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▲ (ヰキぺ:アプリオリ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%97

§ まえがき
【1】 アプリオリとは、経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念。
カントおよび新カント学派の用法。ラテン語の a priori に由来する。日本語
では、「先験的」「先天的」「超越的」などと訳される。

§ 1 概要
§ 1.1 カントにおける「アプリオリ」の概念
【2】 カントによれば、時間および空間はアプリオリな概念である。

【3】 なぜならこの2つは、あらゆる経験的認識に先立って認識されている
概念だからである[注釈 1]。

【4】 [注釈 1]:この2つが先立っていることが絶対的に自明なのではなく、
カントが強調しているのは、この2つが与えられなければ、「物自体」が認識
できない以上、純粋直観としては何も認識できないということである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



【5】 この【4】の[注釈 1]が 重要だと思われるが だとすると次のよう
な物言いが なお問われなければならないと考えられる。:

【5-1】 或る対象を認識するにあたって 《〈アプリオリな時間および空
間〉が与えられる》とは どういうことか?

【5-2】 それは 言葉≒概念としてはまだ与えられていないけれど たと
えば潜在する知識のようなものとして――要するに《記憶なる行為能力》にお
いて――そなわっており それが認識するにあたって・かつ感性による知覚と
して ハタラキを発揮する。ということか?

【5-3】 だけれども 生まれつきそなわった自然本性の一環としてそのよ
うな時空間という感覚形式がはたらくと言っても そこでは 相手である対象
との相い対する関係において その対象〔やそれをふくむ世界全体〕にも そ
のような時空間がそなわっている。ということではないのか?

【5-4】 時空間というのは もしひとの自然本性にそなわっているとして
も みづからもその一環である環界ないし要するに世界という場にも 同じよ
うに・また同時に そなわっている。と見なければならないのではないか?




【6】 なんで認識の主体たる人間の側にだけ――あるいは 人間の側にこそ
先に―― 時空間なる形式がそなわっておりハタラキを発揮するというふうに
言えるのか?

【7】 仮りに時空間という感性の形式がそなわっていなかったとしても そ
の《いま・そこに その対象を前にして われがいる》ということは素朴にそ
のイメージを捉えている。ということになるのではないか?

【7-1】 もしそうなら その素朴な感覚像においてすでに 時空間は――
われの感性としても・相手たる対象の性質としても まだ意識されていないと
しても ともに――そなわっている。と見るのが 自然でふつうなのではない
か?

【8】 繰り返しになりますが 《コペルニクス的転回》は 早合点ではない
のか? われと対象とにとって けっきょく感性の形式たる時間・空間のそな
わりをめぐっては 同時一体だと見るのが 自然ではないか?

質問者からの補足コメント

  • №1つづき

    ★ 「無限(無制約)」と「有限(被制約)」が一体と考えると言っている
    ☆ 《一体》という表現は 微妙でしょうね。もし一体であるなら それは 《無
    限》のほうから《有限》をつつみこむかたちになるはずです。

    ▲ (ヘーゲル:無限と有限)~~~~~~~
    無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 

    どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
    ないしはこれを 我慢できないであろうが 

    この矛盾を持ちこたえることができるのが 
    人格(* ――もしくは《わが固有の時間》――)の高さである。
     (『法の哲学』 §35追加(講義録) 藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    ☆ つまり《一体性》は必ずしも認識しえているわけではないのだと思います。
    認識・思考を超えている非思考の庭(=信仰)でのことでしょう。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2018/10/13 13:12

A 回答 (7件)

補足ですが、カントが主張している「現象」とは、我々が「認識」している物理現象などの形而下とみなしている全てです。


カントが主張している「もの自体」とは、形而上の存在です。(我々が「認識」出来ないと言う意味で形而上としています)
さらに補足すれば、無制約とは、我々の認識に束縛されないものです。(したがって、カントによれば、「時間」・「空間」に束縛されません)
被制約とは、我々の認識(「時間」・「空間」)に束縛されているものと言う事です。(簡単に言えば、物理法則に従う「現象」全てと言う事です)
カント自身も、「純粋理性批判」の読者の関心事は、「もの自体」(形而上)にあると思われるが、まだ、そこに踏み入るまでの分析は不可能との見解を第二版序文において記載しています。(その余地は、実践理性に可能性として残される事が示唆されます)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。



そのような理解で やり取りをして来たと思います。


物自体については わたしは触れようとしていませんが。

お礼日時:2018/10/13 23:06

お礼ありがとうございます。


お礼文に書かれている内容は、以下のとおりと解釈しています。
「対象としてわれわれに与えられるべきはずのものは すべて直観において与えられなければならない。」→「対象」は、我々の感性により、直観(感性が捉えたものそのものの情報)として与えられるものである。 つまり、感性が「対象」を与えると言う事である。 したがって、「対象は、(感性を含む)認識にしたがう」
感性は、人間の内側にある事に留意をお願いいたします。(知覚に与える情報はここには含まれていません)
もし、カントがこのように考えていなかったと言う事であれば、御指摘ください。
実を言えば、「純粋理性批判(第二版)」序文では、「対象が認識に従う」必要がある事に関して、何故そうしなければいけなかったかが細かく書かれています。(その全てを引用する事は不可能ですので、出来れば序文を御参照いただければ幸いです)
カントは、序文においては、それが成り立つとは、明言していませんが、その方法をとれば、新しい形而上学の可能性が生まれると記載しています。
つまり、カントは、そうした方が都合が良いから、その方法を採用したと記載しているわけですから、それ自体は、何とも評価のしようがありません。(もちろん、カント流の論理で、きちんと説明しているのは、言うまでもありません)
早とちりしたかどうかは、私にはわかりませんが、少なくとも、序論として、これを仮定した事自体を非難する資格も権利も、私にはありません。(この場合の資格とか、権利は、カントの主張に明確に反論する論拠を持たないと言う事だと解釈してください)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ カントは・・・その方法をとれば、新しい形而上学の可能性が生まれる
と記載しています。
つまり、カントは、そうした方が都合が良いから、その方法を採用したと記
載しているわけですから、それ自体は、何とも評価のしようがありません。
☆ つまり《コペルニクス的転回》と言ったのが ひとこと多かったわけで
す。

▲(プロレゴ―メナ:§ 13 注二) ~~~~~
私が言っているのは 物はわれわれの外にある感官の対象としてわれわれに
与えられるが ただし 物がそれ自体としてどんなものかについてわれわれ
は何も知らず ただその現象 すなわち物がわれわれの感官を触発するとき
にわれわれのうちに引き起こす表象を知るだけである ということである。

だから 私はもちろん われわれの外にある物体があること つまり 物が
あることを認める。物自体がどのようなものかについてはわれわれにはまっ
たく知られないが われわれは物をその感性への影響がわれわれに得させる
表象によって知り この表象に物体という名をつける。

したがってこの物体という言葉は われわれには知られないが それにもか
かわらず現実にある対象の現象を意味するだけである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 《世界あるいはそこにある個々のモノ・コト》が 認識の・具体的には
感性の対象となると捉えます。

お礼日時:2018/10/13 23:03

お礼ありがとうございます。


「対象」は、人それぞれ解釈が異なりますが、カントにおいては、少なくとも悟性が展開した、「像」(カントはこのようには表現していませんが、わかりやすくこのように表現します)を意味すると考えて良いと思います。(理由は、対象が「認識」の中にある必要があると説明しているからです)
「純粋理性批判(第二版)」の序文にて、その理由の説明がなされています。
したがって、知覚を刺激する「もの自体」は、「対象」ではありません。
「もの自体」の属性に関しては、カントは無制約(時間と空間にしばられないもの)としか記載していませんので、この件に関しては、カントの主張以外は記載出来ない事をご容赦ください。
なお、「もの自体」は、それ以外の属性は記載していませんので、時間と空間にしばられるとしたら、それは被制約と考える事になってしまいます。
これは、宗教的に重大な意味を持ちますので、カントにとっては致命的となってしまいます。(これに関して、カントを責めても仕方無いでしょう)
ニュートンやコペルニクスが異端として扱われたり、扱われる危険性があった事に御留意ください。
カントの真意はわかりませんが、人間が、人間の作り出した「認識」の範囲を語る事は、宗教的に自由であったと言う事を御理解ください。(物理現象を、その「現象」のみで解釈する事は、宗教に触れないと言う事です)
もし、カントが、「もの自体」を語らずに、「純粋理性批判」でアプリオリな事柄を語ったと言うなら、その通りです。
言い換えれば、カントの主張は、「純粋理性批判において、その対象は、「認識」にしたがうものに限られる」と言う事です。
質問の意図は、それを明らかにする事でしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「対象」は・・・少なくとも悟性が展開した、「像」を意味する・・・。
(理由は、対象が「認識」の中にある必要があると説明しているからです)
▲(プロレゴ―メナ §13 注二 土岐邦夫・観山雪陽訳 1972 )
対象としてわれわれに与えられるべきはずのものは すべて直観において与え
られなければならない。

お礼日時:2018/10/13 21:14

補足です。


「アプリオリ」は、確実にそれを実証できないが、個々人にとって、「アプリオリ」と考えられる「現象」・「概念」である事にご注意ください。
当然ながら、カントがアプリオリだと思う事と、私がアプリオリだと思う事は、一致する場合もあれば、一致しない場合もあります。
カントも、そのように記載しているはずです。
ただし、当然ですが、私が幻覚だと思わない現象を、私はアプリオリな現象として判断しているのは確かです。
また、私は、カントが宣言した「もの自体」は、認識できません。(それ以上でも、それ以下でもありません)
したがって、ヴィトゲンシュタインの言葉を借りれば、「4.1212 示されうるものは、語られえぬものである。7.語りえないことについては、沈黙しなければならない。」と言う事になります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「アプリオリ」は、確実にそれを実証できないが、個々人にとって、
「アプリオリ」と考えられる「現象」・「概念」である事にご注意くだ
さい。
☆ 焦点は そこにはありません。人間に生得的な認識の形式として時
間と空間があると言っているが そのことは 認識の対象のほうにも
当てはまると言って 問うています。それだけです。




★ 当然ながら、カントがアプリオリだと思う事と、私がアプリオリだ
と思う事は、一致する場合もあれば、一致しない場合もあります。
カントも、そのように記載しているはずです。
☆ そういう逃げ道を持ち出してくるとは 思わなかった。



★ ヴィトゲンシュタイン
☆ は 成っていません。精神の袋小路にあります。勝手に沈黙してい
ればよいのです。

お礼日時:2018/10/13 18:23

お礼ありがとうございます。


No.1にも記載したとおり、回答として記載したわけでは無いので、カントに対する評価は、記載できません。(こちらは、他の回答者にお願いする事になると思います)
記載した内容は、カントの「純粋理性批判(第二版)」から私が、読み取った内容を記載しただけです。(それ以上でも、それ以下でもありません)
カントの序文に対する記載は、私は宣言と読み取っています。(カントの「純粋理性批判」で用いる方法の前提と言う意味の宣言です)
したがって、カントが記載しているとおり、「もの自体」に対する評価は、その宣言によるしかありません。(無制約なものと言う事です)
アプリオリかどうかは、カントがそのように判断しただけです。(したがって、それがアプリオリかどうかは、「純粋理性批判」を読んだ者が考えれば良い事です)
どのように、それに対して、宣言されても、問題はありません。
カントは、あくまで、人間の「認識」の範囲でしか論じてません。(それ以上でも、それ以下でもありません)
ヘーゲルのカントに対する批判は、そのまま読めば、「人格の高さ」でしか、無制約者と被制約者の間の関係性の矛盾に耐えられないと言う事でしょう。(残念ながら、私は、そのような「人格の高さ」を持ち合わせていないので、この事に対する評価は不能です)
あくまで、助言と考えていただければ良いと思います。
カントは、「認識」を、人間の中だけで論じています。
したがって、人間の認識できる「現象」と、理性がアプリオリと捉える概念以外は何も言っていません。(カントが、書いている以上、カントが考えているアプリオリな事しか書いていないでしょう)
何をアプリオリと考えるか、アプリオリだと、どうして確実性が高まるかは、個々人が考える事です。
なお、デカルト以来、確実だと思われる事の担保が、「現象」(経験)、「真理」(無制約に自立する事)のどちらに由来するかの対立があったのは確かです。(アプリオリとは、自立していると言う事なので、より「真理」に近いと考えられていたわけです)
デカルトもトリッキーにそこの矛盾を解決しようとしましたが、カントにより批判を受ける事になります。
ヘーゲルは、そこの折衷を考えて、カントを批判したと言う事だと理解します。(カントは、「真理」を切り捨てましたが、「実践理性批判」では、理性の理想が完成する為には、無制約なものが要求されると言う分析で終わっています)
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ カントが記載しているとおり、「もの自体」に対する評価は、その宣言に
よるしかありません。(無制約なものと言う事です)
☆ この質問(批判をふくみます)は 物自体の議論とは別に問い求めること
ができると思っています。


★ アプリオリかどうかは、カントがそのように判断しただけです。(したが
って、それがアプリオリかどうかは、「純粋理性批判」を読んだ者が考えれば
良い事です)
☆ 微妙なことですが・そして実際には邪道ですが この質問は ヰキぺの記
事〔をとおしてカント〕について問うています。

ですから 知覚の形式としての時間・空間についてアプリオリだということを
問題にしています。そういうスタンスです。


★ 人間の認識できる「現象」と、理性がアプリオリと捉える概念以外は何も
言っていません。
☆ そのアプリオリな形式だと捉えた時空間は じつは 認識の対象たる世界
の事象のほうにも 当てはまるはずだ。――という物言いです。それしか言っ
ていません。

当てはまるなら コペルニクス的転回は間違いであるということです。

こういう議論を問う質問をしていけない法はないでしょう。

お礼日時:2018/10/13 18:18

お礼ありがとうございます。


記載したのは、「純粋理性批判」において、カントが記載している事です。(「もの自体」が無制約なのは、そこで宣言されています)
私が記載したのは、カントの「純粋理性批判」に対する検討では無いので、補足に書かれた内容は回答できません。
ただ、一点指摘したいのは、カントが言う「対象」は、「現象」の事です。
したがって、「もの自体」(無制約)では無いです。
カントが述べている事は、「現象」が「対象」であり、それは人間の「認識」の中にあると言う事です。(つまり、人間が、その確からしさを検証できる権利があるものを対象とすると言う事です)
つまり、「認識対象は、認識にしたがう」、よって、認識でアプリオリと考えられる事だけで、認識の確実性を検証する事が可能となると言う事です。(これを認めないと、人間が認識できるものの検証が不可能となります)
これは、超越的制限性を満足するので、無制約者に依存しないと言う事です。(「純粋理性批判」においては、人間がその理性の範囲で、検証できる内容しか取り扱わないと言う制限をしたと言う事です)
もちろん、他の方法で、理性が認識できる方法が提示できるのであれば、その方法を提案するのは自由です。
カントの、「純粋理性批判」の序文における宣言が間違っているならば、後を読まなければ良いだけですよ。(悪い仮説と思うならば、内容を論ずる必要も無いでしょう)
カントが、「純粋理性批判」で記載しているのは、そういう事では無いと言う事であれば、補足してください。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

まづこの質問は すでにカントの立論を評価しようとしています。おかしい
ではないか? と言っています。

★ 私が記載したのは、カントの「純粋理性批判」に対する検討では無い
☆ そこは 行き違いなようです。


★ ただ、一点指摘したいのは、カントが言う「対象」は、「現象」の事で
す。
☆ 世界の経験事象です。

★ したがって、「もの自体」(無制約)では無いです。
☆ 物自体は ここでは 推し出してはいません。


★ カントが述べている事は、・・・(つまり、人間が、その確からしさを
検証できる権利があるものを対象とすると言う事です)
☆ その確からしさを まづ根拠づけようとしているのですよね?

★ つまり、「認識対象は、認識にしたがう」、よって、認識でアプリオリ
と考えられる事だけで、・・・
☆ アプリオリな形式――時間と空間――であるゆえに 認識の確からしさ
が得られると主張したわけです。

この質問は アプリオリであることは 対象のほうにもみとめられるはずだ
という物言いです。

もし そのことが妥当だとなると 《コペルニクス的転回》というのは 勇
み足だとなるはずだと言っています。

そう言わずに放っておくのは おかしいではないか? というものです。

お礼日時:2018/10/13 14:06

質問の回答では無いですが、カントが表現している「もの自体」は、無制約(時間と空間にしばられない)です。


現象は、当然ながら、時間と空間に束縛され、被制約です。
質問の内容を要約すると、「もの自体」が被制約と言う事になりますが、それで良いのでしょうか?(無制約者→キリスト教徒が考える「神」も同じになります)
カントが、「純粋理性批判」の序文(第二版)で明確にその事に関して記載しています。(ⅩⅩ、ⅩⅪおよび、その注を参照してください)
カントが、これを記載したのが、宗教的な制約を逃れる意図であったのかどうかはわからないです。(序文ⅩⅪの注で、ニュートン力学、コペルニクスの地動説が、この方法(現象のみを対象として分析する事)によって、自然哲学(現代では、自然科学、物理学)が発展した事を評価していますから、少なくとも「純粋理性批判」においては、この立場で行う方が有利と考えたのでしょう)
カントは、必ずしも、現象を捉える「感性」による「直観」(これは、文字通り、感性が与える情報が変化無く「悟性」に与えられると言う意味の直観です)と「悟性」による、「もの自体」(無制約)→「現象」(被制約)への変換が、確実(アプリオリ)だとは明言していませんが、「現象」自体をあやふやなものと考えたら、はなから、人間は確実な認識を得られないので、そう考えるしかないとしています。(つまり、後の説明が一切不要となってしまうと言う事です)
もし、これを認めないと、人間は全て幻想の中にいて、何一つ確実なものは無い、つまり確実なものを認識しようとする哲学は意味が無いと言う事になります。(これも、一つの哲学ですから、そう考える人もいるでしょう)
カントが「純粋理性批判(第二版)」序文で述べているのは、人間が感性・悟性で捉える「現象」はとりあえず、確実なものとしましょうと言う事です。(無制約者の事は、考えないで分析しようと言う事です)
要約すれば、「もの自体」(これは、宗教的に無制約なものと捉えられています)は、人間は認識できるとは思えないので、「感性」・「悟性」が捉える「現象」を元にして、人間が認識できる限界を分析しましょうと言っているにすぎません。(無制約なものも想像できる機能を「理性」と呼んでいます)
単なる宣言で、それが正しいとは、カントは一切書いていません。(そう考えざるを得ないと言っているだけです)
したがって、質問文のとおり、無制約と被制約が一体と考える、必然性があるのならば、そう宣言するのは、問題無いですよ。
これは、「無限(無制約)」と「有限(被制約)」が一体と考えると言っている事と同じになりますが、それで良いんですよね?
質問の意図が違っているならば、補足してください。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ カントが表現している「もの自体」は、無制約(時間と空間にしばられない)
です。
☆ ひとが把握できないということは そうなんでしょう。ただし 超経験なる
神との異同が 問われます。ヌエ的存在であり 実践理性(≒意志)にとっては
けっきょく絶対性である神のようなものになっているかと思います。成功した仮
説だとは言い得ないと考えます。

★ 現象は、当然ながら、時間と空間に束縛され、被制約です。
☆ よって 人間の生得的な認識形式としての時空間に《縛られる》・つまり対
象が認識に従うというのなら それは 待てよと言おうとしています。

時空間は 対象にも人にもつまり世界のすべてに そもそもの《場》として 固
有のものでしょう。



★ 質問の内容を要約すると、「もの自体」が被制約と言う事になりますが、そ
れで良いのでしょうか?
☆ 物自体には 趣旨説明で触れなかったのですが それはつまり なくてよい
という意味をふくみます。

対象にも時空間という形式がそなわっている・・・からと言って 物自体にまで
そのこと(したがって 認識)が及ぶかと言えば そうではなく 無記としてお
けばよいはずです。



★ カントが、「純粋理性批判」の序文(第二版)で・・・
☆ あいにくいま手元になくて すみません。

★ カントは・・・「現象」自体をあやふやなものと考えたら、はなから、人間
は確実な認識を得られない
☆ それが 現実だと考えます。或る主観の見解が 賛同を得て 共同化され常
識として共有される。――これはむろん 一定程度の人びとへの普及を言うだけ
であり それがまったく普通のことだと考えます。

けれども 環界やその個々の対象にも 時空間や因果関係がアプリオリにそなわ
っていると仮説的に捉えたほうが 認識主体にのみそなわっていると見るよりも
認識についての確実性があると感じます。


★ もし、これを認めないと、人間は全て幻想の中にいて、何一つ確実なものは
無い、・・・
☆ というよりも 人におけるアプリオリな形式のそなわりが 幻想でないとは
言えないわけです。アプリオリだと言えるなら おそらく対象世界も 同じくだ
となるはずです。同じ経験事象なのですから。もともとの《場》です。

つづく

お礼日時:2018/10/13 13:08

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