dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

○ 神とは何か?

§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。

質問者からの補足コメント

  • うまそうだ。


    昼まで 出かけます。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/04 09:00
  • №52つづき

    ★ 可能性ではなく原理的に、です。
    ☆ それは・つまり 原理的にという視点を持ち出すということは この世
    の中がすべては 相対的な関係として成り立っていると言っているのだと思
    います。

    それは そうなのでしょう。――でも それ以上のことは あまり言ってい
    ませんね。

    原理的にただしさ(変わらざる真理)が証明されないということは 相対的
    な世界で 可能性として妥当であったりなかったりするということなのでは?





    ★ 「マーフィー則」
    ☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。




    ★ では、・・・1/87のアメリカの鉄道模型です。
    ☆ 実際のがいいです。実際のなら 鉄道全般が 好きです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/07 10:36
  • 経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
    内容としてのものです。

    それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
    えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
    美があるという見方です。

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 07:24
  • ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。

    どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
    すみません。


    あらためて聞いてみます。

    No.66の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 08:52
  • 前野説は ダメです。

    能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。

    その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。

    ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
    たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
    指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。

    ところが
    ▲ 神は 生きている者の神である
    ☆ とイエスは はっきりと言っています。ですから 誤解もはなはだし
    い。

    プラトニズムと一緒にしてしまうという誤解をした人びとのその思想を批
    判しているに過ぎない。

    つまり 聖書を何にも知らない。阿呆です。

    こういう事例は 例外ではないのです。



    マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。

    これは とても科学する心だとは言えません。

      補足日時:2017/11/10 16:02
  • 1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
    な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
    説》が当てはまると。

    2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
    ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

    3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

    4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
    定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

    5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
    のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
    という意味では やはり神の霊なるチカラである。

    こういう問題なのでは?

      補足日時:2017/11/11 04:32
  • つづき

    ★ 我々は、時に、相手を思いやり、時に、意地悪をし、時に、相手の
    不幸を最高のイベントにします。
    ☆ それらすべてにわたって ひとの意志を踏みにじっていないかどう
    かや また同じことですが ヤマシサ反応に逆らっていないかどうか
    このリトマス試験紙が あてがわれます。区分されます。



    ☆☆ 抵抗も抗議も原状復帰も ナンセンスなことになります。
    ★ ~~~
    そのとおりです。
    ・・・
    手の付けようがないんですね。

    実際、兄貴のような考えでよくしていこうというのは不可能であると思
    います。
    ~~~
    ☆ ですから そういう自由度が――悪貨が良貨を駆逐するごとく――
    優勢であった時代・つまりじんるいの《前史》から やがて内なる開花
    とともに 《後史》に入ります。

    No.97の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 08:57
  • つづき

    ★ テトリス、コスモス、和の心の、神は調和的に人類の見方でした。正義の
    味方です。true justice.
    ☆ なぜ そうなりますか? 属性を考えて 真理・愛といったことを持ち出
    しましたが 《正義》は どうでしょう? 

    つまり 否定しようとはしませんが 愛が 愛憎を超えたものであるように 
    正義も 正邪を超えたものなのでしょう。


    ★ ボジョレーヌーボー開けて待っててね。
    ☆ ワインも何も 飲まなくなったなぁ。

    No.102の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 17:52
  • ▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
    丸山 圭三郎 (著)
    https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8 …

    ☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

    丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

    カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。

    No.156の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/16 16:35
  • 回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

    間違えました。すみません。

    特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
    間違えています。

    ご海容のほどをお願いいたします。



    (補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。

    No.176の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/17 14:12

A 回答 (290件中241~250件)

ーーーー


でも 思ってもみてください。満員電車で急ブレーキがかかって
後ろの人にもろに体が寄りかかってしまった。――これは 不可抗
力によるものですが それでも その迷惑をかけてしまった人にご
めんなんさいと言うのが ふつうです。
ーーーー
ーー>
ごもっとも・・・
それでもですよ、これは電車が急停止したのであって、私のせいでは
ありません。どうですか?私は後ろから押されただけ!


ーーーー
超経験ならば そしてそれを神と呼ぶとすれば 神が二つや三つもあ
っては おかしい。こっちの超経験(=絶対性)とあっちの超経験と
が併存し両立するというのは いかにもおかしい。
或る絶対と別の絶対があるというのは 矛盾です。
ここから 神は ひとつの普遍神であると帰結されます。
ーーーー
-ー>
なるほどです。

ーーーー
★ フォイエルバッハの自由意思
☆ ですか? ちょっと記憶にないのですが。
ーーーー
ーー>
うーーん・・・
確かに・・・検索してもない・・・
どこかに本はありますが・・・









>ナゾの何ものかです
ーー>
謎は結局残りますよね!





うな重です
画像が心配ですが・・・
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像50
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ うな重です / 画像が心配ですが・・・
☆ いちど出て来ましたね。あのとき おいしそうだった。

ご回答をありがとうございます。




★ それでもですよ、これは電車が急停止したのであって、私のせいでは
ありません。どうですか? 私は後ろから押されただけ!
☆ そうですよ。そのとおり。しかも 体がぶつかったからには そのあ
たかも責任を感じて――自分の意志行為であるかのごとく―― あやまり
ます。

これが 人間の――広い意味での――主体性です。

代理人の発言や行動は だれのおこなう行為になりますか?
代理をたのんだ人の意志にもとづく行為です。

主体がいます。

網には つなぐ線――関係性――のほかに 結節点があります。それが
主体です。




☆☆ ーーーー
超経験ならば ・・・
或る絶対と別の絶対があるというのは 矛盾です。
ここから 神は ひとつの普遍神であると帰結されます。
ーーーー
-ー>
★ なるほどです。
☆ よかった。




★★ フォイエルバッハの自由意思
☆ 次の投稿で触れてありますね。





☆☆ >ナゾの何ものかです
ーー>
★ 謎は結局残りますよね!
☆ そうですね。

お礼日時:2017/11/07 06:58

昔、フォイエルバッハの自由意思についての本を読んだことがあります。


検索すると、今ないですね。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像49
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ フォイエルバッハの自由意思
☆ ですか? ちょっと記憶にないのですが。


▲ 神とは人間の自己意識であり、また神学とは人間学
☆ 神学が人間学だというのは 首肯できますね。

神学は あくまで想定じょうの思考であり推理ですから。そして
その内容を 人間論や社会観に活かすのが 目的だと言ってもよ
でしょうから。


ただし 想定じょうなら:
▲ 神とは人間の自己意識であり
☆ と言いっ放しにしておくのは 間違いです。

自己意識や経験事象を超えた場を想定するのであるからには 神
は人間学だけにおさまるものとは考えられません。

ナゾの何ものかです。

お礼日時:2017/11/06 20:37

>何か・なぜか 写真映りが・その色合いが いまひとつですね。


(正直に申せば)。
ーー>
もとはいいのですが、容量が削られて荒くなってしまうようです。
制約があるみたいです。
私も残念です!
画像が悪いと、回答もくすんでしまします。

>これらの個別および特殊の絶対性は 基本的に言って:
☆☆ 普遍神という一般絶対性なる前提(想定)に立つものです。
ーー>
普遍神という一般絶対性なる前提(想定)が、個別および特殊の絶対性
の成立の根拠であるということですか?
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像48
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ >何か・なぜか 写真映りが・・・
★ もとはいいのですが、容量が削られて荒くなってしまうようです。
制約があるみたいです。
私も残念です!
画像が悪いと、回答もくすんでしまします。
☆ 特定の色にかんしてでしょうかね。

ザルうどんが おいしそうだったなぁ。




★ 普遍神という一般絶対性なる前提(想定)が、個別および特殊の
絶対性の成立の根拠であるということですか?
☆ そうでしょうね。

その以前の根拠は ありません。

経験世界を超えた場――非知なる非経験の場――を想定するというこ
とから 仮説理論を始めています。

超経験ならば そしてそれを神と呼ぶとすれば 神が二つや三つもあ
っては おかしい。こっちの超経験(=絶対性)とあっちの超経験と
が併存し両立するというのは いかにもおかしい。

或る絶対と別の絶対があるというのは 矛盾です。

ここから 神は ひとつの普遍神であると帰結されます。

お礼日時:2017/11/06 20:30

ーーーー


▲ (エスの系譜) ~~~~
https://blogs.yahoo.co.jp/hiraokakimihiko/124454
ちなみに、ニーチェがフロイトよりも先にエスに言及していること
は、フロイト自身が積極的に主張していたことであり、哲学史上の
常識のようです。
~~~~~~~~~~~
ーーーー
ーー>
なるへそ・・・

ーーーー
ですから たとえ虚構であったとしても 人間の人間性や人格を成
す基本は 意志の自由な選択ということにあると考えられます。
ーーーー
ーー>
自由意思はないということが定説になっているのではないですか?
自由意思がある、という根拠はなんですか?

ーーーー
いかなる犯罪行為についても その責任を問えなくなります。エス
の仕業であるとすることが出来たらです
ーーーー
ーー>
私はそう思っています。個人はロボットみたいなものなので誰にも責任もない!
ですかね?
すべてはエスの仕業である、というのが私のい考えであります。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像47
    • good
    • 1
この回答へのお礼

実物とちがって 写真映りがよくないなぁ。肉の色が いまひとつ
に感じます。

ご回答をありがとうございます。


★ ~~~~~~~
私はそう思っています。個人はロボットみたいなものなので誰にも
責任もない!
ですかね?
すべてはエスの仕業である、というのが私のい考えであります。
~~~~~~~
☆ さしづめ 特殊責任論ですかね。主観の内では 自由でしょう
ね。

でも 社会の中で公共の場では 通らないと思います。

もし さもなければ 隣りの人をぼかすか殴っても 何の責任もな
いとなります。




この責任論からさかのぼるかたちとしてでも 自由意志がおのおの
の人格にあると帰結されます。

でも 思ってもみてください。満員電車で急ブレーキがかかって
後ろの人にもろに体が寄りかかってしまった。――これは 不可抗
力によるものですが それでも その迷惑をかけてしまった人にご
めんなんさいと言うのが ふつうです。

これが 人格ないし主体の問題です。その中軸は 自由意志にあり
ます。

お礼日時:2017/11/06 19:56

ーーーー


《関係主義》であり 極端には 《主体無しの歴史過程》というふ
うにも説かれました。
・・・
関係と主体と両方があると考えます
ーーーー
ーー>
主体はありますか?
もしエスがあれば、すべてはこれであり、関係があることも説明できますね。
すべてがエスの仕業なのですから。
この場合、エスは神ですか?主体ですか?

そもそも「主体」って何ですか?
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像46
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

意志。それも自由意志。これの問題です。

なぜなら おれの代わりに意志してくれということは あり得ない
からです。(実質的に言って)。

エスも この場合 お呼びではありません。

なぜなら もしエスが――あるいは 要するに悪魔がささやいたと
いったようにして おのれの意志のほかの何ものかが―― わが思
考や行動をみちびいたとしたなら もう刑法は成り立ちません。

いかなる犯罪行為についても その責任を問えなくなります。エス
の仕業であるとすることが出来たらです。

ですから たとえ虚構であったとしても 人間の人間性や人格を成
す基本は 意志の自由な選択ということにあると考えられます。

これが 主体の理論です。

むろん すべては 相対世界における出来事ですから 行為は相互
関係をもってその因果関係が繰り広げられて行きます。



デカルトのコギトで その主体は何か? の問題をわざわざ取り上
げて 《エス》の問題にまで触れてしまったのは デカルトがいっ
たい何を言おうとしているのか。これが さだかではないではない
か おかしいではないか? を言いたかったためです。

エスないし非人称の問題は 思想の正面に据えられるというよりは
言語学の一主題としてあり得るのではないか。というような関係で
す。

お礼日時:2017/11/06 19:20

No.42から、


ーーーー
このように 個別絶対性は 実際には本人の神観を交えており
その特殊性をふくみます。
神なんかいるもんかという特殊絶対性もあるわけです。
しかも 人それぞれにその主観の内にあって 個別絶対性が成り
立っています。
それは 普遍神という一般絶対性なる前提(想定)に立つもので
す。そういう相互了解が成り立つのではないかという仮説です。
ーーーー
ーー>
少しだけわかりました。少しだけです。
ところで、
>普遍神という一般絶対性なる前提(想定)に立つもので
す。そういう相互了解が成り立つのではないかという仮説です。
ーー>
これはどうしてですか?
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像45
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

何か・なぜか 写真映りが・その色合いが いまひとつですね。
(正直に申せば)。


★ No.42から、・・・
少しだけわかりました。少しだけです。
☆ それは よかった。


★ ~~~~~
ところで、
>普遍神という一般絶対性なる前提(想定)に立つもので
す。そういう相互了解が成り立つのではないかという仮説です。
ーー>
これはどうしてですか?
~~~~~~~~
☆ 特殊絶対性は あくまで個人の主観の問題です。

個人の主観の――神論を基にする――神観は 一般的なかたちで
は 個別絶対性として成り立っています。

神の名を オホモノヌシのカミと呼ぶのも ヤハヱ―と呼ぶのも 
その他その他の場合もみな それぞれが特殊絶対性です。

つまり 特殊絶対性は 個別絶対性のもとに 個人差があるその
違いを反映させたものです。


これらの個別および特殊の絶対性は 基本的に言って:
☆☆ 普遍神という一般絶対性なる前提(想定)に立つものです。

☆ そして どうでしょうか? と問う意味で:
☆☆ そういう相互了解が成り立つのではないかという仮説です。
☆ と言っています。

お礼日時:2017/11/06 19:31

哲学は難しいですね。


私みたいな物理や工学よりの者(科学哲学、ホワイトヘッドやクーン)、
文学よりの者、
宗教的な者、
心理学的な者、
いろいろです。

私があなたとじゃべれるためにはたくさん勉強しなければなりませんね。
そういう感じがする。


ホワイトヘッドが言っています。これは、ソシュールの構造言語学の入門書に
書いてあったことです。
ーーーー
すべてのものは独立・自立していない。すべては関係している。
ーーーー
これが正に「マーフィー則」なんですね。
私が急ぐことと、信号が赤になることが関係しています。

No.42のご返信は今読んでいますが、なかなか理解できません。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 哲学は難しいですね。
★ No.42のご返信は今読んでいますが、なかなか理解できません。
☆ そうですか。

見方を変えれば 《わたし》論ないし存在論ではあるのですが。



■ ~~~~~~
ホワイトヘッドが言っています。これは、ソシュールの構造言語学
の入門書に書いてあったことです。
ーーーー
すべてのものは独立・自立していない。すべては関係している。
ーーーー
これが正に「マーフィー則」なんですね。
私が急ぐことと、信号が赤になることが関係しています。
~~~~~~~~
☆ それは いわゆる構造主義でもありますね。その前には 相対
性の原則があります。

《関係主義》であり 極端には 《主体無しの歴史過程》というふ
うにも説かれました。



じつは ソシュールの《言語記号の恣意性》説は どうもそのまま
では成り立たないと考えています。

すでに何度もこの哲学カテで問うています。煩雑になるので リン
クも貼らないでおきます。

網の目のネットワークがあります。《関係だけ》というのは その
網を成してまじわる線だけということでしょう。

でも 交わりを成す交接点はあります。それが 相対的ながら・社
会関係的ながら それとして独立した意志行為の主体です。

関係と主体と両方があると考えます。

お礼日時:2017/11/06 17:17

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9157259.html?pg=1&i
で、
>(う) この《エス(英: it )》が 《無意識》といった意味合いを帯び ニーチェを
経てフロイトに行き着いたのだそうです。
ーー>
ですが、ニーチェとフロイトは同じ時期の人で交流もなかったのでは?
フロイトが生きていた時、ニーチェの本はまだ眠っていたんでは?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

№42で 佐藤優の所説について触れ損ねました。
かれの神学は 神学として ふつう一般的な内容として成り立って
いると見ます。

神論としての広がりがあるかどうか。出るかどうか。だと思います。



★ ですが、ニーチェとフロイトは同じ時期の人で交流もなかった
のでは?
☆ Lichtenberg を経て さらにニーチェを経由して フロイトに
到ったというひとつの見方が成されているという大雑把な議論でし
た。

《交流》の有る無しは 別だと思います。ですが わたしは検証し
ていませんので その点 おことわりしなければなりません。

▲ (ヰキぺ:リヒテンベルク) ~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA …
§ 2 控え帖
ショーペンハウアーは、リヒテンベルク・・・を大いに賞賛してい
る。・・・
他にも、ニーチェ、フロイト、ウィトゲンシュタインがリヒテンベ
ルクのノートを賞賛している
~~~~~~~~~~~~

☆ リヒテンベルクについてのリンク先が 変わってしまっていま
すね。あらたに次です。

▲ (エスの系譜) ~~~~
https://blogs.yahoo.co.jp/hiraokakimihiko/124454 …
ちなみに、ニーチェがフロイトよりも先にエスに言及していること
は、フロイト自身が積極的に主張していたことであり、哲学史上の
常識のようです。
~~~~~~~~~~~

お礼日時:2017/11/06 17:07

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9904929.html
を見てみましたが・・・
難しいですね。
ちんぷんかんぷ・・・
神学というものなんですか?

佐藤優

みたいなものですか?
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像42
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

或る任意の人が自分の神をいだき思っているとした場合 これは
《神観》です。おのが信仰の内容について何とか説明しようとし
ています。

これを 哲学として成るたけ経験合理性にもとづき説明したもの
は 《神論》です。哲学としての理論です。

神観を いわゆる宗教のオシヘとして――哲学であるかどうかを
問わないかたちで・おのが神観の展開にまかせて――説いたもの
は 《神学》です。

神学は 宗教・宗派の内部では 大事にされますが 哲学として
の説得力があるとは限りません。



神論一般において 神は――非知なる非経験の場として――同じ
ひとつの普遍神であり そのほかにはない。と見るのが 一般絶
対性です。

どんな名の神でも・あるいは 有る神のほかに無い神であっても
すべて ひとつの普遍神である。という内容です。

普遍神は 個々の人間においていだかれます。それは 個別絶対
性です。一般を個別に置き換えたものです。



ところが 神観というかたちで実際には 個別絶対性が持たれて
います。人それぞれだという意味です。

おれは神を見たぞという人がいた場合 その主観内における個別
絶対性は 認めざるを得ません。否定のしようがありません。

ただし 主観の外には出かけられません。

外に出て 別の主観においても同じ神観が持たれていると分かっ
た場合 その神は 人間の知性で認識しうるただの概念としての
神です。

人知が認識し得たものは 相対的な概念でしかなく 絶対性では
なくなります。


このように 個別絶対性は 実際には本人の神観を交えており
その特殊性をふくみます。

神なんかいるもんかという特殊絶対性もあるわけです。


しかも 人それぞれにその主観の内にあって 個別絶対性が成り
立っています。

それは 普遍神という一般絶対性なる前提(想定)に立つもので
す。そういう相互了解が成り立つのではないかという仮説です。

お礼日時:2017/11/06 16:28

>デカルトのコギトは いただけません。

そういう問題もあります。
ーー>
ニーチェも「善悪彼岸」で批判していましたね。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像41
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

あなたは 議論が アバウトすぎます。


【Q:デカルトの「我思う故に我あり」は間違ってないと肯定出来る
方はいますか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9157259.html?pg=1&i
☆ その回答№5が わたしのものです。


二―チェは そのコギトの主体たるわれが じつは 霊我とでも呼
ぶべきもので それを 《エス》という表現で フロイトにまでつ
ないだかとも見られています。

《われ考える。( Je pense. / Cogito. / Ich denke. / I think. )》
ではなく
《それが考える。( Cela pense. / Cogitat. / Es denkt. / It thinks. )》
だと捉える見解です。

お礼日時:2017/11/06 16:07

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す