プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

○ 神とは何か?

§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。

質問者からの補足コメント

  • うまそうだ。


    昼まで 出かけます。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/04 09:00
  • №52つづき

    ★ 可能性ではなく原理的に、です。
    ☆ それは・つまり 原理的にという視点を持ち出すということは この世
    の中がすべては 相対的な関係として成り立っていると言っているのだと思
    います。

    それは そうなのでしょう。――でも それ以上のことは あまり言ってい
    ませんね。

    原理的にただしさ(変わらざる真理)が証明されないということは 相対的
    な世界で 可能性として妥当であったりなかったりするということなのでは?





    ★ 「マーフィー則」
    ☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。




    ★ では、・・・1/87のアメリカの鉄道模型です。
    ☆ 実際のがいいです。実際のなら 鉄道全般が 好きです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/07 10:36
  • 経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
    内容としてのものです。

    それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
    えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
    美があるという見方です。

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 07:24
  • ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。

    どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
    すみません。


    あらためて聞いてみます。

    No.66の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 08:52
  • 前野説は ダメです。

    能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。

    その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。

    ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
    たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
    指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。

    ところが
    ▲ 神は 生きている者の神である
    ☆ とイエスは はっきりと言っています。ですから 誤解もはなはだし
    い。

    プラトニズムと一緒にしてしまうという誤解をした人びとのその思想を批
    判しているに過ぎない。

    つまり 聖書を何にも知らない。阿呆です。

    こういう事例は 例外ではないのです。



    マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。

    これは とても科学する心だとは言えません。

      補足日時:2017/11/10 16:02
  • 1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
    な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
    説》が当てはまると。

    2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
    ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

    3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

    4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
    定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

    5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
    のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
    という意味では やはり神の霊なるチカラである。

    こういう問題なのでは?

      補足日時:2017/11/11 04:32
  • つづき

    ★ 我々は、時に、相手を思いやり、時に、意地悪をし、時に、相手の
    不幸を最高のイベントにします。
    ☆ それらすべてにわたって ひとの意志を踏みにじっていないかどう
    かや また同じことですが ヤマシサ反応に逆らっていないかどうか
    このリトマス試験紙が あてがわれます。区分されます。



    ☆☆ 抵抗も抗議も原状復帰も ナンセンスなことになります。
    ★ ~~~
    そのとおりです。
    ・・・
    手の付けようがないんですね。

    実際、兄貴のような考えでよくしていこうというのは不可能であると思
    います。
    ~~~
    ☆ ですから そういう自由度が――悪貨が良貨を駆逐するごとく――
    優勢であった時代・つまりじんるいの《前史》から やがて内なる開花
    とともに 《後史》に入ります。

    No.97の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 08:57
  • つづき

    ★ テトリス、コスモス、和の心の、神は調和的に人類の見方でした。正義の
    味方です。true justice.
    ☆ なぜ そうなりますか? 属性を考えて 真理・愛といったことを持ち出
    しましたが 《正義》は どうでしょう? 

    つまり 否定しようとはしませんが 愛が 愛憎を超えたものであるように 
    正義も 正邪を超えたものなのでしょう。


    ★ ボジョレーヌーボー開けて待っててね。
    ☆ ワインも何も 飲まなくなったなぁ。

    No.102の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 17:52
  • ▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
    丸山 圭三郎 (著)
    https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8 …

    ☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

    丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

    カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。

    No.156の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/16 16:35
  • 回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

    間違えました。すみません。

    特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
    間違えています。

    ご海容のほどをお願いいたします。



    (補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。

    No.176の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/17 14:12

A 回答 (290件中101~110件)

バルトの「テクストの快楽」


では、ニーチェの引用が多いですね。
ニーチェって人気ありますね。


ニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」(浅井真男訳)から
僭越・生意気というものによって、我々がいかに危険な状態にさらされるかが、格調高い隠喩により説明されている。


----
僭越。――僭越と呼ばれ、われわれのあらゆる良い収穫を台無しにするあの雑草の生長には、何よりも用心しなくてはならぬ。なぜなら、僭越は情愛のなかにも、敬意のなかにも、好意的な親密のなかにも、愛撫のなかにも、親切な忠告のなかにも、欠点の自認のなかにも、他人に対する同情のなかにも存在するのであって、これらすべての美しい事柄もそのなかにあの雑草が生えると反感を起こすからである。僭越な者、すなわち、自分があり、あるいは値する以上に重要であろうと欲する者は、つねに誤った目算を立てる。なるほど、彼が僭越なことをする相手の人々は通例心配や便宜のために彼の要求するだけの敬意を彼に払うので、彼は一時の成功を収める。しかしこの人々はそれに対して悪い復讐をするのであって、彼がよけいに要求しただけの分をいままで彼に与えていた価値から差し引くのである。屈辱ほどに人々が高い代価を支払わせるものはない。かくて僭越な者は自分の実際の大きな功績を他人の眼に疑わしく小さなものにしてしまって、泥だらけの足で踏みつけられることになるかもしれない。――誇らしい態度でさえも、誤解されて僭越だと思われることがないとまったく確信できるところ、たとえば友人や妻の前でなくては、あえてとってはならない。なぜなら、人間との交際においては、僭越の評判をとる以上にばかなことはないからである。それは、礼儀正しく嘘をつく術を学ばなかったということよりもさらに悪いことである。
ーーーー
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像190
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

もしわが人間としての――相手に対する――態度として 人間性に
とって過少であったり過多であったりする負の内容が出てしまった
場合 論じられているように そのしっぺ返しを食らうことになり
ます。

そして それだけの話です。

僭越は 出しゃばりですよね。それほど大したあやまちでもないと
思うんですがねぇ。

問題は もし僭越ということで言うとすれば 過剰の僭越あるいは
自分では人間の自然本性にかなった態度だと思ってその僭越な振る
舞いをおこなう場合です。

あまりにも僭越な振る舞いに出会うと 人は 怒りをおぼえたり咎
めようと思ったりするよりも むしろすでに滑稽に思えて来るわけ
です。

ですから すでにそのような過剰な僭越に対しては なかなか 批
判をあたえようとしません。

せいぜい ぶらじゅ君のような能天気者が まじめに批判をおこた
らないといった情況になるくらいです。



結論:フリッツ君に対しては 人びとは すでに相手にしていない。

社交性を欠かせぬという意味で いろいろ世辞を言う。こういう取
り扱いに成っているのでしょう。


きちんと批判するのは このぶらじゅ君くらいです。

お礼日時:2017/11/17 18:48

このような話、


兄貴の問題においては、
ばかばかしい、と思われるかもしれないが、
この分野の者たちは、大まじめです。
今回の問題においても大いに関係しています。
それこそ、思考の変革は必要なんです。

素粒子論もすごいですよ!
めちゃくちゃです。古い考えに固執する者にとっては・・・
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像189
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

新知見には 大いに関心が惹かれます。

ですが な・か・み・が・も・ん・だ・い です。






例の二冊の本のコメントですが もう一点。

ミステリが好きで 毎日 AXNという局でやっています。それが
見たくて時間を取られています。

主任警部モースなどです。あしからずお願いいたします。

お礼日時:2017/11/17 18:34

■183


ーーーー
★ そうなんです。確かそうです。
相手の文章を見たりしないでも、相互に関係しあっている、らしいです。
そこが面白いんです。
☆ それは 幽霊の話ですね。
ーーーー
ーー>
ここが20世紀の哲学なんですよ。

ーーーー
★ ものすごいことなんです。時間の前後も関係ない、というモデルです。
しかし、正しいと思います。
☆ あなた 科学の徒なんでしょう?
ーーーー
ーー>
いや!
マーフィー学です。

ーーーー
▲ 間テクスト性 
★ 兄貴は、まだ理解していないですよ。
互いに、別の場所、別な時間に居ても関係しているのです。
上のように考えると、驚くべきことであり、新たな思考世界が開けます。
☆ テレポーテーションですかね。
ーーーー
ーー>
もっと深淵なものであると思っています。



■185
■186
ーーーー
★ 「テクストの快楽」 訳者の序文:
ーーーー
どうして絵画ではわかる、わからないが問われないのに、
文章では、それが問題にされるのか?
ーーーー
★ つまり、わからない文章の羅列なんですね。
☆ そんななバカな。
ーーーー
ーー>
これこそが20世紀の哲学なのです。


ーーーー
たとえば わたしの文章が分からないと言います。つまり《分からない
ということが 分かった》かたちになっている。

《分かる・分からないが問われている》ぢゃありませんか。
ーーーー
ーー>
いやいや、そういう判断をしないでただ味わうのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

■183
★★ 相手の文章を見たりしないでも、相互に関係しあっている、らしいです。
☆☆ それは 幽霊の話ですね。
★ ここが20世紀の哲学なんですよ。
☆ 21世紀では 幽霊が幽霊でなくなった?


☆☆ あなた 科学の徒なんでしょう?
★いや! マーフィー学です。
☆ フィー! マー!




▲ 間テクスト性 
★★ 互いに、別の場所、別な時間に居ても関係しているのです。
☆☆ テレポーテーションですかね。
★ もっと深淵なものであると思っています。
☆ ぢゃあ たのしみですね。科学の発達には目を見張るものが
あるようです。



■185
■186
★★ 「テクストの快楽」 訳者の序文:
どうして絵画ではわかる、わからないが問われないのに、
文章では、それが問題にされるのか?
★★ つまり、わからない文章の羅列なんですね。
☆☆ そんなバカな。
★ これこそが20世紀の哲学なのです。
☆ 何のこっちゃ。



☆☆《分かる・分からないが問われている》ぢゃありませんか。
★ いやいや、そういう判断をしないでただ味わうのです。
☆ ぢゃあ 分からないと言っちゃ ダメ。






例の二冊の本のコメントですが 気を持たせてしまったとしたなら
申し訳ない。

シェインドリンの本は 定説にもとづき うまく歴史をまさに物語
っていると思います。

ダヰデの話は わたしも知っているので さらに伸ばして行くと面
白いと思ったり 預言者エリシャはよく知らないので まなばなく
ちゃと思ったりですが 特に論争のある主題を扱うわけではなく
筋に沿って 読み進むといった状態です。

特にコメントを書くという問題ではないようなんです。


『一神教』のほうは いろんな角度から論じるべき主題を扱ってい
て この出しゃばりぶらじゅろんぬ君も 一席ぶちたいところです
が なにぶん相手は 短くまとめて議論しているので 批判するに
しても その対象が必ずしもきちんと定まらないところがあります。

こういった事情で コメントは 期待外れになるかとおそれており
ひと言すでにいま前もって おことわりしておきたい。こう思う次
第です。あしからず。

お礼日時:2017/11/17 18:30

176はあたちではありません。


ーーーー
回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

間違えました。すみません。

特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
間違えています。

ご海容のほどをお願いいたします。



(補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。
ーーーー
ーー>
なるほど・・・
たまに、違う人がでてきますので難しいですね!注意ですね。


イタリアのヴェローナ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 176はあたちではありません。
★ たまに、違う人がでてきますので難しいですね!注意ですね。
☆ へまをやりました。


でも よく似た内容だったですね。

お礼日時:2017/11/17 18:14

「テクストの快楽」はわからない本です。


役者の序文にこうありました。

ーーーー
どうして絵画ではわかる、わからないが問われないのに、
文章では、それが問題にされるのか?
ーーーー
つまり、わからない文章の羅列なんですね。

そこで、このような質問に対する回答も、初めの主題から外れても
いいではないか?です。
どんどん行ったほうにいけばいいのでは?
すると新たな発見があります。
西欧文明はそのようにしてきたのではないかと思います。

知恵袋でも、たいてい脱線していきます。



ガリレオの居た部屋です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「テクストの快楽」 訳者の序文:
ーーーー
どうして絵画ではわかる、わからないが問われないのに、
文章では、それが問題にされるのか?
ーーーー
★ つまり、わからない文章の羅列なんですね。
☆ そんななバカな。

たとえば わたしの文章が分からないと言います。つまり《分からない
ということが 分かった》かたちになっている。

《分かる・分からないが問われている》ぢゃありませんか。





★ そこで、このような質問に対する回答も、初めの主題から外れても
いいではないか?です。
☆ 分かるかどうかと 道草を喰うこととは 別です。



★ どんどん行ったほうにいけばいいのでは?
すると新たな発見があります。
☆ それは それとしての問題ないし行き方。



★ 西欧文明はそのようにしてきたのではないかと思います。
☆ 一筋縄で行こうとするのが 反哲学です。




★ ガリレオの居た部屋です。
☆ 《居た》? 幽閉?

お礼日時:2017/11/17 16:26

ーーーー


間テクスト性 
ある著者が先行テクストから借用したり変形したりすることや、
ある読者がテクストを読み取る際に別のテクストを参照することをいう。
ーーーー
ーー>
で、
この借用、変形、参照は無意識に行われます。
つまり、直接見たりしていないのに、関係してしまうのです。
まさに、フロイトですね。
クリステヴァは精神分析も専門だったかもです。
フロイトやラカンからきていることは確かです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ この借用、変形、参照は無意識に行われます。
つまり、直接見たりしていないのに、関係してしまうのです。
まさに、フロイトですね。
☆ たぶん。おそらく。それは ユングですよ。

ただし 《元型》というもので 一定の決まった主題について
言っています。アニマ・アニムス。老知性だったか。・・・

お礼日時:2017/11/17 16:21

あと、54です。


ここは、あの2冊の本の感想のために
とっておいてください。



イエメンです。
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>かつて こういったコミュニティー志向の街づくりが流行していました。


ーー>
サンフランシスコです。

ーーーー
★ クリステバは時間の後先にも関係なく関係しているといっています。
☆ そういう意味ですか。

それは 時間の矢が 未来へ向かってすすむだけではなく 過去へのそ
の矢先を向き変えて 飛んでゆくことがある――ということですかね。

そこについては いまわたしには 何とも〔言えません〕。分かりませ
ん。
ーーーー
ーー>
そうなんです。確かそうです。
相手の文章を見たりしないでも、相互に関係しあっている、らしいです。
そこが面白いんです。
私のこの文章と、ブラジルの文章は相互に関係しあっている、ということです。
これは「テクストの快楽」の注に書いてありました。
時間も関係ない。つまり、プラトンの文章は、今私の書いている文章と関係
しているんですよ。ということは、プラトンの時代に、今日の私の文章は
できていたことになります。
つまり、すべては連動している、それは空間だけでなく時間的にも言える。
つまり過去と現在は、影響関係(過去から現在へという意味で)ではなく、
相互関係であるということ。
つまり、マーフィー則と同じなんです。これも多くのものが、関係しあっている
ということ、連動している、ということですね。
ものすごいことなんです。時間の前後も関係ない、というモデルです。
しかし、正しいと思います。


ーーーー
▲ 間テクスト性 ~~~~~~
ある著者が先行テクストから借用したり変形したりすることや、
ある読者がテクストを読み取る際に別のテクストを参照することをいう。
~~~~~~
☆ あたりまえですよね。どうして そんなことを言う思想が 一時的
にでも流行ったんですかね。
ーーーー
ーー>
兄貴は、まだ理解していないですよ。
互いに、別の場所、別な時間に居ても関係しているのです。
上のように考えると、驚くべきことであり、新たな思考世界が開けます。



バルセロナです
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ コミュニティー志向の街づくり
★ サンフランシスコです。
☆ あ。それはそれは。日本だとばかり思っていました。


★★ クリステバ
☆☆ ~~~~~~~~~
それは 時間の矢が 未来へ向かってすすむだけではなく 過去へその
矢先を向き変えて 飛んでゆくことがある――ということですかね。

そこについては いまわたしには 何とも〔言えません〕。分かりませ
ん。
~~~~~~
★ そうなんです。確かそうです。
相手の文章を見たりしないでも、相互に関係しあっている、らしいです。
そこが面白いんです。
☆ それは 幽霊の話ですね。

★ ものすごいことなんです。時間の前後も関係ない、というモデルです。
しかし、正しいと思います。
☆ あなた 科学の徒なんでしょう?



▲ 間テクスト性 
★ 兄貴は、まだ理解していないですよ。
互いに、別の場所、別な時間に居ても関係しているのです。
上のように考えると、驚くべきことであり、新たな思考世界が開けます。
☆ テレポーテーションですかね。



★ バルセロナです
☆ 何でもない風景に味があります。

お礼日時:2017/11/17 16:18

しらん

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この回答へのお礼

はっはっは。おもしろいですね。


ご回答をありがとうございます。


もう一言と思うのですが 種切れみたいです。


またどうぞ。

お礼日時:2017/11/17 16:11

>☆ いやいや。

後続の者は 先人に影響を受け得ます
ーー>
クリステバは時間の後先にも関係なく関係しているといっています。

間テクスト性
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E3%83%86 …
から引用
ーーーー
ある著者が先行テクストから借用したり変形したりすることや、
ある読者がテクストを読み取る際に別のテクストを参照することをいう。
ーーーー
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像181
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この回答へのお礼

かつて こういったコミュニティー志向の街づくりが流行していました。

ご回答をありがとうございます。



★ クリステバは時間の後先にも関係なく関係しているといっています。
☆ そういう意味ですか。

それは 時間の矢が 未来へ向かってすすむだけではなく 過去へのそ
の矢先を向き変えて 飛んでゆくことがある――ということですかね。

そこについては いまわたしには 何とも〔言えません〕。分かりませ
ん。




▲ 間テクスト性 ~~~~~~
ある著者が先行テクストから借用したり変形したりすることや、
ある読者がテクストを読み取る際に別のテクストを参照することをいう。
~~~~~~
☆ あたりまえですよね。どうして そんなことを言う思想が 一時的
にでも流行ったんですかね。

お礼日時:2017/11/17 14:25
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