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日本史

朝鮮半島南部にあった小国分立状態の地でヤマト王権が進出した地域は何か。の答えが加羅です。

391年に高句麗と交戦したことが、高句麗好太王碑の碑文に書いてあり、先進技術と鉄をもらうためだと思ってたので、上の答えは高句麗だと思っていました。
ですが、答えが加羅だったのでよくわからなくなりました。
高句麗との交戦と加羅に進出したのとはどう違うのでしょうか?
また、先進技術や鉄をもらうためなのは高句麗と加羅どちらのことでしょうか?

A 回答 (5件)

>朝鮮半島南部にあった小国分立状態の地



時期にもよるので一概に言えませんが、
高句麗は朝鮮半島南部でも小国分立でもないので
質問の意向からは回答は加羅(任那・伽耶)。

個人的には、倭の五王の済が宋朝の文帝から
「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」
の称号を授かったように、任那と加羅は別地域の可能性がある
という考えなので、加羅だけの回答は疑問です。




>高句麗との交戦と加羅に進出したのとはどう違うのでしょうか?

日本の解釈と韓国の解釈でやや異なります。

・日本の解釈

好太王碑文

 百残新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百残〇〇〇羅以爲臣民

 そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
 しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、
 臣民としてしまった。

391年に、倭が百済・加羅・新羅を下し支配下におきました。

 九年己亥百残違誓與倭和通王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人満其國境
 潰破城池以奴客爲民歸王請命太王恩後稱其忠〇時違使還告以〇訴十年
 庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退
 〇〇〇〇〇〇〇〇來背息追至任那加羅從抜城城即歸服安羅人戍兵抜
 新羅城城倭満倭潰城〇

 百済は誓いを破って倭と和通した。そこで王は399年
 百済を討つため平譲に出向いた。そのとき新羅からの使いが
 「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので
 高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出た。
 大王は救援することにした。
 高句麗は5万の大軍を派遣して新羅を救援した。
 新羅王都に満ちていた倭軍が退却したので、
 これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが
 逆をついて、新羅の王都を占領した。

このように好太王碑文からは、新羅の要請で倭を追い出すべく
高句麗が攻撃を仕掛けましたが、安羅(伽耶の一国)が
新羅の王都を逆撃したという解釈です。



・韓国の解釈

好太王碑文の百残新羅舊是屬民~の解釈

 倭が辛卯年(391年)に(高句麗に)来たので
(高句麗は)海を渡り(倭を)破った。百残はそんな倭と
 連合して(高句麗の臣民である)新羅に攻め入った。

倭が直接高句麗と交戦するためには、通り道である伽耶を
支配下に置く必要があるが、それはあり得ない。
(注 根拠は当時の倭はたぶん朝鮮各国より劣っていたから)
百済の影響かにあった倭が百済の要請で出兵したと考えています。

個人的にはかなり無理がある考え方だと思います。



>鉄をもらうため

魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝 韓 (辰韓伝)

 辰韓在馬韓之東

 辰韓は馬韓の東にある

(中略)

 國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭
 又以供給二郡

 国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。
 諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
 また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。

この様に、当時鉄の産地とされているのが辰韓(伽耶地方)
つまり加羅ということ。
(注 濊は朝鮮半島東北部のこと)
ちなみに、この辰韓伝のうしろが魏志倭人伝です。
先進技術は高句麗より百済からが主体だと考えます。
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鉄が出たのは朝鮮半島南部の加羅の辺りです。


ヤマト王権はこの辺りに鉄を求めていました。

高句麗は朝鮮半島の北部から現在の中国の東北部のあたりにあった国です。
4世紀末に高句麗が朝鮮半島を南下してきたため、ヤマト王権も鉄の供給地を守るために高句麗と戦ったと考えられます。
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高句麗というのは外国の国の名前です。

日本は戦いましたが負けてますので、高句麗を支配下に置いたことはありません。
加羅は、日本が進出して曲がりなりにも?支配下に置いた土地の、俗称みたいなものです。加羅という言葉自体が”外国”を指す言葉なので、当時からそこは外国の土地(日本ではない)という認識があったのだと思います。

ちなみに加羅=カラは外国を指す言葉として、後に唐の字にもあてられ、今でも”唐揚げ”のカラとして残っています。書き方(漢字)が違うので気が付きにくいのですが、言葉としてちゃんと残っているものです。
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>391年以来、倭が海を渡り百済と新羅を臣民としたが、高句麗は396年に百済を破り百済王を服属させた。

しかし399年に百済王が誓約を破り倭国と和通したため、翌400年には新羅へ出兵して倭軍を駆逐し、404年には帯方に侵入した倭を撃退、407年にも百済へ出兵して6城を奪った

とありますから、
先進技術と鉄をもらうためではありません。
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朝鮮半島南部と書いてあるので北部である高句麗は答えから除外されます。

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