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以下、まじめな質問なので、ひやかしでのご回答はご遠慮ください。
キリスト教や仏教・神道他の聖職者の方や信徒の方、宗教や霊的なことに詳しい方のご回答をお待ちします。

1.奇蹟と宗教との関係はあるのでしょうか?
例えば、宗教心が厚ければ、奇蹟を起こすことは可能なのでしょうか?

2.カトリックでは、直接の関連を認めていないようですが、それではなぜ、カトリックでは、列聖の条件として、奇蹟を必要とするのでしょうか?
プロテスタントでは、聖人を認めていないようですが、奇蹟については、どのように捉えているのでしょうか?

3.宗教心がなくても、霊感が強ければ、奇蹟は行えるのか?
街中で見られるいわゆる霊感師や占い師は、全部が全部宗教心があるとは思えませんが、こうした人たちが施すいわゆる「おまじない」と奇蹟の違いは何でしょうか?

4.人に見えないものが見える人は、どういう人でしょうか?
原因として考えられる両極端として、(1)幻覚・妄想 (2)心眼・信仰心 があると思いますが、他にもあるのでしょうか?
神や聖人の姿が見える人は、やはり素晴らしい人なのでしょうか?

例えば、カトリックでは、ルルド・ファチマ・グァダルーペの三大聖母出現がありますが、聖なる心を持っていたから、俗人には見えない聖母マリアの姿が見えたのでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

あなたの質問の殆どが 奇蹟になってますが



奇蹟を起こす側は支配者 見る側は支配される者に分かれる事になります

神は 奇蹟を起こす事は容易に出来るが 支配者として崇められる為に人間を創ったのでは無く 神の子として人間を創りました

それゆえ 堕落した人間を 神自身が救うのでは無く 人間同士で本来の姿に戻る方法としてキリストを使命しました

キリストを中心に 全ての人間が本来の姿に戻るのを 阻む悪(ルーシェル)によって 中心となる人物を濁された人達が 偽の情報を 神からの啓示と勘違いし 自分こそがキリストであるとルーシェルから来た啓示に
騙され 現在の様な 色々な宗派に分裂させられました

現在 新しいキリストにより 本来の人間に戻す様 着々と準備がされています

信じる事が出来れば あなたの元にも 伝わる筈です
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
キリスト教の方ですか?

>奇蹟を起こす側は支配者 見る側は支配される者
の意味が、ちょっとよくわからないのですが、
この「支配者」とは神、「支配される者」とは人間のことを指すのでしょうか?
でもこの後の文章で、
>支配者として崇められる為に人間を創ったのでは無く・・・
と書かれているので、まずここでわからなくなりました。
要は、「奇蹟を起こした。」と人間が騒いでいるが、それは「見ている」だけであり、実際に起こしたのは神だという意味でしょうか?

そして、神(神及び人間界に遣わされたキリスト)が、折角「人間が本来の姿に戻る」よう働きかけたのに、それを悪魔(ルーシェル)が邪魔をして(色んな人間を誘惑して)「我こそ神だ。」などと自信を持たせたから、そこでキリスト教(或いはその前身のユダヤ教)以外の色んな宗教が乱立してしまった、という意味でしょうか?

お礼日時:2014/01/30 09:21

1.宗教心の厚さと奇跡とは関係ありません。



2.キリスト教については存じません。

3.霊感と宗教心とは別なので可能でしょう。
ただし、街中で見られるいわゆる霊感師や占い師はすべてインチキです。

4.>人に見えないものが見える人は、どういう人でしょうか?
  ●それが霊感というものです。ただし、低級霊の仕業といえるものがほとんどです。

>神や聖人の姿が見える人は、やはり素晴らしい人なのでしょうか?
●神や聖人は見えるものではなく、感じるものです。ですから、見えると言ってる人は偽物でしょう。

宗教とは「真理を説き、心の平安を得るためのもの」と私は解釈しています。
一方、修行は宗教の一部に存在するかも知れませんが、本来は宗教でなくてもいいと思っています。
例えば、ヨガは行法であったとしても宗教ではないと思います。
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この回答へのお礼

宗教心の厚さと奇跡とは関係ありませんか?
又、霊感と言っても、低級霊の仕業といえるものがほとんどなのですか?
神や聖人は見えるものではなく、感じるもの・・・と言われているのは、わかる気がします。
要は、視覚からでなくても「見る」或いは「感じる」ということはあると思います。
宗教とは「真理を説き、心の平安を得るためのもの」というお説には賛同します。
そこに奇蹟や修行が必ずリンクする必然性はないのかもしれませんね。

お礼日時:2014/01/30 09:26

よく分かってるわけではないけど、思う事を



1関係はないと思う
 信仰心が厚ければ奇跡が起こせるなら中世の人々はもっと幸せに生きてたと思うから。

2キリスト教はよく分からないので不明
 ただ、聖人は特別な人=神に選ばれた人=奇跡 の構図はありそう

3奇跡っぽく見えることを起こす事は可能だと思う
 実際問題理屈や経験則を知らなければ、とんでもない事が出来ると思っちゃうって事あるよね?
 テコの原理を知らないと、すっごく重いものを簡単に動かせる人は凄い人(現場を見なければとんでもない力持ちとか)と思っちゃいそうなので・・・
 お呪いとかって 方法を学んで実践できるよ! って事だと思う。
 もちろん個人差があってうまい下手がある。
 前に軽く、本当に軽くタロット占いの本を読んだ事あるけど・・・やり方が書いてあるねぇ。後はカードをどう読み取るか。この辺で大きく異なりそう。
 宗教心が無くても学べますよね
 気功っぽいものも・・・宗教心が無くても学べるよね?
 ここをこうするとこうなる。と学ぶんなら、むしろ宗教心は邪魔になりそうな気がします
 神が許さないんじゃないかとか考えちゃうと・・・学びにくそうだから
 (むっちゃ物理学と捉えてたら、機械的だもの)
 技術を学ぶのに宗教は関係ないと思う

4素晴らしい人かどうかは判りません

 能力と聖性は関係ないんじゃないかなぁ?とはちょっと思う。
 技術者に聖性を求められても・・・なんじゃ・・・
 (水道トラブルとかが直せる人はありがたいが、別に聖なる人じゃないよね?)

 何か見えるって・・・わたしはこれ、その部分の蓋がゆるい人なのかなぁ?と考えた事があります。
 潜在能力って、普段使わなかったり、使えるとかえって暮らし難いんで使ってない部分かなぁ?と思うんですよ。
 例えば・・・前後左右上下360度、100メーター位を把握できる能力があったとします。ほとんど誰もいない場所では便利でも、人が多いところじゃ脳がパンクしそうな気がします。だから使わないようにしまって蓋をしている。
 でもたくさんの人の中には元々その蓋がゆるめの人がいるのかな?と。
 また、代々家系でその手の能力を使ってる家だと、子供が見えても否定しないしそれがこの家ではよくある事と片づけられそう
 そして大きな事故等に遭って危機を脱するために蓋を開けた人もいんじゃないかなぁ?と。
 他にも、他の蓋が開き気味の人とよく行動を一緒にしてたりすると影響を受けてゆるくなるとか・・・


潜在能力で、使える人がいる。
ただ、本人もなんでそれが出来るのか判ってないことも多々ありそう。
学ぶうちに素晴らしい能力を授かる事が出来た、神が与えて下さったものだとそこから宗教心を持つ人もいると思うけど、私は技術と性格は別問題な気がします。
ただ、他の人が出来ないことだから、良い人になろうと頑張る人もいると思う

ちょっと変わってるかなぁ?と自分でも思うので参考になるといいのですが
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この回答へのお礼

やっぱり、奇蹟と宗教は関係ない?
技術的なものであり、信仰/聖性とは関係ない?
・・・ただ、そうした奇蹟を起こす才能があることで、宗教心への動機づけになることはある。・・・ということですね。ちょっとがっかり!

お礼日時:2014/01/30 21:26

1.奇蹟と宗教との関係はあるのでしょうか?



 あまり関係はありません。

2.カトリックでは、直接の関連を認めていないようですが、それではなぜ、カトリックでは、列聖の条件として、奇蹟を必要とするのでしょうか?
プロテスタントでは、聖人を認めていないようですが、奇蹟については、どのように捉えているのでしょうか?

 知りません。

3.宗教心がなくても、霊感が強ければ、奇蹟は行えるのか?
街中で見られるいわゆる霊感師や占い師は、全部が全部宗教心があるとは思えませんが、こうした人たちが施すいわゆる「おまじない」と奇蹟の違いは何でしょうか?

 おまじない、祈願、呪い、魔術の類も奇跡の染み出しのようなものです。

4.人に見えないものが見える人は、どういう人でしょうか?
原因として考えられる両極端として、(1)幻覚・妄想 (2)心眼・信仰心 があると思いますが、他にもあるのでしょうか?


 最初に人間の一般的奇跡を十分理解し、体感する必要があります。
 人間の一般的奇跡とは、今の自分が単一の確たる存在として自分であると認識して疑わないところです。ここが原点となります。いわゆる奇跡は、その上に成り立っているのです。
 この人間の一般的奇跡は、誰もがそうであると思われますが、そうではありません。極まれに複数の自分を同時に自分であると認識する者や転じて自分の存在を認識せず過去と未来を超えて人間全体、さらには生物全体に溶け込んでいる者もいるのです。普通の者からみると異常者かまさにこれが奇跡に映るのです。
 それが真実であれ妄想であれ、妖精、天使、悪魔、神、異世界人、宇宙人、予言、幽霊として現れてくるわけです。
 赤い絨毯が赤い絨毯と見えているのは、それがそう見えている人間達の中で赤い絨毯なのであって、赤い絨毯はもともと赤い絨毯(それが赤くそして絨毯であるということ)ではないのです。
 神がその神であると共通して見える人間の中では、その神はその人間達の中で確たる目に見える神として存在するのです。

 誰にでも見え、科学的にも神であると認めざるを得ないような神が出現したとしましょう・・・・それが、たったの10人にしか見えず、しかもとても立証することができない神の出現との違いは、実は、ないのですよ。

>神や聖人の姿が見える人は、やはり素晴らしい人なのでしょうか?

 したがって、それが素晴らしいかどうかは、あなたの立ち位置とあなた次第なのです。
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この回答へのお礼

般若心経の「空」ないし「無」の世界では、今見えているものが、本当に実在するものかどうかは、わからない、ひょっとしたら存在しないのかもしれない、というような言い方をしていますよね。
今、自分が自分として認識している存在は、本当は一体何者か、と問われれば、あなたの挙げられたような解釈をする一見「変人」も世の中には存在するのだと思います。作家で僧侶の玄侑宗久氏の小説『阿修羅』に描かれた、複数の人格を持つ解離性同一性障害(DID)の人物の話とかも聞きます。
その別人格になっているタイミングで、普通の人には見えない、色んなものが見える、ということが起きるのかもしれませんね。

お礼日時:2014/02/01 22:28

1、宗教家に都合が良ければ「奇蹟」で都合が悪ければ「受難」。



津波で流された方々は全員悪人で、残った人間は一人残らず信仰心の厚い善人だけと言うならそうかも知れません。(ノアの箱舟がモロにそれですが)

2、キリスト社会での「奇蹟」は、神との直接(又は聖人を介した間接)の繋がりを担保します。

そしてそれを偶然では無く、信仰心による必然と考える訳です。

しかし現在は両宗派共、奇蹟とは距離をとる姿勢を示しており、積極的に唱えるのはカルト系に良く見られます。

3、奇蹟を意思の下で行えたら、それはメシヤの再来か悪魔の出現になるでしょうね。

所謂「おまじない」は気休め。

奇蹟は「現象」を都合良く解釈しただけ。

4、私は見えないので何とも言えませんが、一つの可能性の説明として・・・

私は赤緑色盲で常人よりも、見える色が限られます。

つまり私にとっては皆は私よりも色に溢れた世界で生きている事になります。

「見える」人は更にそれ以上見えているのでしょうが、しかしそれはそれだけの事でしょう。
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この回答へのお礼

1.仏教には「因果応報」という考えがありますし、何度も生まれ変わって(転生して)「解脱」を目指して進むという「輪廻」思想があります。
仏教・キリスト教ともに、良い人間は報われて、極楽或いは天国に行き、悪い人間は地獄に行くと教えていますが、その詳細は不明です。
又、必ずしも良い人間だからと言って、幸せとは限らず、地震などの犠牲になることもありますし、その逆もありえます。確かに「ノアの方舟」では、義人であったノアの家族のみが救われましたが、現在のキリスト教では、人知では説明できない人間の運命を説明するのに、「天罰」という考え方を採らず、「神の摂理」と言う言い方をしています。

2.キリスト社会で「奇蹟」は、信仰心(祈り)による必然と考えられるとしたら、それは聖人レベルの極めて「深い信仰心」の結果として考えられるのだと思いますが、通常の信徒レベルでは、奇蹟にまで至るケールはあまりないと思います。

3.やはり、その人自身の力量で奇蹟を行えるというのは稀であり、神への祈り・信仰心のなせる業と考えるのが自然だと思います。それなら、自分の力量だけで、そういうことを行える霊能者という存在は何なのでしょうか?

4.確かに見えるものは人それぞれ違う、ということはあり得ると思います。

お礼日時:2014/02/01 23:00

1.奇蹟と宗教との関係はあるのでしょうか?


例えば、宗教心が厚ければ、奇蹟を起こすことは可能なのでしょうか?

○信じる力と奇跡には強い相関があります。信じる力を養うのが宗教ですから、奇蹟と宗教との関係は当然ありますね。
見えないものを強く信じることができれば、信じる力は時空を捻じ曲げる物理的力がありますので、別次元の世界、天国、地獄という世界を垣間見ることもできますし、信じることで認識力を拡大することもできますので、例えば、霊界の人々や、宇宙人の力を借りることも可能です。これらのわざが奇跡と呼ばれるものですね。要は、小さな常識から自分を解放することができれば誰にでも可能なことですね。その小さな常識を「無知の知」と呼んでますね。「無知の知」から脱出する方法が「信じる」ことですね。
ただ、何を信じるかで決まりますので、奇跡など起きないという教えを信じれば当然おきませんね。あの世もない、宇宙人もいないというのを信じれば、それもありませんね。宗教で奇跡が起きる起きないもその辺に関係しているのですね。つまり、信じる力と信仰は似ていますが厳密には違うものですね。信仰は信じ仰ぎ見るという意味ですから、「私はあなたの教えを信じます。」という謙虚なものです。ここでの「あなたの教え」に従っての信じる力ですから、奇跡になるかどうかになるわけです。教会に行っても聖書を読んでも奇跡は起きませんが、イエスの表した奇跡を強く信じるなら奇跡は必ず起きますよ。
私たちは多次元の空間のごく一部の3次元空間に住んでいるのが真実なんですよ。目の前に4次元以降の空間があるということなのでいつでも奇跡は起きているし、奇跡の中を生きているのです。それに気がつくか気がつかないかだけなんですね。高等宗教、高等哲学はその手助けをしているだけなのです。ただ向きを間違えた宗教や、教育、思想などは害あって利なしですね。
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この回答へのお礼

おお!「関係がない。」とする回答が多い中で「信じる力と奇跡には強い相関があります。」と。何と心強い!
>信じる力は時空を捻じ曲げる物理的力がありますので、別次元の世界、天国、地獄という世界を垣間見るこ>ともできますし、信じることで認識力を拡大することもできますので、例えば、霊界の人々や、宇宙人の力>を借りることも可能です。
ホントですか?

「時空を捻じ曲げる」ってどこかで聞き覚えのある文句なのでググってみたら、下のなんかが出てきました。
http://kotobukibune.at.webry.info/200909/article …
或いは時間や空間を超えて「思い」や「祈り」が伝わる「念波動」というのがそれに当たるのかな?
http://www3.tokai.or.jp/s-w-s/kagaku3.html

お礼日時:2014/02/05 20:37

信じる力が、物事を動かす動力にはなります。



ただ、多くはついつい形を追うので奇跡はおきないでしょう。
奇跡を求めると外部の現象としては変化せず、よくあるのは自己内部が崩壊へ向かいます。
宗教家が、おかしなことをやり始めて道を外したりするのはそこにあります。

自分を信じて生き方を選んでやっていけば、奇跡と思えることは普通におきます。

神にすり替えてしまうこともできますが、やがて歪みが生じるでしょうから
多くは程遠いところへたどり着くと思います。

基本は個人の生き方と内的動向に由来しますから。

見えることが素晴らしいという評価をするのは、その人個人の問題であり
評価は人に決めて貰わなくても、自分で決めたらいいと思います。

私は見えることより、どう生きているかが大切に思えます。

追いかけなくても、付属品と同じで誰しも後から付いてきますよ。
自分の方向さえ間違わなければね。
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この回答へのお礼

聖書の中の名文句「求めよ、さらば与えられん」や、ナポレオン・ヒル博士が主張した「思考は現実化する」という理論にも見られる通り、人々の切なる「思い」や「祈り」は現実化する、ということは言えると思います。物事は、一生懸命努力すれば、その希望する方向に落ち着く、ということではないでしょうか。
ただ、それが「奇蹟」というレベルにまで達するのは、そう簡単なことではないでしょう。

私が今読んでいる以下の本では、信仰を持った医者が、患者のために祈ることなどについて論じられており、そうした「祈り」はしばしば効力を発することが書かれています。
ラリー・ドッシー著 大塚晃志郎訳『祈る心は、治る力』
又、
「神や霊を認めるお医者さん」矢作直樹氏の共著書『神(サムシング・グレート)と見えない世界』や
対本宗訓著『祈る力』(角川oneテーマ21)更には
ノーマン・ヴィンセント・ピール著, 月沢李歌子訳『積極的考え方の力』
も参考になりそうです。

お礼日時:2014/02/05 21:20

 どうも、こんにちは。


>>キリスト教や仏教・神道他の聖職者の方や信徒の方、宗教や霊的なことに詳しい方のご回答をお待ちします。
ということのようなので、聖職者ではありませんが、真宗の俗にボーズと呼ばれるものです。

>> 1.奇蹟と宗教との関係はあるのでしょうか?
 宗教としてしまうと範囲が広いので、すべてに共通するとは言えません。しかし、奇跡を説く宗教も存在します。そういった宗教はどのようにできてきたかということに関する岸田秀氏(だったと思うのですが記憶はあいまい)の考察で、こんなのがあったはずです。
 大雑把に話しますと、日本人は進化論を「環境が寒冷期になったので、毛を生やして環境に適応した」という感じで進化を理解している方が多いのですが、実はこれは逆です「なんかの拍子に皮膚を毛で覆ってみたら、次に来た寒冷期に適応できた」というのが進化論だったりします。
 こういったことを念頭において宗教の起源を考えますと、例えば、イスラム教について考えますと開祖のムハンマドさんはアラビア半島で生まれた人のようですが、アラビア半島ってほとんどアラビア砂漠という砂漠に占められている場所なんですね。砂漠ってとこは今だって大変なんでしょうが、当時の人間にしてみれば今以上に生きていくのが困難な場所だったと考えられます。一つの判断ミスが命取りとなり、奇跡のような判断を迫られる場所だったでしょう。つまり、あの地帯は奇跡と思えるようなことを経験した人でなければ生き残ることができなかったし、生きていた人たちはいわゆる奇跡の経験者だったといえます。そんなところで生まれたイスラム教は奇跡を前提とする宗教であったと考えられます。
 ですから、先ほどの進化論と同じです。実は「宗教があるから、奇跡が起きる」のではなく、その起源をたどって考えますと「奇跡のようなことが起きないと生きていけない厳しい環境の地域には、奇跡を前提とする宗教が生まれる」ということだと考えます。
 これはあくまで、イスラム教を例に挙げましたが、キリスト教なんかでも同じことが言えます。キリスト教徒は今では地球上にかなり広まっていますが、主にヨーロッパ圏でありコーカソイドが中心ですよね。人類史のアフリカ単一起源説によればわれわれ人類の祖先はすべてネグロイドであったと考えられています。そのネグロイドの中から突然変異等々の理由で、色素のないコーカソイドが生まれたら、どうなったか?岸田氏の説によれば幾人かは神のようにあがめられたかもしれませんが、多くのもの迫害されたのではないかと考えられます。それが、ヨーロッパ圏に住みついたコーカソイドの起源であり、当時のヨーロッパは人間が住みたくなるほど環境が良かったわけではないのに住みつかざるを得なかったのは迫害されたのが理由ではないかといいます。ですから、やっぱり奇跡でもないと生き残れないような場所に住まざるを得なかった人の中に、後にキリスト教も広まったってことが考えられるわけです。
 ですから、やっぱり私の1に関する回答は「宗教が奇跡を生むのではなく、奇跡を前提とする環境に奇跡を前提とする宗教が生まれたり根付いたりする」です。

>> 2.カトリックでは、直接の関連を認めていないようですが、それではなぜ、カトリックでは、列聖の条件として、奇蹟を必要とするのでしょうか?
>>プロテスタントでは、聖人を認めていないようですが、奇蹟については、どのように捉えているのでしょうか?
 わたしカトやプロに関してはシロートなのでここの答えはひかせさせていただき、専門の方に任せたいと思います。

>>3.宗教心がなくても、霊感が強ければ、奇蹟は行えるのか?
>>街中で見られるいわゆる霊感師や占い師は、全部が全部宗教心があるとは思えませんが、こうした人たちが施すいわゆる「おまじない」と奇蹟の違いは何でしょうか?
 私には結構当たると人気の占い師の友人がいますが、彼女が言うには「私の仕事は相談相手が、二度と来なくていいようにしてあげることだ」言っていました。これは彼女のプロとしての言葉なのでしょう。私も彼女に占ってもらったことがありますが、やっぱりよく当たるんですよ。ただ、私は学生時代から認知科学といわれる分野の勉強をしていたので、彼女は無意識のうちに心理学的な効果や技法を使っているのが分かりました。その効果について心理学者リチャード・ワイズマン氏の説によってお話しします。
 まずはは「レイクウォビゴン効果」というもので、多くの人は本来の客観的なものよりも自分をより高く評価するポジティブ幻想があるそうです。海外研究の資料なのですが、車の運転について質問をすると80%以上の人が自分は平均的なドライバーより車の運転がうまいと答えたり(しかも、交通事故で入院中のドライバーもそう答えたということもあるそうです)、ビジネスマン75%が普通のビジネスマン以上に職業倫理を気にしていると答えたり、95%の人が自分は普通の人より面白いことが言えると答えるそうです。謙虚な日本人ではまた違う結果が出るかもしれませんが、人間全体にはこのような傾向があるわけです。だから、よく当たるといわれる占い師は、最初に「あなたは本当は心の優しい方ですね?」とか「なかなか、あなたは勘の鋭う方ですね?」と相手をほめるような言葉で導入をします。
 次に「ダートマス・インディアンズ対プリンストン・タイガース効果」というものがあります。1951年にアメリカの大学フットボールチームダートマス・インディアンズ対プリンストン・タイガースのしあいがおこなわれました。試合は大荒れで、片方のチームの選手は鼻の骨を折り、もう片方の選手は足の骨を折るような試合でした。しかも、その後の新聞報道はどちらが悪いかで真っ二つに割れます。プリンストン側はダートマスが悪いと書き、ダートマス側はプリンストンが悪いと書くわけですね。これに興味を持ったのが社会心理学者アルバート・ハストーフ氏とハドリー・カントリス氏です。二人は試合を観戦した双方の学校の学生に面接をしてみます。すると双方の学生は共通して相手校のラフプレーにしか目がいっていないことが分かりました。つまり、どちらともとれるような情報にであった時、人間は自分が見たい方を選択し記憶するのです。これを「選択記憶」というんですが、占いにおいてもこれが働きます。例えば、導入でレイクウォビゴン効果で入ったとして、そこから続けて「あなたは想像力が豊かで創造活動にも向いていますが、いざとなると実行力を発揮しテキパキ仕事ができますね。」とか「あなたは人前では外交的にふるまうこともできますが、一人で物事を考えるのも好きですね」とか、相反することを言っていると、人間は都合のいい方のみを記憶に残していく傾向があります。
 あとはコールドリーディングという技法などを駆使して、占い師は相手の事を言い当てていくわけでから、実は奇跡や霊感とはまた違ったものではないかと考えます。ただ、私の友人は心理学には全くのシロートでしたので、無意識のうちにそんな多くの技術が使えるってのは、ある意味超能力や奇跡だなと私は思いましたけどね。 

>>4.人に見えないものが見える人は、どういう人でしょうか?
>>原因として考えられる両極端として、(1)幻覚・妄想 (2)心眼・信仰心 があると思いますが、他にもあるのでしょうか?
>>神や聖人の姿が見える人は、やはり素晴らしい人なのでしょうか?
 神を見たり例を見たりするのは実は特殊な人間だからできることではありません。普通の人間が持っている機能で説明が付きます。放射線医学博士のアンドリュー・バーグ等々の研究によれば、仏教者の瞑想中のやキリスト教徒の祈りの最中の人間の脳をSPECTで撮影すると、上頭頂葉後部が不思議な活動をしていることが分かりました。上頭頂葉後部のの主な機能は、自己と非自己を区別することにあり、瞑想中はこの機能が極端に低下しているといいます。しかも、それは薬物を使ったときのような異常な変化ではなく、脳はちゃんと段階を踏んでおり、普段と違う動きをしているものの異常なものではないそうです。さて、この自と他の区別をする機能を持つ上頭頂葉後部の機能が低下するとそれを脳はどのように解釈するのでしょうか?この時仏教徒は「自分が存在するすべてのものと一体となったような感じ」と答え、修道女達は「触れられるほど近い位置に神を感じた」などという感想を口にしています。ただ、上頭頂葉後部の機能の低下によって「自と他の区別の無い感覚」得ることが出来るわけですから、自己の中に神がいると考えてもいいようなものですがそうはならないようです。その理由は、それが普段は正常に働いているからだと考えられます。普段隔絶されているものが、瞑想や祈りによって一体となった感覚をえることで、普段の機能に戻ったときにより隔絶を感じることがあるのでしょう。
 上述のように、こういった瞑想の研究において、人が神を感じるのには、実は特殊な霊感等々は必要なく、通常の人間が持ち合わせる脳と訓練次第ではだれもがそれを追体験できるわけです。ですから、この質問対する私の答えは(3)人間の脳が構造上持ち合わせた機能であると考えます。
>>例えば、カトリックでは、ルルド・ファチマ・グァダルーペの三大聖母出現がありますが、聖なる心を持っていたから、俗人には見えない聖母マリアの姿が見えたのでしょうか?
つまり、この状態は上述のような状態にあったのではないかと考えられます。

 いろいろ書きましたが、まとまってませんね。すみません。誤字脱字乱文ご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

>「宗教があるから、奇跡が起きる」のではなく、その起源をたどって考えますと「奇跡のようなことが起きないと生きて
>いけない厳しい環境の地域には、奇跡を前提とする宗教が生まれる」ということだと考えます。
それで、
>「宗教が奇跡を生むのではなく、奇跡を前提とする環境に奇跡を前提とする宗教が生まれたり根付いたりする」
・・・となるのですね。風土・気候は宗教の気風に大いに関係しますね。和辻哲郎の『風土』を読んでみます。

>「レイクウォビゴン効果」というもので、多くの人は本来の客観的なものよりも自分をより高く評価するポジティブ幻想がある・・・とか、
「ダートマス・インディアンズ対プリンストン・タイガース効果」により、どちらともとれるような情報にであった時、人間は自分が見たい方を選択し記憶する(「選択記憶」)とか・・・・

瞑想や祈りの最中に人間の脳をSPECTで撮影すると、上頭頂葉後部の「自己と他を区別する」機能が極端に低下し、「自分が存在するすべてのものとの一体感」や「神との至近感」があることから、こうした感覚は、人間の脳が構造上持ち合わせた機能であり、誰でも訓練すれば得られるものと考えられるとか・・・・

色々示唆に富む博識なご回答を頂き、大変参考になりました。

お礼日時:2014/02/06 16:46

 こんにちは。



 おのれの信仰から得られたヒラメキなどの観想は むろん 表現の自由にもとづき発表してもかまいませんが それはあくまで主観内面における観念であり思惟であるものです。

 外に表出するあるいはつまり自己表現をする これをするしないにかかわわらず 人間の得た思いや考えはすべからく主観としての内容にとどまります。

 ★ 奇蹟や 見えないものが見える
 ☆ もその例に漏れるものではありません。


 言いかえると 経験合理性にもとづいて人間がその当否や是非を判断しがたいものごとについては ほかの人に伝えることも自由であると同時に これをその本人の主観内面にとどまる(それとしての主観真実にとどまる)ものごとであると捉えこたえてやることも 自由であり一般です。




 

 となると あとは――いわゆる非思考の庭にあっておのおの主観がどう判定するかというかたちで――どれだけ説得力があるか というような実際問題となります。

 つまりは 単なるイメージのようなものを受け留めその印象を得て 自分がどう考えどう判定するかであり これが 単なるその時その場かぎりのコトであっても あんがい自由にその効力は発揮される場合もあるのであって けっきょくはその人が どのようなインスピレーションを受けるか これにかかっているという問題になります。


 つまりは こういった受け取りや受け留め方にかかわるコトというのは 奇蹟の問題に限らず ナゾを持った表現全般にかかわっています。

 ヒラメキが その内容としてどこまで経験思想一般として成り立ち得るかだと思います。









 そのときの注意点は何か?

 宗教は つまりは組織宗教のオシエや権威ある地位についている人の言うことは まったく関係ないでしょう。

 本人が どう受け留めるか だけでしょう。


 問題は そのあと(受け留めたあと) これについて もし主観真実であることをうったえるのならば どのように自己表現をするか・そしてどこまで説得力があるか にかかっていると考えられます。


 そうなると 堂々巡りになります。いまの問題は 経験合理性ですでに判定しがたいものごとを取り扱っていたからです。


 
 という経過をたどって帰着するところは こうです。

 《奇蹟》などをどう捉えどう扱うかよりも もしそれを主観真実において受け容れたとしても 問題は そのあと本人が 人間および社会にかんしてどういった内容の思想を打ち出して来るか。これについての判断によって取って代わられる。こういうことではないでしょうか。

 そういう意味では 奇蹟は どうでもよいのですし またぎゃくに奇蹟の受け留めによってこそ よい思想が得られたということもあり得る。こういう全体としての捉え方になる。と考えられます。

 奇蹟に焦点を当て続け 軌跡そのものにかぎって議論し尽くすことは 無理です。こたえは出ません。



 個人の――その心の非思考の庭なる――信仰とは そういうものであり また 宗教はいっさい関係ないしお呼びではないというものである。と考えます。
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この回答へのお礼

「表現の自由」はあっても、結局は、本人が どう受け留めるか ということだけですか?

問題は、奇蹟の当否よりも、本人がその後、人間および社会にかんしてどういった内容の思想を打ち出して来るか、ということが大事なのですね。

その意味で、宗教・信仰は、奇蹟とは関係ないとの論法ですね?

お礼日時:2014/02/06 16:55

奇跡と宗教、貴方は北野武の教祖誕生を読んだ事がありますか?映画にもなっています。

世の中には奇跡を以ってそれが聖者の証しだと唱える宗教は多いです。しかしイエスも釈迦も修行の際には悪魔や邪が表われて世界を与えると言った。つまり奇跡は神だけの行いではないのです。
奇跡によって信じるものは悲しい、自ら聖なる物を求め信じるものは幸せだといえます。

少なくともカトリックにおいて、奇跡の発現は人間側の石には関係なく、天の意志によってのみ発現するものです。なので、人間の心の善し悪しは関係ありません。心が清いからとか神に近いからと考える人もいるようですが全く関係ありません。
出エジプト記ではパロの命により魔法使いが杖を蛇に変えています。果たして何を持って奇跡というのか、何を持って異端者の魔法だというのか。現象においての差はほとんど無いのです。だからカトリックでは奇跡=聖者とは見なさず距離を置いていますし、奇跡その者を聖なるものとは考えていません。
一応、奇跡と認めるためにはカトリックに対しての何らかの益があればという事になるのでしょうが、元々さほど重視していないのですから、奇跡と魔術等と差を定義づけてもあまり意味がないと思います。

いわゆるカトリックにおいての奇跡は天の意志によってのみ発現するもので、それは主が必要とする場合だけです。むしろ望んでできるものではないと考えたほうがイイと思います。

正しい意味でのプロテスタントは神とキリストの関係のみを認めています。マリアの存在は重要ではありますが、信仰の対象にするのは偶像崇拝という立場です。だから神、神とキリストのみを神と呼ぶわけです。

“見る”ってなんでしょうか?それは脳において映像を把握した事を言います。以前の科学では視神経を通ったものだけを言っていましたが現代ではそれはありません。
もし視神経を通ったものだけと限定すれば夢や幻想は除外されるでしょう。しかし、最新医学ではカメラで撮影したものを直接脳に刺激を与え像を結ぶ実験がかなりすすんでいます。もし視神経を取ったものだけが「見る」行為であるなら、これらは幻想や夢と同じという事になってしまいます。逆に視神経を通過しなくてもよいということになると幻想や夢との区別が着きません。また電磁波を発して映像を見せる研究もありますから、人為的にもできることです。
私達が霊と呼んでいるものには実は二つあります。一つは真の霊。もう一つは思念です。霊が本人だとすれば思念(残留思念)はエネルギーの雲のようなものです。霊そのものには思考が伴いますが、思念は考えるという事ができません。

思念や霊も正室の一つには電磁波と同じ作用があると考えられます。だから他人には見えないけれど自分だけが、或いは一定のグループだけが見えるわけです
霊視も別に毒主な能力とか、清らかさとか関係ありません。
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この回答へのお礼

ミカエルさん、いつもご指導頂き、有難うございます。

確かに、カトリックでは奇跡=聖者とは見なさず距離を置いていますね。
奇跡が天の意志によってのみ発現するもので、それは主が必要とする場合だということもわかります。

視神経を通過しなくても「見る」ことは可能とも考えられますし、その中には、霊視も思念も含まれるとなると、必ずしも信仰を持っていなくても可能なのかもしれませんね。

お礼日時:2014/02/06 17:03

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