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文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

○ 神とは何か?

§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。

質問者からの補足コメント

  • うまそうだ。


    昼まで 出かけます。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/04 09:00
  • №52つづき

    ★ 可能性ではなく原理的に、です。
    ☆ それは・つまり 原理的にという視点を持ち出すということは この世
    の中がすべては 相対的な関係として成り立っていると言っているのだと思
    います。

    それは そうなのでしょう。――でも それ以上のことは あまり言ってい
    ませんね。

    原理的にただしさ(変わらざる真理)が証明されないということは 相対的
    な世界で 可能性として妥当であったりなかったりするということなのでは?





    ★ 「マーフィー則」
    ☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。




    ★ では、・・・1/87のアメリカの鉄道模型です。
    ☆ 実際のがいいです。実際のなら 鉄道全般が 好きです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/07 10:36
  • 経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
    内容としてのものです。

    それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
    えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
    美があるという見方です。

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 07:24
  • ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。

    どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
    すみません。


    あらためて聞いてみます。

    No.66の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 08:52
  • 前野説は ダメです。

    能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。

    その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。

    ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
    たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
    指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。

    ところが
    ▲ 神は 生きている者の神である
    ☆ とイエスは はっきりと言っています。ですから 誤解もはなはだし
    い。

    プラトニズムと一緒にしてしまうという誤解をした人びとのその思想を批
    判しているに過ぎない。

    つまり 聖書を何にも知らない。阿呆です。

    こういう事例は 例外ではないのです。



    マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。

    これは とても科学する心だとは言えません。

      補足日時:2017/11/10 16:02
  • 1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
    な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
    説》が当てはまると。

    2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
    ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

    3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

    4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
    定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

    5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
    のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
    という意味では やはり神の霊なるチカラである。

    こういう問題なのでは?

      補足日時:2017/11/11 04:32
  • つづき

    ★ 我々は、時に、相手を思いやり、時に、意地悪をし、時に、相手の
    不幸を最高のイベントにします。
    ☆ それらすべてにわたって ひとの意志を踏みにじっていないかどう
    かや また同じことですが ヤマシサ反応に逆らっていないかどうか
    このリトマス試験紙が あてがわれます。区分されます。



    ☆☆ 抵抗も抗議も原状復帰も ナンセンスなことになります。
    ★ ~~~
    そのとおりです。
    ・・・
    手の付けようがないんですね。

    実際、兄貴のような考えでよくしていこうというのは不可能であると思
    います。
    ~~~
    ☆ ですから そういう自由度が――悪貨が良貨を駆逐するごとく――
    優勢であった時代・つまりじんるいの《前史》から やがて内なる開花
    とともに 《後史》に入ります。

    No.97の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 08:57
  • つづき

    ★ テトリス、コスモス、和の心の、神は調和的に人類の見方でした。正義の
    味方です。true justice.
    ☆ なぜ そうなりますか? 属性を考えて 真理・愛といったことを持ち出
    しましたが 《正義》は どうでしょう? 

    つまり 否定しようとはしませんが 愛が 愛憎を超えたものであるように 
    正義も 正邪を超えたものなのでしょう。


    ★ ボジョレーヌーボー開けて待っててね。
    ☆ ワインも何も 飲まなくなったなぁ。

    No.102の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 17:52
  • ▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
    丸山 圭三郎 (著)
    https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8 …

    ☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

    丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

    カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。

    No.156の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/16 16:35
  • 回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

    間違えました。すみません。

    特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
    間違えています。

    ご海容のほどをお願いいたします。



    (補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。

    No.176の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/17 14:12

A 回答 (290件中121~130件)

■166



>№165は 『一神教』などの読後感を書くために空白のままにしてあ
ります。
ーー>
楽しみにしています。


ーーーー
★★ サイモンとガーファンクル
☆☆ 事実に就くということが 哲学的ではないというのは 偏見です。
★ 哲学という「風味」を感じられるものが哲学なんです。
☆ 形而上学だけが 哲学だと見るのが 偏見です。

事実に就き事実(つまり 実際にはその事実の〔あやまちうる〕認識)
にもとづくことにこそ まづ基礎としての《哲学の香り》があるのです。

自然や事実を見ただけで あはっ( Ah ! Oh ! )とおどろく(タウマゼ
イン)のであり そこから哲学は始まりました。

《ものの あは‐れ を知る》とも言います。

原点ないし出発点をないがしろにしてはいけません。
ーーーー
ーー>
私はすべては思考形式にすぎない、とおもっています。
哲学は、単にその1つにすぎない。
それほど大したものではない、と思っています。
音楽か動画かの違い程度です。
音楽がわかっても、動画がわからない者もいます。

兄貴とサムは、そこらへんがかなり違うのです。
ニーチェに言わせれば、「趣味の違い」なのです。

ーーーー
次の事例も おんなじ。
☆☆ ~~~~
音韻変化に規則性があるとしたら ふたつ。

経済性の原則。

自分の好きなように発音する。

★ ~~~~~~~
サムはすべて哲学的に考えてしまう。
それはわからない!
そんな論理で、我々は動いていないぜ!
もっとわからないもので動いているんだぜ!
~~~~~~~~~
☆ まづ 事実ですよ。ザッハリッヒ。
ーーーー
ーー>
「事実なんてものはない、解釈だけだ」
つまりは、趣味の問題です。

イヒヒ
ーーーーーーーーーーーーーーーニーチェ大好きなサム



ーーーー
★★ 思い浮かべた音をどうして出せるか
★★ 出す前から決まっているんだ!
☆☆ それは 初めに 音韻と意味とが結びついて一つひとつの言葉を
つくったあとのことです。
★ うーん・・・
あまりにも論理的!
ーーーー
ーー>
いや!
「あまりにも人間的」
「あまりにも趣味的」
「人間的、あまりにも人間的」

>☆ 今度は 論理だから いかんと言い出す。事実の認識と解釈も 必
要なのは 当たり前です。
ーー>
「論理なんてものは、しょせん趣味の配下にすぎない、その根拠は常に趣味で決められている」----サム


つづく・・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★★ 哲学という「風味」を感じられるものが哲学なんです。
★ ~~~
私はすべては思考形式にすぎない、とおもっています。
哲学は、単にその1つにすぎない。
・・・
ニーチェに言わせれば、「趣味の違い」なのです。
~~~~
☆ いづれにしても 人は互いに大体において言葉をつうじて意志疎通を
おこないます。

ですから 《風味》や香りがあったほうがよいでしょうが あくまで文章
で伝えようとするその中身が 問題です。

中身が意味不明であったり 趣味の違いで受け取り方が変わったりするの
であれば いちいちこんなふうにやり取りをすることもなくなります。




☆☆ まづ 事実ですよ。ザッハリッヒ。
★ 「事実なんてものはない、解釈だけだ」
☆ という《解釈》がある。そして その意味は 解釈が《事実》をめぐ
っておこなわれている。ということだ。

★ つまりは、趣味の問題
☆ などは 伝わる文章を書けない者が言うことです。

★☆ イヒヒ

★ ーーーーーーーニーチェ大好きなサム
☆ だいじょうぶ。好き嫌いは 変わります。




★★ うーん・・・
あまりにも論理的!
★ いや!
「あまりにも人間的」
「あまりにも趣味的」
「人間的、あまりにも人間的」
☆ どこが どういうわけで そうなのか? を説明するのが 人間性です。

★ 「論理なんてものは、しょせん趣味の配下にすぎない、その根拠は常に
趣味で決められている」----サム
☆ へええーつ。《論理がある》ということは みとめてるんだ。

ウヒヒ。

お礼日時:2017/11/17 13:29

クリステヴァはバルトの弟子みたいです。


二人ともに、ニーチェ大好きみたいですよ。

どうも、今まで見ていると、兄貴の「哲学度」が私のそれと
比べて、小さいような気がする。

哲学度ーー>という指標

これがない者には、哲学は理解できない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


あなたの:
★ 哲学度
☆ とは 世間の注目度くらいの意味ですかね?




中・身・で・勝・負。

お礼日時:2017/11/17 09:51

では、ジュリア・クリステヴァ


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5 …
のアイデア。

「すべてのテクストは時間と場所に関係なく、相互に関係している」

つまり、私が今書いている文章と、昔プラトンが書いた文章は、関係しあっている、
ということ。
これは影響関係ではなく、相互関係である、ということ。
どちらかが、どちらかに影響されるのではない、ということ。

セメイオチケ〈1〉記号の解体学 (1983年)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BB%E3%83%A1%E3%8 …



こういうのどう思いますか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ では、ジュリア・クリステヴァ
☆ 日本語のヰキぺは いやに量がすくないですね。まあ けっきょく
のところ 中身から言って そんなところなのかも知れません。

いやと言うほど多くを読まされました。ほとんど何も残っていない。




★ 「すべてのテクストは時間と場所に関係なく、相互に関係している」
☆ あたりまえです。人間どうしも つねに・どこでも 互いにカカハ
リを持っています。

赤の他人であっても 取り上げて意識すれば そのまま関係の絶対性と
いうほどに カカハリが出来たかに感じます。


★ どちらかが、どちらかに影響されるのではない、ということ。
☆ いやいや。後続の者は 先人に影響を受け得ます。




▲ セメイオチケ〈1〉記号の解体学 (1983年)
★ こういうのどう思いますか?
☆ うどんのような絵のほうぢゃないですよね。

セメイオチケは 学位論文らしい。あなたは どう思うんですか?

わたしについては すでに上に言っちゃった。

お礼日時:2017/11/17 09:49

ーーーー


参考:【Q:われ・ことば・表現は 世界と同時一体である。】~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8505592.html

奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あ
たりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠( ごも )れる》と形容さ
れたその風景を見て われらが祖先の誰かが 

  HA.....

と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも
知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何
らかの心の動きが あったはずである。

  HA.....SI。

というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さま
ざまな形にして発声した。これは 音で いま目の前の世界の風景を切
り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたこと
になる。

  HASI . / はし。

こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。

 ――愛(は)し。

つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /
が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相
の子音/ ’(=ア行子音)/で

   ’u = う。 
   'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。

と作って これを添えれば

   うる‐はし。(心愛し・麗しい)

とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすこと
ができた。
・・・
~~~~~~~~~~~~
ーーーー
ーー>
うーーん
難しい
ソシュールとおなじで・・・
なかなか入ってこない!
何度読んでもわからない。
ジョナサン・カラーの本と同じだ。

サムには言語学は無理なのか・・・



御飯大盛
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

納豆が好物です。文句なし。ん? 煮物は何?




☆ どこに驚いたかのほかに どこが おかしいと思ったか? ここは
ヘンだぞというところを取り出してみること。

なぜ おかしいと思ったか? 考えてみること。



三輪山は 小さな山ですが その背後に〔やはりさほど高くはないが〕
山々が《たたなづく(幾重にもかさなっている)》ようにつづいている。

その《青垣》が 《うるはしい》と言いたかった。それだけのことです
よ まづは。

もちろん ふるさととしての気持ちや思いも 含まれていると見られま
す。

やまとは くにのまほろば

たたなづく 青がき 

山ごもれる 

やまとし うるはし



☆ キモは 言葉が 目の前の山々を示そうとしていることと共に お
のれの心の中の思いをも 同時に 伝えようとしていることです。

そのように 言葉は 生成して来たのではないか。です。




三輪山の絵を よかったら どうぞ載せてください。質問者は 補足欄
で写真を掲載できますが もう残り少ない(補足欄は 10件まで)の
で 取っておきたい。お礼欄では 掲載できません。

お礼日時:2017/11/17 09:39

ーーーー


★★ サイモンとガーファンクル⇒ ガイモンとサーファンクル
★ 兄貴はこの問題を単純化してしまっているぜ!
哲学的な問題なのに・・・
☆ 事実に就くということが 哲学的ではないというのは 偏見です。
ーーーー
ーー>
哲学という「風味」を感じられるものが哲学なんです。



ーーーー
☆☆ ~~~~
音韻変化に規則性があるとしたら ふたつ。

経済性の原則。

自分の好きなように発音する。
~~~~~~
★ 納得できないぜ!兄貴!
☆ どこが どのように?
ーーーー
ーー>
サムはすべて哲学的に考えてしまう。
それはわからない!
そんな論理で、我々は動いていないぜ!
もっとわからないもので動いているんだぜ!

ーーーー
★★ 思い浮かべた音をどうして出せるか
★ 出す前から決まっているんだ!
☆ それは 初めに 音韻と意味とが結びついて一つひとつの言葉を
つくったあとのことです。
ーーーー
ーー>
うーん・・・
あまりにも論理的!
そんな論理など、後から考えられたもの
ほんとうのメカニズムは、我々にはわからない。
兄貴は、哲学というものを横に置いて考えている。
サムは哲学の中に「どぶづけ」になっている。
そこが違うところだ





御飯が少ない・・・
確かに

では同期電動機のフェイザ図を
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

№165は 『一神教』などの読後感を書くために空白のままにしてあ
ります。



★★ サイモンとガーファンクル
☆☆ 事実に就くということが 哲学的ではないというのは 偏見です。
★ 哲学という「風味」を感じられるものが哲学なんです。
☆ 形而上学だけが 哲学だと見るのが 偏見です。

事実に就き事実(つまり 実際にはその事実の〔あやまちうる〕認識)
にもとづくことにこそ まづ基礎としての《哲学の香り》があるのです。

自然や事実を見ただけで あはっ( Ah ! Oh ! )とおどろく(タウマゼ
イン)のであり そこから哲学は始まりました。

《ものの あは‐れ を知る》とも言います。

原点ないし出発点をないがしろにしてはいけません。



次の事例も おんなじ。
☆☆ ~~~~
音韻変化に規則性があるとしたら ふたつ。

経済性の原則。

自分の好きなように発音する。

★ ~~~~~~~
サムはすべて哲学的に考えてしまう。
それはわからない!
そんな論理で、我々は動いていないぜ!
もっとわからないもので動いているんだぜ!
~~~~~~~~~
☆ まづ 事実ですよ。ザッハリッヒ。




★★ 思い浮かべた音をどうして出せるか
★★ 出す前から決まっているんだ!
☆☆ それは 初めに 音韻と意味とが結びついて一つひとつの言葉を
つくったあとのことです。
★ うーん・・・
あまりにも論理的!
☆ 今度は 論理だから いかんと言い出す。事実の認識と解釈も 必
要なのは 当たり前です。


★ ほんとうのメカニズムは、我々にはわからない。
☆ 分かった部分について 仮説を示しています。これが 経験科学と
しての哲学です。

あなたは あまりにも性急に《変わらざる真理》を追い求めすぎです。

経験存在たる人間のわたしたちは おのおのささやかな主観真実として
の研究成果を発表するだけです。


★ 兄貴は、哲学というものを横に置いて考えている。
サムは哲学の中に「どぶづけ」になっている。
そこが違うところだ
☆ これは 多分に 思い込みのなせるわざ・・・ではないのですか?

学問は 試行錯誤ですよ。一足飛びは よほどのヒラメキです。

お礼日時:2017/11/17 09:25

ーーーー


▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
丸山 圭三郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8

☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。
ーーーー
ーー>
了解です!



ーーーーーーーーーーーーカラー(COLORではありません)であるサム
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マジメな文章家は自分の書いたものを、仲間に朗読して聞かせて、その文章の良し悪しを評価してもらったらしいですが



音韻とリズムとが、その表現している世界がうまく調和していて、読む人がすんなりその世界観に入って行けることを試しているのでしょうか。

ひとが考えているとき、そのひとの声帯は少し振動しているらしいというのは本当でしょうか。

でも、それが本当なら、ウソ発見器の代わりに、喉の震える部分に高感度のマイクロフォンをつけて解析するのも有効な気がします。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 音韻とリズムとが、その表現している世界がうまく調和して
いて
☆ これは 大事ですね。特に 詩歌においては 一丁目一番地
でさえあるかも知れない。

2・3 3・4 5・7 あるいは ほかの調子で 口ずさみや
すいのが よいようです。日本語文の場合ですが。


★ マジメな文章家は自分の書いたものを、仲間に朗読して聞か
せて、その文章の良し悪しを評価してもらったらしいですが
☆ これは いま上の韻文などとは別に たとえば論文でもそう
したということでしょうか?

ちょっとよく分かりません。どうなんでしょう。





★ ひとが考えているとき、そのひとの声帯は少し振動している
らしいというのは本当でしょうか。
☆ うーん。どうなんでしょう。わたしには ちょっと分からな
いですね。

★ でも、それが本当なら、ウソ発見器の代わりに、喉の震える
部分に高感度のマイクロフォンをつけて解析するのも有効な気が
します。
☆ そうですか。どなたか詳しい方 いらっしゃいますか?

お礼日時:2017/11/16 21:05

こういうのダイジョブですよね!


けして、嫌でないですよね!





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーサム
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像163
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この回答へのお礼

テーブルクロスが いまいちなのかなぁ。その色合いが。


ご飯が どうして少ないのだろう。

お礼日時:2017/11/16 20:57

どう?


兄貴と知の一騎打ち!
迫力満点!
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この回答へのお礼

もっときちんと 説明をつけて批判をしなくちゃ。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/16 20:55

■148


ーーーー
★ ~~~~~~~
サイモンとガーファンクル
を、
ガイモンとサーファンクル
のように子音だけが入れ替わることが起こるそうです。
~~~~~~
☆ それほど 奇異なことでもないようですよ。

サイモン( Simon )を発音しようとしているときに その
あとのガーファンクル( Garfunkle )という言葉のことをち
らっと意識したのです。

そうして あとに / g / が出て来ると確認した途端 サイモ
ンを発音するのに この / g / が出て来てしまったのです。
ーーーー
ーー>
兄貴はこの問題を単純化してしまっているぜ!
哲学的な問題なのに・・・
だめだぜ!
却下!
ごめん・・・
だけどこういうしかないんだ兄貴!


ーーーー
★ 母音だけの場合もあります。
☆ それは しょっちゅうだと思います。

音韻変化に規則性があるとしたら ふたつ。

経済性の原則。努力が安上がりになるように発音する。意味
が伝わる程度に 粗雑になります。

自分の好きなように発音する。人びとにとって共通の趣味で
あったなら これが一般化する。
ーーーー
ーー>
納得できないぜ!兄貴!



■149
ーーーー
★ 思い浮かべた音をどうして出せるか
☆ おそらく 口や唇や舌あるいは口室(くちむろ)そして声帯
などをさまざまに用いて まづ音を出してみた。

その音に合わせて 意味〔のある言葉〕ができて来た。

つまり そのあとです。《意味のある言葉を思い浮かべる》のは。
ーーーー
ーー>
いや!
そうではない!
出す前から決まっているんだ!
確かめてはいない!
いきなり、求める音が出せます!
そうでなくては、歌は歌えません!
そこが問題なんです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

■148

★★ サイモンとガーファンクル⇒ ガイモンとサーファンクル
★ 兄貴はこの問題を単純化してしまっているぜ!
哲学的な問題なのに・・・
☆ 事実に就くということが 哲学的ではないというのは 偏見です。




☆☆ ~~~~
音韻変化に規則性があるとしたら ふたつ。

経済性の原則。

自分の好きなように発音する。
~~~~~~
★ 納得できないぜ!兄貴!
☆ どこが どのように?



■149
★★ 思い浮かべた音をどうして出せるか
★ 出す前から決まっているんだ!
☆ それは 初めに 音韻と意味とが結びついて一つひとつの言葉を
つくったあとのことです。





参考:【Q:われ・ことば・表現は 世界と同時一体である。】~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8505592.html

奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あ
たりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠( ごも )れる》と形容さ
れたその風景を見て われらが祖先の誰かが 

  HA.....

と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも
知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何
らかの心の動きが あったはずである。

  HA.....SI。

というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さま
ざまな形にして発声した。これは 音で いま目の前の世界の風景を切
り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたこと
になる。

  HASI . / はし。

こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。

 ――愛(は)し。

つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /
が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相
の子音/ ’(=ア行子音)/で

   ’u = う。 
   'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。

と作って これを添えれば

   うる‐はし。(心愛し・麗しい)

とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすこと
ができた。
・・・
~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2017/11/16 20:54
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