「死後、遺体は久能山に納め、葬礼は増上寺に申しつけ、位牌は三河の大樹寺に立て、一周忌が過ぎた後、日光山に小堂を建てて勧請せよ、八州の鎮守になりたい……」
と、このような感じで、家康は遺言を残しました。
しかし、遺体そのものを久能山から日光山に移せとはいっていないのに、日光山へ改葬が行なわれたのは何故なのでしょうか?
実は天海の天台宗勢力を拡大させたいという政治的な配慮があったから、というのを聞いたことはあるのですが、それが本当なのかどうか曖昧です。
これについて詳しい方、簡潔にでいいのでお教えください。

A 回答 (2件)

去年やっていたNHKの「葵三代」を見る限りでは、takonaguriさんの言う天海の野望は当たっています。

なんだかんだと家光にハッパをかけたようですね。
でも最終的に日光への改葬を指示し、更に日光の大改築を強く押し進めたのは家光本人です。よほど家康への崇拝が強かったからでしょう。
久能山は江戸から遠く規模も小さいため、新たな寺社造営は出来にくく、移送しか方法はなかったんでしょうね。
でも「八州の鎮護・・・」うんぬんは的確に成されたようですよ。それが天海の指示かどうかはわかりませんけど、図面で久能山と日光に放射線を描き両方の場所を指し示すと、ちょうど線の交わる所に江戸があります。少なくとも江戸の鎮護は考えられたと思います。
今でも久能山には家康の遺体の一部が奉られているんですよね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

お早い回答をありがとうございました。
私も「葵三代」見ておけばよかった……と今更ながらに後悔してます(^^;
わかりやすく、また短くもまとまった回答で感謝しています。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/07/16 08:50

1,徳川本家の面目-久能山は駿河大納言のお膝元



2,老中の合議制がすでに確立していたので、天海&土井利勝と老中

 等が考えられます。

簡潔すぎますか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

下の方の回答と合わせ、それで充分なものとなりました。
これで充分です(^^)
ありがとうございました。

お礼日時:2001/07/16 08:52

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q神宮寺と鎮守の社

昔の日本では神仏は習合されて信仰されていたとかで
お寺には鎮守の社があり
神社には神宮寺があったようですが
すべての寺に鎮守の社が、すべての神社に神宮寺があったのでしょうか。

京都に藤森神社がありますが、神宮寺なんてあったのかな?と疑問に思いました。

Aベストアンサー

以下、知人に確認しました。

日本では建国以来の伝統的な神社がありましたが、その後神道が勃発しましたね。
現在では神社と神道は同意語で語られることが多いですが、現在でも厳密には神社と神道は別物といえます。

その後仏教が伝来した後、神社と仏教は全国で権力争いが続きました。
しかし、奈良時代以降になって神仏関係は次第に緊密化していき、平安時代には神宮寺が広まったようです。

神仏習合は江戸時代にさらに進められ神社の側にお寺を置き、寺が神社を管理する形態も各地で作られた。
しかしながら、すべての寺に鎮守の社が、すべての神社に神宮寺があったということではなく、地域の時の権力者が主だったところにだけ作ったというのが実態のようです。

しかし、明治元年に神仏分離令が施行。江戸時代の仏教国教が神道国教に転換し、伊勢神宮を頂点とする神道国教化政策が推進されました。

Q天台宗だった六波羅蜜寺で隠れ念仏が行われたのはなぜ?

(1)京都・六波羅蜜寺は977年に比叡山の僧・中信が中興して以降、天台天台宗に属していたそうですが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となったそうです。
寺院の宗派は簡単に変えることができるのでしょうか。

(2)六波羅蜜寺では年末に隠れ念仏が行われています。
これはかつての念仏弾圧から逃れるために密かに念仏を行ったことの名残だそうです。
念仏弾圧が行われたのは鎌倉時代だと思いますが、このとき六波羅蜜寺は天台宗です。
浄土宗の開祖である法然は、1204年に比叡山の宗徒に念仏停止を訴えられています。
比叡山延暦寺は天台宗であり、天台宗は念仏を快く思わなかったのではないか、と思うのですが
なぜ天台宗であった六波羅蜜寺において隠れ念仏が行われたのでしょうか。

(3)上記の記述において間違いがあれば指摘いただければ幸いです。

Aベストアンサー

>>寺院の宗派は簡単に変えることができるのでしょうか
寺が衰微した時期に復興した僧侶、あるいはパトロンによって宗派が流動的に変わる事はよくあります。

六波羅蜜寺の場合は近くにある智積院の勢力が伸びた事も一因とされます。また修験的な山岳信仰への回帰も指摘されます(『修験と念仏』91頁「都市に下りた念仏聖」)。

>>六波羅蜜寺では年末に隠れ念仏が行われています
念仏弾圧で誤解されるのは、弾圧されたのは法然一派の立てた「専修念仏」、つまり自戒作善を必要とせず弥陀一仏のみに帰依するという教義に基づく念仏です。
念仏そのものは大乗仏教での基本的修行であり、中世の仏教では南都や叡山、高野などの各宗派で念仏は行われています。念仏は「仏を念じる」ことであり、特に阿弥陀如来を念じる念仏が代表格となります。
しかし、法然一般の立てた「専修念仏」はそれまでの念仏と異なり、各宗派から仏教の破壊、異端として批判され、弾圧されます(『沙石集』をお読みになれば、当時の専修念仏批判がどのような視点であったかがお分かりになると思います)

当時の六波羅蜜寺は天台教学に基づく浄土信仰の寺院ですから、法華経と念仏三昧により法会が修され、六波羅蜜寺周囲は他界信仰とも結びつきます。
寺側も文人貴族との関わりのみならず、積極的に民衆の信仰を受け入れる事で寺勢を高めます。
踊り念仏は極楽往生という面のみではなく、除災招福や鎮魂などの土俗信仰、民俗信仰とも深く結びつく信仰ですから、いわゆる専修念仏的な視点のみで捉えてしまうと、分かりにくい面もあるでしょう。
つまり信仰における建前と本音の部分とでもいいましょうか…
 専修念仏は批判するが、民衆の念仏信仰へのパワーは受け入れる…
 専修念仏を信仰するが、現世利益や他の神仏の信仰も捨てない…
この両者の思惑が一つになった面も考えられるでしょう。
また現在の有名寺院の表面的説明では妙にロマンチックに語りがちですが、もっと当時の信仰は土臭い物でもあります。

参考文献として、五来重『踊り念仏』、上田さち子『修験と念仏』(平凡社)を一読されてみてはどうでしょうか。

>>寺院の宗派は簡単に変えることができるのでしょうか
寺が衰微した時期に復興した僧侶、あるいはパトロンによって宗派が流動的に変わる事はよくあります。

六波羅蜜寺の場合は近くにある智積院の勢力が伸びた事も一因とされます。また修験的な山岳信仰への回帰も指摘されます(『修験と念仏』91頁「都市に下りた念仏聖」)。

>>六波羅蜜寺では年末に隠れ念仏が行われています
念仏弾圧で誤解されるのは、弾圧されたのは法然一派の立てた「専修念仏」、つまり自戒作善を必要とせず弥陀一仏のみに帰依する...続きを読む

Q天台宗の勝持寺に西行や空海の伝説があるのはなぜ?

京都の勝持寺は天台宗のお寺だそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%8C%81%E5%AF%BA

この寺に西行桜があります。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/urochoro_shoji-ji.htm

西行という人は弘法大師の遺跡巡礼をしたり
高野山で修行したりしていて、真言宗の僧侶ではないかと思えるのですが
なぜ天台宗の勝持寺に西行桜があるのでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C

また勝持寺では弘法大師が眼病に悩む人達のため、不動明王に病魔退散を祈願された とも伝えられているようです。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/urochoro_shoji-ji.htm

なぜ天台宗の勝持寺に真言宗の開祖である弘法大師の話が伝わっているのでしょうか。

お寺の宗派が変わることはよくあったと聞いたことがありますが
勝持寺はもともとは真言宗のお寺だったのでしょうか。

京都の勝持寺は天台宗のお寺だそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%8C%81%E5%AF%BA

この寺に西行桜があります。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/urochoro_shoji-ji.htm

西行という人は弘法大師の遺跡巡礼をしたり
高野山で修行したりしていて、真言宗の僧侶ではないかと思えるのですが
なぜ天台宗の勝持寺に西行桜があるのでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C

また勝持寺では弘法大師が眼病に悩む人達のため、不動明王に病魔退散を祈願された と...続きを読む

Aベストアンサー

お寺でだれのもの?
という話で行きますと、本末制度とそれと同時に出来上がった檀家制度の前は「大旦那」のものということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8B%9D%E5%AF%BA
六勝寺の一つ法勝寺は、治天の君のもの。
栄西が勧進職になったのも、栄西の宗派が・・・というのではなく、その時代の有力僧侶に頼んだと言う感じです。
後醍醐天皇の帰依を受けたのは、円観で、天台宗だったりする。
円観は東大寺の勧進職もやったりしています。

宗派っての、学校で数学と英語と国語を勉強していて、数学しかしませんというような事はないというの似ている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%AE%97%E5%85%BC%E5%AD%A6
上記に 一般に知られているのは・・・
というものが教団として成立するのが戦国期、庶民までの結びつきです。
宗派はあったが、檀家という一般庶民との結びつきは無かったのが、教団が出来る前のスタイル。
大旦那 = お寺 =(この結びつきが無い)庶民
大旦那の意向で、お寺に居住する僧侶が変わったりしました。
戦国期に、真言真宗の教団や法華の教団(当時で、一揆と言われる組織)を構築してない宗派はそんなものです。

徳川家は宗教政策として
官制教団をつくらせ(村のお寺にみんな檀家)
お寺同士を本末制度で管理しやすくした。

無本寺寺院の意味がわかりません。
→ 本寺の無い寺

お寺でだれのもの?
という話で行きますと、本末制度とそれと同時に出来上がった檀家制度の前は「大旦那」のものということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%8B%9D%E5%AF%BA
六勝寺の一つ法勝寺は、治天の君のもの。
栄西が勧進職になったのも、栄西の宗派が・・・というのではなく、その時代の有力僧侶に頼んだと言う感じです。
後醍醐天皇の帰依を受けたのは、円観で、天台宗だったりする。
円観は東大寺の勧進職もやったりしています。

宗派っての、学校で数学と英語と国語を...続きを読む

Q第2次世界大戦開戦時に設置されていた燈台について(佐世保鎮守府管内 特に北九州)

第2次世界大戦の戦争被害を調べています。
佐世保鎮守府管内(特に北九州西方面)に設置されていた燈台の名前と位置(出来れば写真があると最高です)を知りたいです。
具体的には、対馬~壱岐~五島列島~男女群島をイメージしています。
燈台と言っても、灯台職員(灯台守?)が配置されていたような大きな燈台を対象としています。
どのように調べたらよいでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

1936年5月版ではありますが、下記には、有人・無人を問わなければ
九州西岸及北岸68箇所の燈台が掲載されています。

(1)〇『日本灯台表.昭和11年5月改正/灯台局編/灯光会』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116062/126
<126-134/255>(153-168頁)燈臺/九州西岸及北岸

次に、1940年4月版ではありますが、
下記には、有人の燈台が掲載されています。

(2)〇『逓信省職員録.昭和15年4月1日現在/逓信大臣官房秘書課』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446108/70
<70/77>(128頁下段11行目~)
逓信省/○燈臺局
・六連島燈臺 ・沖ノ島燈臺 ・筑前大島燈臺
<70/77>(129頁上段)
・玄海島燈臺 ・三島燈臺 ・神埼燈臺 ・若宮燈臺 ・烏帽子島燈臺
・二神島燈臺 ・御神島燈臺 ・古志岐島燈臺
<70/77>(129頁中段)
・五島白瀨燈臺 ・大三山島燈臺 ・黃白嘴燈臺 ・圓島燈臺 ・老鐵山燈臺
<70/77>(129頁下段)
・老虎尾燈臺 ・女島燈臺 ・大瀨埼燈臺 ・黃島燈臺 ・大立島燈臺
・面高白瀨燈臺
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446108/71
<71/77>(130頁上段)
・伊王島燈臺 ・蔭ノ尾島燈臺 ・野母埼燈臺 ・口之津燈臺 ・湯島燈臺
・島原燈臺 ・戸馳島燈臺 ・戸島燈臺 ・長崎鼻燈臺 ・釣掛埼燈臺

続いて、下記WEBサイトでは、
(3)〇塔MAP
http://tower.30maps.com/
リストから検索すれば
〇塔MAP>リスト
http://tower.30maps.com/list
[▼都道府県/長崎県][▼アイコン/燈台]
現在登録済の燈台一覧を見ることが出来、
例えば下記のような情報が得られます。

○三島灯台/長崎県対馬市上対馬町鰐浦1217/明治27.8.28
○神埼灯台/長崎県対馬市厳原町浅藻10-1/明治27.9.5
○豆酘埼灯台/長崎県対馬市厳原町豆酘3180/明治42.9.1/改築昭和62.3.19
○女島灯台/長崎県五島市浜町/昭和2.12.1

上記(1)(2)では肝心の1940.4~1945.8の期間が漏れていますが、
(3)で補うことで、ある程度は「燈台名・所在地・緯度経度・設置年ほか」
の情報が得られると思います。

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

1936年5月版ではありますが、下記には、有人・無人を問わなければ
九州西岸及北岸68箇所の燈台が掲載されています。

(1)〇『日本灯台表.昭和11年5月改正/灯台局編/灯光会』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1116062/126
<126-134/255>(153-168頁)燈臺/九州西岸及北岸

次に、1940年4月版ではありますが、
下記には、有人の燈台が掲載されています。

(2)〇『逓信省職員録.昭和15年4月1日現在/逓信大臣官房秘書課』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446108/70
<70/77>(128頁下段11行目~)
逓信省...続きを読む

Q南光坊天海は明智光秀なのか!?

以前から言われている話ですが、南光坊天海は光秀と同一人物ではないのか。私は自分なりに調べてみました。
日光東照宮に明智家の家紋がある
日光のあけち平を命名したのは天海
天海と春日の局(光秀家臣、斉藤通三の娘)
比叡山に光秀寄進の物がある(光秀死後なのに)
天海の歴史上登場時代と光秀の死亡時期、並びに天海と光秀の年齢が近い?
など色々あるようです。私は半信半疑ですが、皆様はどう思われますか。皆様の賛否両論をお聞かせ下さい。上記に述べ以外でも証拠がある方はそれを、反対の方は反対証拠もありましたら、お知らせ下さい。

Aベストアンサー

まず、明智光秀の生まれは1528年~1537年頃(1528年が有力)ではないかと考えられています。そして、天海の没年(これははっきりしています)は1643年です。つまり、もし光秀が天海だとすると、116歳となってしまい、これは無理があります(日本の男性最高齢記録を超えてしまいます)。なので、光秀=天海はかなり無理があります。

しかし、天海が明智光秀の「縁戚」である可能性は非常に高いと考えられます。
・筆跡の類似。天海の筆跡と、光秀の筆跡は同一ではないですが共通点があり、「親子のような関係」であったと鑑定されています。

・行動面での可能性。これは、まず明智の周辺状況を考えないといけません。明智は遠山氏とのかかわりが深い一族でして、この遠山を天海は大変重用しています。たとえば英勝院。これは、太田の氏族ですが、母が江戸城代である遠山綱景の娘なのですが、この遠山というのは、美濃から下向してきた一門なのです(つまり明智の縁戚)。ただ、英勝院は本当に太田の一門かは不明なのですがね。

実際のところ「明智光秀=天海」は年齢的に無理が強すぎるため、その縁戚である明智秀満(鬼武者ですがね)かそれに準ずる人物ではないか?という説が(天海=明智遠山氏説では)いまのところ強いと考えます。秀満は、遠山氏の出自ですね。その後光秀の婿養子となりましたが、もともと秀満は明智の従兄弟ともいわれていまして、どちらにしても非常に近い間柄なのです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/天海

まず、明智光秀の生まれは1528年~1537年頃(1528年が有力)ではないかと考えられています。そして、天海の没年(これははっきりしています)は1643年です。つまり、もし光秀が天海だとすると、116歳となってしまい、これは無理があります(日本の男性最高齢記録を超えてしまいます)。なので、光秀=天海はかなり無理があります。

しかし、天海が明智光秀の「縁戚」である可能性は非常に高いと考えられます。
・筆跡の類似。天海の筆跡と、光秀の筆跡は同一ではないですが共通点があり、「親子のような関係」...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報