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文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

○ 神とは何か?

§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。

質問者からの補足コメント

  • うまそうだ。


    昼まで 出かけます。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/04 09:00
  • №52つづき

    ★ 可能性ではなく原理的に、です。
    ☆ それは・つまり 原理的にという視点を持ち出すということは この世
    の中がすべては 相対的な関係として成り立っていると言っているのだと思
    います。

    それは そうなのでしょう。――でも それ以上のことは あまり言ってい
    ませんね。

    原理的にただしさ(変わらざる真理)が証明されないということは 相対的
    な世界で 可能性として妥当であったりなかったりするということなのでは?





    ★ 「マーフィー則」
    ☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。




    ★ では、・・・1/87のアメリカの鉄道模型です。
    ☆ 実際のがいいです。実際のなら 鉄道全般が 好きです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/07 10:36
  • 経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
    内容としてのものです。

    それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
    えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
    美があるという見方です。

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 07:24
  • ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。

    どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
    すみません。


    あらためて聞いてみます。

    No.66の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 08:52
  • 前野説は ダメです。

    能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。

    その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。

    ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
    たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
    指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。

    ところが
    ▲ 神は 生きている者の神である
    ☆ とイエスは はっきりと言っています。ですから 誤解もはなはだし
    い。

    プラトニズムと一緒にしてしまうという誤解をした人びとのその思想を批
    判しているに過ぎない。

    つまり 聖書を何にも知らない。阿呆です。

    こういう事例は 例外ではないのです。



    マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。

    これは とても科学する心だとは言えません。

      補足日時:2017/11/10 16:02
  • 1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
    な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
    説》が当てはまると。

    2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
    ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

    3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

    4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
    定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

    5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
    のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
    という意味では やはり神の霊なるチカラである。

    こういう問題なのでは?

      補足日時:2017/11/11 04:32
  • つづき

    ★ 我々は、時に、相手を思いやり、時に、意地悪をし、時に、相手の
    不幸を最高のイベントにします。
    ☆ それらすべてにわたって ひとの意志を踏みにじっていないかどう
    かや また同じことですが ヤマシサ反応に逆らっていないかどうか
    このリトマス試験紙が あてがわれます。区分されます。



    ☆☆ 抵抗も抗議も原状復帰も ナンセンスなことになります。
    ★ ~~~
    そのとおりです。
    ・・・
    手の付けようがないんですね。

    実際、兄貴のような考えでよくしていこうというのは不可能であると思
    います。
    ~~~
    ☆ ですから そういう自由度が――悪貨が良貨を駆逐するごとく――
    優勢であった時代・つまりじんるいの《前史》から やがて内なる開花
    とともに 《後史》に入ります。

    No.97の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 08:57
  • つづき

    ★ テトリス、コスモス、和の心の、神は調和的に人類の見方でした。正義の
    味方です。true justice.
    ☆ なぜ そうなりますか? 属性を考えて 真理・愛といったことを持ち出
    しましたが 《正義》は どうでしょう? 

    つまり 否定しようとはしませんが 愛が 愛憎を超えたものであるように 
    正義も 正邪を超えたものなのでしょう。


    ★ ボジョレーヌーボー開けて待っててね。
    ☆ ワインも何も 飲まなくなったなぁ。

    No.102の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 17:52
  • ▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
    丸山 圭三郎 (著)
    https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8 …

    ☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

    丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

    カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。

    No.156の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/16 16:35
  • 回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

    間違えました。すみません。

    特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
    間違えています。

    ご海容のほどをお願いいたします。



    (補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。

    No.176の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/17 14:12

A 回答 (290件中81~90件)

ーーーー


ニーチェ「善悪の彼岸」
☆ 要するに ポイントは 何ですか?
ーーーー
ーー>
我々は事実を見ることはない。その大方を想像で作ってしまっている。
つまり、事実はない、解釈だけがあるのだ、をたとえています。

ーーーー
今日の読者は、一つのページの一つ一つの言葉を(ましてやシラブル(音節)
なんかを)残らず読みとっているわけではなく――むしろ、二〇の言葉のなかから、
たまたま五つぐらいの語をえらびとってきて、この五つの語が含むらしくおもわれる意おば《推測》する
ーーーー
ーー>
ほとんどを読み飛ばしている、ということですね。
ーーーー
これと同じくわれわれは、一本の樹を見るにも、その葉、枝、色、形にわたって綿密に完全に
それを目に入れているわけではない。むしろわれわれには、
そこに樹というもののだいたいのすがたを想像してみることのほうが、はるかに容易なのだ。
ーーーー
ーー>
ほとんどを作ってしまっているーー我々は芸術家なのである。

ーーーー
■私の関連した体験
☆ 違います。誤解です。ほんとうは これこれこうなんです。と
はっきりと・あらためて言えばよろしい。

陰で愚痴ってるんぢゃ 風味がありません。
ーーーー
ーー>
これも同じで、私の言っていることが無視され、勝手な想像で決着されています。



ダリです
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像210
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ ニーチェ「善悪の彼岸」
☆☆ 要するに ポイントは 何ですか?
★ 我々は事実を見ることはない。その大方を想像で作ってしまっている。
☆ それは 違う。大方は 事実認識が 注意深くなく見落としがあった
りするということです。

事実誤認が多いということです。ですから 次の指摘は 筋違いです。
★ つまり、事実はない、解釈だけがあるのだ、をたとえています。

★ ほとんどを読み飛ばしている、ということですね。
☆ 事実認識に 落ち度があるということでしょう。


▲ ーーーー
これと同じくわれわれは、一本の樹を見るにも、その葉、枝、色、形にわたって綿密に完全に
それを目に入れているわけではない。むしろわれわれには、
そこに樹というもののだいたいのすがたを想像してみることのほうが、はるかに容易なのだ。
ーーーー
☆ 事実認識をしっかりとしましょうと言えば済む問題です。

★ ほとんどを作ってしまっているーー我々は芸術家なのである。
☆ 哲学ないし学問では ゆるされません。




ーーーー
■私の関連した体験
★ これも同じで、私の言っていることが無視され、勝手な想像で決
着されています。
☆ ぢゃあ 誤解されてもかまわない・・・と言ってるということで
す。

お礼日時:2017/11/18 15:31

また、息抜きです・・・




ニーチェ「善悪の彼岸」信太訳 より
ーーーー
  どんな学問の場合にあっても、早まった仮説、架空の作り話、《信仰》への善良にしておろかしい意志、疑念や忍耐の乏しさなどが、まず最初にあらわれる。――われわれの感官が、繊細で忠実で用心ぶかい認識の器官たることができるようになるのは、あとになってからのことであるが、それも完全にそうなるわけではない。われわれの眼には、なにかの折にふれて、すでに幾度か作られたことのある心象をふたたび作り出すほうが、ある異常で新しい印象をしっかりととらえることよりも、はるかに心地よいものに映るのだ。後者のほうが、より大きい力を、より多くの《道徳性》を必要とする。なにか新しいものを聞くということは耳に辛いこと、面倒なことである。耳なれぬ音楽を聴くのは、われわれの気分にそぐわないものである。よその国の言葉を聴くと、知らず識らずのうちにわれわれは耳にしたその声音を、われわれにいっそうなじみ深くしっくりした響きをもつ言葉へつくり変えようとする。・・・われわれの感覚にも、新しいものは敵対的な不快なものに感じられる。一般に、感性の《きわめて単純な》過程のなかにすらすでに、怠惰といった受動的な情念をもふくめて恐怖とか愛とか憎悪とかいうような情念が、支配している。――今日の読者は、一つのページの一つ一つの言葉を(ましてやシラブル(音節)なんかを)残らず読みとっているわけではなく――むしろ、二〇の言葉のなかから、たまたま五つぐらいの語をえらびとってきて、この五つの語が含むらしくおもわれる意おば《推測》する。――これと同じくわれわれは、一本の樹を見るにも、その葉、枝、色、形にわたって綿密に完全にそれを目に入れているわけではない。むしろわれわれには、そこに樹というもののだいたいのすがたを想像してみることのほうが、はるかに容易なのだ。きわめて特異な体験の場合にあってさえも、われわれはやはりそれと同じことをやる。すなわちわれわれは、体験の大部分を仮構する。そして、《創作者》としてでないかぎりは、何らかの出来事を強いて観察することなどはほとんどない。およそこうしたものが語る真実は、われわれがまるっきり根本から、昔から、――偽ることに慣れているということだ。あるいは、もっと高尚で偽善的な言いかたをすれば、ようするにもっと気持ちのよい言いかたをすれば、われわれは自分で思っているより以上にずっと芸術家である、ということだ。――活発に談話をかわしているときに、しばしば私は、話し相手の人物の顔つきを、彼の述べる思想や私が彼に思いつかせたと信じる思想などのおかげで、非常に明りょうに繊細にはっきりと目にすることがあるが、この明りょうさのほどは、私の視覚の力の及びうる程度をはるかに超えたものである。――この場合、話し相手の顔の筋肉の動きや目の表情などの微妙なところは、私の想像によってつけ加えられたものにちがいない。おそらく当の相手の人物は、まるっきり別な顔つきをしていたか、もしくは何の表情をも見せていなかったのだ。
ーーーー




■私の関連した体験
  私は昔、会社の食堂で、「すっぱいものが嫌いです」と言ったところ、相手は「刺激のあるものが嫌い」と解釈してしまった。さらに、「辛いものが嫌い」とも解釈された。私は刺激のあるもの・辛いものは大好きなのであり、酒はウィスキーのストレート、わさびはたっぷり付けて刺激を楽しむ人間だ。しかし、相手には「すっぱいものが嫌い」という素直なイメージが作られないのである。事実は、必ず相手の手が入り変形されるものだ。事実をそのまま見ることは、むずかしいというより不可能なことなのだ。つまり、我々の知ることは、全て「我々を通したもの」であるのだ。事実は我々の趣味・嗜好・体の状態・社会的な状態・願望などの影響を受け、変形されてしまうのだ。このイメージは我々によって作られたものであって、事実ではない。我々の体が媒介する以上、我々の固有な性質の影響は受けるのである。見たものはその人固有の整理に仕方(形式、フォーム)によってまとめられるのである。

バッハです
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像209
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


ニーチェ「善悪の彼岸」
☆ 要するに ポイントは 何ですか?





■私の関連した体験
☆ 違います。誤解です。ほんとうは これこれこうなんです。と
はっきりと・あらためて言えばよろしい。

陰で愚痴ってるんぢゃ 風味がありません。

お礼日時:2017/11/18 13:20

下の方の意見ですね。



>答えはいつもシンプルなんです。
ダラダラと書くのは馬鹿がやること

これいつも思うことです。
役所からの手紙なんかです。
いろいろ書いてあって、なんだかわかりませんね。

まず1枚目は
①これは何か
②あなたがやること
③ほっぽら化しておくとどうなるか
を3行で書くべきです。

そのあとに詳細に書けばいい。

ところが一般には「わかりやすくする」ために
どんどん書き足していきます。

丁寧に書くということに気を取られ、相手の負担になるという
別な側面を考えていません。

とにかく、日本人は前置きが長いですね。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像208
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この回答へのお礼

まぁ どうなりますか。


保留です。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/18 13:13

■196


ーーーー
☆☆ ~~~~
分かり合いたい。

ゆづりたい。
~~~~~~
ーーーー
ーー>
これが???なんです。

ーーーー
★ たとえば、
人を助ける、という行為は、
自分の優越の確認のための行為である、
というのが私の考えです。
☆ 《助ける》になると 助けたいのですが 受け容れてもらえますか
と 相手の意志をたずねなくてはなりません。

そのつてで言えば 相手の意志と合わさったときには まったく対等な
関係における自由な行為となります。

《優越》からは自由です。
ーーーー
ーー>
ここが違うところですね・・・


ーーーー
そして 《ゆづりたい》によって言いたかったことは 一歩相手の意志
を優先するかたちを採ることによって――これも 相手の意志に俟って
こちらが行動するということですが そうすることによって―― こち
らは自分の自由を追求しやすくなると考えるからです。

道をゆづるという場合 《助けたいのですが・・・》とまでは言う必要
がなく ただ その場に立ち止まっていることによって 互いの意志を
確認することができます。

そして 相手が先に道をすすむようにするならば あとは こちらは自
由にすすむことができます。

もしこちらが先にすすもうとするなら 相手の気持ちや意向をおもんぱ
かりながら すすまなくてはなりません。自由が抑えられます。だから
です。
ーーーー
ーー>
ウーーン
兄貴は神父です、映画に出てくるような・・・


ーーーー
まあ そのことによっても:
★ 自分の優越への欲望(力への意志)
☆ を満たそうと思っていると言えば そうなのかも知れません。つま
り そこまで行けば 《趣味の問題》です。あるいは 見方の問題です。

どう見るかは その人の自由ですから。
ーーーー
ーー>
だから、戦いが絶えない。
「この世は、趣味と味覚の戦いなのである」--ニーチェ(ツァラトゥストラ)


■197
ーーーー
★ ニーチェの「道徳の系譜」の第3論文は面白いです。
▲ 僧侶は禁欲によって、ある優越感を手に入れようとしている。
☆ と――それが 僧侶であろうと誰であろうといいのですが――
思い当てたと思う人間がいるということです。

フリッツ君は それだけの心と知性しかないということです。
ーーーー
ーー>
ゲゲゲー


ーーーー
★ つまり、禁欲は見せかけであり、やっぱり貪欲だったわけです。
☆ たとえば 次のように思う人間もいるのです。

生まれてこの方 二十年もしくは三十年経った。どうもわたしは人
間に生まれて しあわせ過ぎると思う。その度合いは これからの
人生のすべてを わが神にささげて生きても悔いはないほどだ。

と言って 修道院で余生を過ごすといった場合です。そこにはもし
お望みならば 《禁欲》なる生き方も入るでしょう。

それをも 《見せかけであり じつは貪欲だった》と見る人間もい
るということです。

これは たしかに趣味の問題です。世の中 分からないことばかり
です。
ーーーー
ーー>
同感です!
わかることは、
結局、すべてが、わからないことなのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

■196
ーーーー
☆☆ ~~~~
分かり合いたい。

ゆづりたい。
~~~~~~
ーーーー
ーー>
★ これが???なんです。

ーーーー
☆ 《助ける》になると 助けたいのですが 受け容れてもらえますか
と 相手の意志をたずねなくてはなりません。

そのつてで言えば 相手の意志と合わさったときには まったく対等な
関係における自由な行為となります。

《優越》からは自由です。
ーーーー
ーー>
★ ここが違うところですね・・・


ーーーー
そして 《ゆづりたい》によって言いたかったことは ・・・
ーーーー
ーー>
★ ウーーン
兄貴は神父です、映画に出てくるような・・・


ーーーー
☆☆ どう見るかは その人の自由ですから。
ーーーー
ーー>
★ だから、戦いが絶えない。
「この世は、趣味と味覚の戦いなのである」--ニーチェ(ツァラトゥ
ストラ)
☆ そういうことを言っているようぢゃ 話になりません。世の中に起
こっていることをみとめ それらに追随しているだけなのですから。



■197
★★ ニーチェの「道徳の系譜」の第3論文は面白いです。
▲ 僧侶は禁欲によって、ある優越感を手に入れようとしている。
☆☆ と――それが 僧侶であろうと誰であろうといいのですが――
思い当てたと思う人間がいるということです。

フリッツ君は それだけの心と知性しかないということです。
ーーーー
ーー>
★ ゲゲゲー



★★ つまり、禁欲は見せかけであり、やっぱり貪欲だったわけです。
☆☆ たとえば 次のように思う人間もいるのです。

生まれてこの方 二十年もしくは三十年経った。どうもわたしは人
間に生まれて しあわせ過ぎると思う。その度合いは これからの
人生のすべてを わが神にささげて生きても悔いはないほどだ。

と言って 修道院で余生を過ごすといった場合です。そこにはもし
お望みならば 《禁欲》なる生き方も入るでしょう。

それをも 《見せかけであり じつは貪欲だった》と見る人間もい
るということです。

これは たしかに趣味の問題です。世の中 分からないことばかり
です。
ーーーー
ーー>
★ 同感です!
わかることは、
結局、すべてが、わからないことなのです。
☆ どう同感なんですか? 修道院に入る人の気持ちは?

お礼日時:2017/11/18 13:11

ついに206まで来ました・・・


相変わらず、どこでも批判が多いですね。
かたい話ばっかりですのでこの辺で息抜き・・・

「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像206
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神については人は討論すべきでないと思います。


人それぞれ神という概念は違います。
好きな人が神だったり、友達が神だったり、ぬいぐるみが神だったり、食べ物が神だったり、自分自身という人もいます。
もっと突き詰めれば神とは感情、または第六感だと思います。
神は物質または概念でありそれには形がないということだと思います。
あくまで私の意見です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ あくまで私の意見です。
☆ そういった内容のご回答をのぞみます。



★ 神については人は討論すべきでないと思います。
☆ 《討論》に限れば 《討論すべきか・すべきでないか》についての
討論があり得そうです。

この質問の姿勢は そうではなく 世に言う《かみ》とは いったい何
か? この問いについて哲学から答えることです。

答えが出るか出ないかが分からないのだとすれば 問い求めることです。
その過程は とうといものと思います。



★ 人それぞれ神という概念は違います。
☆ もし哲学が 一般性のある――さらには普遍性のある――定義をあ
たえ得たとするなら 《概念としては》 人びとに共通の神が持たれ得
ます。

神の違いというのは 人それぞれがいだくその特殊性であろうと見ます。
《神はある》派と《神は無い》派とに――互いに自由に同等にであるが
話が通じなくなるほどに―― 分かれ得ます。

そのとき 神は――普遍神は―― 何の影響もこうむることなく・まし
てや変化することなく 一般絶対性としてあります。



★ 好きな人が神だったり、友達が神だったり、ぬいぐるみが神だった
り、食べ物が神だったり、自分自身という人もいます。
☆ その場合は 神を・つまり絶対性なる普遍神を すでに人間の言葉
にしてしまっているので その神という言葉を 相対的な経験世界のも
のごとに当てはめてみたという事例です。



★ もっと突き詰めれば神とは感情、または第六感だと思います。
☆ というふうにも 絶対なる神が 相対世界に――言葉としては――
降ろされて来るのだと思います。



★ 神は物質または概念でありそれには形がないということだと思いま
す。
☆ それは 証明されていない想像だと思います。これは そうは言い
切れないもののはずです。



このように考えますが どうでしょう。

お礼日時:2017/11/18 05:09

神は既知にあり、未知にあり、非知にある、ものと思いました。



わたしたちを包み、染みわたってもいて、砂漠や海底のなかにもいて、宇宙の果てにもいるのでしょう。

神そのものが非知のなかにだけあって、なんらかの使いを遣わすのであれば、それは Nobody knows のような気がします。

非知のみにしか存在しない神は、どうしても、「神はわれわれの外側にしかいないもの」という考え方に陥りそうにみえます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

次のように説明します。

○ 神と人間 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~:ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

非経験の場:ブラフマン(梵)神・・・・・・・・・・・・・・:【非知】=知り得るか知り得ないかが知り得ない
        ⇅
非思考の庭:アートマン(霊我):ヒラメキ  良心・・・・・:【非思考】=非知なるナゾ(霊)を受け容れている
                  ↓   ↓
思考の緑野:コギト      :思  想  ↓・・・・・・:【思考】=可知(既知か未知)または不可知
感性の原野:センスス・コムニス:      やましさ反応・:【知覚】=感覚の有無

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~:ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1. 非思考の庭なる動態――つまり信仰――において 非知なる
神を 無条件で無根拠においてわが心に受け容れている。

2. 《非知なる神を》というのは 《かみ》なる言葉や ブラフ
マンなどというその名や あるいは 《無い神》なる言葉を受け容
れることです。雲をつかむような話です。

3. この《受け容れる》というのは すでに人間の意志行為です
から そのようにして 経験世界と非経験の場とがあたかもつなが
ったと捉えられる。

4. このように捉えた神は すでに同じくあたかも経験世界のも
のとなっている。言葉や知覚をとおして そうなっ〔たと人間は思
っ〕ている。

5. こうして 神――非知なる非経験の場――が 可知なる概念
として・あるいは可感的なものとして 迎え入れられた。

6. それゆえ 神が 既知だとか未知だとかとも 表現されたり
することがある。

7. けれども 忘れてならないのは 《非経験の場》と《人たる
存在(非思考の庭を含めて身と心)》とは 絶対の隔たりがあるこ
とだ。

8. もともと 《経験世界を超えたところ》として神を想定して
いたのだから。

9. 神と人とのあいだに 絶対の隔たりがないとすれば 神と人
とは互いに相対的な関係にあることなのだから 初めから思考や知
覚の対象となっている。

10. この相対的で経験的な神は いわゆる人間の想像によって
創造した概念ないし観念としての神である。おもちゃである。

お礼日時:2017/11/18 04:54

答えはいつもシンプルなんです。


ダラダラと書くのは馬鹿がやること

あなたは自分が考えた意見をみんなに見てもらいたい。そして自分の意見について色々感想がほしい。

それが真理です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 答えはいつもシンプルなんです。
☆ その具体的な表現は どうなりますか? よかったらおしえて
ください。

お礼日時:2017/11/17 23:14

あなたは結局自分の意見をみんなに見てもらいたいだけなんですよ

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この回答へのお礼

質問を挙げるということは みなさんにその趣旨説明を読んで
もらうことになりますが?



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/17 23:12

(神)らしきものが存在する、と思って求めてきたものが(精神)ではないでしょうか。



もし、お酒が神のようなものであるなら、アルコールが神そのもののようなものです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ (神)らしきものが存在する、と思って求めてきたものが(精神)では
ないでしょうか。
☆ 神だと思って追い求めて来たが それは ただ人間の精神のことだ
ったし それでしかなかった。・・・という意味でしょうか?



《非知》は 人間の精神のことだとお考えでしょうか?

あるいは 人間の身ことなのか。あるいは 世の中のいろんなものごと
のことなのか。

という問いで お応えしたいと思います。

お礼日時:2017/11/17 23:11
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