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文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

○ 神とは何か?

§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。

質問者からの補足コメント

  • うまそうだ。


    昼まで 出かけます。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/04 09:00
  • №52つづき

    ★ 可能性ではなく原理的に、です。
    ☆ それは・つまり 原理的にという視点を持ち出すということは この世
    の中がすべては 相対的な関係として成り立っていると言っているのだと思
    います。

    それは そうなのでしょう。――でも それ以上のことは あまり言ってい
    ませんね。

    原理的にただしさ(変わらざる真理)が証明されないということは 相対的
    な世界で 可能性として妥当であったりなかったりするということなのでは?





    ★ 「マーフィー則」
    ☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。




    ★ では、・・・1/87のアメリカの鉄道模型です。
    ☆ 実際のがいいです。実際のなら 鉄道全般が 好きです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/07 10:36
  • 経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
    内容としてのものです。

    それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
    えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
    美があるという見方です。

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 07:24
  • ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。

    どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
    すみません。


    あらためて聞いてみます。

    No.66の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 08:52
  • 前野説は ダメです。

    能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。

    その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。

    ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
    たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
    指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。

    ところが
    ▲ 神は 生きている者の神である
    ☆ とイエスは はっきりと言っています。ですから 誤解もはなはだし
    い。

    プラトニズムと一緒にしてしまうという誤解をした人びとのその思想を批
    判しているに過ぎない。

    つまり 聖書を何にも知らない。阿呆です。

    こういう事例は 例外ではないのです。



    マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。

    これは とても科学する心だとは言えません。

      補足日時:2017/11/10 16:02
  • 1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
    な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
    説》が当てはまると。

    2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
    ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

    3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

    4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
    定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

    5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
    のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
    という意味では やはり神の霊なるチカラである。

    こういう問題なのでは?

      補足日時:2017/11/11 04:32
  • つづき

    ★ 我々は、時に、相手を思いやり、時に、意地悪をし、時に、相手の
    不幸を最高のイベントにします。
    ☆ それらすべてにわたって ひとの意志を踏みにじっていないかどう
    かや また同じことですが ヤマシサ反応に逆らっていないかどうか
    このリトマス試験紙が あてがわれます。区分されます。



    ☆☆ 抵抗も抗議も原状復帰も ナンセンスなことになります。
    ★ ~~~
    そのとおりです。
    ・・・
    手の付けようがないんですね。

    実際、兄貴のような考えでよくしていこうというのは不可能であると思
    います。
    ~~~
    ☆ ですから そういう自由度が――悪貨が良貨を駆逐するごとく――
    優勢であった時代・つまりじんるいの《前史》から やがて内なる開花
    とともに 《後史》に入ります。

    No.97の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 08:57
  • つづき

    ★ テトリス、コスモス、和の心の、神は調和的に人類の見方でした。正義の
    味方です。true justice.
    ☆ なぜ そうなりますか? 属性を考えて 真理・愛といったことを持ち出
    しましたが 《正義》は どうでしょう? 

    つまり 否定しようとはしませんが 愛が 愛憎を超えたものであるように 
    正義も 正邪を超えたものなのでしょう。


    ★ ボジョレーヌーボー開けて待っててね。
    ☆ ワインも何も 飲まなくなったなぁ。

    No.102の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 17:52
  • ▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
    丸山 圭三郎 (著)
    https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8 …

    ☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

    丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

    カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。

    No.156の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/16 16:35
  • 回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

    間違えました。すみません。

    特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
    間違えています。

    ご海容のほどをお願いいたします。



    (補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。

    No.176の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/17 14:12

A 回答 (290件中201~210件)

>司令塔は われである。

かまたは 人知を超えた神である。
ーー>
迷いなく「人知を超えた神である」と前野さんも答えると思います。

ーーーー
(神が司令塔であると見なされた場合にも その神のチカラとしての霊をヒトは
生まれつきそなえている。とも 想定される。この想定は必然的にみちびかれる
はずだ)。
ーーーー
ーー>
ここがわからないですね。
>この想定は必然的にみちびかれるはずだ
はさらにわかりません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 迷いなく「人知を超えた神である」と前野さんも答えると思います。
☆ もっと早い段階で 言ってもらえれば。・・・


☆☆ 《その(つまり 前野氏もみとめるところの)》神のチカラとし
ての霊をヒトは 生まれつきそなえている。とも 想定される。
☆ これは 想定です。そして 人びとの共同の主観――ヒトは仏性を
やどす――に理屈抜きでしたがったかたちになっています。

梵我一如・仏仏一如・霊霊一如なる想定は 世界において一般性を持つ
という〔粗い〕見方です。



☆☆ >この想定は必然的にみちびかれるはずだ
★ はさらにわかりません。
☆ みちびかないままだとすると 前野氏は その《人知を超えた神》
を そのあと どう扱うかだと思います。

想定したままにしておくのか。



でも たとえば 神の霊にかかわる人間の経験としては ヒラメキが
あり また 良心のハタラキと見られるヤマシサ反応があります。

やばいこと・恥づかしいことを思ったりさらにはそれを仕出かそうと
いうときには 胸が高鳴り顔が赤らみます。

これが ヤマシサ反応です。これは さすがに人間がその自由意志で
おこなっているものとは思えません。意志とは別に勝手に起きること
です。



もし 神の霊を想定するならば その霊なるチカラとこの良心やヒラ
メキなるハタラキとは 互いに関係がある・・・という見方が 必然
的にみちびかれるのではないでしょうか。

○ 神と人間 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
非経験の場:ブラフマン(梵)神
        ⇅
非思考の庭:アートマン(霊我):ヒラメキ    良心
                  ↓     ↓
思考の緑野:コギト      :思  想    ↓
感性の原野:センスス・コムニス:        やましさ反応
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ アートマンは ブッダターや 神の霊(ルーアハなど)と同じで
す。

このカカハリ(神と人との関係)が 人間は神の霊を分有するという
命題の内容です。




ですが ヤマシサ反応にさからって ひとごろしをするのも じつは
人間の意志の自由度です。受け身だけではないと考えます。

お礼日時:2017/11/12 06:40

ーーーー


人間には 自由意志がある。――いや そんなものはない。
受け身のほかに能動的な意志がある。――いやいや それがあった
としても その能動も 大きく広くは受動意識として成り立ってい
るんだ。
その司令塔なるムイシキは われのことだ。――いやいや ムイシ
キこそ われらが 皇帝なのだ。

――このような議論は どちらも 自分の能動的なチカラがそれぞ
れの自由意志としてはたらいている。のでは?
ーーーー
ーー>
なるほど・・・
正確に書き変えるとこうですか?
「このような議論には、すでに自分の能動的なチカラが自由意志としてはたらいている。のでは?」
なかなかこう考える者はいないと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~
正確に書き変えるとこうですか?
「このような議論には、すでに自分の能動的なチカラが自由意志として
はたらいている。のでは?」
なかなかこう考える者はいないと思います。
~~~~~~
☆ そうだ(こう考える者はいない)とした場合 犯罪行為の主体・司
令塔・そして責任者が 誰か? 何なのか? ――の問題になると考え
ます。

その議論は 付随的なものだと見なされるのかも分かりませんが 現実
の問題です。ので 答える義務があると思います。

お礼日時:2017/11/12 06:21

ーーーー


★ 前野さんのモデルでは司令塔は我ではないです。
☆ では 誰ですか? 何が司令塔ですか? 
ーーーー
ーー>
わからないです。それをニーチェは日本語訳では「本能」、
フロイトはエス、スピノザは「神」と言っていると思います。
科学では「法則」ですかね。

ーーーー
★ 無意識を我というか言わないか
☆ ではなく そういう見方ではなく ムイシキなる司令塔を《わ
れ》だと見なすかどうかだと捉えています。
ーーーー
>ムイシキなる司令塔を《われ》だと見なすかどうかだと
ーー>
意識できない司令塔が我に属するとは考えませんね。
これは前野さんも同じです。
我の管理できないものを我とは言いません。
もしこれも我と考えるなら、そこが違うところですかね。


>そうでなければ 世の中は すべてムイシキの為すがままとなりま
す。
ーー>
いま、こう考える人が多いのでなないでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆ 何が司令塔ですか? 
★ わからないです。
☆ では 仮説であり それが何であるかが 解明されるのを俟つこと
になるんだと思います。

★ それをニーチェは日本語訳では「本能」、フロイトはエス、スピノ
ザは「神」と言っていると思います。
☆ 本能とエスとは ヒトに自然本性としてそなわっていると見る限り
われの行為能力です。

ちなみに 本能は ヒトにあっては こわれているという仮説もありま
す。


ですが そのチカラやハタラキ(影響をおよぼす作用)が 人間の手に
は負えないほどだとしても やはり人間のそなえたチカラです。

そのチカラは むしろ心神喪失の状態をみちびくか または その状態
において現われるかだとすると 問題が多く大きいことになりますが
これをもわれわれ人間は なんとか人間性の次元で捉えるように動くの
だと思います。

神は 神の霊としてヒトが分有する場(チカラ)だという捉え方にも
かかわります。


★ 科学では「法則」ですかね。
☆ それは まだ名づけの段階なんだと思います。

法則としてすでに特定され内容が規定して認識されているなら まづそ
れは 人間なるわれの行為能力か それとも それを超えたものかが
問われます。

人知を超えたものだとしたら 神の場になります。

超経験に近い法則だったなら 特定し得る法則だと言う限りでその幾分
かは 人知が及んでいるのですから その内容を 部分的にでも 人間
が利活用することが出来るかも分かりません。

どうしてもお手上げの超絶的なチカラだったとしたら 神の霊と見なす
か もしくは 未知ないし不可知の・それでもやはり経験現象と捉える
かだと思います。




★ 意識できない司令塔が我に属するとは考えませんね。
これは前野さんも同じです。
我の管理できないものを我とは言いません。
☆ だとすると その仮説は 犯罪行為の口実に利用されます。悪魔が
指令を発したんだから われに責任はない・・・という発言が まかり
とおってゆくことになります。

と文系は 考えるでしょうね。

☆☆ >そうでなければ 世の中は すべてムイシキの為すがままとな
ります。
★ いま、こう考える人が多いのでなないでしょうか?
☆ まだ 仮説です。

お礼日時:2017/11/12 06:16

>座標を拡大し 普遍性を広げた。


ーー>
ところが、量子論は古典論を抱合できないのです。
普遍性を広げたのではなく、使える対象が違うんです。
だから、相対論と量子論は仲が悪いんです。
量子論でロケットの軌道は計算できません。


>思考形式は 経験合理性にもとづくというもので変わりないはずで
す。
ーー>
思考形式の意味が兄貴と私で違うのかもです。

>思考ないし認識にあたっての枠組み(パラダイム)をあらたなもの
にしたのだと思います。
ーー>
思考形式とパラダイム(クーンの出したことば)の違いは判りません。
ただし、クーンは晩年、この言葉を使うことをやめたそうです。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像87
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 相対論と量子論は仲が悪いんです。
☆ そうみたいですね。統一理論を目指すということなんでしょう。

★ 量子論でロケットの軌道は計算できません。
☆ ぢゃあ 《座標を広げた》のではなく もう一つの座標をつくって
世界を捉えたんでしょうか。

今後の探究を俟つということではないでしょうか。




★ 思考形式とパラダイム(クーンの出したことば)の違いは判りませ
ん。
☆ そうなんですか。

でも 座標は設定しますよね。たとえば 《次元》とか。

お礼日時:2017/11/12 05:53

マーフィー則は、


「私が急いでいる」

「信号が赤になる」
とが関係しているーー連動しているーーいう、
科学では考えられないような現象を法則として想定します。
科学ではナンセンスですが、そんなことはない、という証明を
科学はできません。
現在、素粒子論ではもっとおかしな想定がされています。
その1つは「パラレルワールド」です。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像86
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

わたしの見方は こうです。:
★ ~~~~~~~~~
「私が急いでいる」

「信号が赤になる」
とが関係しているーー連動しているーー
~~~~~~
☆ と見なされるような事例が 世の中にはある。そのような一面
の事例を マーフィー則とする。

ただし このひとつの事例を 全面に広げることは また別の問題
である。あらたにそのこと(拡大版)を 実証ないし論証しなけれ
ばならない。




★ パラレルワールド
☆ いづれ証明し得るか否かが 分かるようになるのだと思います。

お礼日時:2017/11/12 05:47

> 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。

と想
定されます
ーー>
前野さんの場合、そう想定しないのだと思います。
どうして想定しなければいけないか?

ですかね・・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆(六つ目の補足欄) ~~~~~~
1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
説》が当てはまると。

2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
という意味では やはり神の霊なるチカラである。

こういう問題なのでは?
~~~~~~~~~
☆ つまり 《司令塔》は ムイシキなり何なりどう呼ぼうが われである。

しかし もしわれでないとすれば それは 人知を超えた場(チカラ)としての
神である。

そして一般に 一切衆生 悉有仏性と言って――理屈を超えて――このブッダタ
ーのことが受け留められているごとく 神が司令塔だという可能性の場合には
さらに《その神の霊を われわれ人間が生まれつきの自然本性にやどす》という
内容をも想定している。はずだ。

つまり アートマン(霊我)なり神の霊(ルーアハ;プネウマ;スピリトゥス)
なりブッダター(仏性)なりを ヒトは分有する。という見方がみちびかれると。



つまり:
司令塔は われである。かまたは 人知を超えた神である。

(神が司令塔であると見なされた場合にも その神のチカラとしての霊をヒトは
生まれつきそなえている。とも 想定される。この想定は必然的にみちびかれる
はずだ)。

Q: では司令塔にムイシキを提示する場合 そのムイシキとは いったい何な
のか?

幽霊ではないでしょうから 何なのですか?

お礼日時:2017/11/12 05:23

まず、兄貴と前野さんがどこで違ってきているのかを


調べなくてはなりません。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像84
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この回答へのお礼

それは そうでしょうね。そのとおりです。

お礼日時:2017/11/12 05:08

ーーーー


1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
説》が当てはまると。

2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。
ーーーー
で、
>そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである
ーー>
これがわからないですね。前野さんのモデルでは司令塔は我ではないです。
無意識を我というか言わないか、これは論理的なことではなく、趣味の
もんだいでは?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 前野さんのモデルでは司令塔は我ではないです。
☆ では 誰ですか? 何が司令塔ですか? 

つまり:
★ 無意識を我というか言わないか
☆ ではなく そういう見方ではなく ムイシキなる司令塔を《わ
れ》だと見なすかどうかだと捉えています。

そうでなければ 世の中は すべてムイシキの為すがままとなりま
す。




人間には 自由意志がある。――いや そんなものはない。

受け身のほかに能動的な意志がある。――いやいや それがあった
としても その能動も 大きく広くは受動意識として成り立ってい
るんだ。

その司令塔なるムイシキは われのことだ。――いやいや ムイシ
キこそ われらが 皇帝なのだ。

――このような議論は どちらも 自分の能動的なチカラがそれぞ
れの自由意志としてはたらいている。のでは?

もしそうだとしたら:
★ これは論理的なことではなく、趣味のもんだいでは?
☆ とは 言えないでしょうね。

趣味の問題ではなく 人間の意志と心の問題です。世界認識につい
て納得のゆく答えであるか否かですから 人間性と現実の問題です。

そしてそれは 取りも直さず 論理のとおった内容でなくてはなり
ません。

お礼日時:2017/11/12 05:07

N0.100


はもうすぐです。

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マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。
これは とても科学する心だとは言えません。
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ーー>
マーフィー則はマーフィー学と言われ科学ではありません。
科学は思考形式の1つにすぎず、特別なののではありません。
哲学も思考形式の1つです。

物理の中でも古典力学と量子力学は、その思考形式が違います。
量子力学は、古典力学のモデル(思考形式)で説明できない
現象を説明するために生み出されました。だから、古典力学
の思考形式でみるととてもいい加減に見えます。つまり、
とても科学とは言えませんが、生き残っています。

マーフィー則も同じです。古典力学や量子論で説明できない現象
をそのまま考える思考形式なんです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~
マーフィー則はマーフィー学と言われ科学ではありません。
科学は思考形式の1つにすぎず、特別なののではありません。
哲学も思考形式の1つです。
~~~~~~~~
☆☆(№75お礼欄) 一面の真実。に関するかぎり 妥当である。
拡大化には また別の推論と証明が必要です。
☆ と考えますし このことは 科学としての内容であると思いま
すよ。


★ 物理の中でも古典力学と量子力学は、その思考形式が違います。
☆ いいえ。〔と自然科学音痴が出しゃばりますが〕 おそらく世
界認識のための座標をあたらしくしたのだと思います。

座標を拡大し 普遍性を広げた。

思考形式は 経験合理性にもとづくというもので変わりないはずで
す。

思考ないし認識にあたっての枠組み(パラダイム)をあらたなもの
にしたのだと思います。

次の《モデル(思考形式)》について いま述べたもののように考
えます。
★ 量子力学は、古典力学のモデル(思考形式)で説明できない
現象を説明するために生み出されました。だから、古典力学
の思考形式でみるととてもいい加減に見えます。つまり、
とても科学とは言えませんが、生き残っています。
☆ つまり 《科学として》あらたな世界認識をもたらしたのだと
思います。

★ マーフィー則も同じです。古典力学や量子論で説明できない現
象をそのまま考える思考形式なんです。
☆ 聞いたことがありません。これから 認知されるようになりま
しょうか どうでしょうか。

お礼日時:2017/11/12 04:55

この世は物質と精神で構成されています。

もし、この世は物質のみで構成されているとしたら、私は何も感じないでしょう。

熱いとか赤いと感じている主体が私です。熱いとか赤いと言う感じは、幾ら高性能な顕微鏡で脳の中を覗いても見えません。物質が、熱いや赤いに対応する動きをしているのが見えるだけです。
その動きの刺激を受けて、精神である私が熱いとか赤いと感じているのです。
熱いや赤いは物質ではないので、それを感じている私も物質ではありません。私は、無限の感受性である精神です。

物質の全体を宇宙と言います。質問者さん、それでは「精神の全体」を何と呼んだら良いでしょうか。

そして、この世の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果が原因となり更に結果を生じると言う形になります。
従って、宇宙の始まりは原因なくして結果を生じなければなりません。つまり、無から有を生じなければなりません。しかし、それは不可能です。

一方、精神は物質を動かすことが出来ます。精神である私は物質である手を動かすことが出来ます。ですから、宇宙の始まりにおいて最初に動いたものは、「原因から自由な精神」以外にはありません。

質問者さん、この「宇宙を創造した精神」を何と呼んだら良いでしょうか?

 ユダヤ教・キリスト教では、外界は神が創造したと信じます。
 ここに物が落ちたのは、ここに落ちるように、宇宙が作られているからであると考えます。そして、どうしてここに落ちたのかを追求し、 物体は外から力が加わらなければ、そのまま飛び出した方向へ等速運動を続けるが、落下距離は時間の2乗に比例する為、 放物線を描いて地上に落下し、ここに落ちたことを発見します。
 宇宙で起る全てのことは、必然であり意図されたものであると考えます。ですから、一見偶然に思える事柄に対しても、 必然であると確信し、その仕組みを解明しようとします。
 ある天才は、「神はサイコロを振らない。」と言いました。 これは、現象を確率で説明しようとする態度に対して、必然な説明をしなければならないと批判したものです。
 この様に、西洋では神が宇宙を創造したと言う確信により、自然科学は発達して来ました。

 それに比べて、東洋では仏が宇宙を作ったとは考えません。精神の中に仏が存在していると考え、内心の仏を追求します。
 宇宙は偶然出来たと考えます。物は色んな所に落ちます。物がここに落ちたのは偶然だと考えては、 落下の法則や万有引力の法則は思いつかないでしょう。
 無神論も同様です。ハッキリと必然と分ること意外は偶然であると考えたのでは、人に先駆けて新しいものを発見することは出来ません。


 神を持ち出すと、単純に非科学的であると非難する方が居られます。しかし、科学で全ての現象を説明出来るでしょうか。
 第一、物質の因果関係のみでは、宇宙の始まりを説明することは出来ません。 物質の因果関係は、原因→結果=原因→結果=原因→結果・・・と続きます。原因があり、その為に結果が生じ、 その結果が原因となり次の結果が生じると言う順番となります。
 しかし、これでは最初の原因が存在出来ません。その最初の原因は、何らかの原因により生じなければなりませんが、それがありません。 物質のみでは、宇宙の始まりを説明できないのは自明のことです。

 また、コインのゲームを考えて見ます。コインを縦に立て、倒れて表が出れば私が勝ち、裏が出れば貴方が勝ちます。 科学では、このゲームで私が勝つ確率は50%、負ける確率も50%としか言えません。 しかし、現実にはどちらかが勝ち、掛け金を全て手に入れます。それを決めるのは何でしょうか。
 これと同じことは、素粒子レベルでは無数に起っています。完全に均衡している状態で、僅かな力が加わり少しの不均衡が生じると、 不均衡が不均衡を呼び次第に大きくなり、終にはコインは倒れます。

 確率は50%ですが、ほんの僅かな力が加わることで、表が出たり裏が出たりする。その為に、ある者は人生で成功し、ある者は失敗する。 その僅かな力が精神である可能性はあります。

 精神である私は、物質である手を動かすことが出来ます。肉体は動かすか動かさないかで物的に均衡した状態にあります。 ほんの僅かな精神の力を、物的に均衡した物質(脳)に加えることにより、手は動いたり動かなかったりします。 この様に、精神は物質を動かすことが出来ます。

 単なる偶然の連続で、この宇宙は進行しているのでしょうか。それとも、何らかの意図があり、僅かな精神の力が加えられているのでしょうか。

正しい知識を得るには、全てのものを疑うことの出来ない自明なものなのか否か問いかけることが必要です。 デカルトは、この方法的懐疑により、全ての知識を自明なものか否か検証して見ました。
 その結果、自明なことは唯一つしかないことが判明しました。それは、全てのものを疑っている自分が存在することだけは 疑うことが出来ないと言うことでした。 「我思う故に我あり。」です。それ以外は、正しいと思ってはいたが、そう思っていただけであることが分りました。 これが「無知の知」です。

 しかし、自明なものしか信じないのであれば、そこまでです。そこから先は、何を信じるかによります。
 心は、その中に宇宙を作り出しています。私たちが感じている宇宙は、心の外の宇宙ではありません。心が作り出した宇宙です。 心の外を覗くことは不可能です。心の外に、宇宙があるのかどうかも分りません。
 しかし、心は外界に似せて、心の中に世界を作り出しているのです。心の中では、1+1=0でも、1でも3でも何でも構いません。 心の中に在るものは、消えたり生じたりします。従って1つと1つ在ったものが消え去り0となっても良いし、 新しく生じて3になっても良いのです。決して増えもせず減りもしないと前提して、1+1=2としなければならない必要はありません。

 しかし、外界では、無から有は生じませんし、有が消滅して無となることもありません。エネルギー保存の法則が成立します。 従って、1+1=2でなくてはなりません。
 心が1+1=2に制約されている事実は、心の中の世界は、外界に出来る限り似せて作られていることを証明しています。 外界に1+1=3を適用すると、その行動は誤りであり、失敗するからです。
 従って、外界には、心で感じている様な世界が存在することを前提とせざるを得ません。

 宇宙の仕組みを完全に解明した時、物質だけでは説明出来ないことが残されたら、神の存在を証明したことになります。  この様に、宗教は全く科学的な態度であると言えます。

「神の存在」について、私のホームページに纏めました。是非ご参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/syuukyouhahikagakut …
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