
した思想でもないと感じています)。


▲ 宮本 久雄 
☆ ざんねんながら この著者にも 賛同を惜しみます。

【Q:イエスの哲学は 《存在》論である。人びとよ シュウキョウから
自由に。】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9503824.html
☆ その回答№1&№3で 宮本を取り上げ論じあっています。そのあ
まがっぱ氏は ここんところ顔を見せていませんが わたしの親しい論
敵です。(仲間です)。


あと:
▲ 関根 清三
☆ を読んでいます。やはり聖書学者の関根正雄の息子さんで 論旨が
しっかりしていて 特に古代ユダヤにかんしては ただただおそわるば
かりです。
ーーーー
ーー>
変な話なんですが、私、不潔恐怖症で図書館はだめです!
病気ですね!
変人なんです!
笑わないでください!


>両書とも 図書館に蔵書がありましたので いま借りている本を返した
ときに読んでみます。
ーー>
是非!

ーーーー
物理関係の人にして(あるいは そうでなくても) 幅広いご関心です
ね。
ーーーー
ーー>
生まれながらの哲学者みたいです。
小さいころから、模型と哲学を考えていました。
どっちも好きなんですね!



今回の画像は・・・
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像60
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ しかし、まだまだ若造気分なんですよ!
☆ 分かりました。わたしも気は若いつもりです。


▲ 物語 ユダヤ人の歴史
★ さっすがー!
▲ レイモンド・P.シェインドリン
★ うーーん
それは問題ですね!
軽蔑します!
☆ まあね。


▲ 一神教 文明からの問いかけ
★ ~~~~
この中で、科学のナンセンスが語られています。
私は科学者ですが、それだからこそ反科学なのです。
シロニー氏が語っています。
~~~~~~
☆ シロニーの名前だけ知っています。

☆☆ >両書とも 図書館に蔵書がありましたので いま借りている本を
返したときに読んでみます。
★ 是非!
☆ はい。



▲ 大貫 隆

▲ 宮本 久雄 
☆☆ 【Q:イエスの哲学は 《存在》論である。人びとよ シュウキョウ
から自由に。】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9503824.html
☆☆ その回答№1&№3で 宮本を取り上げ論じあっています。
☆ このやり取りは われながらですが けっこう行けますよ。

▲ 関根 清三




★ 変な話なんですが、私、不潔恐怖症で図書館はだめです!
☆ 分かりました。ドアノブとかを回して開けるとき ふと感じたことが
ありましたね。そう言えば わたしも。




★ 生まれながらの哲学者みたいです。
小さいころから、模型と哲学を考えていました。
どっちも好きなんですね!
☆ そうでしたか。文系の数学まではおもしろかったんですが その後は
からっきしです。



★ 今回の画像は・・・
☆ はんぶん明るいってところですかね。(辛口批評)。

お礼日時:2017/11/08 13:19

No.56返信への返信



ーーーー
 哲学の半分は、言葉の遊戯かもしれません。
☆ これについても 詭弁を弄するすべを持ち合わせています。

つまり 半分ではなくすべてが言葉のあそびです。もし哲学が すでに
分かり切ったことをなお問い求め ただ理屈づけているだけだと言われ
たとしたらです。
ーーーー
ーー>
了解!

ーーーー
でも それもこれも みな 人びとの発言をめぐってや思考のためにけ
っきょく 言葉(≒概念)というものを交通整理している。

そういう務めなのだと思います。(勝手にやっていますが)。
ーーーー
ーー>
整理業務なのですね!
概念の整理、心理的な開放、自然現象などはどうでもいい。

ーーーー
(だけど――内緒の話ですが―― 世の中には 理屈が好きで好きでた
まらんという人もいるかも知れません。

もし あなたに当てつけを言うならば 自分の発言の際には 必ず 二
―チェやカントといった著名人をつけ添えるのを忘れない。

交通整理のための交通信号になると思っているのでしょう。――あなた
は 柔軟性があるとお見受けしましたので 極論をぶっつけました)。
ーーーー
ーー>
うーーん・・・
実に深いお言葉・・・
ずぼし!!!!!!(5回)
「あなたは 柔軟性があるとお見受けしましたので」
最高にうれしい!!!!!!!!!!!!!!!!
私はこんにゃくなんで、なんでもokですよ!

ーーーー
自然科学のほかでは 理論と実践との隔たりが じゅうぶん過ぎるほど
大きいと思います。
ーーーー
ーー>
まったくですね、
自然科学では実に一致することが多あります。
これに酔っているバカ者が実に多いのです。
それで理論信仰が出てきますね。


画像とすればこうです!
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 画像とすればこうです!
☆ きれいですね。雰囲気があります。



★ No.56返信への返信
★★ 哲学の半分は、言葉の遊戯かもしれません。
☆☆ ~~~~
これについても 詭弁を弄するすべを持ち合わせています。

つまり 半分ではなくすべてが言葉のあそびです。もし哲学が すでに
分かり切ったことをなお問い求め ただ理屈づけているだけだと言われ
たとしたらです。
~~~~
★ 了解!

☆☆ でも それもこれも みな 人びとの発言をめぐってや思考のた
めにけっきょく 言葉(≒概念)というものを交通整理している。・・・
★ 整理業務なのですね!
☆ まづは そうです。言葉ないし用語を定義づけることから始まりま
す。

まづは:
★ 概念の整理
☆ です。 

では ほかにはどうか?
★ 心理的な開放、自然現象などはどうでもいい。
☆ か? 

哲学の対象は 世界のすべてです。自然現象もふくみます。

ただ どれだけその事実どおりの認識が 要素に還元した場合にも出来
るかは 別の問題になります。(専門の研究におそわります)。

心理的な開放 ですか? これは つまり 交通整理がうまく出来たら
心はすっきりします。



☆☆ (だけど――内緒の話ですが―― 世の中には 理屈が好きで好
きでたまらんという人もいるかも知れません。・・・
★ ~~~~~~
うーーん・・・
実に深いお言葉・・・
ずぼし!!!!!!(5回)
「あなたは 柔軟性があるとお見受けしましたので」
最高にうれしい!!!!!!!!!!!!!!!!
私はこんにゃくなんで、なんでもokですよ!
~~~~~~
☆ いたみいります。


☆☆ 自然科学のほかでは 理論と実践との隔たりが じゅうぶん過ぎ
るほど大きいと思います。
★ まったくですね、
自然科学では実に一致することが多あります。
これに酔っているバカ者が実に多いのです。
それで理論信仰が出てきますね。
☆ なるほど。そちらのほうの問題もありますか。ありますね。一般の
人びとに見られるようにも思いますし。

お礼日時:2017/11/08 11:06

ーーーー


★ 「マーフィー則」
☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。
ーーーー
ーー>
意味不明でっす!
わかりません!
わかりやすくお願いします。
わからない場合、却下します。

これは神の問題において重要なんですよ!









言葉の遊戯はできるだけ避けてください。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像58
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★★ 「マーフィー則」
☆☆(№27お礼欄) ~~~~~
ものごとの互いの関係は 時間的な経過や 自分たちの意識の状態ある
いは思考の及び具合いにおいて いろんなかたちで現われる。

その可能性が 意外だと思われた事例について 集めたもの。
~~~~~~
☆ すなわち:
☆☆ 一面〔での妥当〕性〔を発見して それを法則としてまとめてい
る。ただしそのとき もし一面性が 全体として見なされるとしたら 
その一面での妥当性〕を広げすぎ・・・だと言いました。



★★(№44) ~~~~~~~~
ホワイトヘッドが言っています。これは、ソシュールの構造言語学の入
門書に書いてあったことです。
ーーーー
すべてのものは独立・自立していない。すべては関係している。
ーーーー
これが正に「マーフィー則」なんですね。
私が急ぐことと、信号が赤になることが関係しています。

☆☆(同・お礼欄) ~~~~~~~~~
それは いわゆる構造主義でもありますね。その前には 相対性の原則
があります。

(* つまり 相対性の原則にもとづき 《世界は関係から成る》説が
出て来ている。と言っています)。

《関係主義》であり 極端には 《主体無しの歴史過程》というふうに
も説かれました。

じつは ソシュールの《言語記号の恣意性》説は どうもそのままでは
成り立たないと考えています。
(* 【Q:ソシュールの《言語記号の恣意性》説は成り立たない】
https://okwave.jp/qa/q8966152.html
~~~~~~~~



★★(№32) ニーチェやフロイトやマーフィー
☆☆(同・お礼欄) ~~~~~~~~
それは 可能性の一つ二つとしてそれまで見落とされていたことなので
あって その間隙を縫って何かを言ったとしても――あるいは その間
隙じたいを指摘することがあったとしても―― それによって 新知見
が理論的に打ち出されたことには成っていない。

むしろ それぞれ部分的な貢献である。と考えます。
~~~~~~~~~


★ 言葉の遊戯はできるだけ避けてください。
☆ そう映るんでしょうかね。

わたしは 生涯をつうじて理屈のための理屈を言ったおぼえはないです
よ。冗談で言うときには そのようにことわって言いますし。

お礼日時:2017/11/08 10:52

物語 ユダヤ人の歴史


https://www.amazon.co.jp/%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E3% …

一神教 文明からの問いかけ
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784 …

これ読みましたよ!
すごいでしょう?
面白かったです!
読みましたか?


画像は創世記のPCシャープMZです。
私の大学時代のものです。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像57
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 大学時代
☆ っていうことは もう《お歳》ですか? 当方は 1946~です。



★ 物語 ユダヤ人の歴史
☆ カスタマーレヴューがついていないですね。この種の本は 読んで
います。

内容紹介の中で:
▲ 近代化は彼らにどのような影響を与えたのか? 誇り高い民族的アイ
デンティティと繁栄する故国は現代のユダヤ人をどのように変えたのか?
☆ といった現代の事情は あまり詳しくないと言わざるを得ないかも
知れませんが。

▲ レイモンド・P.シェインドリン
☆ という名を知らなかったので ちょっと恥づかしい。




★ 一神教 文明からの問いかけ
☆ これも読んでいません。2000年前から2008年ごろまで 読
書の空白期間があります。少なくとも買って読むことはしなかった。

でも そのあとでは 図書館でこの聖書関係の本は 片っ端から借りて
読んでいるんですが うちの図書館にはなかったんですかね。


▲ 大貫 隆
☆ は 荒井献の系譜(弟子)でその内の何人かの著書を読んでいます。

もっとも荒井(偉いひとは 呼び捨て)の思想には あまり賛成してい
ません。(粗い。粗雑。ただし ナグ・ハマディ文書など 一次資料の
研究には目を見張るものがあるようです)。

大貫氏には 反対の立ち場ではありません。(が 必ずしもはっきりと
した思想でもないと感じています)。


▲ 宮本 久雄 
☆ ざんねんながら この著者にも 賛同を惜しみます。

【Q:イエスの哲学は 《存在》論である。人びとよ シュウキョウから
自由に。】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9503824.html
☆ その回答№1&№3で 宮本を取り上げ論じあっています。そのあ
まがっぱ氏は ここんところ顔を見せていませんが わたしの親しい論
敵です。(仲間です)。


あと:
▲ 関根 清三
☆ を読んでいます。やはり聖書学者の関根正雄の息子さんで 論旨が
しっかりしていて 特に古代ユダヤにかんしては ただただおそわるば
かりです。



両書とも 図書館に蔵書がありましたので いま借りている本を返した
ときに読んでみます。

物理関係の人にして(あるいは そうでなくても) 幅広いご関心です
ね。

お礼日時:2017/11/08 10:20

うーーん・・・


難しいこと仰る。ちんぷんかんぷん!
可能的という用語が、カントで出てきますね。
これに悩みました。
実にわからないんです。
一方、原理的にーー(・・・)これもまた「言葉の遊戯」なのですかね。
可能的にーー>そうなることがあり得る、排除出来ない
原理的にーー>???、確実である???
ですかね。
言葉の遊戯ですかね。
哲学の半分は、言葉の遊戯かもしれません。

ーーーーーーーマーフィー学者のサム

これ、おいしそうでしょ!
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像56
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この回答へのお礼

いやぁ ざんねんながら 辛そう。脂っこい。いまは――年取ったので―
― なるべく控えています。

ご回答をありがとうございます。


そうですね。
★ 哲学の半分は、言葉の遊戯かもしれません。
☆ これについても 詭弁を弄するすべを持ち合わせています。

つまり 半分ではなくすべてが言葉のあそびです。もし哲学が すでに
分かり切ったことをなお問い求め ただ理屈づけているだけだと言われ
たとしたらです。

でも それもこれも みな 人びとの発言をめぐってや思考のためにけ
っきょく 言葉(≒概念)というものを交通整理している。

そういう務めなのだと思います。(勝手にやっていますが)。

交通渋滞は困るという気持ちからです。ふつうの哲学する人なら そう
であり まづ他意はないはずです。

(つまり みんなで話し合っている場で こちらの意見が無視されたと
いった体験が 原点になっているのではないかと)。



(だけど――内緒の話ですが―― 世の中には 理屈が好きで好きでた
まらんという人もいるかも知れません。

もし あなたに当てつけを言うならば 自分の発言の際には 必ず 二
―チェやカントといった著名人をつけ添えるのを忘れない。

交通整理のための交通信号になると思っているのでしょう。――あなた
は 柔軟性があるとお見受けしましたので 極論をぶっつけました)。



★ 原理的 / 可能性
☆ は かんたんには 理論と実践という関係ではないですかね。

原理も そのままで変わらざる真理のことではないと見るなら 合理性
にもとづく理論といったものです。

自然科学のほかでは 理論と実践との隔たりが じゅうぶん過ぎるほど
大きいと思います。

お礼日時:2017/11/08 09:41

神とは何か



まぁ、宗教的な観点から見れば創造主ですが
私は人々が作った畏怖の象徴だと思っています。
例えばノアの箱船ですが
あれは神が船を作ったわけではありません。

神が 水没させるけど君達は助けてあげるから大きい船作ってね
と船を作らせたようなものです。
神とは基本的にどこの物を読んでも自己中な存在です。
ですが強大な力を持っているため誰も逆らえない
なので、私の仮説としては
権力者が自分たちの権力を認めさせるためにも作られたのかと思います。

あとは人々の逃げ口ですかね
今は辛いけど神様はきっと
と後先もない希望を見てその場をしのいでいるのかと。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 神とは何か
☆ そうですね。お説については 全体として聖書の旧約時代の神の
ことではないか。と思います。

基本的に では新約とどう違うのか?

ヤハヱ―神は ユダヤ民族〔だけ〕のための神でした。それを イエ
スが 旧約のエレミヤ書( 31:31 ~ )の預言にしたがって 外にも
開きました。

言わば神が ふるい神であることを棄てて みづからを普遍神へと揚
げました。エレミヤ書の記事は 新約でヘブル書( 8 章)に取り上げ
られています。

また そこでは (1) 神が人びとの罪をおぼえない。忘れる。そ
して(2) 人びとに神を知れと言っておしえることはなくなる。と
言っています。

――これが 普遍神へみづからを揚棄したすがたです。




★ 創造主
☆ というのは 次のように普遍神から派生してみちびかれた一つの
すがたです。

普遍神:その属性は 《絶対》ということ。また 全知全能。
そこで これを擬人化して 《絶対者》とする。
ここから 万物の《創造者》と捉えられた。



ですから 創世記は この創造主というひとつの姿をもって 物語と
してその創世のことを描いたわけです。

これは 表現の問題です。そこからは:
★ 私は人々が作った畏怖の象徴だと思っています。
☆ といった受け留めが 持たれるのも やむを得ないことでしょう。


★ ~~~~~~
例えばノアの箱船ですが
・・・

神が 水没させるけど君達は助けてあげるから大きい船作ってね
と船を作らせたようなものです。
神とは基本的にどこの物を読んでも自己中な存在です。
~~~~~~~~
☆ というような事情も 《創造主 と 被造物》の関係においては
必然的に描かれて来るでしょう。

▲ 風は気ままに吹く あるいは
わたし(神)はあわれもうと思う者をあわれみ いつくしもうと思う
者をいつくしむ
☆ といった説明――弁明?――までが 《自己中》の印象に対して
ほどこされています。

イエス・キリストの神は もうヤハヱ―神では――表現の問題にかん
して――なくなっています。

とわたしは考えます。

お礼日時:2017/11/07 22:46

それと、返信の文字が小さくなってしまうのも問題。


私、遠視なんで、きびしいですね。
同じ大きさにしてもらいたいです。
どうして小さくしてしまうんでしょうか?

知恵袋でも、たくさん不満があります!
とにかく、いらいらしています。
「どうしてこうなっているだ!!!」
しょうがないですよね!

東京ラーメンで・・・
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像54
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ それと、返信の文字が小さくなってしまうのも問題。
私、遠視なんで、きびしいですね。
同じ大きさにしてもらいたいです。
どうして小さくしてしまうんでしょうか?
☆ そうなんですよ。

これは あんまりやり取りはするなと言っているように感じます。
無視しますが。



★ 知恵袋でも、たくさん不満があります!
とにかく、いらいらしています。
「どうしてこうなっているだ!!!」
しょうがないですよね!
☆ そうですか。何とかすることができるところは 何とかしたい
ですね。わたしなら。



★ 東京ラーメンで・・・
☆ 名古屋には ざるラーメンがあります。(夏専用)。

お礼日時:2017/11/07 10:51

ずいぶん返信しました。


知恵袋では、返信限界が100ですが、そこまで行ったことがかなりあります。
驚異的なんですが、私はいつもこうなんですね。
かなりしつこいタイプなんですね。
相手が嫌になってしまうんですね。

それと、知恵袋では返信は下につながります。
この例を見てください。
問答がかなり長く続きます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …

しかし、ここだと、1つの回答に対する返信にそのまま返信することができません。
ここが戸惑いましたね。
それと、横が長すぎますね。

おもしろいですよね。なれれば何でもないんだろうけど。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像53
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ずいぶん返信しました。
知恵袋では、返信限界が100ですが、・・・
☆ そうですね。OKwave では 100前後のスレッドをいくつか わたしも
質問者として のこしていますよ。最近は めづらしくなっています。

ほかのスレッドも見てみて 40 50件くらいでしょうか。いまの長い事例
は。



★ それと、知恵袋では返信は下につながります。
☆ なるほど。一人の回答者については ひとつの子スレッドにまとまる。の
ですね。(フェイスブックで そういう感じのまとめ方があったような)。


★ しかし、ここだと、1つの回答に対する返信にそのまま返信することがで
きません。 / ここが戸惑いましたね。
☆ ええ。ですから わたしは 《№XX お礼欄/補足欄》といったように引
用元を表示するようにしています。


★ それと、横が長すぎますね。
☆ これも 思いました。それで いまのように 横の長さを短くしています。


★ おもしろいですよね。なれれば何でもないんだろうけど。
☆ いや 気づいたときには やはり長すぎると思いました。

お礼日時:2017/11/07 10:46

ーーーー


★ それでもですよ、これは電車が急停止したのであって、私のせいでは
ありません。どうですか? 私は後ろから押されただけ!
☆ そうですよ。そのとおり。しかも 体がぶつかったからには そのあ
たかも責任を感じて――自分の意志行為であるかのごとく―― あやまり
ます。

これが 人間の――広い意味での――主体性です。

代理人の発言や行動は だれのおこなう行為になりますか?
代理をたのんだ人の意志にもとづく行為です。

主体がいます。

網には つなぐ線――関係性――のほかに 結節点があります。それが
主体です。
ーーーー
ーー>
うーーん・・・
>――広い意味での――主体性
反論しようと思えば、いくらでもできますが・・・
しないでおきます(泣
なるほどでちゅ・・・



ーーーー
☆☆ ーーーー
超経験ならば ・・・
或る絶対と別の絶対があるというのは 矛盾です。
ここから 神は ひとつの普遍神であると帰結されます。
ーーーー
-ー>
★ なるほどです。
☆ よかった。
ーーーー
ーー>
科学的に解釈すれば、1つの法則がある、ですかね?
違いますかね?
いろいろな宗教があるのも、矛盾ですよね!
有名な問題ですが・・・


それから、よく、
「科学的に証明されていない」
と言われますが、科学的に証明されたものは1つもないんです。
それは原理的にできないんです。
可能性ではなく原理的に、です。
前に、あなたから批判された「マーフィー則」ですが、
これへの批判は「科学的な根拠がない」ということです。
しかし、この批判は低レベルです。科学を理解していないんですね。
私は、自称「マーフィー学者」です。
是非とも、この分野もお願いします。



では、今度はこれでいかがでしょうか?
1/87のアメリカの鉄道模型です。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像52
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。





☆☆ 神は ひとつの普遍神であると帰結されます。
★ 科学的に解釈すれば、1つの法則がある、ですかね?
☆ これは 定理でしょうね。《超経験の場》を想定した上でのことですが
その限りで 公理ないし定理として一般にみとめられることだと思います。

★ いろいろな宗教があるのも、矛盾ですよね!
☆ ですから それぞれの――個人にとっての・内面の問題としての――信
仰ないしその特定の神 これにかんしては 個別および特殊絶対性としてお
おやけにみとめられると思います。

ただし その特殊絶対性――それは 個人の・しばしば独り善がりになり勝
ちの神観や神学――を ほかの人に信じなさい(無条件で無根拠において受
け容れなさい)と説くのは いただけません。

せいぜい思想として――経験思想の中における神についての仮説として――
なら 互いに問い求めて行くのは 何の問題もないでしょうが 自分とこの
神を受け容れよと説くのは ただ観念をもてあそんでいるだけだと成ります。
そして 迷惑です。



★ 「科学的に証明されていない」と言われますが、科学的に証明されたも
のは1つもないんです。
☆ あまり考えなかったことですね。

自然科学なら 再現性で決まりではないのですか?

社会科学は おそらくいくつかの仮説が互いに競いあっているということで
はないかと考えます。

その中のひとつの仮説が 実際に政策として実施された場合 たしかにたと
え成功したからと言って その仮説のただしが証明されたとは言えないと思
います。

妥当性があったと言えるかも知れませんが それも ただの可能性です。な
ぜなら じつは ほかに思いもよらなかったことが原因となったかも知れな
い。あるいは 採用されなかった仮説にしても もし実施されていたら 成
功していたかも知れない。

いろんな可能性が有り得ますから 妥当性も最終的な判断は 出来ないかも
分かりません。

社会の動きにかんして 政策は試行錯誤を繰り返すだけなのかも分かりませ
ん。

哲学は 人間論としては 個人のその生きた過程とその評価で――個人的に
――決まるのかどうなのか。


(補足欄へつづく)

お礼日時:2017/11/07 10:33

失礼!


「自由とはなにか」
の著者はフォイエルバッハではなかったですね。
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この回答へのお礼

了解です。

お礼日時:2017/11/07 06:59
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