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文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

○ 神とは何か?

§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。

質問者からの補足コメント

  • うまそうだ。


    昼まで 出かけます。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/04 09:00
  • №52つづき

    ★ 可能性ではなく原理的に、です。
    ☆ それは・つまり 原理的にという視点を持ち出すということは この世
    の中がすべては 相対的な関係として成り立っていると言っているのだと思
    います。

    それは そうなのでしょう。――でも それ以上のことは あまり言ってい
    ませんね。

    原理的にただしさ(変わらざる真理)が証明されないということは 相対的
    な世界で 可能性として妥当であったりなかったりするということなのでは?





    ★ 「マーフィー則」
    ☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。




    ★ では、・・・1/87のアメリカの鉄道模型です。
    ☆ 実際のがいいです。実際のなら 鉄道全般が 好きです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/07 10:36
  • 経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
    内容としてのものです。

    それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
    えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
    美があるという見方です。

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 07:24
  • ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。

    どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
    すみません。


    あらためて聞いてみます。

    No.66の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 08:52
  • 前野説は ダメです。

    能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。

    その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。

    ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
    たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
    指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。

    ところが
    ▲ 神は 生きている者の神である
    ☆ とイエスは はっきりと言っています。ですから 誤解もはなはだし
    い。

    プラトニズムと一緒にしてしまうという誤解をした人びとのその思想を批
    判しているに過ぎない。

    つまり 聖書を何にも知らない。阿呆です。

    こういう事例は 例外ではないのです。



    マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。

    これは とても科学する心だとは言えません。

      補足日時:2017/11/10 16:02
  • 1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
    な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
    説》が当てはまると。

    2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
    ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

    3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

    4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
    定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

    5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
    のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
    という意味では やはり神の霊なるチカラである。

    こういう問題なのでは?

      補足日時:2017/11/11 04:32
  • つづき

    ★ 我々は、時に、相手を思いやり、時に、意地悪をし、時に、相手の
    不幸を最高のイベントにします。
    ☆ それらすべてにわたって ひとの意志を踏みにじっていないかどう
    かや また同じことですが ヤマシサ反応に逆らっていないかどうか
    このリトマス試験紙が あてがわれます。区分されます。



    ☆☆ 抵抗も抗議も原状復帰も ナンセンスなことになります。
    ★ ~~~
    そのとおりです。
    ・・・
    手の付けようがないんですね。

    実際、兄貴のような考えでよくしていこうというのは不可能であると思
    います。
    ~~~
    ☆ ですから そういう自由度が――悪貨が良貨を駆逐するごとく――
    優勢であった時代・つまりじんるいの《前史》から やがて内なる開花
    とともに 《後史》に入ります。

    No.97の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 08:57
  • つづき

    ★ テトリス、コスモス、和の心の、神は調和的に人類の見方でした。正義の
    味方です。true justice.
    ☆ なぜ そうなりますか? 属性を考えて 真理・愛といったことを持ち出
    しましたが 《正義》は どうでしょう? 

    つまり 否定しようとはしませんが 愛が 愛憎を超えたものであるように 
    正義も 正邪を超えたものなのでしょう。


    ★ ボジョレーヌーボー開けて待っててね。
    ☆ ワインも何も 飲まなくなったなぁ。

    No.102の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 17:52
  • ▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
    丸山 圭三郎 (著)
    https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8 …

    ☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

    丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

    カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。

    No.156の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/16 16:35
  • 回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

    間違えました。すみません。

    特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
    間違えています。

    ご海容のほどをお願いいたします。



    (補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。

    No.176の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/17 14:12

A 回答 (290件中161~170件)

ーーーー


きょう図書館に行って来ました。返却期限は 明日(16日)でしたが
きょう行って 例の二冊を借りて来ました。

シェインドリン:『物語 ユダヤ民族の歴史』
宮本久雄ほか編:『一神教 文明からの問いかけ』


一神教のほうは 開架ではなく書庫におさめられていたので そして
ユダヤのほうは 哲学・宗教の棚ではなく歴史に分類されていて どち
らもわたしの目に触れなかったようです。
ーーーー
ーー>
さっすがー!兄貴!
感謝・・・
サムは科学が専門だけれど、だからこそ科学の底を知っているんだぜ!
自然の法則は科学ではわからない!
ベン=アミー氏はわかっているぜ!
しかし、哲学や神学でもわからない!
わからないんだよな・・・

「断定や確定こそが誤謬である」ーーニーチェ
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像130
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ですが 今回ここからの一連のその内容は しけてるぜ。と言ってもいい
でしょうね。

★ ~~~~~~~~
サムは科学が専門だけれど、だからこそ科学の底を知っているんだぜ!
自然の法則は科学ではわからない!
ベン=アミー氏はわかっているぜ!
しかし、哲学や神学でもわからない!
わからないんだよな・・・

「断定や確定こそが誤謬である」ーーニーチェ
~~~~~~~~~~~

☆ 何のこっちゃ? 推論した範囲で その内容を検証すればよろしい。

その前で・その周りをただ眺めながらほっつき回っている。だけでは ま
なびは ありません。


中身で勝負! ですよ。


アクタイをつくのは  きちんと推論しひとつの結論を出したそのあとに
しなさい。みっともない。

ニーチェの真似をしちゃダメ。

お礼日時:2017/11/16 05:51

こう考えたのが、ニーチェなんです。

「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像129
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この回答へのお礼

★ こう
☆ って 《ちから》のことかい?

チカラへの意志?

まぁ そう言いたかった何か理由があったんだろう。と思う。

人びとは 律儀に・慈愛深く その議論につきあってやった
わけだ。



わたしには 得るべき何の成果も情報も ニーチェにはあり
ません。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/15 14:13

つまり、そう仮定するか同課の問題に還元されるのでは?


どう思うかは、どう仮定するかは、趣味の問題になる。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像128
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この回答へのお礼

きょう図書館に行って来ました。返却期限は 明日(16日)でしたが
きょう行って 例の二冊を借りて来ました。

シェインドリン:『物語 ユダヤ民族の歴史』
宮本久雄ほか編:『一神教 文明からの問いかけ』


一神教のほうは 開架ではなく書庫におさめられていたので そして
ユダヤのほうは 哲学・宗教の棚ではなく歴史に分類されていて どち
らもわたしの目に触れなかったようです。



▲(シェインドリン:はじめに) 私はここでは ユダヤ人とは宗教を
ともにする人たちではなく 歴史をともにする人たちであると規定した
☆ らしく 確かに宗教ではなく 《歴史》の開架にありました。

▲(同上) もし自分たちの見方に基づく歴史と民族の宿命が唯一正し
いものと各自が主張するなら 彼ら(諸民族)の共存は不可能になる。
それ故 学問的な歴史の存在がきわめて重要になる。
☆ その探究は わたしが――ここでは自慢しましょう――やりました。



№125に述べたように 世界の人びとの信仰形態は すべて《梵我一
如》の類型にまとめられるのだと。仏仏一如や霊霊一如などです。

また 無梵無我一如として 無神論も まったく同等の信仰形態のひと
つであると。



この一般および個別の絶対性理論は 『一神教』のほうの議論にも難な
く当てはまります。

基本は そういうことです。

あとは いろんな情報や具体的な研究成果が それらの本をとおしてわ
たしには新鮮なものとなります。まなびます。

お礼日時:2017/11/15 14:10

論理は人間と無関係にある、


人間の外にある、
ということですか?
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像127
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 論理
☆ は ロゴスとしては 《ことば》のことでもあります。

経験合理性として推論の道筋を言うのが ふつうなのだと思います。



問題は つねに 或るひとつのコトバが 次元を異にする意味をも
持ち得るということです。

▲ はじめに ことばがあった。
☆ というときの《ことば》は すでに神のことです。すなわち
《経験世界を超えた場ないしチカラ》のことを言っています。

でも そのために用いているのは ふつう一般の言葉なわけです。


ぎゃくに言えば われわれと絶対の隔たりのある神についても ご
くふつうににわれわれが用いている言葉によって シルシとして
表わしている。となります。

1. 神=普遍神:超経験
2. 神=自然のものごと:普遍神の分身としての経験的な神々

普遍神が 《絶対性》として 《分身としての神々や われわれ人
間なる相対存在》を 覆い包むといった忖度については №125
のお礼欄に書き込みました。参照してください。




★(回答№128) ~~~
つまり、そう仮定するか同課の問題に還元されるのでは?
どう思うかは、どう仮定するかは、趣味の問題になる。
~~~
☆ 《仮説法( abduction )》というのは 推論の方法であり仮
説した内容( 想定 )について そのあともろもろの現実のことが
らと照らし合わせて 合っていたら ひとまづ――経験合理性とし
て――受け容れられるとなるはずのものです。

現実との照合ないし検証 これが カギです。《趣味の問題》には
なりません。

アブダクションというのは 《拉致》のことです。初めに どこか
らともなく 結論を拉致して来て仮説します。そのあと 検証を推
し進めます。

《趣味》でやるわけではありません。

お礼日時:2017/11/15 13:53

兄貴、


おかしいわよ
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像126
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★★(回答№125) ~~~~
観察するものと、観察される者が同じということですかね。
つまり、じぶんで自分を持ち上げられる。
見られる者が、見る者でもある。
じぶんは、自分の論理で動いている。
自分を制御しているのは自分である。
見られる者は、見る者の論理で動いていないことは確かです。
しかし、同じ者なんですーー>おかしいのでは?
~~~~~~~
☆ この議論は おもしろそうですが あくまで《経験的に認識しうる
事象》として扱っています。そこには 絶対性なる神は からんでいま
せん。



強いて言えば 神は――あるいは《無い神》は――:
★★ 自分を制御している自分
☆ を超えたところにあると想定されます。



そして そのあと 個別の絶対性として おのおのが信仰として――つ
まり わが心なる非思考の庭にあって――抱かれている具体的な神があ
る。

けれども この信仰における神とて そのままで=つまり絶対性のまま
で われわれ人間にハタラキカケをしているのではない。

ヒラメキという経験現象とヒラメキを起こすみなもととしての非思考の
庭とは やはり 隔たりがある。

《思考に非ず》として 神の霊なる知恵とそして人間に具体的に起こる
ヒラメキとがつながっている。(と想定している)。のです。

お礼日時:2017/11/15 13:38

なるほど・・・


わかってきました。
我々の違いが・・・

ーーーー
★ 絶対的な論理は原理的の存在しないのでは?
☆ 人間の能力で 認識し得ず 表現し得ないということでは?
ーーーー
ーー>
人間を離れたばあい、論理や真理はありますか?
それらは人間の属性では?
思考というものに属する。
それらは宇宙にあるのではなく、我々の中だけにあるのでは?

ーーーー
ひとりの人間の或る主観にとって その内面においてのみ――ま
さに主観的に―― 真理に触れた(つまり 真理によって触れら
れた)と感じ思う《時》が あるかも知れない。

これを 《特殊絶対性》とよびます。
《一般絶対性》は 真理が神としてひとつあるという想定です。
ーーーー
ーー>
観察するものと、観察される者が同じということですかね。
つまり、じぶんで自分を持ち上げられる。
見られる者が、見る者でもある。
じぶんは、自分の論理で動いている。
自分を制御しているのは自分である。
見られる者は、見る者の論理で動いていないことは確かです。
しかし、同じ者なんですーー>おかしいのでは?
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像125
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★★ 絶対的な論理は原理的の存在しないのでは?
☆☆ 人間の能力で 認識し得ず 表現し得ないということでは?
★ 人間を離れたばあい、論理や真理はありますか?
☆ 次のように考えてください。

1. 超経験〔なる神〕と経験存在たる人とは 絶対のへだたりがその間に
ある。

2. ただし 絶対性は 経験世界の相対性を《超えている》のであって
人間《の外にある》のではない。

3. 絶対なる神〔の霊〕は われわれ人間を ニュートリノのごとく貫
いているかも知れない。

4. あるいは 要するに神は 人間とその世界を覆い包むかも。

5. あるいは 例の絵のごとく指先が指先に触れなんとしているかのよ
うに つねに霊として迫って来ているかも知れない。

6. 要するに 神は《遍在している》かも。そして 同時にそうではな
いかも。

7. じんるいは 古来 神の霊は ひとに――生まれつきの自然本性と
して――やどると想定して来たようである。

☆ このような《かも知れない》という推測(忖度)があり得ると言える
のみ。


☆☆ 《特殊絶対性》
★ 観察するものと、観察される者が同じということですかね。
☆ 微妙ですが 《神の霊が われなる自然本性にやどる》という想定で
す。このことを 《梵我一如》とインド人は呼びました。

それに倣えば ゴータマ・ブッダは 《無梵無我一如》つまり《無い神》
派の信仰です。

ブディズムは 《仏仏一如》。クリスチアニズムなどは 《霊霊一如》で
す。



そのような一般および個別の絶対性にもとづき 個人の主観における特殊
絶対性が現実にあります。

《おれは 神を見たんだ》とか《神の霊が わたしに降りた》と言ったり
する事例のことです。

これらは 本人の主観内部でのみ 特殊に絶対性(つまり神)として持た
れ得ます。誰も そのことまでは 否定し得ません。

いやいや 《神がいるなどと たわけたことをぬかしやがって》という特
殊絶対性の例もあり得ます。これもその主観においては同等に 現実です。

ただし その特殊性を 他人の主観へと輸出することは叶いません。もし
出来たらそれは 人知のおよぶ概念ないし観念としてに過ぎない。けれど
も神は 経験思想としての概念などではないわけです。超えているのです
から。

お礼日時:2017/11/15 13:30

兄貴!


どうですか?

もう、フルボッコ状態では?


ーーーーーーーーーーーーあなたのサム
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像124
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この回答へのお礼

肝心の《神論―― 一般および個別絶対性理論 および特殊絶対性仮説
ならびに宗教への絶対批判――》については 無傷ですよおおお。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/14 05:46

集合の元のあいだに距離を定義すると距離空間になります。


これを抽象化したのが位相です。
これは挫折しました。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像123
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この回答へのお礼

トポロジー? 名前を聞いたことがあります。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/14 05:44

集合は昔やりました。


会社で「誤り訂正」をやったときです。
集合の中に演算を定義し、それがその集合内ででき、
さらにあらゆる元のその演算に対する逆元がその集合内に存在
するとき、その集合は群をなすといいます。
2つの演算に対して、上が成り立つ場合、その集合は体を成す
と言われます。

この何に役に立つかわからない理論は、現在音楽CDでの誤り訂正に
使われています。

下の本は私が読んだ本です。800ページあります。
著者はハワイ大学のマクウィリアムス(女性)です。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像122
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 集合の中に演算を定義し、それがその集合内ででき、
さらにあらゆる元のその演算に対する逆元がその集合内に存在
するとき、その集合は群をなすといいます。
2つの演算に対して、上が成り立つ場合、その集合は体を成す
と言われます。
☆ じつは 分かりません。(かなしいかな 理解が共通にあ
ると思われたら困るので)。



★ ~~~~~~~~
この何に役に立つかわからない理論は、現在音楽CDでの誤り訂
正に使われています。

下の本は私が読んだ本です。800ページあります。
著者はハワイ大学のマクウィリアムス(女性)です。
~~~~~~~~
☆ 実用性があったのですね。二冊に分ければよいのに。

お礼日時:2017/11/14 05:42

>むずすぎるわ


ーー>
兄貴は固すぎますので、サムが柔らかくしてあげます。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像121
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この回答へのお礼

なにごとも はじめは むつかしい。――フィーマー。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/14 05:38
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