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中学の頃、ある美術教師がこんなことを言っていました。
芸術では真っ直ぐで当たり前のものは受け入れないと。
例えば画家に星を描かせると、対称で均等な5角形の星ではなく必ず歪んで曲がった星を描くものだという。
それが芸術の芸術たる流儀であるとも語っていました。
確かにその通りである。
芸術家は構築より脱構築を好むからである。
ピカソの絵もゴッホの絵もこの点は同じである。
一方科学の世界はこれとは真逆である。
数学や物理の世界では単純なものほど美しいという。
そのために彼らは世界や物事を単純化するために徹底的に対称性や普遍性を求めるのである。
このように同じ人間であっても美に対する認識が180°異なるのは一体なぜなのか。
何がこのよーな本質的違いを生むのでしょーか。

A 回答 (8件)

画家は絵を描いた後にサインを入れる



宇宙は神が作ったものであるという考え方がありますが
それではその証拠はどこにあるかという質問に
世界の定理や法則がそのサインであるという
考え方があります

数学や物理の話を読むと
日本人には理解しにくいのですが
どうしても神の存在の話になってしまいます

どうしてそうなるのかは
神が作ったとしか思えない
だからこれは神が残した
サインであるというのです

単純なもの、対称性、普遍性なども
神の存在を解き明かすような思考にもなってきます

そういう時に
神の存在対個人の存在の戦いに対して
私は神には服従はしない
自分の存在の証明をするためには
それを否定する

まっすぐには描かない
歪んだ線しか描かない
人を醜く描く
暗黒は美しい
悪を認める

これが神の指導のもとの美ではなく
私という個人がつくった美である

ということではないでしょうか
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なぜかを悩むことが楽しいと感じる生き物だから。

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何がこのよーな本質的違いを生むのでしょーか。


  ↑
これは美に対する考え方の違いです。
プラトン美学とバウムガルテン美学の違いです。

美は、人間存在とは関係無く存在するモノだ
と考えると、美については、自然の模倣とする
模倣説や、釣り合いが取れたモノが美しいとする
均斉説を採ることになります。

これは、美は神が創りだした、という考え方に
基づくものです。

科学とは、神の秘密を解き明かすものだ、と
する考え方とマッチします。


これに対し、美は人間あってのモノである、
美を感じるのは人間だけだ、と考えるなら
異化説とか、作者の感性の表出だ、とする表出説
をとることになります。
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科学の美とは自然の美でござる。


機能美であり、合目的的な美なのでござる。

他方、芸術=Kunst=人工の美とは、Wohl Gefühl、即ち美的適意と訳されて意味不明になっちまったところの例の人間固有の感性なのです。

で、感性学=Ästhetik、即ち美学と呼ばれるようになった。
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人の道様 いい質問ですね。



知性からくる美。と、感性からくる美。ですね。

>何がこのよーな本質的違いを生むのでしょーか。

私は人の生き方の違いのような気がします。
どんな人であっても、人は心が驚くようなワクワクすることに感動します。
それが、美、芸術だと思います。
人生において、その人が何を重視して生きてきたか。結果として、他人の生き方に自己を投影して感動するのだと。

相撲を観ていると、鍛えられた肉体が戦う姿は美しいです。
普段は、ただのデブなのに美しい。
人間の生き様があるからです。

音楽家の追求する、自然を奏でる音色も美しい。
音楽が人間の感情や愛を伝える手段だからです。

人の道様の知性を追求する生き方は美しい。
そこに、生き生きとした生き様があります。

夢の中の住人である私にとっての美は、「生命の輝き」なのですけれども。
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人の顔立ちやスタイルの美しさ、競走馬や犬の美しさ、青く霞んだ山々や南国の澄み切った青い海の美しさ等、様々な対象に美を感じます。

しかし、美の基準は一体何でしょうか。

 参考になる事例があります。犯罪者の顔の特徴を導く試みがありました。犯罪者特有の顔を割り出し、その顔を持つ者が、罪を犯す前に矯正し、或は用心をしようと言うのです。そこで、様々な犯罪者の眼・鼻・口の大きさや間隔等、顔の寸法のデータを集積し、その平均値を使って顔を描いて見ました。
 すると、男女共にすばらしく美しい顔となったのです。つまり、美しい顔とは、全ての寸法が平均値である顔だったのです。しかし、寸法が平均の顔とは、どう言う顔なのでしょうか。

 眼の大きさや間隔は、最も機能的で環境に適したものが望ましいのです。鼻や口の大きさもそうです。その最も機能的寸法から、各自少しずつ外れているので、顔に個性が出ます。最も機能的な寸法は環境には適するが、それでは各自の見分けが付かなくなります。また、ある程度寸法に幅がある集団の方が、環境変化に適応し易いのです。

 眼が大きい方にずれる人と、小さいほうにずれる人とが出ます。従って、平均すると、最も機能的な寸法となります。人は、その環境に最も適した寸法に、美を感じるのです。
そして、その最も環境に適した寸法の顔の人と結婚して子孫を残そうとします。よって、その集団は、環境に適した寸法を平均値において維持することが出来ます。逆に、環境に適さない寸法の顔の人を好んで、その人と結婚して子孫を残そうとすると、どんどん環境に合わない寸法の顔となってしまい、その集団は弱くなります。

 体のスタイルも同様です。足の長さ、尻やウエストの引き締まり具合、長く真っ直ぐな指等に、美を感じます。獲物を追いかける為には、速く走れなければなりません。足が長くヒップも引き締まっていなければ、速く走ることは出来ません。槍を投げるには、腰を速く回転させなければなりません。ウエストが太いと速く回転させることは出来ず、遠くまで槍を投げる事は出来ません。石器や土器等、様々な生活用品を作るのに、指が重要となります。長く真っ直ぐに伸びた、繊細な作業の出来る器用な指に美を感じます。
 この様に、最も機能的なサイズの体に美を感じるのです。

 競走馬は、速く走る馬を交配して、より速く走る馬を作り出しています。より速く走れる機能を持った馬の体に美を感じます。
しかし、爬虫類の場合はどうでしょうか。機能的な体を持った爬虫類に美を感じるでしょうか。蛇やトカゲやワニに美を感じるでしょうか。
私は醜しか感じません。人が、まだねずみの様な生き物であった時、蛇やトカゲに捕まえられ食べられていました。爬虫類は哺乳類の一番の敵であり、忌み嫌っていました。従って、爬虫類から遠ざかる為に、醜を感じるのです。犬に美を感じるのは、犬は太古から人類の友人であり、犬に近づく為に美を感じるのです。

 青く霞んだ山々や、青く澄んだ海に美を感じるのは、その豊かな自然のある場所に止まる為です。砂漠に美を感じ、そこに止まろうとすると、その集団は自滅してしまう可能性があります。豊かな自然のある場所に憧れ、その場所を求める集団の方が、生き延びる可能性が高いのです。

 この様に、人類にとって、望ましい自然・望ましい動物・望ましい人体のサイズに美を感じ、人はそれに引き寄せられるのです。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/bitohananika.html
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「何がこのよーな本質的違いを生むのでしょーか」


⇒人間は、何事においても飽きがきます。
なので、常に変化を望みます。

その飽きを解決する一つが芸術でしょうね。

一方、科学は美とは思いませんね。
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あなたの美術教師は認識が甘いです。


美術や哲学をする人は論理的に考える人がいます。
そうではないのです。人々が感動するものが芸術なのです。
理屈ではなく見る人にそれぞれの感性を刺激することです。
バランス的なものもアンバランスのものも美しいと感じたら
芸術なのです。
科学的なものは構造上の安全基準に基づいて作成され、それが
機能美として認められます。
野に咲く花も木も自然が作った美なのです。
全てが芸術です。
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