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文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

○ 神とは何か?

§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。

質問者からの補足コメント

  • うまそうだ。


    昼まで 出かけます。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/04 09:00
  • №52つづき

    ★ 可能性ではなく原理的に、です。
    ☆ それは・つまり 原理的にという視点を持ち出すということは この世
    の中がすべては 相対的な関係として成り立っていると言っているのだと思
    います。

    それは そうなのでしょう。――でも それ以上のことは あまり言ってい
    ませんね。

    原理的にただしさ(変わらざる真理)が証明されないということは 相対的
    な世界で 可能性として妥当であったりなかったりするということなのでは?





    ★ 「マーフィー則」
    ☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。




    ★ では、・・・1/87のアメリカの鉄道模型です。
    ☆ 実際のがいいです。実際のなら 鉄道全般が 好きです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/07 10:36
  • 経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
    内容としてのものです。

    それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
    えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
    美があるという見方です。

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 07:24
  • ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。

    どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
    すみません。


    あらためて聞いてみます。

    No.66の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 08:52
  • 前野説は ダメです。

    能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。

    その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。

    ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
    たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
    指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。

    ところが
    ▲ 神は 生きている者の神である
    ☆ とイエスは はっきりと言っています。ですから 誤解もはなはだし
    い。

    プラトニズムと一緒にしてしまうという誤解をした人びとのその思想を批
    判しているに過ぎない。

    つまり 聖書を何にも知らない。阿呆です。

    こういう事例は 例外ではないのです。



    マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。

    これは とても科学する心だとは言えません。

      補足日時:2017/11/10 16:02
  • 1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
    な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
    説》が当てはまると。

    2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
    ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

    3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

    4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
    定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

    5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
    のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
    という意味では やはり神の霊なるチカラである。

    こういう問題なのでは?

      補足日時:2017/11/11 04:32
  • つづき

    ★ 我々は、時に、相手を思いやり、時に、意地悪をし、時に、相手の
    不幸を最高のイベントにします。
    ☆ それらすべてにわたって ひとの意志を踏みにじっていないかどう
    かや また同じことですが ヤマシサ反応に逆らっていないかどうか
    このリトマス試験紙が あてがわれます。区分されます。



    ☆☆ 抵抗も抗議も原状復帰も ナンセンスなことになります。
    ★ ~~~
    そのとおりです。
    ・・・
    手の付けようがないんですね。

    実際、兄貴のような考えでよくしていこうというのは不可能であると思
    います。
    ~~~
    ☆ ですから そういう自由度が――悪貨が良貨を駆逐するごとく――
    優勢であった時代・つまりじんるいの《前史》から やがて内なる開花
    とともに 《後史》に入ります。

    No.97の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 08:57
  • つづき

    ★ テトリス、コスモス、和の心の、神は調和的に人類の見方でした。正義の
    味方です。true justice.
    ☆ なぜ そうなりますか? 属性を考えて 真理・愛といったことを持ち出
    しましたが 《正義》は どうでしょう? 

    つまり 否定しようとはしませんが 愛が 愛憎を超えたものであるように 
    正義も 正邪を超えたものなのでしょう。


    ★ ボジョレーヌーボー開けて待っててね。
    ☆ ワインも何も 飲まなくなったなぁ。

    No.102の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 17:52
  • ▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
    丸山 圭三郎 (著)
    https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8 …

    ☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

    丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

    カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。

    No.156の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/16 16:35
  • 回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

    間違えました。すみません。

    特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
    間違えています。

    ご海容のほどをお願いいたします。



    (補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。

    No.176の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/17 14:12

A 回答 (290件中281~290件)

あなたの論理には、それを考えている、ということが何によっているのか、という肝心な疑問がないのです。



私はなぜわたしなのか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C …
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像10
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この回答へのお礼

そうですかねぇ。――ご回答をありがとうございます。


★ 私はなぜわたしなのか?
☆ 《わたしはある》あるいは《わたしはわたしである》と言うとき
そう言っているのは その人自身だからです。

《わたし》ではなくほかの人が言っているのではないからです。

ほかの人が 何かの都合で代理で・あるいは偽って言う場合があり得
ますが それはすでに《代理であり別の者》だとやはり分かっていま
す。

きちんと われと もうひとりのわれとは 分かれており 分けるこ
とが出来ます。




ただし ヒトどうしとして 互いに共通の要素を持ち そこに類似性
を捉えることも出来ます。

性別や皮膚の色の違いを超えて 同じヒトという生物種を構成すると
見られています。

言いかえると そこには ひとりの存在という単位体がはっきりと認
識されており これが《ひとりのわれ》としての《わたし》のことで
す。


あとは 思考や想像のおなぐさみでしょう。

お礼日時:2017/11/03 05:38

>★ 自然法則


☆ なら 経験合理性にもとづき人間の能力で知ることができる。と
考えられます。
ーー>
自然法則は解明できません。一つの理由は、我々がそれによっているからです。
科学は人間の思考形式にすぎません。けして法則を解明できません。
それ自身がこの法則によっているからです。

>たとえば少しづつ知って行くとしたら その少しづつ神が分かって来
る。・・・というようなことになりましょうか どうでしょうか?
ーー>
わかる、ということはどういうことですか?
それすらわかりません。

科学
哲学
文学
神学


これらは我々の思考形式ーー自然法則ーーにすぎません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 自然法則は解明できません。
☆ 《自然》は 人工ではないものごとの自然があり そして ヒトと
しては 生まれつきそなわったという自然本性があると捉えられ それ
として分かります。

(未知でも いづれ解明されるであろうと見なされています)。

《法則》は 法則というなら〔あるいは ものごとに何の類似性も規則
性も見られない非法則性であっても〕 そういう内容としてすでに知っ
たから そう名づけています。

ただし確かに ダルマという言葉で《法》を表わすときには これはむ
しろ 法則性〔および非法則性〕から成る経験世界を超えた場のことで
す。あるいは チカラです。

つまり ものごとが有る無いの事実を超え 因果関係としての経験法則
をも超えています。

こういった事情にあるものと見ます。


★ 一つの理由は、我々がそれによっているからです。
☆ これは ダルマ(法)のことでしょうね。あるいは 摂理という言
葉もあります。

細かいことを言えば:
★ それ(人間の知性)自身がこの法則によっているからです。
☆ というときには 観測されうるものごとの経験的な法則にも従って
いることです。

因果関係に従いますし もし現在から過去や未来へと移動することが出
来たとした場合 そのときにも それとしての経験法則が見出され 人
間はそれに従っているでしょう。

この・経験法則としての自然法則についてなら:
☆☆ >たとえば少しづつ知って行くとしたら その少しづつ神が分か
って来る。・・・というようなことになりましょうか どうでしょうか?
ーー>
☆ という問い返しが出て来ます。


★ ~~~~~
科学
哲学
文学
神学


これらは我々の思考形式ーー自然法則ーーにすぎません。
~~~~~~~~
☆ 何ですって? この意味での自然法則が 神なのですか?

思考の形式(すなわち内容)は 経験合理性にもとづきますが もしく
は経験法則に従いますが そしてそれらは 摂理としてのダルマのもと
にもあると想定され得ますが それらはまだ 神ではありません。

神について――その非経験の場だという想定にもとづき――人間が忖度
し思考して得た〔と言っている〕認識です。

これらを超えた場が 神です。

経験世界と非経験の場との区別が 大事なのでは?

お礼日時:2017/11/03 05:25

自然法則です。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 自然法則
☆ なら 経験合理性にもとづき人間の能力で知ることができる。と
考えられます。

たとえば少しづつ知って行くとしたら その少しづつ神が分かって来
る。・・・というようなことになりましょうか どうでしょうか?


それだと まづいのではないかと思います。

神が部分的に知られて行くのでしょうか?

お礼日時:2017/11/02 23:07

社会学や経済学、そして心理学ではそのようななんらかの数値化は試みられているでしょうか。



仏法では、国土世間と衆生世間と五陰世間として捉えていますが、互いに関係性があるとしています。

国土世間は自然界
衆生世間はほかの生命も含む人間世界
五陰世間は身体論と心理学を含む

のように考えられます。

それぞれの学問はその学問のなかで研究もすすんでいるものと思います。

関連性を考える人たちはどれくらいいるでしょうか。


ライプニッツさんのようになんにでも首を突っ込むひとが必要でしょうか。


哲学者はそもそもどんなことにも首をつっこむ(お知りかじり虫)ではなかったのですか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 社会学や経済学、そして心理学ではそのようななんらかの数値化は
試みられているでしょうか。
☆ 経済学では やっているでしょうね。ただし 人間をホモ・エコノ
ミクスなる利益人間・利害関係人・効用志向人として設定した上でのこ
とだと思います。

それぢゃいけないということで 行動経済学が出て来ています。心理学
を加味しています。

心理学は そのいま・その場そしてその人〔たち〕といった条件や情況
を設定した上で 出来るだけの合理的な事態の把握を目指しているよう
に見えます。

そこでは 哲学が部分的・一時的なものに成っているかとうたがわれま
す。




★ 哲学者はそもそもどんなことにも首をつっこむ(お知りかじり虫)で
はなかったのですか。
★ ライプニッツさんのようになんにでも首を突っ込むひとが必要でし
ょうか。
☆ 基本として そうだと思います。あるいは お知り尽くし虫だとも
思います。


★ ~~~
国土世間は自然界
衆生世間はほかの生命も含む人間世界
五陰世間は身体論と心理学を含む
~~~
☆ わたしは かなしいかな 自然科学にくわしくありませんが。


参考に:

【Q:引用、主観なんでも結構です。宗教、科学、哲学、芸術の定義を
教えて下さい】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/5988398.html

☆ その回答№1です。

お礼日時:2017/10/28 17:21

「おれを いいまかしたら かみが いないと みとめてやろう。

 いいまかしてみろ!」
こういう趣旨で なんどもなんども 投稿する。 自分の意見を書き毆る。

あなたに とって コミュニケーションとは、 あなたの デタラメ造語を へいこらして あなたにお世辞を言っている 無知な人たちが うけいれるふり をするということです。
あなたに同意すれば コミュニケーションが成立したと勝手に判断する その審判を下すのは 当然 あなただけ。

だれかが 正論で
あなたの間違いをただすと 逆切れして はなしがすすまない と勘違いする。

一人ぼっちのくさい寢床 きたないへやで きもちわるい おいのりしてる 時点で あなたは 哲学ではない。

部屋の中に神様が来ることがある。・・・ バカ カァ

いいまかされると 「おれは まだ いいまかされていない」とおもいこんで
 だんまりを決め込み 
はなしを はぐらかしていく。

------------------
わからず屋の 孤独なジジイが 自分の負けを認めない
わからず屋に なにを はなしてもだめなのです。

あなたのへやに さいごに 友達が来たのは いつのことですか? 

正直に答えなさい。(あと 喪主がいない・・・)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ だれかが 正論で
あなたの間違いをただすと 逆切れして はなしがすすまない と勘違いする。
☆☆ フルボッコのご批判をどうぞ。
文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

お礼日時:2017/10/27 20:28

過去に於いては言わずもがな。



現代においては自身の好ましい心、優しさ・思いやり・向上心と云った精神が、神の心が人に反映したものと受け止めるのが良いと思います。
これは”やましさ反応”の起きない精神状態であります。

この心を、生かして働かせて育てるような生き方。これが現代の信仰生活と云えるでしょう。

人の良心は神の心の一部分と思えば、神の存在は自身の心に認められます。
考えてもわからない存在などではなく、実際には誰もが心に神の一部分を宿しているのです。

その事に気付かないだけですね。この心持は神の心なのだと。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 過去に於いては言わずもがな。
☆ 現代と同じという意味でしょうか。

★ 現代においては自身の好ましい心、優しさ・思いやり・向上心と云った
精神が、神の心が人に反映したものと受け止めるのが良いと思います。
これは”やましさ反応”の起きない精神状態であります。
☆ たぶんそうだと思います。

ただし 《健全なる身体に 健全なる精神〔が 宿れかし〕》といった望み
と同じように 経験的な心の状態が 超経験の神の心と 直接に・人間に分
かるようにつながっていると見るのは 祈りを交えた望みであるように思わ
れます。

そうだとしたら そのままでは哲学は みとめることが出来ないとは思いま
す。

★ この心を、生かして働かせて育てるような生き方。これが現代の信仰生
活と云えるでしょう。
☆ ちょっと異論があります。《生かして働かせ育てる》のは 人間の心や
努力だけではないと思います。


▲ (パウロ:コリント前書 3:6 ) 私が植えて、アポロ( という使徒 )
が水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。


★ 人の良心は神の心の一部分と思えば、神の存在は自身の心に認められま
す。
☆ だいたい そうでしょうね。


★ 考えてもわからない存在などではなく、実際には誰もが心に神の一部分
を宿しているのです。
☆ その《分かった》は しかしながら 自分の主観の内面にだけ確信を持
ってはっきりしているのだと思います。

みんながそれぞれ本当に同じ神を共有していると分かったのなら 話はもっ
と早い・・・のでは?

★ その事に気付かないだけですね。この心持は神の心なのだと。
☆ それは 《気づけ!》と言うのではなく 分かりやすい哲学として説得
することをつうじてなのだと思います。

お礼日時:2017/10/27 14:13

(ものごと)は経験事象なので、y,j



ひとりひとりは z,i

なのですね。楽しそうです。

アテネのひとびとの平均的な個性は z,m,アテナイ = (1/n)・Σ[i: 1,,n]z,i,アテナイ

アテネ総体としての個性→共同体的個性は n・z,m,アテナイ = Σ[i: 1,,n]z,i,アテナイ

のような感じなのでしょうか。


なんらかの数値化する工夫が大変なものになるのでしょうか。


(個人の緑野)と(個人の住む地域の環境(風景生活制度))がうまく調和されているとき、

y,m,アテナイ - z,ソクラテス,アテナイ ~ 0

のように考えるのでしょうか。

y,m,アテナイ - z,ペリクレス,アテナイ ~ 0

だとすると、ソクラテスとペリクレスは同一の人格になってしまうようにも思うので、それぞれは別の定数になるのですかね。


なんらかの変分がゼロのとき、自己と環境がバランス取れて安定とするのかもしれませんね。


y,j は何らかの概念も含むのでしょうか、具体的な事物のみで構成されるでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~
(ものごと)は経験事象なので、y,j

ひとりひとりは z,i

なのですね。楽しそうです。
~~~~~~~
☆ それは よかった。 Y j, Z i とするほうがよいかも。

★ ~~~~~~
アテネのひとびとの平均的な個性は z,m,アテナイ = (1/n)・Σ[i: 1,,n]z,i,アテナイ

アテネ総体としての個性→共同体的個性は n・z,m,アテナイ = Σ[i: 1,,n]z,i,アテナイ

のような感じなのでしょうか。
~~~~~~
☆ そうなのでしょう。ただし 《個性》は 測れますか? 個性= personality
としますと

Z( pers.) m

といったシルシになりますか。どうですか。


★ なんらかの数値化する工夫が大変なものになるのでしょうか。
☆ という問題はあるかと思います。


★ ~~~~~~~
(個人の緑野)と(個人の住む地域の環境(風景生活制度))がうまく調和されているとき、

y,m,アテナイ - z,ソクラテス,アテナイ ~ 0

のように考えるのでしょうか。

y,m,アテナイ - z,ペリクレス,アテナイ ~ 0

だとすると、ソクラテスとペリクレスは同一の人格になってしまうようにも思うので、
それぞれは別の定数になるのですかね。
~~~~~~~
☆ そうですね。多様性はあるほうが のぞましいでしょうね。


★ なんらかの変分がゼロのとき、自己と環境がバランス取れて安定とするのかもしれ
ませんね。
☆ そういった方面へ展開するわけですね。


★ y,j は何らかの概念も含むのでしょうか、具体的な事物のみで構成されるでしょうか。
☆ これは いまの理論から行けば:

Y - Z j :世界の事実についての個人 j の認識

となると思います。Y は 全世界・全歴史をふくむとしています。

Y - Z j は Z j なる人間のすべての世界観・歴史観あるいは思想をふくみます。

お礼日時:2017/10/27 09:58

理解できないものを、信じることなんじゃないの?

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この回答へのお礼

★ 理解できないもの
☆ という規定では 不明確だと考えました。

自分〔と周りの者〕だけが理解できない場合もありますし

いまは誰も理解できないけれど いづれ理解できるように

なるかも知れないという場合もあります。



ですから こうなります。:

不可知:理解できないと分かった(証明できた)もの

非知:理解できるか出来ないかが 分からないナゾ



非経験 X は 非知なのだと言おうとしています。

知り得ないと証明できた不可知については もう信じる必

要はないわけです。

信じる――無条件で無根拠において わが心に受け容れる

――のは 非知 X なのだと思います。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/10/27 09:09

たたき台と言いつつ言いたいことを随分と開陳されたようですね


「人それぞれでよい。」
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この回答へのお礼

★ 言いたいことを開陳され
☆ ないで問うのは 失礼だと思いました。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/10/27 08:31

神=心の弱い人間が創りだした空想のモノ。

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この回答へのお礼

心の強い人は 人間の心を超えて人知に優る神よりも 強く

優秀であるわけですね。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/10/27 08:17
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