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日本国憲法の制定に際して、当初日本側のイニシアチブが強調されたが、結果としてGHQ草案がベースとなったのは、なぜですか?
憲法改正過程における日米双方の動きについて説明し、次いで1946年1月以降、GHQが憲法草案作成に介入していくプロセスについて述べ、最後に日本国憲法の「押しつけ」論にたいし、1946年2月13日以降のGHQと日本政府の交渉で示されたGHQ側の対応を参考にして教えてください。

詳しい方よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

こんにちは!



>日本国憲法の制定に際して、当初日本側のイニシアチブが強調されたが、結果としてGHQ草案が ベースとなったのは、なぜですか?

そうですね…、当時マッカーサーは、日本国憲法は日本国民が書くべきだと認識をしていましたが、日本に民主主義が根付き成長する時間を待ってはいられないという気持ちも強くありました。
当初、マッカーサーは東久邇内閣に憲法改正の草案を作るように命じました。その時、無任所大臣であった、近衛文麿がその任に当たっており、草案を作るにあたっての助言を政治顧問のジョージ・アチソンに求めています。その時の助言が…。
1.超憲法的なものの除去。
2.政府に対する、軍部の影響の抹殺。
3.人権の保障。
等でした。そのような中、東久邇内閣が1945年10月5日に崩壊し、同年10月9日に幣原喜重郎内閣が誕生します。その時の近衛文麿は、内大臣府御用掛でした。そして、彼は10月11日に天皇陛下から憲法草案の着手を命じられます。その同日に、マッカーサーは幣原内閣に、憲法改正の委員会の立ち上げを命令します。そして、幣原内閣は、国務相の松本烝治博士を「憲法問題調査委員会」の委員長に任命しました。それで二人は犬猿の仲になってしまいます。

近衛文麿は、1945年11月22日に憲法草案を完成し、天皇陛下に提出しており、草案は明治憲法がベースで13条までは、明治憲法そのままでした。
GHQは、近衛文麿がアメリカ国務省から戦犯であると指摘されていた為、彼の草案を採用する気がなかった。彼が天皇陛下の信認が厚かった為、その意向を汲んだに過ぎず、GHQは12月6日に戦犯容疑者の一人に指名し、12月16日に巣鴨刑務所への出頭を命じます。そして、彼は出頭日の早朝、自宅で青酸カリによる服毒自殺で、世を去ります。

松本博士は、著名な憲法学者の美濃部達吉(東京帝大教授であり、貴族院議員:元東京都知事の美濃部亮吉の父)の支援を受けて、明治憲法を改正しなくても日本の民主主義は可能であるという主張を受け入れ、明治憲法を若干の手直しで、憲法草案としました。その松本草案を1946年2月1日に『毎日新聞』がスクープします。その英訳を翌日受け取ったマッカーサーは、明治憲法とほぼ同じである事に激怒しました。しかも、1946年1月1日に天皇陛下は自らの神性を否定し『人間宣言』をしたばかりであり、とても受け入れられる内容ではありませんでした。更に、憲法をこの国の最高法とする規定がない事に、致命的欠陥と指摘しました。

またGHQ民政局は、各政党にも憲法草案の提出を求めていました。
・進歩党の草案は「もっとも保守的!」と非難。
・自由党の草案は「進歩党と五十歩百歩!」と、一蹴。
・社会党の草案は、もっとも民政局の受けがよかった。今の現行憲法に近い考え方だった。
・共産党案は、天皇制の廃止。これだと再び戦争になるので却下。
・市民団体からの草案もあったが、論外。

GHQ民政局からの指摘。
1.不当な捜索、押収から保護される権利の条項がない事。
2.犯罪の追求、刑の執行に際しての個人の保護条項がない事。
3.婦人参政権及び、婦人の社会的、経済的、政治的平等の提案がない事。
4.地方自治の提唱もない事。

これらの事項が、憲法草案に含まれていない事に、民主主義の理念が浸透していないと判断されるに至ります。

これらの事を踏まえて、マッカーサーは自分で書いた『マッカーサー草案』をホイットニー民政局長に手渡し、彼はそれを基に憲法草案を作り、1946年2月10日にマッカーサーに提出し、承認を得て、2月13日に松本博士と吉田茂外相に『マッカーサー草案』が手渡されました。それにより、政府内では、新憲法支持派と明治憲法擁護派に分裂し、幣原内閣は手詰まりになり、首相はマッカーサーに助言を求めます。その時マッカーサーは「天皇陛下は国民の幸福を第一に考えられているが、極東委員会が天皇を裁判にかける可能性がある」と示唆します。
それから2週間後の3月2日に、最初の日本政府案が作成され、3月4日にその草案がマッカーサーに渡され、討議が重ねられた結果、3月5日に第2草案が出来上がり、それをマッカーサーは承認しました。その5日の夜に、幣原首相と吉田外相が天皇陛下を訪問し、陛下は「この草案を支持する」と言われ、3月6日に幣原内閣は「新憲法草案」を公式決定し、3月7日に全国に発表します。

そして、同年6月26日から草案は国会の審議に掛けられ、衆議院で討議の結果8月24日に採択されます。その後、審議は貴族院に回り採択され、天皇陛下は11月3日に「日本国憲法」を公布し、1947年5月3日に施行されます。

余談になりますが、第3次吉田内閣の時に、1951年9月8日にサンフランシスコで講和会議が開かれ、日本はそれに調印し、1952年4月28日に発行されて、晴れて日本の独立が回復します。
実は、吉田茂の右腕であった白洲次郎が後に語っていますが、この後すぐに吉田内閣は、憲法を破棄して新しい憲法を制定するべきであったと語っています。それが、吉田茂の汚点であるとも指摘しています。というのも、日本と米国は国際条約(ハーグ陸戦条約)を批准しており、条約には占領中に作られた法律(憲法も含む)は、無効であると記されています。

かなり長くなりましたが、参考になれば幸いです!(>_<)
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2018/07/25 19:31

日本国憲法の制定に際して、当初日本側のイニシアチブが強調されたが、


結果としてGHQ草案がベースとなったのは、なぜですか?
  ↑
占領下にあったので、逆らえなかったからです。

以下、日本国憲法制定過程。

ポツダム宣言を受諾したので、これは憲法を
改正する必要がある、ということで日本政府は
草案を作りました。
松本草案、といわれるものです。

しかし、マッカーサーは、これでは民主化が
不十分であるとして認めませんでした。

そこで彼は、自ら草案を起草して日本政府に
示そうと決意し、幕僚に対して草案を起草することを
命じます。
1946年2月3日の話です。

幕僚は同年2月10日に草案を完成しマッカーサーに
提出。ホイットニー政治局長経由で
2月13日、吉田外務大臣、松本国務大臣に手渡す。

このとき、ホイットニーは、この草案をガイドと
して使うよう指示。

篠原内閣は非常な反発と抵抗を感じたが、
やむを得ないとして、そのまま政府案として
採用。

このマッカーサー草案に多少の修正を加えて
議会に提出、更に多少修正され可決され
日本国憲法になる。

こういう経由は、極秘にされており、当時の
国民には、一切知らされていませんでした。
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