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文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

○ 神とは何か?

§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。

質問者からの補足コメント

  • うまそうだ。


    昼まで 出かけます。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/04 09:00
  • №52つづき

    ★ 可能性ではなく原理的に、です。
    ☆ それは・つまり 原理的にという視点を持ち出すということは この世
    の中がすべては 相対的な関係として成り立っていると言っているのだと思
    います。

    それは そうなのでしょう。――でも それ以上のことは あまり言ってい
    ませんね。

    原理的にただしさ(変わらざる真理)が証明されないということは 相対的
    な世界で 可能性として妥当であったりなかったりするということなのでは?





    ★ 「マーフィー則」
    ☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。




    ★ では、・・・1/87のアメリカの鉄道模型です。
    ☆ 実際のがいいです。実際のなら 鉄道全般が 好きです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/07 10:36
  • 経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
    内容としてのものです。

    それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
    えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
    美があるという見方です。

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 07:24
  • ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。

    どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
    すみません。


    あらためて聞いてみます。

    No.66の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 08:52
  • 前野説は ダメです。

    能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。

    その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。

    ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
    たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
    指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。

    ところが
    ▲ 神は 生きている者の神である
    ☆ とイエスは はっきりと言っています。ですから 誤解もはなはだし
    い。

    プラトニズムと一緒にしてしまうという誤解をした人びとのその思想を批
    判しているに過ぎない。

    つまり 聖書を何にも知らない。阿呆です。

    こういう事例は 例外ではないのです。



    マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。

    これは とても科学する心だとは言えません。

      補足日時:2017/11/10 16:02
  • 1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
    な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
    説》が当てはまると。

    2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
    ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

    3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

    4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
    定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

    5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
    のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
    という意味では やはり神の霊なるチカラである。

    こういう問題なのでは?

      補足日時:2017/11/11 04:32
  • つづき

    ★ 我々は、時に、相手を思いやり、時に、意地悪をし、時に、相手の
    不幸を最高のイベントにします。
    ☆ それらすべてにわたって ひとの意志を踏みにじっていないかどう
    かや また同じことですが ヤマシサ反応に逆らっていないかどうか
    このリトマス試験紙が あてがわれます。区分されます。



    ☆☆ 抵抗も抗議も原状復帰も ナンセンスなことになります。
    ★ ~~~
    そのとおりです。
    ・・・
    手の付けようがないんですね。

    実際、兄貴のような考えでよくしていこうというのは不可能であると思
    います。
    ~~~
    ☆ ですから そういう自由度が――悪貨が良貨を駆逐するごとく――
    優勢であった時代・つまりじんるいの《前史》から やがて内なる開花
    とともに 《後史》に入ります。

    No.97の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 08:57
  • つづき

    ★ テトリス、コスモス、和の心の、神は調和的に人類の見方でした。正義の
    味方です。true justice.
    ☆ なぜ そうなりますか? 属性を考えて 真理・愛といったことを持ち出
    しましたが 《正義》は どうでしょう? 

    つまり 否定しようとはしませんが 愛が 愛憎を超えたものであるように 
    正義も 正邪を超えたものなのでしょう。


    ★ ボジョレーヌーボー開けて待っててね。
    ☆ ワインも何も 飲まなくなったなぁ。

    No.102の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 17:52
  • ▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
    丸山 圭三郎 (著)
    https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8 …

    ☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

    丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

    カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。

    No.156の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/16 16:35
  • 回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

    間違えました。すみません。

    特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
    間違えています。

    ご海容のほどをお願いいたします。



    (補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。

    No.176の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/17 14:12

A 回答 (290件中261~270件)

ニーチェは「道徳の系譜」の中で、


「意識という器官」
「本能は意識を道具として使っている」
と言っています。つまり、意識は無意識という何者かに従っているという点で
フロイトに一致します。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

わたしの物言いは 確かに微妙です。

過去の経験が――いやなものだけではなく うれしかったことなどを
も含めて―― いまになって意識する・しないにかかわらず 何らか
の影響を及ぼしている。
――ということは 一般にありますし 認められているはずです。

ところが 特には心の傷となったことが: 
(1) 必ず脳にある無意識という特別の部位に収められそこにおけ
るハタラキをとおして
(2) その後遺症を人に及ぼすということ
(3) そして殊に広く生存欲にかかわるような性衝動の問題として
――つまりそれは 何か分からないかたちでイド(エス= it・あれ )
と呼ばれて――起こるということ。

このようにひと言で言えば トラウマなる心の傷が 身と心との現象
となって現われる。という仮説。

これは 作り話だという批判です。

後遺症は PTSD と呼ばれるような事例があって 一般的なのでしょ
うが あとの《独立した無意識という部位》の存在や 性にかかわる
リビドーの問題であると決めつけたことは 受け付けません。


かんたんに言いますが:
★ ニーチェ
☆ は 阿呆です。意識や本能の説について 一般に確認されていま
せん。そして 広くその著書の内容について 議論に整合性がありま
せん。見るべき内容がありません。

たとえば 次のように――やり取りをつうじて――批判しています。:

【Q:ℚ1: 《神は死んだ》って言うけれど いつ・どのように死んだの?
・・・】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9896947.html

【Q:《猛禽と仔羊》:ニーチェの道徳観】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9935080.html

【Q:¿ 不倫がどうぢゃこうぢゃと 弱者の反感(ルサンチマン)がかま
びすしくなった あぁ 世も末ぢゃわい】

【Q:ニーチェの《信仰 / 根本確信》!?】
 etc.

お礼日時:2017/11/05 08:54

こんなかんじです・・・

「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像29
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


中身が問題です。

すでに初版が 出ているのですか?

お礼日時:2017/11/04 20:20

>☆ 《無意識》という独立した特別の部位は 脳にあるとは確認されていません。



ーー>
どこにあるのかが問題なんです。
全体に、うわーっと広がっているのかもしれません。
量子論でも問題になっていますが、電子は局在するようなモデルでは
間違いであることがわかります。

心理学も量子論で行くしかないかもです。


写真はどこからか見つけてきたのでわかりません。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像28
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ 《無意識》という独立した特別の部位は・・・
★ どこにあるのかが問題なんです。
☆ 現在では ないだろうと見なされているのでは?

つまり フロイトの仮説は 欠陥ありと。

★ ~~~~~~~~
全体に、うわーっと広がっているのかもしれません。
量子論でも問題になっていますが、電子は局在するようなモデルでは
間違いであることがわかります。

心理学も量子論で行くしかないかもです。
~~~~~~~
☆ ハタラキについても 問題ありです。

おまえは マザコンだ。――そんなことはないよ。
いやいや 意識していないだけだよ。――やめてくれ。そんな振る舞
いはないから。
いやいや 無意識だということは 指摘されたことを否定してみせる
ものなんだ。――それぢゃ 無意識のレッテルを貼れば 何でも指摘
し得てそれがただしいと言いおおせることになる。

《無意識》説は 成り立たない。と見ます。





★ 写真はどこからか見つけてきたのでわかりません。
☆ 了解です。

お礼日時:2017/11/04 20:19

マーフィーの法則


https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n63654
なんかをみても、我々の論理がいかに間違っているのかが
わかります。


ーーーー
『捜していないものはかならずみつかる』、
『何かがきれいになるには、何かが汚くならなければならない(汚れ保存の法則)』、
『何かを汚くしても、何もきれいにはならない』、
『徹夜で仕上げた急ぎの仕事は、少なくとも二日は必要とされない』、
『機械は、動かないことを誰かに見せようとすると、動く』、
『作業台で道具を落とすと、もっともやっかいな場所に転がり込む』、
『組み立てには、たいてい手が三本必要だ』、
『重要書類は、あなたが置いた場所から、あなたが見つけられない場所に移動することによって、そのバイタリティ(重要性)を証明する』、
『カバンを下に置くと、エレベータが来る』、
『風力は髪のセット代に比例する』、
『タバコ、バーベキュー、あるいはキャンプファイヤーの煙は、煙に敏感な人の顔に向かって漂う傾向がある』、
『結婚生活の長さは、結婚式の費用に反比例する』、
『一緒にいるのを見られたくない人と一緒にいるときほど、知っている人に出くわす』、
『この世の良いものは、法律で禁じられているか、不道徳であるか、食べて太る』、
『一番近くに住んでいる人が、一番遅くやってくる』、
『車がほとんど通らない道をそれぞれやってきた車とトラックは、恐ろしく狭い橋で出会う』、
『信号で止まったらお化粧を直そうと思っていると、どの信号も青である』、
『修理工を待っていると、一日中待たされる。五分間だけ留守にすると、そのあいだにやってきて帰ってしまう』、
『欠けた食器は壊れない』、
『もっとも神経質な人に、ふちの欠けたコーヒーカップ、口紅の付いたグラス、髪に毛の入った料理が回ってくる』、
『壊れやすいものを落としたとき、それを空中でキャッチしようとすると、何もしない場合により、損害が大きい』。
ーーーー

マーフィーの法則の1つの解釈は、あらゆるものが関係しているということです。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像27
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ マーフィーの法則なんかをみても、我々の論理がいかに間違っているのかが
わかります。
☆ そういう場合があるということです。
★ マーフィーの法則の1つの解釈は、あらゆるものが関係しているということ
です。
☆ 経験的なものごとは 相対性のもとにかかわりあっています。かかわらない
なら 絶対性です。

▲ 捜していないものはかならずみつかる
☆ そういう場合があり そうでない場合もある。

▲ 何かがきれいになるには、何かが汚くならなければならない(汚れ保存の法
則)
☆ 《きれい と 汚い》とが 相対性の原則のもとにかかわり合っているとい
うこと。時間過程で交替しているかのごとく。


▲ 何かを汚くしても、何もきれいにはならない
☆ きれいになる(される)と思っていたことが あざむかれることがあるという
こと。

▲ 徹夜で仕上げた急ぎの仕事は、少なくとも二日は必要とされない
☆ 知らんがな。


▲ 機械は、動かないことを誰かに見せようとすると、動く
☆ その可能性を見落としていたということがあり得る。いつも そうなのではな
い。

・・・

ものごとの互いの関係は 時間的な経過や 自分たちの意識の状態あるいは思考の
及び具合いにおいて いろんなかたちで現われる。

その可能性が 意外だと思われた事例について 集めたもの。

お礼日時:2017/11/04 16:35

■No.22はおもしろかったです。


ーーーー
▲ 心理学渡辺恒夫は、永井均の独在論( 図中a)における<私>の特別性を
解消するため、ある一人・ある一つの何かが全生物を転生していっているとい
う遍在転生観を主張した(図中c)。
☆ ご自由にどうぞ。付き合い切れない。《特別性》としての人間の条件を
《解消》しようとは思わない。という立ち場がある。


▲ 渡辺は、永井均の独在論( 図中a)における<私>の特別性を解消するた
め、私は生けとし生けるもの全てである、という遍在転生観を主張した。
☆ 《 わたしは 全世界だ 》と思うということに 何も小細工は要らない。
あってはおかしい。そういう思いのかたちが 人間の条件には派生して来る
と思うということ。
ーーーー

■No.23
ーーーー
▲ シュレディンガーがこの問題に関して述べている主張は大きく二つに絞ら
れるが、・・・、もう一つはすべての意識がひとつであるということ、である。
ーーーー
ーー>
フロイトの考えの延長上で考えると、無意識は1つで、それが各人にいろいろに
選別されて伝えられる、ってことですかね。


「わたしがあなたになる」とはどういうことか?
それができないのはーー実際、できた例がないーーどうしてか?
私(A1)は、この私(A2)以外にはなれない・・・


■No.24
なるほどです・・・
しかし、
ーーーー
★(№23) わかるとはなんなのか?
☆ これとそれとを―― 一般に言葉≒概念として――分けることです。
いくつか条件づけた上で:
事実 Y
真理 X
真実 Z  
と――定義として――分けました。
・・・
ーーーー
がよくわかりませんでした・・・
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像26
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~
■No.23
ーーーー
▲ シュレディンガー・・・、もう一つはすべての意識がひとつであるというこ
と、である。
ーーーー
ーー>
フロイトの考えの延長上で考えると、無意識は1つで、それが各人にいろいろに
選別されて伝えられる、ってことですかね。
~~~~~~
☆ 《無意識》という独立した特別の部位は 脳にあるとは確認されていません。

共通の要素が言われるのは 集合的無意識では? (ユングですが)。

★ ~~~~~

「わたしがあなたになる」とはどういうことか?
それができないのはーー実際、できた例がないーーどうしてか?
私(A1)は、この私(A2)以外にはなれない・・・
~~~~~~
☆ だけど A1=A2=すなわちAなるわれ ですよ。



★ ~~~~~ 
 ☆ 事実 Y
   真理 X
   真実 Z  
 と――定義として――分けました。
 ・・・
 ーーーー
がよくわかりませんでした・・・
~~~~~~~
☆ 個々の概念を定義しただけです。





☆ 絵はどこ? アルプスというよりは 北欧かな。

お礼日時:2017/11/04 16:22

了解です。

よく読んでみまっす!
返信いたします!
とりあえずこれを・・・
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像25
この回答への補足あり
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ーーーー


★ 私はなぜわたしなのか?
☆ 《わたしはある》あるいは《わたしはわたしである》と言うとき
そう言っているのは その人自身だからです。

《わたし》ではなくほかの人が言っているのではないからです。
ーーーー
ーー>
うーーん!違う!ーーたぶん・・・
そう簡単になるんでしたら何の問題にもならないでしょう?
しかし大問題なのです。
対象(A2)と観察者(A1)(たぶん(?)同一なはずのもの)の問題がつきまといます
ーーこれは哲学でいつも(?)問題になります。
私はA1でありA2でもあります。これが問題なんです。
なぜか?
・・・です。
わかりませんーー大問題なんです!

ーーーー
ほかの人が 何かの都合で代理で・あるいは偽って言う場合があり得
ますが それはすでに《代理であり別の者》だとやはり分かっていま
す。

きちんと われと もうひとりのわれとは 分かれており 分けるこ
とが出来ます。
ーーーー
-->
うーーん
それができないんです。
これは哲学的な話です!
見たものと、触ったものが、同一だということが言えますか!

ーーーー
ただし ヒトどうしとして 互いに共通の要素を持ち そこに類似性
を捉えることも出来ます。

性別や皮膚の色の違いを超えて 同じヒトという生物種を構成すると
見られています。

言いかえると そこには ひとりの存在という単位体がはっきりと認
識されており これが《ひとりのわれ》としての《わたし》のことで
す。
ーーーー
ーー>
このぶぶん、失礼ながら、まったく理解できません。
哲学的な見方での話です。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像24
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この回答へのお礼

▲(ヰキぺ) 一つは、意識については普通のメレオロジカルな関係、つまり
一般的な部分・全体関係というのが成り立たないのだということ。そして次に、
意識については普通の数量的関係、つまり例えば一人の悲しみより千人の悲し
みの方がより悲しい、といったことは成り立たないのだということ、である。
☆ と言えましょうね。

▲ 「私」も消滅している
▲ フランシスコ・バレーラ
☆ 分かりません。《消滅する》というのが理解しがたい。仮りにそうだとし
ても その《消滅した》と認識するわれがいる。意識が非連続であったとして
も 人間性ないし人格なるわれは つづいている。

▲ この問題は倫理学における利己主義の問題と関わる。他者の痛みが痛くな
いこと、自分の痛みだけが痛いこと、この基本的な事態が利己主義というもの
が成立しうる基盤を提供している。もし他者の痛みが、自分の痛みと同様に、
痛いならば、利己主義を貫徹することには強い困難が伴う。
☆ これは すべてそうだとしても さらにそのあと 先ほど触れた良心のハ
タラキとしてヤマシサ反応が起きるかどうかにかかっている。と見られる。

         *

★(№23) わかるとはなんなのか?
☆ これとそれとを―― 一般に言葉≒概念として――分けることです。

いくつか条件づけた上で:

事実 Y
真理 X
真実 Z  

と――定義として――分けました。


Y-Z : 人たるわれによる世界(事実)の認識。それとしての主観真実。

X-Zi : 真理(ないし神)とわれとのカカハリ。それとしての主観真実。

ただし X-Zi  (非思考の庭=信仰)は 思考や認識を超えています。

Y-Z (世界観)は 思考や認識の問題です。

《わたし》は:

X-Y-Zi という・信仰および世界観から成る主観真実を持って生きる存在

です。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/04 08:46

ここであなたの質問(少し長すぎるんでここまで)


ーーーーーーー
§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

・・・考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。
ーーーーーーーーーー
ーー>
わかるってなんだ?
ですかね。
わかるか、わからないか、のまえにわかるとはなんなのか?
このこと自体が「わかる問題なのか?」ですかね。

科学というのは、我々の思考形式、つまり自然法則に属しますから、
科学で自然法則は解明できません。それは、それ自身なのですから。
私(A1)と私(A2)の関係と同じなのです。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像23
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この回答へのお礼

▲(ヰキぺ) どんなに自分が嫌いな相手であっても、・・・やがて私はあい
つになる、と思っているならば、そうした人物に対してもより深い共感の念を
持って接することが可能になるだろう
☆ それは 順序がぎゃくである。人間の条件を――無条件に無根拠において
――受容するとき 他人(ひと)に対するわが心の姿勢や態度は いくらか以
前とは違って来るはずである。

《自分が嫌いな相手》は そのまま嫌いだという自分の心を自分がやはり受容
している。包み込むことが出来るようになる。好きな場合も 同じく。好き一
辺倒にはならない。


▲ 私は全世界である:「梵我一如」
☆ ただし この考えは むしろ考え(思考)に非ずとして《非思考》と捉え
たほうがよい。

つまり 人間の条件を――無条件で無根拠において――受け容れるということ。
そうすると わが心の奥の院には 《非思考の庭》が成る。これが じつは信
仰である。

思考は これとは別に 経験合理性にておこなう。

▲ シュレディンガーがこの問題に関して述べている主張は大きく二つに絞ら
れるが、一つは時間において現在しかないということ、もう一つはすべての意
識がひとつであるということ、である。
☆ 違う。むしろ現在は 《永遠の現在》なのである。

そして 《意識や思考ないし想像》の問題ではないということ。

非思考の庭でたとえば ヒラメキが起き あるいは 良心のハタラキとして胸
が高鳴り顔が赤らむといったヤマシサ反応を起こす。

思考ないし経験思想は 移ろいゆかざるを得ない相対的なものだ。非思考の庭
に起きる良心やヒラメキは あたかも神の啓示のごとくはたらく。信仰と呼ぶ
所以である。

そしてそこにおいて――いまは 推測をまぬかれないのだが―― いま・ここ
は 《永遠の現在》として 全世界と相い向かい合っている。

▼ シュレディンガー:
君は大地のように、否それにも増していく幾千倍も金剛不壊である。確かに明
日大地が君を呑み込むとしても、あらたな奮闘と苦悩に向けて大地は再び君を
産み出すことであろう。(中略)
この永遠のいまという(人々が自らの行いのなかでめったに自覚することのな
い)真理の感得こそが、倫理的に価値あるすべての行為を基礎づけるものなの
である。
☆ そうかもね。うなづき得ましょう。

お礼日時:2017/11/04 08:23

ーーーーー


分っかんない。
★ 「私はなんで私なんだ?」
の場合、初めの私と後の私が異なっていることが前提なのです。
☆ どうして?
ーーーーー
ーー>
法則を知ろうとして、法則の外に出て、法則やその中にいる「私(A2)」
を観察しているつもりの私(A1)はA2とは別な存在ですね。
しかし、それは同じでなければならないのです。
これが哲学につきまとうジレンマなのです。
調査されている者が調査している者なのです。
 

>★ 「A1≠A2であるのになぜ?」
☆ ちょっと待った。これは:
ーー>
調査する者とされる者は違うものです。

>○ A1≠A2であるのになぜ A1=A2であるのか?
☆ となるよ? んなばかな!
ーー>
しかし、それは同じものでなくてはなりません。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像22
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この回答へのお礼

▲(ヰキぺ) ~~~
解答の候補
(あ)「擬似問題である」
(い)「私しかいない」
(う)「ただそうなっている、としか言えない」
(え)「私は生けとし生けるもの全てである」
(お)「私は全世界である」
(か)「「私」も消滅している」
~~~~~~~
☆ (え)(お)は わたしの解としてあり得ます。

(う)は その状態が 初期条件としてわれわれの意志や存在を超えて与えら
れていると見ておくとよいはずだ。

(あ)は なぜ《擬似》かが理解しがたい。生きているとき ふつうに誰もが
持つ一般的な疑問だと思われる。

(い)と(か)は おかしい。考えればそれらは 一面的にしか見ていないし
一方的な判断をしているに過ぎないと分かる。


▲ 私しかいない:独我論
他者などそもそもおらず、周囲に見える机や椅子も実在はしていない、ただ私
が感じているこの夢としてだけそれらはある、とする。(省略)
☆ 《夢》と呼ぼうがどう扱おうが 《感じとそしてそのように考えている主
体としてのわれは いるわけだ》となる。にすぎない。


▲ 永井均:「なぜこの夢が無いのではなく、あるのか」と「なぜこの夢はこ
うした風になっているのか、別様ではないのか」という二つの問いが残され、
(省略)
☆ 世界がそうなっているのが嫌なら 気の済むようなかたちに変えればよい。
あるいは去って行けばよい。だけ。――これが 哲学の答えです。

▲ 哲学者永井均は、この問いには、おそらく答えがないだろうとしている。
☆ 初期条件を――人間の条件を――受け容れるという答えがあります。



▲ 心理学渡辺恒夫は、永井均の独在論( 図中a)における<私>の特別性を
解消するため、ある一人・ある一つの何かが全生物を転生していっているとい
う遍在転生観を主張した(図中c)。
☆ ご自由にどうぞ。付き合い切れない。《特別性》としての人間の条件を
《解消》しようとは思わない。という立ち場がある。


▲ 渡辺は、永井均の独在論( 図中a)における<私>の特別性を解消するた
め、私は生けとし生けるもの全てである、という遍在転生観を主張した。
☆ 《 わたしは 全世界だ 》と思うということに 何も小細工は要らない。
あってはおかしい。そういう思いのかたちが 人間の条件には派生して来る
と思うということ。

お礼日時:2017/11/04 08:18

ヒルベルトさん、ラッセルさん、ゲーデルさんの話と似ていますか?

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この回答へのお礼

ゲーデルについては どこかで質問しています。

ラッセルは 何か言えるものを持ち合わせません。分かりません。
(そのパラドクスについては 二階だとか言うメタ観念で解決す
るわざがあるとか)。

ヒルベルトは 形式主義だと思うのですが 数学の場ではそれで
――近似値による解を利活用するかたちで――実用的なのだと思
います。


観測の問題は よく分かりません。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/04 08:10

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