アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

↓の質問を読んで、昔から疑問に思っていたことを思い出しました。
【「で、起こっている」と「に、起こっている」の違いを教えてください!】 
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10446196.html 

「動作・作用の行われる時・場所」を表わす{デ/ニ}は、いままで下記のような例文で考えていました。
  1)駐車場{デ/ニ}車をとめる
  2)駐車場デ柱の隣の区画ニ車をとめる 
  3)この電車は新宿{デ/ニ}止まります 
 おおざっぱに言うと、下記のように考えていました。
●こういう場合の{デ/ニ}は同じように使える。
●2)のようにデとニを併用する場合には、デが大きな範囲、ニが小さな範囲を示す。

 ところが今回のデーマは、ちょっと違う気がします。
  4)日本{デ/ニ}起こる 
  5)日本{デ/ニ}起きる 
  6)日本{デ/ニ}生じる 
  7)日本{デ/ニ}生まれる 

 1)〜3)の{デ/ニ}と、4)〜7)の{デ/ニ}にはどのような違いがあるのでしょうか。
 さらに言うと、4)~7)はデとニでどのような違いがあるのでしょうか。


 念のために辞書の記述をひいておきます。助詞に関する記述は長いのですが、たぶん下記でしょう。
https://kotobank.jp/word/%E3%81%AB-590835#E5.A4. … 
================================ 
に 
[格助]名詞、名詞に準じる語、動詞の連用形・連体形などに付く。 
1 動作・作用の行われる時・場所を表す。「三時―間に合わせる」「紙上―発表する」 
3 動作・作用の帰着点・方向を表す。「家―着く」「東―向かう」 
================================ 

https://kotobank.jp/word/%E3%81%A7-573220#E3.83. … 
================================ 
で 
[格助]《格助詞「にて」の音変化》名詞、名詞的な語に付く。 
1 動作・作用の行われる場所・場面を表す。「家―勉強する」「委員会―可決する」「試験―合格点を取る」 
================================

質問者からの補足コメント

  • だいたいわかりました。
    【助詞の話──場所を示す「に」と「で」〈5〉〜〈7〉 教えて!goo 】
    https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12371715230.html

     こんな記述、前から……あったんだろうな。
     ほかのかたが、〈Mac OS同梱の古い「辞書」でも同じ〉と教えてくれた。
     つまり、デはフツーの場所を表わすデ。
     ニはやや用途が狭くなり、「人・事物の存在や出現する場所」を表わすらしい。
     微妙ではあるが、「消失」の場合もある。「紙上に発表する」も、「出現」の一種と考えてよいのでは。辞書の詳細は↑参照。

      補足日時:2018/05/08 22:22
  • そろそろ締め切りのようです。
     一部のコメントを除き、ありがとうございました。
     新たに関連質問をしたので、今回の質問への補足があれば下記にお願いします。
    【食事の後{デ/ニ}薬をのむ【「で、起こっている」と「に、起こっている」の違い……】 その3】
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10505940.html

      補足日時:2018/05/20 11:15

A 回答 (12件中1~10件)

こんにちは。



「に」と「で」の問題は、日本語教師にとっては昔からの、永遠の問題ですが、文法屋からすると、レベルの違う助詞、というのがまず頭に浮かぶ分析です。

先の投稿にも書いたように、「に」は動詞が要求する補語、「必須補語」としての対象を示す助詞で、それがこの場合は「場所」であるということです。その名詞がないと、動詞が表す事態が十分に示せていない、と感じるような名詞。(はなはだ曖昧な言い方ですが)

一方、「で」のほうは「随意補語」あるいは「副次補語」を示す助詞で、まあ、動詞にしてみればなくてもいいもの、というのが「動詞文型」を考える際の考え方です。

ところが、「起こる」「生じる」などの動詞では、上の二つが微妙に絡み合う。
どちらでも言えるし、どちらも動詞にとって必要な要素であるような。

こういう、動詞と名詞(補語)の組み合わせの問題は、個別の特徴によるところが大きくて、大ざっぱな理屈(「助詞の本質」!)から予想できるものではない場合が多くなります。

で、実例を集めて、じっくり考えることが先決です。


実例をちょっと見てみましょう。

「書きことばコーパス」というものがあります。大変便利なものです。

そこから、<に起こる><で起こる><に生じる><で生じる>の例を少し書き抜いてみました。

どういう名詞が「~が」の所に来るのか、「~に」「~で」の所にはどんな名詞が来るのか。それぞれ、どういう意味合いになるのか、です。

本当は、「~が起こる/生じる」の所を見て、それぞれの名詞で「に/で 起こる/生じる」の前にどういう名詞が来るのかをたくさん見るのがいいのでしょうが、それは大変なのでサボりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://nlt.tsukuba.lagoinst.info/headword/V.00091/

<に起こる>

娘の身に何が起こったのか

二人に奇跡が起こったのです

健康な人にも起こりうる心臓病とは?

そのとき、二人にどんな出来事が起こる?

てんかんでない人にも発作が起こりますか?

泳げない人にだけ起こるものではありません(足のつりは)

頭痛が3人に一人くらいの割合で起こります

今の自分に何が起こっているのか?

他人事だと思っていたことが自分に起こる


僕の体に異変が起こる

自分の体に起こった異常について調べたい

高血糖を放置すれば、体に不具合が起こる危険性も

人生にはいろんなことが起こります

常に人生に起こる問題の解決は何か?

家族や周りに変化が起こった

教員6人くらいでその布の端を持って上下させると、周りに風が起こります


ギリシアに争いが起こる

東京に大地震が起これば

日本にも同じ変化が起こると著者は見る

市場原理主義はまず、アメリカに起こった

20世紀初頭のロシアに起こった一連の革命

何かが世界に起ころうとしている

子どもの世界に何が起こっているのか


<で起こる>

浦安で水害が起こるの?

日本で暴動は起こるのか?

アジアで反日デモ起こる

浅草で起こった失踪事件

アメリカで起こった悲劇

インドで列車事故が起こる

日本で大地震が起こる前兆か!

この発端は、愛媛で起こった


http://nlt.tsukuba.lagoinst.info/headword/V.00120/

<に生じる>

これでは国民の間に分裂が生じる

この間に、国許では内紛が生じた

人と人との間に生じる感情の温度差

その結果、上司との間に摩擦は生じた

摩擦力は接触するもの同士の間に生じます

63名の生存者に脳卒中が生じました

また、利用者に1割負担が生じています

使用者に、次のいずれかの事由が生じたこと

警察に届けないとの不利益は被害者に生じます

内容に変更が生じる場合があります

申請内容に変更が生じた場合、必ずご連絡ください

そこに格差が生じる

そこに問題が生じる

そこに迷いが生じる

そこに誤解が生じます

そこに矛盾は生じない

そこに権力争いが生じる

当然そこには責任も生じる


<で生じる>

係先との間で紛争が生じた場合

だから、親子間で摩擦が生じる

プライドと素直さの間で葛藤が生じる

会員とユーザーとの間で生じるトラブル

中国で貧富の差が生じる理由

同様の混乱は香港やマカオでも生じている

阿波でも地割れを生じ、余震は翌年まで続いた

実は同様の現象はすでにアメリカで生じている

日本では季節によって自然界に大きな変化が生じます

ここで疑問が生じる

ここで問題が生じます

ここで錯覚が生じます

運動中、筋肉内では小さな亀裂が生じます

それは家庭内でも地域の中でも生じています

本市の区域内で生じた廃棄物であること

生体内では異常たんぱく質はいろいろの原因で生じます

同じ目標に向かっているチーム内でそんな感情が生じることは不毛です

現場で生じた問題をヒアリング

これは現場ではかなり混乱が生じています

今日教育現場では数多くの問題が生じています

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

全体の用例数は「~に」のほうが多いのですが、「~に」は、時を表す場合が多くて、それは別にしなければいけません。

が、それはつまり分析者としての判断が入ってしまうということで、虚心に用例を集める、ということではあんまり好ましくないことなのでしょうが。

「~で」でも、「そのうえで」のような例は外すことになります。


さて、この程度の例から何かわかるか。

う~ん、このぐらいの集め方、用例数ではぜんぜんダメですね。
もうちょっとがんばって、少なくとも数百例は検討してみないと。

でも、これぐらいでも、意外に「~に」の例が「~で」で言い換えられないことに気付きますね。
どうしてなのか。

「その対象に影響を与える」という説明でいいでしょうか。でも、「~で」の場合も、影響は受けている場合がありますね。

さて、どう考えたらいいのか。

ま、以上、ご参考までに。

saburoo
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この回答へのお礼

〈大ざっぱな理屈(「助詞の本質」!)〉は侮れません。〈永遠の問題〉がほんの数行で解決するかもしれません。その可能性は否定できません。そりゃ誰も否定はできないでしょうね(笑)。
 個人的には「本質」を定義したところで、用途が多彩だと細分化しないと把握できないし、例外も考えなければならないし、結局そんな定義はあってもなくても同じことだと思います。

〈実例を集めて、じっくり考えることが先決〉
 そのとおりでしょうが、それが大変で、それはもう学者の仕事だと思います。
「書きことばコーパス」……下記あたりのことでしょうか。
http://pj.ninjal.ac.jp/corpus_center/bccwj/

「少納言」は時折使いますが、うまく成果をあげるられることが少ないのは使い方が悪いんですかね。
「~が起こる/生じる」(仮称「出現・発生系」)の用例は……こんなにいろいろありがとうございます。いろいろなことを考えることができそうです。

〈でも、これぐらいでも、意外に「~に」の例が「~で」で言い換えられないことに気付きますね。
どうしてなのか。〉……やはりそうなんですね。
「動作・作用の行われる場所」は、「デ」のほうが用途が広い印象ですが、「出現・発生系」に限れば「ニ」のほうが汎用性がある印象です。
 このあたりをスッッキリまとめることができれば……むずかしいのでしょうね。

お礼日時:2018/05/19 10:10

「わかりやすい」のと、その内容が正しいか否かとは全く別問題です。


全てを神の所業と考えれば一番分かり易いかもしれません。

少しは当方の論理を理解いただけたように感じます。

同類の安易な現象論、機能論に寄りかかり、振り回されていては進歩はありません。

今一度、< 正しい方法を持たないのに、「事実を山ほど集めて、そこから素晴らしい結論が出るだろうなんて期待するのは、学問の邪道」(時枝誠記『国語学への道』)だという警告を、思い出してもらいたいものです。■
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この回答へのお礼

>「わかりやすい」のと、その内容が正しいか否かとは全く別問題です。
 そのとおりでしょう。
 でも極端に「わかりにくい」場合や「まったくわからない」場合は、「正しいか否か」以前の問題では。

>少しは当方の論理を理解いただけたように感じます。
 とんでもない。そんな超人的な理解力はもっていません。

お礼日時:2018/05/16 20:40

下記回答の、<その微妙な意味合いの差は、その動詞と名詞の表す内容による、としか言えない。

>というのは、書かれた結果としての意味を記すに過ぎず、結果論、現象論に過ぎません。こうした解釈は意味と意義の相違と関連を捉えることが出来ずに、毎回、対象が異なるごとに意味を述べていることになります。話者は「で」と「に」の意義の相違を、対象の捉え方の相違に対応させ使用しています。

したがっ「で」と「に」がどのような意義をもっているかを明らかにしなければなりません。動詞や名詞が格助詞の使い分けを決めるのではなく、それは表現された結果と対象を直結するだけの解釈で、実際は話者が対象をどのように捉えるかにより格助詞がその意義により選択されます。

「で」は手段・原因・理由・根拠・動機として対象を捉えるものです。

東京では現場で働いていたが、大阪ではデスクワークだった。
私の国ではみんな外で遊びますが、日本では部屋の中で遊びます。

の場合、「東京で」「現場で」「大阪で」は働く手段としての場所を「で」で表現しており、それが結果として場所であるため場所を表わすと解釈されているものです。

この花はこの中でいちばんきれいです。
も「この中」を綺麗である根拠・動機として捉えています。

「に」は対象の空間的・時間的位置付けを捉え表現するもので、移行としての結果の位置付けや、固定したつながりとしての位置付けを表わしています。

私は立派な人間になりたい。
は属性の移行、
この本を彼に送ろう。
は所属の移行です。

このように、個別の文での意味ではなく格助詞自体の表わす意義を捉えないと、毎回意味に引きずられた解釈を繰り返すことになります。■
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この回答へのお礼

あのー。
「認識」とか「本質」という言葉を使わなくなったのは進歩なのでしょうかね。
「本質」を無理に「意義」に言いかえたために、余計わかりにくくなっているような。
 これなら、「本質」のほうがまだマシかも。
 他者のわかりやすい説明を、わかりにくく解釈するのはお控えください。
 迷惑です。

お礼日時:2018/05/14 22:06

ご存じかもしれませんが、むかーし書いたものを、まず。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
4.5 場所を表わす「Nで」

上の動詞文型のまとめの中で「所」をとるグループがいくつかありました。
そこで使われた助詞は「に・へ・を」ですが、場所を表わすもっとも一般的な
助詞は「で」です。

ある動作には必ずその動作の起こる場所と時間がついてまわります。表現が
少しおおげさになりますが、我々が存在するということは、この3次元空間の
中で、時間の流れの中のある一点、あるいはある幅の中のことですから、例え
ば「本を読む」という現実の具体的な行為があれば、「イツ、ドコデ」それが
起こったのかということを問うことができます。

 ですから、この二つの成分は多くの動詞文について共通のものです。逆に言
うと、動詞文の様々な型を区別するのにはあまり役立ちません。

これまで、様々な動詞型を見てきた中で、「所に」「所へ」「所を」などと
動詞の関係を見てきました。次に、上の「ドコデ」の「で」について考えてみ
ましょう。

4.5.1 「所デ」

「動作の場所」を示すもっとも一般的な助詞は「デ」です。場所を表わす助
詞は他にもありますが、それらは動詞の意味が特に場所と関係があるような種
類の動詞のときに使われ、デはそうでない場合に使われるという違いがありま
す。

1 私は部屋で本を読みました。
2 彼は学校へ行きました。
3 兄は机の上に本を載せました。
4 列車は大きな川を渡りました。

例2で、「彼は行きました」というと、どうも何か足りないような感じがし
ます。「どこへ?」と聞きたくなります。あるいは、何か前提、または文脈が
あって、どこへ行くかは分かっているのだ、という気がします。しかし、例1
で「私は本を読みました」とだけ言っても、「どこで?」という質問は特に浮
かばないでしょう。聞きたくなるのはむしろ「どんな本?」ということでしょ
う。
 例3で「兄は本を載せました」だけでは、やはり「どこに?」が気になりま
す。(こういう直感は人によって多少違い、このような説明では不十分なので
すが、とりあえずはこの程度で話をさきに進めることにします。)
 例4の「列車は渡りました」となると、何か足りない、と感じる人が多いの
ではないでしょうか。

このように「へ」や「に」、「を」の場合は、動詞が必要とする要素として
の場所を表わすのに対して、「で」は、その動作が行なわれる、いわば舞台と
しての場所を設定するのに使われます。ですから、「へ・に・を」の場合は動
詞型の一部として取り上げられるのに対して、「で」は特に注目されません。
逆に言うと、「で」は非常に多くの動詞とともに使うことができますが、他の
助詞は共に使う動詞が限られています。

しかし、そうだからといって、「で」で示される場所が重要ではないという
意味ではありません。ここが文法を考える際の難しいところで、文の構造とし
て、ある動詞に必須の要素であることと、実際の言語活動、つまり実際に使う
ときに、いちばん言いたいことは何かということは別なのです。(それが、上
のような例文の語感調査をする時に、大きな問題になります。)

例えば、「部屋で本を読んだ」という場合に、言いたかったことは「(図書
館でなく)部屋で本を読んだ」ということだったかもしれないからです。ある
文の表現の中心がどこにあるかということは、その文だけを見ても分かりませ
ん。前後の文脈、話の流れの中で決まることなのです。

もう少し「所で」の例文をあげておきましょう。

向こうで少し休みましょう。
部屋で数学の問題を考えていました。
頭の中で何かがひらめいた。
山の上のほうではずいぶん雪が降りました。
日本ではそのような社会問題はまだ起こっていません。

このように一般の動作・現象の多くが「所で」をとりうるのですが、もちろ
んどんな動詞文にでも使えるわけではなくて、使えないものも多くあります。
「所で」をとらない例として考えられるのは、「私は彼女を愛している」「私
は神を信ずる」のような場所に限定されない感情や思想を表す動詞などです。
また、「6を2で割ると3になる」「海水は塩分を含む」「地球は太陽の回り
を回る」などの数学や自然界の真理も「所で」とは関係ありません。

デは動詞文だけでなく、形容詞文や名詞文にも使われるのですが、

日本では物価がとても高いです。
日本では富士山がいちばん高い山です。
私のクラスでは女子学生が全体の80%です。
数学では幾何が好きでした。
果物(の中)ではみかんがいちばん好きです。
この花はこの中でいちばんきれいです。

などの例では、具体的な「場所」から少しずつ離れてきて、後のほうの例では
「場所」とは言いにくくなってきます。このような「で」は「範囲」を示す、
と言われます。(判断が行なわれる「抽象的な場所」とも言えるでしょう)

4.5.2 所デと所ニ

さて、場所を表わす助詞の中で、特に「で」と「に」の使い分けがよく問題
になります。いくつか代表的な例を並べましょう。
会社で働く 会社に勤める
庭で花を植える 庭に花を植える
ホームで吸い殻を捨てる ホームに吸い殻を捨てる
ベッドで寝ている ベッドに寝ている
いすで寝た いすに寝た

「で」は「動作をする場所」で、最後の例もベッドやいすが「寝る」という
動作の行われる場所を表しています。それに対して「に」が示すのは、「移動
の目的地」や「存在の場所」です。ですから、上の例でも「に」の場合はその
動作をしたあとで主体や対象が存在する場所を示します。「庭に花を植える」
と、そのあと花は庭に存在します。そのことは「庭で植木鉢に花を植える」と
いう例を考えるとはっきりします。その場合、動作をする場所は「庭」で、花
のある場所が「植木鉢」です。

このように、「で」と「に」が一つの文の中で両方とも使われることもあり
ます。その場合「所で」は、「所に+動詞」全体を一つの動作と考えて、それ
が行なわれる(広い)場所を表わす、と考えられます。「場所」を表わす補語
が一つの文に二つあるのはおかしいと考える立場では、このデは「範囲」を表
わすと考えます。

大阪では下宿していたが、東京では寮に住んだ。

「吸い殻」の例では、「ごみ箱に吸い殻を捨てる」を「ごみ箱で」にした場
合、どんな意味になるか考えてみて下さい。「ベッドに寝る」の例では、「で」
とほとんど同じになりますが、どこか他のところからベッドに行って、寝る、
という意味合いがほんの少しあります。「デ寝る」の場合、「ベッドに座って
いたらそのまま眠ってしまった」ということもありえます。「いす」の場合、
「いすで寝る」ではついうとうとと、「いすに寝る」の場合は初めから寝るつ
もりでソファーなどに、という違いがあると言ったら言いすぎでしょうか。

「生まれる」はふつう「所デ」ですが、少し古めかしい言い方(書き言葉)で
は「所ニ」をとります。「東京に生まれ、育った私」などの例です。
 同じような例に「欧州に遊ぶ(旅行する・留学する、の意)」があります。

4.5.3 二重の「で」

上で、「で」と「に」が両方出てくる場合を見ましたが、同じようなことが
二つの「で」にも起こります。

東京では現場で働いていたが、大阪ではデスクワークだった。
私の国ではみんな外で遊びますが、日本では部屋の中で遊びます。

こういう「では」(「~で~で」とはなりにくいようです)は、範囲の「で」
と考えて、場所の「で」とは違うものだとするか、いっそ「では」で一つのこ
とばとして扱うか、難しいところです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(引用終わり)

で、私の感覚では、ご質問の(1)ー(3)と(4)ー(7)は特に違わないんじゃないか、と思います。ある動詞が要求する「に」と、一般的な事柄の場所を示す「で」と。たまたま、どちらもとりうる動詞がある、ということで。
その微妙な意味合いの差は、その動詞と名詞の表す内容による、としか言えない。
はなはだ歯切れが悪いですが。

saburoo

なお、どうでもいいことかもしれませんが、リンク先(mixi日記2018年05月03日から)にある「多めに見る」は「大目に見る」でしょう。(私は、こういうことはあまり言わないほうなのですが、まあ、気付いてしまったので)
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
 ご無沙汰しております。

 いただいたコメントの中で、気になったところをピックアップします。

〈「動作の場所」を示すもっとも一般的な助詞は「デ」です〉……これが前提になると思います。
〈もちろんどんな動詞文にでも使えるわけではなくて、使えないものも多くあります〉……これもいたしかたのないことだと思います。それをどの程度簡潔な考え方で、どぼ程度限定できるのかが重要なのでしょう。

〈「に」が示すのは、「移動の目的地」や「存在の場所」です〉ということだと思います。やはりこの2つが本線でしょう(後述)。

〈このように、「で」と「に」が一つの文の中で両方とも使われることもあります。その場合「所で」は、「所に+動詞」全体を一つの動作と考えて、それが行なわれる(広い)場所を表わす〉……と考えるものですか。

〈「生まれる」はふつう「所デ」ですが、少し古めかしい言い方(書き言葉)では「所ニ」をとります。「東京に生まれ、育った私」などの例です。
 同じような例に「欧州に遊ぶ(旅行する・留学する、の意)」〉
 これは特殊な用例と考えるべきかな、と思っています。
【場所を示す「ニ」「デ」〈4〉】
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12371915228.html
 ある類語辞書は〈校庭に遊ぶ〉を×にしています。古風ではあっても間違いではないと思います。

〈私の感覚では、ご質問の(1)ー(3)と(4)ー(7)は特に違わないんじゃないか〉
 1)〜3)は「存在の場所」を示す例でしょう。
 4)〜7)は、おそらく、「発生・出現する場所」を示す例だと思います。これを「移動の目的地」の一種と考えるべきなのか、別に考えるべきなのかは微妙なところでしょう。
 やはり助詞の話はむずかしく、〈動詞と名詞の表す内容による、としか言えない〉ことも多い気がします。

「大目に見る」……ろくに見直しをしていないので、こういうことが多々あります。ご指摘ありがとうございます。このあと修正します。アソコにあるってことは、アッチにもあるんだろうな(泣)。

お礼日時:2018/05/13 18:45

<だいたいわかりました。


何がわかったのでしょうか?

学校で遊ぶ。
学校に遊ぶ。
学校に行く。

家に帰る。
家で遊ぶ

下に落ちたボール。
下で遊んできなさい。

「で」が普通の場所を表わし、「に」が「人・事物の存在や出現する場所」という説明で何が判るのでしょうか?
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この回答へのお礼

あのー。
 そんな根本的な勘違いをされていたんですか。
 それじゃ話が噛み合うわけがありません。
 ハァ……。
 もう一度質問をお読みください。

お礼日時:2018/05/11 21:49

認識について


言語は話者の認識の表現ですが、これが理解できずに問題を混乱させる良い例がありますので、参考までに質問と、回答を記させていただきます。

【質問】「【国語 ようの用法】違いが分かりません!!」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …
【国語 ようの用法】違いが分かりません!!
①問題の先送りはやめよう
②すぐに出かけよう

①②は同じという解答で

③明日は1時間早く起きよう

③は違うとあるんですが、①②③とも同じように思えて・・

教えてくらはい!<m(__)m>

【当方の回答】
「う」「よう」は意志・勧誘・推量を表す助動詞で、この三つの意義があります。

したがって、このうちのどの意義で話者が用いたかにより意味が異なります。形式は同じですので、正しくは文脈から判断しなければなりません。
各、①②③について、これを検討してみましょう。

①問題の先送りはやめよう
これは、先生が生徒に諭す場合は、勧誘の意味になります。自分が、自分に言い聞かせる場合は意志になります。企業の問題の先送りが発覚し、対策がなされたのを評価して、外部の人が「もうあの企業が問題を先送りすることはないだろう」と判断して「あの企業は問題の先送りはやめよう」と述べた場合は推量になります。

②すぐに出かけよう
急な事故の助けを求められれば、「よし、すぐに出かけよう」と意志の表現になります。助けを求められている人がぐずぐずしているのを見て、「ぐずぐずしないで、すぐに出かけよう」と呼びかける場合は、勧誘になります。子供を信頼している親が、「息子は助けを求められれば、すぐに出かけよう」というのは推量の表現です。

③明日は1時間早く起きよう
いつも、寝坊で遅刻している子供が、明日は絶対に遅刻はしないと決意し、「明日は1時間早く起きよう」と言うのは意志の表現です。それを聞いた、父親がそれを信じ「息子は、明日は1時間早く起きよう」というのは推量です。それを聞いた父親が、母親にも「明日は1時間早く起きよう」というのは勧誘になります。

このように、「明日は1時間早く起きよう」という形式だけからは、意志・勧誘・推量のどの意義で用いられたかは判断できません。

①②は同じで③は違うという判断は、一般的によくある、①②が勧誘の意味で、③を意志の意味と解釈した場合と考えられます。したがって、形だけから判断する限り読んだ人の解釈しだいで、どのようにも解釈されることになります。

言語は話者の認識の表現で、対象→認識→表現という過程的構造を持ち、文を直接支えているのは話者の認識です。残念ながら、現在の言語学、文法論はこの過程的構造を捉えられない形式主義的な発想の段階にあるため、表現された結果としての文の形式(形)から判断するしかないため、話者の認識を捉えることが出来ず感覚的な判断がなされています。

これが、現在の言語学、文法論、学校文法の現状です。■
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この回答へのお礼

質問と無関係のコメントはお控えください。
 迷惑です。

お礼日時:2018/05/06 11:32

本質ということについて



物ごとの因果関係、を明らかにするには、それが、何故かを明らかにしなければなりません。我々が直接感性的に認識するのは、先ず現象ですが、そこにある特殊性を見出し、それを支配している原因、法則を明らかにしなければなりません。

そのためには単に現象の記述ではなく、また結果としての機能ではなく、それがそのものとしてあるありかたの本質を明らかにし、その本質を支配する法則性を明らかにしなければなりません。機能を本質と取り違えると論理の踏み外しが起こります。この点に、注意を払い立体的な対象のもつ論理構造を明らかにしなければなりません。この典型的な事例が古典力学です。

コペルニクスによる地動説の発見は、天体現象とその実体の解明ですが、その現象を支配する本質がニュートンにより明らかにされた重力と力の運動法則です。これなしに、地球、太陽の軌道も安定性も潮汐現象の説明もできません。

これを言語について考えれば、まず言語の本質を明らかにし、そこでの文法、単語、文、文章という立体的な構造を明らかにしなければ科学的な解明はできません。

言語は、絵画や音楽と同じ表現の一種であり、言語の本質は概念による対象認識の表現であるところにあります。そのため、直接感性的な表現である絵画や音楽とことなり、規範を媒介とした概念と感性的な形の統一という調和する矛盾の構造をもっています。直接感性的な表現である絵や音楽は表現、理解に規範による媒介を必要としないところに本質的な相違があります。

そして、表現は対象→認識→表現という過程的構造をその背後にもっており、言語表現を直接支えているのは話者の認識です。この過程的構造を無視し表現と対象を直結してしまうと正しい理解ができません。

今回の質問にあるように、
動作・作用の行われる時・場所」を表わす{デ/ニ}は、いままで下記のような例文で考えていました。
  1)駐車場{デ/ニ}車をとめる
  2)駐車場デ柱の隣の区画ニ車をとめる
  3)この電車は新宿{デ/ニ}止まります
 おおざっぱに言うと、下記のように考えていました。
●こういう場合の{デ/ニ}は同じように使える。
●2)のようにデとニを併用する場合には、デが大きな範囲、ニが小さな範囲を示す。

という理解は、この言語表現の過程的構造を無視し、結果としての対象の範囲の相違を「デ/ニ」の相違に対応させる現象と機能による理解、解釈で、「デ/ニ」が話者のどのような認識と対応しているかを明らかにしているものではありません。

先にも記したように、助詞は客体の認識により話者の主観に生まれた判断、関係認識を直接表現するのがその本質であり、これを明らかにせず現象や機能を個別の表現の意味から取り出しているため、【で、起こっている」と「に、起こっている」】と異なる表現に使用されると、「今回のテーマは、ちょっと違う気がします。」ということになります。

明らかにしなければならないのは、助詞「デ/ニ」の表現の本質としての意義であり、これが個別の表現でどのように使用され、どのような機能を果たしているかです。

このように、対象の本質を明らかにし、その上でそれが果たす機能を捉え、結果としての現象に繋がるという普遍・特殊・個別の関係を明らかにしないと科学的な解明にはなりません。

いたずらに、現象を並べてそこから何かが判るだろうというのは非科学的な妄想にすぎません。

正しい方法を持たないのに、「事実を山ほど集めて、そこから素晴らしい結論が出るだろうなんて期待するのは、学問の邪道」(時枝誠記『国語学への道』)だという警告を、この際思い出してもらいたいものです。■
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この回答へのお礼

「認識」とか「本質」という言葉を使わずにご説明いただけませんか。
 いたずらに話をむずかしくしているようにしか読めません。

お礼日時:2018/05/05 13:35

《「東北地方{デ/ニ}未曾有の規模の地震が起こる」でニが使えるのは、神様?が考えた「到着点の方向性の認識」なのでしょうか》



既述の通り、言語は話者の認識の表現ですので「に」を使用するのは神様ならぬ話者の認識の表現ですね。■
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この回答へのお礼

「認識」とか「本質」という言葉を使わずにご説明いただけませんか。
 すでに書いたように〈「場所・手段の認識を表わし」は「場所・手段を表わし」とどう違うのでしょう〉。
 なぜ「ニュートン」の話が出るのかも理解できません。
 いたずらに話をむずかしくしているようにしか読めません。

お礼日時:2018/05/03 13:10

助詞とは何か



格助詞「に」と「で」の相違について質問されていますが、まず助詞とは何かという助詞の本質を正しくとらえないと何がわかれば良いのか自体が曖昧になってしまいます。

助詞は学校文法では付属語で活用をもたないものと定義されていますが、これは単に形式的な捉え方で、助詞が何を表わしているかはさっぱり判りません。助動詞「う」「よう」「まい」は付属語で活用を持ちませんが、何故か助動詞とされたままです。つまり、この定義は対象の本質を正しく捉えたものではないということです。単に、結果として現れた現象を見掛けのもっともらしい形式でとらえたに過ぎないということで、はっきり言えば誤りということです。

言語は話者の認識の表現であり、語が何を表わしているかが明らかにされなければなりません。例示された、辞書では
[格助]《格助詞「にて」の音変化》名詞、名詞的な語に付く。
1 動作・作用の行われる場所・場面を表す。

と記されていますが、「名詞、名詞的な語に付く。 」というのも単なる結果としての現象、形式の指摘でしかありません。名詞と助詞とは本質的に何が異なるのかは明らかではありません。これが、現在の国語学、日本語学の現状であり、言語学の現状で辞書の記述はこれを反映したものです。

この点を明らかにしたのが時枝誠記の言語過程説で、名詞・動詞・形容詞等を詞に分類し、助詞・助動詞・感動詞を辞として語の基本的分類を明らかにしました。詞とは話者に対する客体を概念化したもので、辞とはこの客体の認識により話者の主観に生まれた意志、判断、感情等を客体化することなく直接に概念化したもの、つまり話者の主観を直接概念化したものです。

「に」が「1 動作・作用の行われる場所・場面を表す。」とするのはこの言語表現の過程的構造を無視し、表現された結果と語の意義を直結したもので、語が直接に「 動作・作用の行われる場所・場面を表す。」ものではありません。場所自体は駐車場であり、日本です。「に」という語が表わすのは「日本に生まれる」の場合、日本という客体を実体としてとらえた名詞と「生まれる」という客体の属性の関係を「 動作・作用の行われる場所・場面」の関係として主観的に認識したということです。

助詞は、このように客体間の関係、資格の主観的認識を客体化することなく直接に表わしています。

これが、当方の回答で「場所・手段の認識を表わし」と認識を加えた理由です。このような、助詞の本質を理解することなく、また、言語が話者の認識の表現であることを正しく理解しないと「に」と「で」の相違を本質的・根本的に理解することはできません。

ニュートンによる重力という物体間に直接、瞬時に作用する力の本質の理解なしに潮汐現象が説明、理解できないように対象のもつ本質の解明なしに対象の特殊性を説明、理解することはできません。■
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格助詞「で」は場所・手段の認識を表わし、「に」は時間的・空間的な位置付けの認識を表わします。



「に」は空間的な位置付けの場合、「帽子を頭に載せる。」のような到着点の方向性の認識になります。■
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>「に」は空間的な位置付けの場合、「帽子を頭に載せる。」のような到着点の方向性の認識になります。
 ということは、「東北地方{デ/ニ}未曾有の規模の地震が起こる」でニが使えるのは、神様?が考えた「到着点の方向性の認識」なのでしょうか。

 ところで、「場所・手段の認識を表わし」は「場所・手段を表わし」とどう違うのでしょうか。
 ほかの「認識」も必要性を感じません。

お礼日時:2018/04/29 21:27

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