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文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

○ 神とは何か?

§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。

質問者からの補足コメント

  • うまそうだ。


    昼まで 出かけます。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/04 09:00
  • №52つづき

    ★ 可能性ではなく原理的に、です。
    ☆ それは・つまり 原理的にという視点を持ち出すということは この世
    の中がすべては 相対的な関係として成り立っていると言っているのだと思
    います。

    それは そうなのでしょう。――でも それ以上のことは あまり言ってい
    ませんね。

    原理的にただしさ(変わらざる真理)が証明されないということは 相対的
    な世界で 可能性として妥当であったりなかったりするということなのでは?





    ★ 「マーフィー則」
    ☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。




    ★ では、・・・1/87のアメリカの鉄道模型です。
    ☆ 実際のがいいです。実際のなら 鉄道全般が 好きです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/07 10:36
  • 経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
    内容としてのものです。

    それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
    えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
    美があるという見方です。

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 07:24
  • ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。

    どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
    すみません。


    あらためて聞いてみます。

    No.66の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 08:52
  • 前野説は ダメです。

    能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。

    その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。

    ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
    たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
    指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。

    ところが
    ▲ 神は 生きている者の神である
    ☆ とイエスは はっきりと言っています。ですから 誤解もはなはだし
    い。

    プラトニズムと一緒にしてしまうという誤解をした人びとのその思想を批
    判しているに過ぎない。

    つまり 聖書を何にも知らない。阿呆です。

    こういう事例は 例外ではないのです。



    マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。

    これは とても科学する心だとは言えません。

      補足日時:2017/11/10 16:02
  • 1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
    な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
    説》が当てはまると。

    2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
    ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

    3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

    4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
    定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

    5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
    のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
    という意味では やはり神の霊なるチカラである。

    こういう問題なのでは?

      補足日時:2017/11/11 04:32
  • つづき

    ★ 我々は、時に、相手を思いやり、時に、意地悪をし、時に、相手の
    不幸を最高のイベントにします。
    ☆ それらすべてにわたって ひとの意志を踏みにじっていないかどう
    かや また同じことですが ヤマシサ反応に逆らっていないかどうか
    このリトマス試験紙が あてがわれます。区分されます。



    ☆☆ 抵抗も抗議も原状復帰も ナンセンスなことになります。
    ★ ~~~
    そのとおりです。
    ・・・
    手の付けようがないんですね。

    実際、兄貴のような考えでよくしていこうというのは不可能であると思
    います。
    ~~~
    ☆ ですから そういう自由度が――悪貨が良貨を駆逐するごとく――
    優勢であった時代・つまりじんるいの《前史》から やがて内なる開花
    とともに 《後史》に入ります。

    No.97の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 08:57
  • つづき

    ★ テトリス、コスモス、和の心の、神は調和的に人類の見方でした。正義の
    味方です。true justice.
    ☆ なぜ そうなりますか? 属性を考えて 真理・愛といったことを持ち出
    しましたが 《正義》は どうでしょう? 

    つまり 否定しようとはしませんが 愛が 愛憎を超えたものであるように 
    正義も 正邪を超えたものなのでしょう。


    ★ ボジョレーヌーボー開けて待っててね。
    ☆ ワインも何も 飲まなくなったなぁ。

    No.102の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 17:52
  • ▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
    丸山 圭三郎 (著)
    https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8 …

    ☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

    丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

    カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。

    No.156の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/16 16:35
  • 回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

    間違えました。すみません。

    特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
    間違えています。

    ご海容のほどをお願いいたします。



    (補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。

    No.176の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/17 14:12

A 回答 (290件中211~220件)

神とは生、生命そのもの



という話をあなたから聞いてとても感銘を受け、喜び、こころが落ち着きました。


研究者は真理を探究して、願わくは様々な真理をよく調和させて、よき人生を多くの人に受けさせる手伝いになるように、と思います。

人間に自らの生を健康に保全する、という立場からみれば、わざわざスキを見せて自分の生存のリスクを負っているようなところもあるように思います。

自らの使命に集中するあまり、わが身を省みる暇が欠如しているてんは、もちろん、研究者だけの話ではなくて、一般の人も自分の仕事に精いっぱいで、よく生きることが目的なのに、過労死寸前まで働いている人々もいます。

競争のために、百パーセント他人を信じられなくなることが多くなる現代人ですが、ほんの 1 パーセントでも神のことを思い出して、他人のことを思いやることはできるかもしれない

そのような感じで、ふと冷静になって、研究している仲間の後ろ姿をみると、なんともみすぼらしい姿をしている。おそらく自分もこのようなみすぼらしい姿で真理を探究して、人々の役に立てればいいな、と思っているんだろうなと考えると面白くなる

という感じでした。そういう意味で人間は愛すべきものではないですか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~
神とは生、生命そのもの

という話をあなたから聞いてとても感銘を受け、喜び、こころが落ち
着きました。
~~~~~~~~
☆ ただしそれは やはり人間の憶測になります。とことわらざるを
得ないことです。

神とは そういうものです。

もっとも イエスは:
▲ わたしは 真理であり 生命であり 道である。
☆ と言ったと書いてあります。



★ 研究者は真理を探究して、願わくは様々な真理をよく調和させて、
よき人生を多くの人に受けさせる手伝いになるように、と思います。
☆ もちろん そういった姿勢や態度は あり得ます。いろんなタイ
プがいることでしょう。

問題は 研究者や学者というのは 中立なんです。善悪を考える場合
にも その良し悪しの価値観から自由に 事実ないし現実を捉えるこ
とを心がけます。

人間の心のウゴキにしても 価値自由に認識します。ひとつの見方か
らすれば じつに味気ない話になるのでしょうが 学問というのは
そういうものです。

事実と価値自由な論理を明らかにしてのべて その仕事が果たされま
す。

その或る種の仕方で無味乾燥のことがらを提出して そこから 意味
を引き出して欲しいと思っています。

その文章に触れて 《われに還る》という事態が生じたならば さい
わいこの上ないと思うでしょう。

差し詰めとしては 世界における自己の位置づけができるならば う
れしいはずです。

この世界における自己の了解です。哲学的な自己了解 これを目指し
ています。



こんな感じでしょうか。

お礼日時:2017/11/11 16:34

のぞきあなを覗く探求者はその覗いているものに対して注目しています。



自分の間抜けな後ろ姿には注意を払わないのです。

その間抜けな後ろ姿を見守ってくれる友達が大切なのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ですが 神とは何か? の問いですよ。

でも 前回と同様にお応えしますと:

探求者は なぜ覗き穴をのぞくかたちで探求すると捉えるのでしょう?

そうだとして どういう意味がありましょうか?

覗き穴を覗く探究者は:
★ 間抜けな後ろ姿
☆ をしていると どうして決まっていますか?

お礼日時:2017/11/11 15:38

意識は鏡、思考はプリズム、あるいは、回折格子、自我は回転軸をもったのぞきあな



でしょうか。思考と自我は逆でしょうか。

意識は敢えて意識(注意)を与えなければ、まっすぐな平たい像を結びますが、

自我をもった思考は一部をより詳しく観察することができます。

部分部分を再構成して、全体像に当てはめ、より細密なイメージを作ろうとしていないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~
意識は鏡、思考はプリズム、あるいは、回折格子、自我は回転軸をもった
のぞきあな

でしょうか。思考と自我は逆でしょうか。
~~~~~
☆ 世界におけるものごとは まづ知覚および認識から始まります。それ
を意識しつつ 認識を確実なものとし そのあと 思考します。



その事実認識を 自分の理解している世界観の中に整理しなおします。

整理しえず 世界における位置づけに困ったなら さらに考えます。



考え終わったら そうだとしても そこにそぐわない内容が出て来ている
としたら これを 実際にどうするか。その施策を考えます。

みなさんの意見を聞きつつ 施策を修正しつつ みんなによる採決で取り
決めて行きます。

と考えます。

お礼日時:2017/11/11 13:20

ーーーー


ニーチェにしても いくらも検討しているスレッドを提示しました。

最大の問題は ディオニュソス賛歌になると オウム真理教と同じ
になるということです。

『バッコスの信女』は 復讐も――ディオニュソス神の信徒による
ものであれば―― 正当化されるという論理です。
ーーーー
ーー>
兄貴!
これは問題外だぜ!

ーーーー
一面こそ全体なんだぜ!
一面から、全体を憶測するしかないんだぜ!
☆ 一面の真実。に関するかぎり 妥当である。拡大化には また
別の推論と証明が必要です。
ーーーー
ーー>
兄貴!それは、≪原理的に≫不可能です。

ーーーーーーーーーーーー生意気なサム
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像77
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ 『バッコスの信女』は 復讐も――ディオニュソス神の信徒に
よるものであれば―― 正当化されるという論理です。
★ 兄貴! これは問題外だぜ!
☆ いやいや。ディオニュソスを賛嘆しているなら 問題です。つま
り この神によってみとめられるなら 復讐においてその仇をころし
ても 問題もなく咎められることもないという論理ですよ。

ポアの論理と 実質的に変わりありません。

そんなことを ゆるしてよいのですか?





☆☆ 一面の真実。に関するかぎり 妥当である。拡大化には また
別の推論と証明が必要です。
★ 兄貴!それは、≪原理的に≫不可能です。
☆ ん? 人間のチカラには 自発的な主体的なウゴキをうながすも
のと そうでなく受け身としてのウゴキとをおこなうものとがある。

受け身のチカラとウゴキが 確かに間違いなく現実に見られ認められ
ているからと言って その受け身という一面だけが 現実のすべてだ
と言うわけには行きません。

能動的なチカラとそのウゴキもあるのですから。




仮りにこの能動的なウゴキも じつは ムイシキなる司令塔から促さ
れているという受動的な意識と意志とに過ぎないと仮説した場合 そ
の場合にも そのムイシキなる司令塔は じつは 《わたし》なので
す。


つまり 《原理的に》人間は 意志の自由な選択のもとに 受け身だ
けではなく 能動的にも動くものなのです。

なぜなら じつに人間は おのれの心や信念にさからってでも ひと
をころすという行為を為すことがあるからです。


それは 能動的におのれの意志においておこなった行動です。ディオ
ニュソスの神のお告げに従ったまでだと弁解するなら その弁解じた
いも 能動的におこなっているわけです。

法に従いなさいという命令は 受動しないということでしょうか?
つまり 受動しない・法にさからうということは 能動的な振る舞い
になります。




★ ーーー生意気なサム
☆ 生意気は 何ら問題になりません。あたまの固いこと・心を閉ざ
していることがあるならそれは 一般に 問題です。

心の明けが 大事なのだと考えます。

お礼日時:2017/11/11 12:18

ーーーー


今度の座間でのひとごろし。これも 受動意識仮説によって解釈
するならば どうなりますか?

ムイシキからの指令があった。よって それに従った。それだけ
のことだよおおーーん。

――と弁明するならば すべては ゆるされる・・・のではない
ですか?

なぜなら その司令塔なるムイシキは そのひと本人ではないか
らです。
ーーーー
ーー>
またくその通りです。

ーーーー
なぜなら その司令塔なるムイシキは そのひと本人ではないか
らです。
ーーーー
ーー>
ここですよね!
肝!
兄貴!
では、
>そのひと本人ではないから
では、
>私ななぜ私?
覚えていますか?
どうでしょうか?
本人とは?
何でしょうか?
そんな者がいるのですか?
証明できますか?

ーーーー
あるいはむしろ そのような指令をは発するムイシキというのは
これまでの歴史をも下敷きにして いまの社会があゆんでいるそ
の姿 そのような情況から生じて来ているものだ・・・とも解釈
できます。
ーーーー
ーー>
兄貴!
これは意味不明ざぜ!

>すべての意識と行動とは 受動なんですから。
ーー>
その通りです!意義ありません。

ーーーー
ちがいますか? それでいいんですか? 文系のあたまは それ
を弾劾します。
ーーーー
ーー>
以上です!
すいません!
兄貴にたいして、・・・です。

ーーーーーーーーーーーーーー兄貴のサム
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像76
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ ~~~~~~
今度の座間でのひとごろし。これも 受動意識仮説によって解釈す
るならば どうなりますか? 
・・・
なぜなら その司令塔なるムイシキは そのひと本人ではないから
です。
~~~~~~~~
★ またくその通りです。


★ では、本人とは? 何でしょうか?
☆ あきらかですよ。
☆☆ ムイシキからの指令があった。よって それに従った。それ
だけのことだよおおーーん。――と弁明するならば
☆ の場合のその《弁明した人》のことです。

一般に《われ》は 実際に発言があるので 分かります。



☆☆ そのような指令をは発するムイシキというのは これまでの
歴史をも下敷きにして いまの社会があゆんでいるその姿 そのよ
うな情況から生じて来ているものだ・・・とも解釈できます。
★ これは意味不明ざぜ!
☆ ユングの集合的無意識を参照してくださいますか?


☆☆ >すべての意識と行動とは 受動なんですから。
★ その通りです!意義ありません。
☆ という場合には 親がわるい。周りがわるい。社会がわるい。
政治がわるい。歴史がわるい。・・・

ということになり 個人は それらの動きについて《受動》なんだ
から 何もわるくはない。責任はない。・・・
――となってしまいます。まいか。

お礼日時:2017/11/11 11:59

ーーーー


前野説は ダメです。
能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。
その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。
ーーーー
ーー>
ウーーン、兄貴!!!
助けてくれーー
なんでそこまでわからないのか!!!
科学的な思考形式を!
コノヤロー、兄貴よ!
ーーーーーーーーサム

ーーーー
ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。
ーーーー
ーー>
バカヤロー、兄貴!
間違っているぜ!
ウーーン・・・ニーチェはそうは言っていないんだぜ!
兄貴といえども、・・・だぜ!
悪けんど、兄貴はニーチェを読んで、理解したことがあるのかい?
しかし、
プラトンを大衆向けにしたのがキリスト教、というニーチェの意見は間違いだね。

>マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。
これは とても科学する心だとは言えません。
ーー>
兄貴よ!もうサムは、怒り百倍だぜだぜだぜっぜっぜっぜーー
ーーーーーーーサムは怒った!
兄貴よ!
兄貴よ!
兄貴と言えども、
>マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。
はダメだぜ!
一面こそ全体なんだぜ!
一面から、全体を憶測するしかないんだぜ!
どうだろうか?
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像75
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この回答へのお礼

なんで 伝わらないんだ。

№74のお礼欄での説明は どうなんだ。


ニーチェにしても いくらも検討しているスレッドを提示しました。

最大の問題は ディオニュソス賛歌になると オウム真理教と同じ
になるということです。

『バッコスの信女』は 復讐も――ディオニュソス神の信徒による
ものであれば―― 正当化されるという論理です。




★ 一面こそ全体なんだぜ!
一面から、全体を憶測するしかないんだぜ!
☆ 一面の真実。に関するかぎり 妥当である。拡大化には また
別の推論と証明が必要です。


ご回答をありがとうございます。



昼まで 出かけます(見舞いに行きます)。

お礼日時:2017/11/11 09:05

まず、プロローグ


あーー、兄貴よ、
あなたを見ていると数学者から転じたフッサールかなーー
よくもこんなにーーどうしてなんかな?
我々ーーサムと兄貴ーーはどうしてこんなバカなことに
熱中しているのか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

あんちゃんの考えるにはですよ。

今度の座間でのひとごろし。これも 受動意識仮説によって解釈
するならば どうなりますか?

ムイシキからの指令があった。よって それに従った。それだけ
のことだよおおーーん。

――と弁明するならば すべては ゆるされる・・・のではない
ですか?

なぜなら その司令塔なるムイシキは そのひと本人ではないか
らです。

あるいはむしろ そのような指令をは発するムイシキというのは
これまでの歴史をも下敷きにして いまの社会があゆんでいるそ
の姿 そのような情況から生じて来ているものだ・・・とも解釈
できます。

すべての意識と行動とは 受動なんですから。

ちがいますか? それでいいんですか? 文系のあたまは それ
を弾劾します。

お礼日時:2017/11/11 08:36

多神教のギリシャに、キリスト教を広めたいと思った人が、プラトンのイデアが一神教のように見えるので、プラトンの考えを利用したのではないのですか。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ プラトンの考えを利用したのではないのですか。
☆ アウグスティヌスは たとえば『神の国』の中で かなり詳細に
プラトンの思想に触れています。

ほぼ同じと言ってよいほどだと言うまでに その類似性をみとめてい
ます。

ただし 類似性であって その神は たとえば人間や経験世界と――
いかに愛の神だと言っても――絶対のへだたりがあるということ。

ですから この意味での神論としては プラトンのイデア説は 明確
に違うのだと言います。



★ キリスト教を広めたいと思った人
☆ パウロですが それは決して《キリスト教》ではありません。つ
まり オシヘを信じるのではないということ。(ヘブル書8章)。

神はモーセをとおして律法をもたらしたが イエスは 真理と恩恵を
もたらした(ヨハネ福音1章)。というとき どの――名の――神か
は 問題でなくなりました。

真理は 普遍神であり 恩恵は いのちのことだとも捉えられます。



★ 多神教のギリシャに
☆ 多くの神々がいますが その最高神ゼウスを問うというよりは
そのゼウスをもふくめてすべての神々は 《名も無い神》とも言え
るやはり普遍神のもとに 含まれます。その分身となっているとい
う見方です。

つまり かたちとして 一神教なのです。

ギリシャ人たちの神話は すべての神々をまとめて一つの体系を成
している。そしてそれは ヒンドゥイズム(インド教)でも同じで
あり 日本教でも同じことです。

つまり 多神教として語られる民族神話は それぞれがひとつのま
とまりを持った神々の世界を形成しており――それゆえ ひとつの
ナショナリズムと成り得る―― それとして《一神教》と同じかた
ちだと見ざるを得ないはずなのです。


日本教(クウキ教)
 総本山
 神道支部
 仏教支部
 キリスト教支部
 マルクス教支部
 お花畑支部

これらが ひとまとまりとして 《一神教》のかたちを成してい
るのです。

お礼日時:2017/11/10 18:12

ーーーー


経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
内容としてのものです。
それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
美があるという見方です。
ーーーー
ーー>
兄貴の文章はあの「精神現象学」や「存在と時間」みたいで難しいですよ。
3回読みましたが、ダメでした。
前野さんと兄貴の違いを整理したいと思います。
どこが違うのか?
考えているモデルが違うんでしょうね。
前野さんはニコンにいた技術屋です。私も。科学から考える哲学なんですね。
兄貴はそうでない。この育ちの違いが、思考形式の違いになりますね。

ーーーー
真偽を超えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
美があるという見方です
ーーーー
ーー>
プラトンのイデア説ですかね?
ニーチェが徹底的に非難した・・・


ーーーー
ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。
どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
すみません。
あらためて聞いてみます。
ーーーー
それはよかった!
これは、フロイトやニーチェの考えを、科学的に確認している内容だと思います。

ーーーー
★ この質問の期限はありますか?
☆ たしか 4週間だったんですが 確認のため《利用規約》を読んでも
よく分かりません。(書いてないと思うのですが)。
ーーーー
知恵袋は7日なんですよ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

兄貴になっちゃった。弟よと言わなくちゃなんない。


前野氏講義 まだです。(主任刑事モースというミステリーを見て
いました)。


理系と文系とで 考え方が違うとは言われたことがあります。

問題は 中身です。結果です。

プラトンのイデア説と間違われては 弱ったものです。

次の捉え方が 理系と文系とでどう違うか。説明していただきたい
ものですね。違いませんよ。


○ 世界の認識についてのあり方 ~~~~~~~~~~

 経験事象
   可知
    既知:間違っていたと知る場合をふくめて一たん知った
    未知:いづれ知り得ると見なされている

   不可知:知り得ないと証明されたものごと

 非経験の場 (経験世界を超えた場・人知を超えている)
   非知:知り得るか知り得ないかが 知り得ないナゾ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 《非知》が 神のことです。

プラトンとの違いは 仮りにもしこの非知だったとしても そのイ
デアは あたかも人知が及び得て これこれこうだったと説明ので
きるかたちになっている。

この地上に生まれる前には あれそれそうだったと説明している。
それは 半分(?) 人知が及んでいるかのようである。

そうであるなら 非知としては アウトです。神ではありません。

非知は 観念論ではないのです。《非経験の場・超経験》を想定し
ているのです。

これは 仮説法(アブダクション)による推論を用いた理論です。


ニーチェは 手元にのこるものが何にもない。
《善悪の彼岸》は かれにしては まともな理論(定義)です。

お礼日時:2017/11/10 13:10

うーーん・・・


読んでみます。
この質問の期限はありますか?
無制限ですか?
少し考えてみたいと思いますので・・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ この質問の期限はありますか?
☆ たしか 4週間だったんですが 確認のため《利用規約》を読んでも
よく分かりません。(書いてないと思うのですが)。

回答が寄せられなくなったときには 一方的に締め切られることになって
います。ということで もし4週間で締め切られたなら そのときにも
あらためて設問すればよいのですから 心配要りません。

ぜひ ゆっくりじっくり 考えてみてください。

お礼日時:2017/11/10 08:49
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